坐禅...自らに向き合えば、新しい自分にきっと出会える!

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(書 庫)心の法話

2016/08/11~20   亡き人に思いを寄せて手をあわせましょう

講師 愛媛県 掌禅寺 内藤卓洲師

8月はこの地方ではお盆の月ですので、お盆にまつわる
お話をさせていただきましょう。

関東地方ではお盆は7月に行われます。わたしも若いこ
ろには学生時代にお世話になった東京のお寺のお盆のお
勤めのお手伝いに行っていました。地図を片手に電車や
地下鉄やバスを乗り継いで東京中を回りました。

四国では8月がお盆です。七夕祭りも7月ではなくて、
8月ですね。いわゆる月遅れでお盆をお迎えするわけで
すが、全国的にはこちらの方が多いようです。

この8月のお盆のことを「表/裏」の意味で「うら盆」
と言う方が時にいらっしゃいます。この人にとっては7
月盆が「表」で8月盆は「裏」という理解なのでしょう。

でもこれは間違いです。

「うらぼん」の「うら」は「表/裏」の「うら」ではあ
りません。

わたしたちは「お盆、お盆」と言っていますが、実は、
「盆」と言うのは「盂蘭盆(うらぼん)」というのが正
式で、この「うらぼん」は「表/裏」の「裏」ではあり
ません。

「うらぼん」はもともとインドの言葉で「ウランバナ」
という言葉があって、その言葉を中国の漢字で音をあわ
せて「盂蘭盆」になったのです。

では、「ウランバナ」はどんな意味かというと、それは
「逆さ吊り」ということだそうです。

「逆さ吊り」は苦しいですよね、そういう苦しみにおか
れているあらゆる命あるもの、すでに死せるもの、すべ
てのものを救おうという行事がそもそもの「お盆」の意
味合いです。

また古代イラン語の「霊魂」を意味する「ウルヴァン」
という言葉から「盂蘭盆」となったという説も有ります。

お盆の精霊棚にナスやキュウリをお供えしますね。ナス
やキュウリはイラン地方が原産らしいですから、この説
もあり得るかな、と思います。

どちらの説に従うにしろ、お盆はこの世でさまざまなご
縁をいただいて、今の自分を生み育ててくれた、今は亡
き人々に思いを寄せる時だと思います。ふだん何気なく
使っている「お陰様で」という言葉の意味を改めて受け
とめる時でもあろうと思うのです。

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2016/08/21~31   食べることは、祈ること

講師 愛媛県 掌禅寺 内藤卓洲老師

県内のほとんどの地域のお寺で、7月、8月のお盆にあ
わせて施食会の法要を行います。

私ども曹洞宗では「施食会=せじきえ」と呼びますが、
一般には「施餓鬼会=せがきえ」と呼ぶことが多いよう
です。

どちらにしても「施」=「施す」ことに主眼を置いた法
要です。特に「施食会」というように「食べ物」を施す
ことにこの法要の大切な意味があります。

「人はパンのみにて生きるに非ず」と言います、しかし、
パン無しには人は生きられません。

わたしたちは取りあえず、今日のご飯にも明日のご飯に
も心配なく暮らしています。しかし、わたしたちがこの
ようないわば食べることに於いて安心して生活できてい
るのは、実はひじょうに希なことだということに気づき
たいものです。

陸や海や空のあらゆる生きもの、動物や昆虫は活動のほ
とんど全てを食料を求めることに費やしています。

人類においても、世界では7億9,500万人(9人に
一人 ※国連WFP)が「健康で活動的な生活を送るために
必要かつ十分な食料」を得られていません。

この8億近い数字にわたしたちは驚きます。でもきっと
すぐに忘れて昼食や夕食のテーブルに向かうことでしょ
う。

わたし自身もたぶん今夜の食事の時には、今日のこのお
話を忘れているかも知れません。覚えていても、だから
といって自分の食べる分量を減らしたりはしないでしょ
うね。

現実にわたしたちが直接に何かできるとしたら、国連WFP
等の活動への寄付ぐらいですが、また、祈ることも大切
だとあらゆる宗教は教えているはずです。

特に世界のあらゆるものは縁に由って結ばれている、と
説く仏教にとって、祈りはそのご縁の糸を信じることで
もあります。

今日のわたしの祈りによって、世界のどこかで赤ちゃん
を抱いた母親に一日分の食料が渡されているかも知れな
い。世界のどこかで何日かぶりで子供にパンを与えられ
た父親がいるかもしれない。世界のどこかで一匹のバッ
タが今日の餌にありついたかも知れない、等々のことを
信じたいと思います。

この祈りを法要の形にしたものが「施食会」であり「施
餓鬼会」です。この法要に出会うことがありましたら、
今日のお話を思い出してくださると幸いです。

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2016/07/21〜31   幸せは思いやりの心から

講師 愛媛県 渓寿寺 金岡潔宗師

チベット仏教のダライ・ラマ4世法王は、

本当の幸福は、自分自身や親しい人々という限られた対
象の幸せを気遣うことからもたらされるのではなく、全
ての生きとし生けるものに対する、愛と慈悲の心を育む
ことから生まれてくるのです。怒りや憎しみでは、痛々
しい状況や問題を解決することはできません。それらを
解決できるのは、思いやりと真の優しさによる癒しだけ
なのです

と言っておられます。

やさしいってどんなことでしょうか?

本当の優しさ・・・例えば
子どもが一人で歯磨きをしているのを見て、お母さんは
「えらいねぇ一人で歯磨きできたの」と褒めてあげる。

子どもが学校から帰ってきて「ただいま」と言うと、お
母さんは「お帰り おやつあるよ」

特別な事ではありません。自然なことなのです。

お母さんが夕食の準備をしている時に 赤ちゃんが泣い
たら、お父さんはテレビを見ながら「おい 泣いてるぞ」
と言うから、いけないのです。

その言葉の中には「何でオレが」という我見、自分中心
の思いがあるのです。お父さんは「よしよし」「おむつ
かなぁ」と言って赤ちゃんをあやせばいいのです。誰が
やってもいいのです。自然にできる人がやればいいんで
す。

「私は手が離せないからあなたお願い」なんて言わなく
てもいいのです。

すべて自然に「いってきます」「気をつけて」「早く帰
るから」それだけでいいのです。

こんな言葉があります。

幸せはあなたの心が決めるもの。だから、ちいさなちい
さな倖せ 見過ごさないように。きっと今日も幸せ

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2016/07/11〜20   すべての命は大事な命

講師 愛媛県 渓寿寺 金岡潔宗師

『下校する 児童手を上げ 横断し 
            車に礼して 走り去りゆく』
『おくるべき 母亡き孫は
     赤白の カーネーションを 吾にくれたり』

この句は、昨年亡くなられた ある御婦人の作られた句
で、ご葬儀の会場に 掲げられていました。それぞれの
光景が 目に浮かんでくるような句です。その御婦人が、
一日一日を 大切に生きた証となる 素晴らしい句だと
感じ入りました。

人は誰もが老いて、そして死を迎えます。それを不安に
思わない人はいません。

江戸時代の名僧良寛さまは、
『形見とて 何残すらむ 春は花 
           夏ほととぎす 秋はもみじ葉』
という 辞世の句を残しています。

「今生の別れに臨んで、形見に何か残すとすれば、春は
花 夏は山のほととぎすであり、秋のもみじ葉。美しい
自然そのものこそ 私の命として残したいものです」と
いう意味ですが、良寛さまは「私が生きていること自身
が大自然の一つであり、死ぬこともまた大自然の一つで
す。私は自然の中にいます」と最後に言い遺されたので
す。

私たちはとかく、人間だけが特別なものと 思いがちで
すが、人間も大自然の中の一部でしかありません。みん
な同じいのちを頂いているのです。

いのちの大切さが とても伝わってくる詩を 紹介しま
す。小学一年生の 国語の教科書に載っていた、かわさ
き ひろしさんが書いた『てんとうむし』という詩です。

てんとうむし

いっぴきでも
てんとうむしだよ
ちいさくても
ぞうと おなじ いのちを
いっこ もって いる
ぼくを みつけたら
こんにちはって いってね
そしたら ぼくも
てんとうむしの ことばで
こんにちはって いうから
きみには きこえないけど

生きとし生けるものはみな、大自然の中の大事な命です。
この瞬間を一生懸命生き、すべてのいのちを大切に思う
生き方が、最後まで人間らしく、よかったと言える生き
方ではないでしょうか。

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2016/06/21〜30   隠し味

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

梅雨に入って、鬱陶しいお天気が続くと、なんとなく食
欲が落ちて、体調を崩しやすくなります。

食欲のないときには ハッキリした味のものを食べるの
が一番なのですが、一口に、ハッキリした味と言っても、
人それぞれです。

隣に座っている人が「わ、この三杯酢美味いわ!」と言
っても、「え?と私にはチョッと酸っぱいかな?」など
と思うことはないでしょうか?

人それぞれ、自分の味への感覚を持っているということ
です。

実は私、修行道場にいた頃、調理係を仰せつかっていた
ことがあります。いえいえ、けして冗談ではありません。
本当に作っていたのです。

あの頃は、真剣に「美味しくなれ、美味しくなれ」と、
出来上がっていく料理に声を掛けながら作っていたのを
思い出します。

道場を出てからも料理することにまだ燃えていた三十歳
頃のこと、あるお味噌汁との出会いがありました。

それは私自身にとって衝撃的で、本当に目の覚めるよう
なお味噌汁との出会いでした。

衝撃的とは言っても、中の具材は自分も良く使う具材で
あり、味噌も一般的な合わせ味噌でした。

然しながらであります、味が格段に違うのでありました。
舌の上で味噌汁がビシっと語るのです。「どや、俺が味
噌汁だ」と言わんばかりに主張するのです。それはそれ
は、格別な味わいでありました。

皆さん、いったい何の調味料が入っていたと思われます
か?実は・・・・・おでんに付けて食べる、練りカラシ
だったのです。

味噌汁に練りカラシとは、正直驚かされてしまいました。
これを隠し味というのですよね。

人の心もそれと一緒なのかもしれません。

私たちは一生涯の間に、様々な人との出会いがあります。
出会う人それぞれに個性というものがあります。

お味噌汁に例えるならば、お味噌汁の具材は私たちであ
り、具材としての私たちが共に支え、共に活かし合うこ
とで美味しいお味噌汁ができあがるのです。

そして、そこにホンの少し加えるあなたの思いやりの心
こそが、何よりの隠し味となるのです。

一期一会と言われる出会いの中、その人の光っている部
分、ステキな部分をお互いに見出せたらと思うのです。

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2016/06/11〜20   まいう~!となるために

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

先日、所用で高松まで出かけたのですが、高松と言えば
讃岐、讃岐と言えばうどん。ということで、昼食はうど
んにしようと、人気のうどん屋さんを訪ねました。

行列に並んで待つことしばし、ようやく椅子に座ること
が出来て、さあ食べようとした時です。

相席になった、若者二人がきちんと手をわせて「いただ
きます」と言ったのです。

自分の家ならまだしも、今どきの若者が、大勢の人がい
る中で、きちんと手を合わせて「いただきます」と言う
姿を見て、私は嬉しくなりました。

皆さんは、食べ物をいただくとき、手を合わせて「いた
だきます」と、言われているでしょうか?

悲しいことに近年は、それをガンとして言わない、ある
いは、言わせないという人もいると聞きました。

インドには、人と対面した時、「ナマステ」と言って合
掌する風習というか挨拶があるそうです。

それは、相手を信頼し、相手の仏心を拝ませて頂くとい
うことなのだそうです。あなたを尊敬しています、とい
うことなのでしょうね。

さてそこで、例えば、うどん屋さんに入って、目の前に
うどん。では、そのうどんを見て、今の私どもに尊敬の
気持ちがあるでしょうか?

禅宗の僧侶には、食事の前に行う五箇条のお唱え事があ
ります。それを五観の偈と言います。

その第一に「功の多少を計り、彼の来処を量る」とあり
ます。

どういうことかと言うと、「目の前の料理に、どれほど
の人の労苦があったのか考えよう。これらの食材がどれ
だけの道程を経て、目の前に存在してるか考えよう」と
言うことなのです。

昨今は、そういうことを考える人が少なくなったのでは
ないでしょうか?考えないから、無駄に残したりするの
ではないでしょうか?

子供の頃、ごはん茶碗にご飯粒を残して、よく親に𠮟ら
れました。「お百姓さんがどんだけ苦労して、このお米
を作ったと思うとる!残さんと食べろ!」と。

一粒のお米、一片の野菜それぞれに命が宿り、この私共
のいのちを支えて下さっているのです。

私たちは、それを育てて下さる人の気持ち、調理して下
さる人の気持ちをも量り知らねばならないのではないで
しょうか。

一粒のお米、一片の野菜が、貴方の手を合わす心を見て
らっしゃるのです。

ならば、食べる側の私共の心も、感謝と共に「いただき
ます」と手を合わせて食事をいただいて、タレントの石
ちゃんのように、満面の笑顔で「まいう~!」とならな
ければならないではないでしょうか。

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2016/05/21〜31   思いやりの心

講師 愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

イソップ童話の『ウサギとカメ』をご存知でしょうか。

足の速いウサギと足の遅いカメが競争をして、最終的に
は真面目に走ったカメが、怠けたウサギに勝利するお話
です。

通常、このお話しの教訓は、「油断大敵」あるいは「真
面目にこつこつ努力しましょう」といったところでしょ
うか。

ところが、実はこのお話し、国によって解釈や教訓とす
るところが違うのだそうです。

ある国では、カメは非常に頭が良くて、自分とそっくり
な弟のカメをあらかじめゴール地点に待機させていたと
解釈されています。つまり、ウサギがどんなにがんばっ
ても勝てない仕組みになっているわけです。

そこで、このお話しの教訓は「意味の無い競争はするな」
だそうです。

またある国では、競争に勝ったカメは悪者であると解釈
されています。なぜなら、昼寝をしているウサギを起こ
してあげればいいのに、ほったらかしにしているからで
す。

教訓は「友情を大切にしましょう」だそうです。

このように、お国柄によっていろいろな解釈や教訓があ
るようですので、私もそれに倣って、この話を仏教的に
読んでみました。

まず、そもそもウサギが居眠りをしなかったらどうなっ
ていたのでしょうか?ウサギが勝つのが当たり前です。

しかし、これでは何も面白くありませんね。ウサギが居
眠りをするところに、この話の面白さがあるのですから。

では、なぜウサギは居眠りをしたのでしょうか?そもそ
も、本当に居眠りだったのでしょうか?

そこで、私は考えました。

実はウサギは、居眠りをするふりをしたのです。ウサギ
は一休みをしながら、カメにとっては勝てるはずもない
競争なのに、一生懸命に歩みを進めるカメを見て、「こ
のまま自分が先にゴールしたら、自分は勝って嬉しいけ
れど、カメはきっと悔しがるだろうなあ・・・。そうだ!
カメが先にゴールして喜んでいる姿を見て、自分の喜び
としよう」と思ったのではないでしょうか?

そこでウサギは、両方が喜べるようにと、居眠りをする
ふりをしてカメを先にゴールさせたというのが、私の仏
教的解釈です。

これは、私たちの普段の生活にも当てはまるのではない
でしょうか。

「自分さえ良ければいい」というのは簡単ですが、みん
なが喜ぶ方法を考えていきたいものです。

みんなが喜ぶためにはどうすればいいのでしょうか。

道元禅師様はそれを「自未得度先度他=じみとくどせん
どた」とお示しになりました。「自分が救われる前に他
の人々を救う」という意味です。

他人よりも自分のことを最優先に考えていると、争いや
諍いや、ひいては戦争を引き起こしてしまうことになる
のではないでしょうか。

自未得度先度他という生き方の中には、人を蹴落とした
り、軽蔑したり、排除したり、差別やイジメが入り込む
余地などありません。

「みんな仲良く、助け合って」というのが仏教の基本で
す。相手を思いやる心を大切にしたいものです。

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2016/05/11〜20   学ぶは真似る

講師 愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

何か物事を始めようとする時、皆さんは、どのようなこ
とから始めますか?私はよく、形から入ります。

どういうことかと申しますと、たとえば、書道には臨書
(りんしょ=手本を見て書くこと)という練習方法があ
ります。

臨書とは、お手本をよく見て真似をして書くことで、お
手本が書かれた当時の時代背景や、お手本を書いた人の
心に近づいていこうとする練習方法です。自分はこう書
きたいとか、あんなふうに書いてやろうといった、こだ
わりを捨て、心を柔らかくして、真似ることで、書は早
く上達していきます。

実は、禅宗の修行の始まりも、真似ることから始まりま
す。

禅宗のお寺は坐禅だけが修行ではなく、一日二十四時間
すべてが修行であるとして、食事の仕方や、お風呂の入
り方、寝方に至るまで、作法が細かく決まっています。

禅宗の修行は、テキストを読みながら机の上で勉強する
というものではありません。すべて実践の中で学んでい
くのです。

私は修行時代、老僧に「お袈裟をつけて、毎日毎日、同
じ生活をすることに何の意味があるのででしょうか?」
と、に質問したことがあります。

すると「生活の全てが修行である。まずは、お釈迦様を
真似することであり、役寮(やくりょう=指導してくれ
ている先生)や、先輩の行動をよく見て真似ることで、
僧侶としての心を作りなさい。『威儀即仏法、作法是宗
旨』(いいぎそくぶっぽう、さほうこれしゅうし)」と
いう言葉が返ってきました。

この言葉は、永平寺を開かれた道元禅師様が示された言
葉です。「身支度や礼儀作法、身のこなし、すべてが仏
法である。日々の暮らしの中で、立ち居振る舞いを整え
ることが大切である」と示されております。

学ぶというのはまず真似ることです。真似ていくうちに
そのお手本の本質に気がつくようになっていきます。形
から入り、真似ることが学ぶことの第一歩なのです。

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2016/04/21~30   自分をたいせつに

愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

唐突ですが、お茶席でお茶を頂いたことはありますか?

実は、茶道の作法の中には禅の精神がとけこんでいる所
作がたくさんあります。

たとえば、茶道には柄杓(ひしゃく)で釜(かま)から
湯を汲み取るとき、柄杓に汲んだお湯の半分だけを注い
で、残りの半分は釜に戻すという所作があります。

これは、千利休が禅の精神を、お茶を飲むという作法に
取り入れたからです。

曹洞宗大本山永平寺の正門の石柱には「杓底一残水 汲
流千億人=しゃくていのいちざんすい ながれをくむせ
んおくにん」という文字が刻まれています。

永平寺の付近には、日本三名山(さんめいざん)の一つ
白山(はくさん)からの水が川となって豊富に流れてい
ます。

永平寺をお開きになられた道元禅師様は、仏様にお供え
する水を、毎朝、永平寺の門前を流れる川から柄杓で汲
まれ、柄杓で汲み取った水の半分だけを使い、残りの半
分は元の川に戻されたと伝えられています。

柄杓半分の水の量など、川を流れる水からすれば、比べ
物にならぬほど僅かなものです。

しかし、その僅かなもの。例えば、一滴の水、一枚の紙、
一粒の米。そういうものを粗末にすることは、ほかでも
なく自分自身を粗末にすることだという禅の教えがそこ
にはあります。

携帯やパソコンが普及して、誰に会うこともなく、何処
に行くこともなく、欲しいものを簡単に手に入れられる
ようになりました。

しかし、何の苦労もなく手に入れたものは、往々にして
安易に捨ててしまいがちです。

千利休が茶釜から柄杓でお湯を汲む作法に、お湯を戻す
所作を加えたのは、それを戒めたものであったのかもし
れません。

繰り返しになりますが、物を粗末にするということは自
分自身を粗末にするということです。まずは身近なもの、
どんなに小さく、僅かなものでも大切にしてまいりまし
ょう。

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2016/04/11~20   坐禅のすすめ

高知県 龍宝寺 村上道寛師

尼僧堂修行時代、坐禅に来られる方から「坐禅をすれば、
邪念がとれて良い人間になれますか?」と質問されたこ
とがあります。

実は私も、修行道場に行くまでは、坐禅をすれば迷いが
消えて、物事に動じない強い自分になれると思っており
ました。

私たちは日常、世間体を気にしたり、仕事で業績を上げ
たいと、自分にとって、望ましい評価や成果が得られる
ことを常に意識してしまいます。

そのような自分から離れることが出来るのが坐禅だと、
私も修行に入るまでは考えていました。

しかし、私が修行道場で教わったことは、「坐禅とは自
分以外のものになるのではなく、ありのままの姿そのも
のをいい、実践し続けることが大切なのだ」ということ
でした。

道元禅師様は「善悪を思わず作仏を図ることなかれ=坐
禅をするときは、ものごとの善悪の判断を離れ、さとり
を得ることを目的としてはならない」と示されておりま
す。

心を正念(正しい思い)と邪念(よこしまな思い)に分
けて、邪念を否定し、正念するのみを肯定するのは、も
のごとをどちらか一方に分けてしまうという、選り好み
をすることになってしまいます。

また、何かを求めたり、何かを目指すということは、坐
禅を単なる手段に用いることになってしまいます。

一切の先入観を捨てて、さまざまな迷いや欲にとらわれ
ずに、ただ坐禅をすることを只管打坐といいます。

坐禅は、良い人間や強い心を持つ人間になることを目的
とするのではないということです。

坐禅の時は、どんなにすばらしい考えでも解き放てと教
えています。

つまり、さまざまな思いを解き放つからこそ、嫌なこと
があった時でも良いことがあった時でも、安らかな自分
でいられるということなのだと思います。

お釈迦様がおさとりを開いた時と同じ姿で、飾りの無い
ありのままの姿が坐禅の姿です。背筋を伸ばし、静かに
ゆっくりと呼吸をすると、自然に精神が安定してきます。

みなさま、ただ、ひたすら坐る坐禅に親しんで下さい。
お近くのお寺で坐禅会が催されていましたら、是非一度
足を運んでみて下さい。

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2016/03/21~31   同事のこころ

愛媛県 宗安寺 能仁洋一師

東日本大震災が発生した3月11日にあわせ、今年も被
災地をはじめ全国各地において、慰霊法要や復興祈願法
要などが行われたり、様々なメディアでは東日本大震災
に関する特集番組が放送されました。

今年の3月11日、私は車を走らせながらラジオを聴い
ていました。

スピーカーから聞こえてくるラジオのパーソナリティー
さんのコメントや、四国内や四国近郊のリスナーの方々
の投稿からは『もう5年が経つんですね』『速いもので
すね』『あっという間にそんなに経つんですね』といっ
た声が多く聞こえました。

そんな中、被災をされた東北の方からの投稿がありまし
た。『はや5年と申しますか、まだ5年と申しますか・
・・』との言葉から始まったその方の投稿は『全国各地
で被災地の早期復興を願っていただいていること、東日
本大震災発生当時から多くの方が被災地へと足を運んで
いただき早期復興に向けてご協力をしていただいている
ことなどとても有難い』といった内容でした。

私は、その方の『はや5年と申しますか、まだ5年と申
しますか・・・』という言葉にハッとすると同時に、4
年前、東日本大震災発生から丸1年を迎えるにあたって、
福島県のとあるお寺において行われた復興祈願イベント
に参加した時のことを思い出しました。

被災地の方々と一緒に食事を作りながら交流を深める中
で、被災地の方々は、「遠くからよく来なさった」と笑
顔で迎え入れてくださり、いろんなことをお話しくださ
いました。

その中で、とても印象に残った言葉がありました。それ
は、私が『もう1年が経つんですね』と何気なく出した
言葉に対し、『この一年は、本当に長かった・・・』と
言われた言葉でした。

被災地から遠く離れた地に住む私達は震災以降、多少な
りとも日常生活の中で制限される部分もございましたが、
気が付けば以前とさほど変わらぬ生活を送っていたよう
に思います。

しかし、被災された方々は、多くの悲しみ苦しみや、復
旧・復興がままならないという不安の中で生活を送って
こられました。

日常生活から、突如として非日常の生活を余儀なくされ、
どれほどの不安を覚えたことでしょうか。

私は、『この1年はとても長かった・・・』という言葉
に、そういった不安や苦しみ、またその中にありながら
必死の思いで乗り越えようとしている姿を見たように感
じたのでした。

今回、ラジオから聞こえてきた被災された方からの投稿
を聴き、私自身、忘れてはならない事を忘れてしまって
いたような、とても申し訳なく、そして恥ずかしい気持
ちになりました。

曹洞宗で説かれる四摂法という教えの中に「同事」があ
ります。

「同事」とは、『同じ』という字に事柄の『事』と書き
ます。

では、同じ事とはどういうことでしょうか?同じ事、即
ち、他人の苦しみや悲しみを我が事として同じく、苦し
い、悲しいと感じることのできる心です。

被災地からどれだけ離れていても、被災された方々の痛
みや苦しみ、悲しみを、我が事として同じく感じ、寄り
添い支えあっていく。継続していくことで、目に見える
街の復興だけでなく被災された方々の心の傷を癒し、互
いに心から笑い喜び合える完全復興を目指してまいりま
しょう。

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2016/03/11~20   仏の教えに即した生き方が、そのまま悟りの姿

愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

三月といえば春のお彼岸です。お彼岸は、春分の日と秋
分の日をお中日として、前後三日間ずつを合わせた七日
間です。

お彼岸の由来は浄土思想に基づいていると言われていま
す。

浄土思想で信じられている極楽浄土は、西の方角の遥か
彼方にあると考えられています。春分の日と秋分の日は、
太陽が真東から昇り、真西に沈む日です。

真西に沈む太陽を礼拝して、遥か彼方の極楽浄土に思い
を馳せたのがお彼岸の始まりと言われています。極楽浄
土に生まれ変わることを願ったり、極楽浄土におられる
ご先祖さまを思い描いたとされています。

「彼岸」という言葉は、漢字で「彼の岸」と書きます。
向こう岸、かなたの岸という意味です。

それに対して私たちの居るこの世界を、こちら側の岸と
して「此岸」と言います。

煩悩を川の流れに例えて、それを渡りきった悟りの世界、
理想の世界が「彼岸」とされています。

こちら側の「此岸」は私たちの住んでいる世界で、迷い
の世界、煩悩や欲の世界です。

悩みや迷いや欲望が多いこの「此岸」から、苦しみの無
い悟りの世界である「彼岸」に渡るために、仏の教えに
即した生活を目指すのです。

悩みや苦しみが多いこの世界を私たちは生きているけれ
ども、悩みや苦しみが多いからこそ、自分の至らなさや
未熟さに気付き、見つめることができます。

そうして、その中から「まっとうな生活をしたい」、つ
まりは、仏道を歩もうという決心が生まれるのです。

曹洞宗の開祖である道元禅師さまは「修行して彼岸に到
るのではない」と言われました。

「彼岸」とは、漠然とした場所や境地を示すのではなく、
仏さまの教えを信じて行っていくこと、つまり修行する
ことが彼岸そのものであると言われました。

お彼岸を機会に、お釈迦さまや道元禅師さまや、お祖師
さま方の教えをよすがとして、仏道を実践してまいりま
しょう。

彼岸の世界は、どこか遠く、手の届かない場所にあるの
ではなく、日常の生活の中にこそあるのです。

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2016/02/11~20   思うこと

講師 徳島県 景岩寺 杉生和之師

先日、私のところでは珍しく雪が積もりました。少しで
すが積もった雪を見て曹洞宗の宗歌を思い出しました。

宗歌の一節に、
『雪の夕べに臂を断ち』とあります。

インドから中国に渡られた達磨さまが、嵩山(すうざん)
少林寺において坐禅の修行を続けられていた時のことで
す。

それは、身も切れるほどの厳冬のことでした。中国禅宗
の二祖と言われる慧可さまは、遠くインドから来られた
達磨さまに面会し弟子入りを乞われたのです。

達磨さまは慧可さまの願いをお断りになりますが、慧可
さまは達磨さまに、その切なる願いを腰まで雪に埋もれ
ながら、自らの体を傷つけるほどの強い思いを示して入
門を許されたと伝えられています。慧可さまの、教えを
受け継ぐということへの強い思いが偲ばれるお話しです。

このようにして、達磨さまによってインドから中国へと
伝えられた正法(=正しいみ教え)は、慧可さまの強い強
いによって受け継がれ、そのみ教えが脈々と受け継がれ、
道元さまに至って日本に伝えられ、瑩山さまが広められ
ました。

思いを受け継ぐとか、思いを受け渡すということは大変
難しいことですが、皆さんはご家族の方に、ご自分の思
いを受け渡すようなお話しをされることはありますか?

たとえば、ご自身が大切にされているご先祖さまのお話
であるとか、ご自身の小さいときのお話。そんなお話を
されてみてはいかがでしょうか?そしてそれが、お子さ
んやお孫さんに、仏さまを敬うこころ、ご先祖まを敬う
こころを養っていくことになるのではないでしょうか?

お子様さんやお孫さんが遠くに離れていても、帰ってこ
られたときには、みんなでご先祖さまに手を合わせるこ
とから始めてみましょう。

そんな行いの中で、ご自分の思いを家族に受け渡し、家
族がその思いを受け継いで、お互いに生きる喜びを見い
だしていくことこそが、家族の絆というものなのだと思
うのです。

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2016/01/21~31   三匹の猿

講師 徳島県 黒松寺 矢野通玄師

私は、今年の年賀状に今年の干支申に因み「見ざる・言
わざる・聞かざる」の「三匹の猿」のイラストを入れて
新年の挨拶をしました。

ところが、届いた年賀状の中に私と逆の「三匹の猿」の
イラストがあり、添え文に「見ます・言います・聞かせ
ます」と書かれていました。

「三匹の猿」は日光東照宮の彫刻が有名ですが、この彫
刻は八面で構成されていて、人の一生の生き方を示され
たものと言われています。

三匹の猿はその内の第二番目の額で左から「聞かざる・
言わざる・見ざる」子猿の彫刻です。

この彫刻、子供に向けては、「世の中の悪いことを聞い
たり、見たり、言ったりしないで素直に育ってほしい」
と諭しているのだそうです。そして、大人に向けては、
「人の欠点を見ない、人の悪口を聞かない、人の悪口を
言わない」と戒めているのだそうです。

このような意味を知らずに言葉通りに受けとれば、三匹
の猿は無関心で我関せず、自分本意で身勝手な振る舞い
をしているようにも受けとれます。

さらに、一般的には「良い事にも悪い事にも目をつむり、
不利益な事には聞いていても聞いていない振りをして、
肝心な時には口を閉ざしてしまいなさい」というように
誤解される三猿です。

しかしながら、本来の意味を理解し、「見ざる・言わざ
る・聞かざる」と、「見ます・言います・聞かせます」
ということを、今年一年の過ごし方・指針としてみては
どうでしょうか。

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

これは「懺悔文=さんげもん」といいます。お勤めの経
本の最初に書かれていて、お経をお唱えする前の心構え
としてのことばです。

意訳すると
私が気づく気づかずに関わらず他人様へおかけした迷惑
は、すべて貪(とん=むさぼり)瞋(じん=いかり)癡
(ち=おろかさ)の三つによるものだから、身(み)と、
口(くち)と意(思い)から出た行いは、今ここに反省
し悔い改めます。

私たちは「貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろか
さ)」に侵された煩悩に、悩まされ振り回されています。
生活する中で、人の言葉や悪口・行いや態度が気になる
ものです。

他人のことは気になっても、自分のことは気にならない。
他人と同じことをしていても、自分は違うと正当化し、
他の人を思いはかることは少ないように思います。

一日に一度、自分を振り返る時間をつくり、この三つの
毒に毒されていないか反省する時間をもち、気をつけな
がら日送りをし、見て聴いて人の為に尽くせる行いを心
がけたいものです。

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2016/01/11~20   食とは

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

遥か昔 お釈迦さまが、こんなふうに言われました。

「人は常に自ら心して量を知りて食を取るべし。さす
れば、苦しみ少なく、又老いること遅く良く壽を保つ
ならん」

取り立てて、解釈には及ばないと思います。

ところで、実は私、年末年始にかけて美味しいものを
いただきすぎました。このところの暴飲暴食で疲れた
胃に、七草粥を食べるととても美味しく感じます。
私どもの、この休みなく働いてくれている胃腸ですが、
関節や筋肉と比べたらどっちがデリケートだと思いま
すか?

実は、胃腸の方がず~っとデリケートに出来ているん
だそうです。

運動する前には準備運動をしますよね?でも、身体よ
りも胃腸のほうがデリケートだというのに、その割に
は食べる前に胃腸の準備運動なんてしませんよね。美
味しそうなご飯を目の前にすれば、人情として当然す
ぐ食べたくなりますもんね。

それなのに、飼っている犬に対しては、上から目線で
「待て!」という…可笑しな話です。

思い起こしてみれば修行道場では、その「待て」とい
う代わりに、多くのお唱えごとを致しておりました。
お腹の中で、早く食べさせて!ッと、いつも思ったも
のでした。

でも、食前にお唱えごとをするというのはとても理に
叶っているんだそうです。目の前に直ぐ食べたいもの
があっても、時間を掛けてお唱えごとをすることによ
って、胃液の分泌を促してくれるのだそうです。所謂
ウォーミングアップですね。

修行道場での朝食ではお粥さんをいただきますが、朝
食の際のお唱えごとの中に「しゅゆうじゅり にょい
あんじん こほうぶへん きゅうきんじょうら」と言
う耳慣れない一文があります。

その意味は、お粥には十個の利益があって、効能は限
りなく煩悩も消え、この上ない安らぎを得られると言
うのです。

敢えて、今日はその十個の利益は申し上げませんが、
お粥さんは、我々の与えられた生命を最大限に活用す
るために、とても良いらしいのです。

豊かと言われる日本経済。我々庶民は、それこそソコ
ソコ豊かと感じております。けれども、その経済力で
食慾の赴くままの食事をしているとするなら、大切に
頂いた、この我が身を自ら傷つけてしまうことになり
ます。勿体無いですよね。

モノを大切に味わうということと、美味しいは大きな
違いです。我が身にもやさしい食事をいただくように
したいものですね。

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2015/12/11~31   ありがたさ

講師 愛媛県 宗安寺 能仁洋一師

先日、私が副住職をつとめているお寺のお檀家さんで、
90歳になるおばあさんが亡くなられました。

夏のお盆参りに伺うと、祭壇に向かってお参りをしてい
る私の後ろに座られ、お参りが終わるまで団扇でずっと
扇いでいただき、お参りが終わるとご自身が体験された
戦時中のことを穏やかな眼差しで私にお話しくださった
ことが、今も脳裏に鮮明に焼き付いております。

数年前のお盆参りで、そのおばあさんのお家に伺った時
のことでした。

いつものようにご一緒にお参りをし、お参りが終わると
いつものように一杯のお茶を出していただきました。

お茶をいただいていると突然、「今の若い人たちは幸せ
やね」と言われるのです。

続けて、「私が若かった頃は戦時中でね、勉強したくて
も勉強もできない。不衛生で、庭先に出ると足にブワッ
とダニが集まってくるのが見えるくらいやった。畑をし
てる時に怖い目にあったこともあったんよ。向こうの山
の上を飛行機が飛んでくるのが見えたら、誰かが「空襲
じゃ!隠れろ!」と言われて必死に山の中に隠れてね。
そしたら、『タタタンッ!』て機銃の音が一回だけ聞こ
えただけで、その飛行機はそのまま飛んで行ったんよ。
私らは「死なずにすんだ!」って皆で抱き合って喜んで
ね。でも、その飛行機は別の町に爆弾を落としてね。私
らが聞いた機銃の音は、試し打ちをしたんだろって話に
なって。でも、私らは助かったけど、その爆弾で大勢の
人が亡くなったみたいでね。今は、そんな心配もせんで
ええし、綺麗な服を着られるしご飯も食べられる。今の
若い人たちは、ほんとに幸せやね」そう話されて、穏や
かな眼差しで私をじっと見つめておられました。

終戦から70年がたち、私たちは飛行機の音や機影に恐怖
を抱くこともなく、飛行機の音がすればどこを飛んでる
のかなと外に出て、のんきに空を眺めたりもしておりま
す。

戦時中ではとても考えられなかったことでしょう。また、
学校や仕事から帰ればあたたかいご飯にお風呂、そして
のんびりと布団に入って横になり、空襲など気にするこ
となく朝を迎えられる。

今ある日常は、戦時中どれほど切望されていたことでし
ょうか。

私たちは、当たり前に思っているこの日常が、どれほど
尊くありがたいものなのか、今一度しっかりと考えない
といけません。そして、この世界のどこかでは、まだ戦
争が続いていることを忘れてはいけません。

仏教詩人、坂村真民さんの詩に「ありがたさ」という詩
があります。

 夜が明けるということは 
 なんとありがたいことだろう
 光が射してくるということは 
 なんとうれしいことだろう

今朝も目覚めることができた。今日も平和に暮らすこと
ができた。今年も残すところあと僅かですが、この一年
無事過ごすことができた。なんとありがたいことでしょ
うか。

今あるその命に、今あるこの平和な暮らしに感謝を忘れ
ず、どうぞよいお年をお迎えください。

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2015/11/11~30   慌てず焦らず

講師 香川県 祥福寺 本山良宗師

三重県の南端、和歌山との県境にある御浜という町に、
私の法友が住職をしているお寺があります。

先月、そのお寺で修行される法要のお手伝いに車で向
かおうと、移動経路をインターネットで調べると、徳
島から和歌山へフェリーで渡って紀伊半島の海岸沿い
を走るルートと、淡路島経由で尾鷲まで高速道を走る
ルートが見つかりました。

時間的に早く着ける後者を選択し、カーナビに目的地
を入れていざ出発。

ところが…。カーナビが案内したのは紀伊半島を横断
する最短ルートで、国道309号と表示はあるものの、
車一台がやっと、落石注意、落盤注意の看板ばかりが
目立つ道。

あとで聞くと、残酷の酷に道と書いて、近畿三大酷道
の一本ともいわれるルートだったのです。

引き返そうにも引き返せず、必死の思いで車を走らせ
ること一時間あまり。なんとか対面通行ができる道に
出て太平洋が見えたときは、心底ホッとすると同時に、
どんなに険しい道でも、いつかは海が見える場所に辿
りつけるんだなと実感したことでした。

年の瀬も押し詰まり、残る日僅かとなったカレンダー
に「もう今年も終わりですよ」と急き立てられるかの
ようにも感じる今日この頃ですが、出来ることをきち
んとやっていけば、今日はきょうの一日。

慌てず、焦らず、過ごしてまいりましょう。

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2015/10/11~

2015年10月テレホン法話は 回線故障で お伝え出来なかった
2015年9月テレホン法話を あらためて お伝えいたしました

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2015/09/21~30   行動力

講師 愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

曹洞宗の経典「修証義」の一節に『徒(いたず)らに百
歳いけらんは 恨むべき日月なり 悲しむべき形骸(け
いがい)なり』という言葉があります。

『たとえ百歳という長寿に恵まれたとしても、欲望だけ
を追い求めるような無為な日送りであるならば、それは
悲しむべきことである』という意味です。

これといった予定もなく、何をするでもないような一日
を過ごしてしまったとき、「ああ、今日は無駄な時間を
過ごしてしまったなあ…」と思ってしまうことはありま
せんか?

「人生に無駄な事はない、必ず何かの役に立っているは
ずだ」と、自分に言い聞かせてみても、「うーん、やっ
ぱり無駄だったかな」と思ってしまうのはなぜなのでし
ょう?

人間も含め、動物、植物、目の前に広がる世界は全て変
化していくのが自然の摂理です。年齢を重ね、日々死に
向かっている事実を少なからず肌で感じ、「今日は、こ
れをやった、あれもやった」と言えるようなことをしな
いと、つい、無駄な時間をすごしてしまったと思ってし
まうのかもしれません。

人の命には限りがあり、それぞれに与えられた時間を生
きています。

限りある時間であるならば、人生を長い短いで片づける
わけにはいきません。昔はこうだった、若い頃はこうだ
ったなどと、言っている場合でもありません。

私たちが生きているのは、昨日ではなく、明日でもあり
ません。今、ここを生きています。

では、かけがえのない今を、今日一日を大切にするため
には、どうしたらよいでしょうか?

私は、興味や関心、好奇心を持ち続けることではないか
と思います。

何かを始めてみましょう。けして大仰なことでなく「新
聞を読もう」とか「笑顔で挨拶をしよう」「毎日散歩に
出かけよう」など、どんなことでもよいのです。

何かをしてみようという思い、その思いから生まれる行
動力こそが、今日一日を大切に過ごす基(もとい)とな
り、良き人生に繋がっていくのではないでしょうか。

良き人生の始まりに、遅いということはありません。今
から、ここから、なにかを始めてみせんか?

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2015/09/11~20   本来の面目

講師 愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて、すずし
かりけり」

これは、道元禅師の詠まれた和歌です。春になれば花が
咲き、夏にはほととぎすが鳴き、秋は月が美しく、冬に
は雪が降る。日本の四季は美しいものです。

この四季の移り変わりの美しさを詠んだ和歌には『本来
の面目』という題がつけられています。

自然が本来具えているあるがままの姿。何の働きかけも
ない純粋な真実の姿を『本来の面目』と申します。全て
のものはそれぞれのあるべき姿において、そこに存在し
ています。

では、春が花で、夏がほととぎすなら、あなたは何です
か?あなたは誰で、何が好きで、何が嫌いで、何をした
い人ですか?

そう尋ねられたら、答えられるでしょうか?

春は花が美しく、夏はほととぎすの鳴き声が心地良いよ
うに、自分自身の本来の自然な姿を知っておきたいもの
です。

今年の夏は、猛暑日の連続記録を更新するなど、特に暑
い夏でした。

お盆のご供養でお檀家を訪問した際、冷房の効いた部屋
に入ると実に快適でした。お勤めを終わって一歩外に出
ると、また厳しい暑さに見舞われて「やっぱり暑いな」
と思いました。

しかし、便利で快適だからと言って、暑さ寒さから逃れ
てばかりでは、日本の四季の変化を心から美しいと感じ
ることを妨げているようにも思いました。

「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるお彼岸はもうすぐで
す。季節は夏から秋へと移り変わります。

実りの秋と言われる収穫の季節に、旬の物をいただいて
「おいしい」と感じること。紅葉の山に目が留まり「き
れいだ」と素直に感じること。

そういう素直な心こそが、私たちの本来の自然な姿、本
来の面目なのではないでしょうか。

本来の面目を発揮する春夏秋冬の美しさを、そのまま感
じ取る素直な心を、忘れないようにしたいものです。

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2015/08/21~31   大切な人

講師 香川県 祥福寺 本山良宗師

お盆のお参りで車を運転していたときのことです。

押しボタン式の歩行者信号が赤になり、先頭で止まりま
した。すると…なんと、停止線で止まったはずなのに、
信号機が全く見えないのです。

しかたがありませんので、運転席から腰を浮かせて、思
い切り身を乗り出すようにして、しばらく信号機を見上
げていました。

信号が青に変わるのを見届けて腰をおろし、アクセルを
踏みながらふと思ったのですが…。

本当に大切なものというのは、押しボタン式の信号機と
同じで、少し離れないと見えないのかもしれません。近
すぎると見えるものも見えなくなってしまうのではない
でしょうか?

あることが当たり前だったモノ。いることが当たり前だ
った人。

それが自分にとってどれほど大切なものだったのかは、
失ってから、はじめて実感することなのかもしれません。

今月はお盆月。お盆には、亡き人がお家に帰ってくるな
どと申します。

お仏壇の本尊様の前に坐って、真っ直ぐにお線香を一本
立てて、背筋をスッとのばし、呼吸を整え、静かに手を
合わせてみてください。

あなたの心の中、瞼の奥で静かに微笑む大切な人と出会
うことができますように。

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2015/08/11~20   原爆忌・8月6日

講師 愛媛県 安穏寺 島津雄児師

私がサラリーマンをしていたときの初任地。そこは広島
でした。

十数年前の8月6日、その日も私は会社に出勤するため
駅からショッピングモールへと続く構内を足早に歩いて
いました。

すると突然、あちらこちらから車のクラクションが鳴り
始めました。驚いて足を止め、周りを見ると、街の人々
が足を止め市内中心に向かって黙とうを捧げていたので
す。

8月6日は、広島に原爆が落とされた日。そして、皆が
祈りを捧げる日なのでした。

どこか遠くに思っていた原爆の事を、今、自分のいる場
所で起こったことなんだと、生々しく感じた事を強く記
憶してます。

そんな広島原爆の日を迎えて、祖父である師匠が思い出
話を語ってくれました。

師匠がその日いたのは横須賀の海軍基地。広島を米軍が
爆撃。米軍は新型爆弾『光爆弾』を使用し、たった一発
で全滅であると報告されたそうです。

そして、

米軍が爆撃に来た時には当然、次回も光爆弾の使用が予
測される!光爆弾は光線にあたると焼かれてしまうので、
防空壕などへ移動する場合は必ず曲がり、入口から陰に
なるように避難せよと指導されたとの事でした。

原爆の、戦争の瞬間を生きてきた師匠の生々しい記憶で
す。

今日もお寺の上空を多くの飛行機が通過しました。まさ
か防空壕へとも思いませんし、まさか、その飛行機から
バラバラと爆弾が落とされるなどとは露ほども想像でき
ません

70年前はそれを現実として実際に生きてきた人と、今
こうして、同じ時を共に生きている。とても不思議な気
持ちがします。

平穏に毎日を過ごせている事のありがたさをあらためて
痛感した原爆忌です。

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2015/07/21~30   心やわらかく

講師 高知県 龍宝寺 村上道寛師

先日、友人の結婚式に出席しました。仏門に入って髪を
下ろしてから初めてとなる旧友たちとの再会でしたので、
友人たちから何を言われるかと、正直、少し緊張しなが
らの出席だったのですが……会場に入ると、「久しぶり、
元気だった?」と、ある友人が笑顔で声をかけてきてく
れたのです。その友人のおかげで、私も緊張が解けて笑
顔で話しの輪に入ることができました。

人は、笑顔で話しかけられると、自然と笑顔で返したく
なるものなのだと、あらためて感じたことでした。

仏教に、「和顔愛語」という言葉があります。これは、
和やかな表情で、やさしく相手に語りかけるという意味
です。

和やかな表情でやさしい言葉をかけたとき、相手は穏や
かな気持ちになり、それを目にする自分もまた穏やかな
気持ちになることができます。

毎日を穏やかに暮らしていくために、「慈悲の心」すな
わち、慈しみや思いやりの心を持ち続けたいものです。

自分一人が良ければそれで良いというのではなく、全て
の人、全てのものに慈しみや思いやりを心がけていくと
き、自ずと心がまるくなり穏やかな日暮らしが出来るよ
うになるはずです。

けれどもそれは、実際にはなかなか難しいことで、穏や
かに過ごせる日ばかりではないかもしれません。腹を立
てたり、イライラしたりすることもあるでしょう。

そういう時に、目をつりあげたり顔をしかめたりして相
手に感情をそのままぶつけるのか、それとも、ひと呼吸
おいてニコッとするのかで、そこから展開していく世界
は全く違ったものとなります。

眉間にしわを寄せる世界からは、まわりと自分の心をよ
り傷つける苦しい世界しかありません。笑うことで明る
い世界が広がっていきます。

心をやわらかくして、笑顔とやさしい言葉を心がけまし
ょう。子ども、お年寄り、男性、女性に関わらず誰もが
出来ることです。

まず、相手が幸せになれるよう祈りながら自分から笑い
かけてみてください。そうすれば、自分の心も自然と明
るくなることでしょう。

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2015/07/11~20   相承~受け継ぐ

講師 徳島県 城満寺 田村航也師

能登半島に峨山道(がさんどう)と称ばれる古道があり
ます。太祖瑩山禅師(たいそけいざんぜんじ)さまのお弟
子さま、峨山韶磧禅師(がさんじょうせきぜんじ)さま
にちなんだ道です。

峨山禅師さまが、能登の總持寺と永光寺の住職を兼務さ
れていた時、住職として両方のお寺の朝のお勤めに参加
なさるために、片道53kmもの道のりを走って間に合
わされたというお話が伝えられております。

峨山道は、その時に峨山禅師さまが走られた道です。

去る5月17日、「峨山道トレイルラン」という大会が
あり、私も峨山禅師さまの走りを体験するために、参加
してまいりました。

46km地点で時間切れという結果でしたが、峨山禅師
さまと同じことをすることにより、いろいろなことが感
じられました。

先が遠くても進み続ける強い意志。それは、住職するお
寺と修行する弟子たちへの強い思いがあってこそですし、
また途中で出会うさまざまな人や動物、山や川との心の
通じ合いであったと実感しました。

私たちの人生の旅路も長く、時には進む先を見失って迷
ってしまうこともあります。そのような時こそ、身近な
仏さま、菩提寺のご開山さまや、ご自身のご先祖さまに
手を合わせ、その辿られた道や、教えてくださった道を
自ら体験し実践してみてはいかがでしょう。

仏さまがたは、私たちが人間として生きるべき道を指し
示してくださっています。必ず何らかの道が開けるに違
いありません。

瑩山禅師さまは仏道をお伝えになって峨山禅師さまの道
を開き、峨山禅師さまはさらに多くのお弟子さまたちの
道を開きました。

道が伝授されることを「相承(そうじょう)」と呼んで
いますが、身近な仏さまに道を開いていただくこともま
さに、「相承」そのものと言えましょう。

菩提寺のご開山さまやご先祖さまの教えをもう一度思い
出し、実践して、自分も他の方々もみんな幸福に人生を
歩めるように、受け継いでいきたいものです。

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2015/06/21~30   心を育てる

講師 愛媛県 實法寺 石井一孝師

「陰徳を積む」という言葉があります。面倒だと思う心
を捨てて、人知れず善い行いをしたり、人が嫌がること
を率先して行うことを言うのですが、残念なことに最近
はあまり耳にしなくなりました。

私が住職をつとめるお寺のお檀家さんで、毎月お墓参り
に来られる方がおられます。その方は、高齢になりタク
シーで来られ、タクシーを降りるとシルバーカーを押し
ながらお参りをされます。

帰り際にはいつも「ゴミを捨てるときは、きちんと袋に
入れて出してくれれば良いのに」と言いながらゴミ捨て
場をきれいに掃除してお帰りになられます。

そのお姿はとても穏やかで、思わず手を合わせながら、
「いつもありがとうございます。お気をつけて」と見送
らせていただいております。

汚れた場所を掃除すると言えば、「トイレをきれいに掃
除したら、トイレの女神様みたいにきれいになれる」と
話す亡き祖母を追想した『トイレの神様』という曲が数
年前にヒットしました。私はこの曲を初めて聞いたとき、
同じようなことを祖母から聞かされながら掃除したこと
を懐かしく思い出しました。おそらく、日本中に私と同
じような思いを抱いた方が大勢おられてヒットにつなが
ったのではないでしょうか?

ちなみに、曹洞宗ではトイレのことを『東司=とうす』
と申します。修行道場では、毎日朝食後に掃除を行いま
すが、制中(せいちゅう)という特別な修行期間中は、
修行僧の筆頭に立つ首座(しゅそ)と呼ばれる雲水が朝
に晩に率先して東司掃除に向かいます。

ゴミ捨て場やトイレは汚れやすい場所であり、きれいに
掃除されているのを見ると心も軽くなります。しかし、
いざ自分が掃除をするとなると、汚いから、面倒だから
と、敬遠してしまう場所でもあります。

面倒だと思う心を捨てて陰徳を積めば、心が綺麗になり、
心が綺麗になれば、容姿も綺麗になります。街を歩いて
いるときや、信号待ちのわずかな間も、スマホの画面ば
かりのぞき込んでいるような現代人に、一番欠けている
ことかもしれません。

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2015/06/11~20   日日是好日

講師 高知県 元亨院 宮本隆弘師

先日、あるラジオ番組で、アナウンサーが「早いもので
もう6月です。あっという間に、今年も折り返しの月で
すねえ」と話していました。

そういえば子供の頃、年配の方が「一年が過ぎるのは早
いね」と言われるのをよく耳にしました。けれども、最
近私自身も月日が経つ早さを実感するようになり、アナ
ウンサーの話しに「なるほどそうだなあ」と一人うなづ
いたのでした。

それから今年1月からのさまざまな出来事を思い返して
みました。すると、ふと、ある言葉が頭の中に浮かんで
きたのです。

それは、禅語の「日日是好日」という言葉です。

文字をそのまま読むと「日々、すなわち毎日が、好日、
無事で良い日」という解釈になります。

しかし、仏教では、「今という時間は、後にも先にもこ
の一瞬しかない。その『今という時間をどのように過ご
していくか』ということが大事なのであり、大切に過ご
す時間こそが好日である」というように解釈されます。

この言葉を説明するのに、よく使われる例えでお天気が
あります。

一般的に良い日と言えば、気持ち良く晴れた日のことで
雨の日は悪い日のように考えてしまいます。しかし、晴
れた日がいつまでも続くと水不足になり困ってしまいま
す。日照り続きの時に雨が降ると恵みの雨と言って喜び
雨の日が良い日になります。

そんな、自分の都合次第で良い日、悪い日を決めてしま
うのではなく、晴れの日には晴れの日に出来ることをや
り、雨の日には雨の日に出来ることに取り組んでいくこ
とで、その一日を良い日にしていくのだということです。

梅雨に入り、雨の日が多くなりますが、外では紫陽花が
色とりどりに咲いています。この色とりどりの紫陽花を
愛でることも梅雨時期にしかできない楽しみの一つです。

このように何気ない日常の暮らしでも少し見方や考え方
を変えてみる事で、嫌なことも良い方向へ向かうヒント
や経験となるでしょう。

皆様にとって今日一日が、日日是好日となりますように。

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2015/05/21~31   水無月と環境

講師 香川県 報四恩精舎 野田大然師

新緑の季節を終え、まもなく梅雨に入ろうとしています。
6月は陰暦で「水無月」と言い「水が無い月」や「水の
月」と言われ、由来には諸説あります。梅雨で天の水が
なくなる月や梅雨が明けて水が涸れてなくなる月、田植
で水が必要になる月といった解釈がありますが、いずれ
にせよ『水』に深く関わる月です。

水はわれわれ生物が生命を保つ上で、もっとも重要不可
欠な物質です。

人間の体はほとんど水でできており、体内にある水はお
よそ70%と言われています。体内から水がなくなって
しまえば、それは死を意味することになります。

人は1日に約3リットルの水分が必要と言われ、世界人
口70億人で換算すると毎日210億リットルも必要に
なります。水なくして生きていけません。

しかしながら、工業排水や生活廃水などによる水質汚染
は進む一方です。

水は限りある資源のひとつです。この水について考える
のが6月なのかもしれません。

曹洞宗の大本山永平寺の正門には『杓底一残水 汲流千
億人(杓底の一残水流れを汲む千億人)』と刻まれてい
ます。開祖道元禅師様は、柄杓の底に残った水さえも粗
末にすることなく、元の川の流れに戻したという逸話に
基づいていると言われております。

曹洞宗では人権・平和・環境をスローガンに様々な社会
活動を行っております。その中で、地球環境をまもり自
然とともに生きていく「グリーン・プラン」運動を展開
しています。

毎日の生き方の上でどのようにモノを大切にし、環境を
守る生活が送れるのか、という生活実践の輪をひろげる
ことを、曹洞宗の環境運動の中心課題としています。

環境破壊による大気汚染物質が雲となり、それを含んだ
強い酸性の雨が降っています。この酸性雨で森林や河川
などは大きな被害を受けています。

私たちにできること、それは限りある資源を大切に、節
水を心がけ、環境を常に意識することです。

環境破壊の進行を防げることは、私たち一人ひとりの意
志に委ねられています。

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2015/05/11~20   怒るよりは、喜ぼう

講師 愛媛県 法性寺 三好眞一師

私たちの日常の暮らしには、笑ったり、怒ったり、いわ
ゆる喜怒哀楽の感情というものが、働いております。
お釈迦さまが戒めておられることが一つあります。その
一つとは・・・。

そうです、喜怒哀楽の怒、「怒る」です。怒るとは、怒
りの感情のままに、それを相手に一方的にぶつける行為
です。

怒られて気分のいい人は、まずいないでしょう。怒られ
た人だけでなく、怒った人にも心の中に何かイライラや
モヤモヤとしたものが残ってしまいます。

お互いに厭な気持ちになってしまう。それが「怒る」と
いうことなのです。

では、日々の生活の中で、心豊かに過ごすためには、ど
うすれば良いでしょうか。

喜怒哀楽の「怒」と対になる文字は「喜」ですね。つま
り、「喜ぶ」ということを多くしていけば、何げない日
常が楽しくなるのではないでしょうか。

同じ「喜ぶ」でも、自分一人で喜ぶのではなく、自分以
外の他人と共に喜ぶと、より楽しくなります。そして、
自分の周りの人のことを喜ぶだけでなく、自分とはあま
り関係ないかもしれない人のことも喜んであげることも
お勧めしたいのです。

しかしながら、最近目にしたり、耳にしたりする出来事
は、気持ちが沈んでしまうような事柄が多く、中々、喜
ぶという気落ちになれないかもしれません。

そんな時には、特別なことでなくてかまいません。身近
にある、ほんの些細なことで良いのです。何事も、いき
なり大きなことはできません。日常の小さな喜びの積み
重ねが、やがて大きな喜びになっていくのです。

ですから、身近なところからでかまいせん。小さな喜び
を共に喜ぶように心がけましょう。心豊かな毎日を送る
ために、今日から、今から、始めてみませんか。

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2015/04/21~30   サクラサクラ

講師 高知県 予岳寺 濱田道圓師

日本人にとって春の花と言えば、なんといっても桜では
ないでしょうか。桜は、花の壮麗な姿と、散り際のはか
なさ故、日本人の心情に深く訴えるものがあります。

そんな桜の花が日本列島を彩っていた四月八日(因み、
この日はお釈迦さまのお誕生日です)。天皇皇后両陛下
が先の大戦において亡くなられた人々を慰霊し、平和を
祈念されるため、パラオ共和国をご訪問になりました。

激戦地ペリリュー島をはじめ、アメリカ軍の慰霊碑にも
足を運び、御供花になりました。

このペリリュー島に次の様な話があります。

戦時中、日本軍が進駐し、島民と共に陣地を築きました。
その過程で、日本軍と島民は共に日本の歌を歌い交流を
深めます。しかし、戦況は悪化。仲良くなった島民たち
は、我々も日本軍の一員として戦わせて欲しいと守備隊
長に願い出たのです。

ところが、それを聞いた守備隊長は厳しい口調で拒み、
更には島から出て行けと言い渡しました。島民たちは、
仲良くなったのは偽りだったのかと落胆しました。

悔し涙を流しながら船に乗り、離れていく島を悲しい思
いで眺めていた島民の目に、ある光景が飛び込んできま
す。

砂浜に守備隊長をはじめ、顔なじみの日本兵が総出で大
きく手を振って、笑顔で見送ってくれていたのです。

その兵士たちの姿を見て島民たちは気付きます。自分た
ちを島から追い出したのではなく、近いうちに過酷な戦
場になるであろう島から避難させたかったのだと。

後に、激しい抗戦の末、玉砕した日本軍のペリリュー島
からの最後の電文は「サクラサクラ」でした。

愛おしい家族、恋人、苦楽を共にした仲間、そして、懐
かしき故郷。戦争は、大切な全てを奪い、引き裂きます。
敵味方関係なく、苦しみをもたらすのです。

今ある命、今ある平和に感謝しつつ、なお続く世界中の
戦火が一時も早く止むことを祈らずにはいられません。

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2015/04/11~20   不安を払う

講師 愛媛県 慶正寺 長岡一路師

いま、世の中を漠然とした不安が覆っていると耳にしま
す。

人生の悩みや不安を払うために出家され、その具体的な
実践法を伝えて下さったお釈迦様の遺徳を受けきれない
我が身が情けない限りです。

4月8日のお釈迦様のお誕生日は「花祭り」としてお祝
いをしますが、「花祭り」をもっと浸透させようと花屋
さんとタイアップした動きもありましたが、認知度はい
まひとつというところでしょうか?

しかし、仏教に深く傾倒された一般の善知識と出会うこ
ともしばしばあり、励まされることもあります。

最近、テレビでも活躍されている精神科医の本と出会い、
心に遺りましたので紹介させて頂きます。

一日のうち(できれば一日の始まりに近いところで)掛
け値なしに爽やかな一瞬をつくり、毎日繰り返すことで
例え問題や悩みがあっても、日々の生活が劇的に変わる
のが、人の有り様だそうです。

その爽やかさを感じる方法とは、ささやかなことでも、
同じ事を繰り返す事だそうです。

まさにその筆頭が「行=ぎょう」だということです。

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2015/03/21~31   悲しみを乗り越えて

講師 愛媛県 禅正寺 林 証道師

東日本大震災から四年が経過しました。

振り返れば、2011年3月11日、いつもの朝を迎え
た私達は、その日起こる大地震を知ることもなく、いつ
もの日常を過ごしていました。
しかし、午後2時46分。突如として私達を襲った大地
震と大津波。一瞬にして、多くの人の命が奪われました。

あれから四年、日本各地、世界各国から支援の手が差し
伸べられ、復興も形として現れてきました。

しかし、どんなに支援を受けても、失われた命は戻って
来ることはなく、残された人々は、悲しみを背負い生き
ていかなければいけません。

私達のお勤めに、葬儀を終え百日を迎えた故人に対し行
われる「卒哭忌」という名称の法要があります。
卒は卒業の卒。哭は慟哭の哭。そして一周忌三回忌など
で用いる忌。つまり、悲しむのはもう終わりにしましょ
う、故人の物を整理しましょう、という意味を含んだ名
称の法要です

しかし、かけがえのない人の命を失った悲しみは、卒哭
忌の法要を営んで壱日が過ぎたからといって、けして癒
されるわけではありません。永別の悲しみを乗り越えよ
うと、必死で何かに集中したり、体を動かしてみたり、
様々な方法で気持ちの整理をつけようとしますが、悲し
みは何度も心を襲って人を苦しめます。

東北の皆様の一日も早い復興を願い、この悲しみを共に
乗り越え、笑顔で真の復興を果たせる日まで私達は支援
を送りたいと思います。

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2015/03/11~20   お彼岸によせて

講師 香川県 祥福寺 本山良宗

私たち人類の歴史は、地震や津波、台風、飢饉、疫病、
戦争と、さまざまな苦難の歴史でもあります。それは同
時に、愛しい人、親しい人、大切な人との辛い別れの連
続でもあったはずです。

しかし、私のご先祖、あなたのご先祖は、どんなに辛い
ときであっても、生きよう、今を生きよう、今日を生き
よう、明日が来るなら明日を生きようと、懸命に生き抜
いてきました。だからこそ、今ここに、私がいて、あな
たがいるのです。

そうです。私たち一人一人は皆、苦難の歴史の中で、た
だの一度も途切れることなく紡がれてきた命の末裔だと
いうことです。

そんなお互いであれば、なおのこと、今この時を、この
一日を、たいせつにすごしていかなければと思うのです。

春のお彼岸がまいります。途絶えてしまった命、受け継
がれてきた命、全ての命に思いを寄せて掌を合わせまし
ょう。

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2015/02/11~20   涅槃会(ねはんえ)

講師 愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

2月15日はお釈迦さまが亡くなった日です。多くのお
寺では、涅槃図といって、お釈迦さまが横になられ、お
弟子さんたちとお別れをされている絵図をかけ、徳を慕
い報恩感謝の涅槃会法要を厳修致します。

今からおよそ2500年前、お釈迦様は80歳のご生涯
を終えられました。

35歳でお悟りを開かれたお釈迦さまはその後45
年にわたり、人びとに教えを説く旅を続けられまし
た。

その間、多くの人びとがお釈迦さまの教えに導かれ、お
弟子や信者となっていきました。

その伝道の旅の最期の地となったのは、インド北東部の
クシナガラという所でした。

自分の死が近いことを察したお釈迦さまは弟子たちに、
「すべての事象は過ぎ去るものである。怠ける(なまけ
る)ことなく精進しなさい。」と、
最期の言葉を残し、静かに息をひきとられました。

精進とは努力し励むことで、最後まで続けることです。
己の体はもろく、すぐに老いる。病で伏すこともある。
死が突然訪れる。この苦しみで心を悩まされ、世をはか
なんでいてはならない。お釈迦さまは、時の移り変わり
をはかなんだり、物の色かたちが変わるのを嘆いたので
はありません。

その時その時が過去として過ぎ去ることに早く気づき、
日常生活の行いに対し、怠けることなく目的に向かって
努力する姿こそ人が今を生きていくことであり、自分自
身を磨くことだと教えています。
 
寒すぎる、暑すぎる、と言って仕事をしない人、おもし
ろくないと言って学校をさぼる人、今日はいいやと言っ
て次の日に仕事を残す人、怠け心にあぐらをかくことは
現在でも私たちまわりによく見かけます。

最近では「頑張らなくていい、無理しなくていい、でき
るだけの事をしたらいい。」ということもよく耳にしま
す。

しかし、本当にそれで良いのでしょうか?怠けていたり、
自分にできることだけをしているだけで、進歩や向上は
得られるのでしょうか?自分の希望を実現することはで
きるのでしょうか?

たしかに、時には休むことも必要ですが、「精一杯やっ
てみよう。くたくたになるまで頑張ってみよう。自分に
はその力があるはずだ。」と自らを励まし、目的を持つ
ときに生きる力が湧いてきます。歩みを進めてこそ、道
は開けてくるのではないでしょうか?

2月15日にはぜひ近くのお寺にお参りし、涅槃図を拝
んでみてください。そしてお釈迦さまの最後の言葉を思
い出し、今、命あることに感謝し、これからの生き方を
考える一時にしてほしいものです。

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2015/01/21~31   心の成長

講師 愛媛県 渓寿寺 金岡潔宗師

今年もすでに二十日余りが過ぎました。あっという間で
す。みなさんどのように過ごされましたか?

お正月は、大地と自然の大きな恵みを受け、やがて草木
が芽を出す時を迎えるので、『お芽でとう』というのだ
そうです。

皆さんの周りの草木は、芽吹きだしていませんか? お
寺の周りの草木は一日一日成長しています。

私達も、身体は生まれた時からどんどん成長しています。
しかし、心はどうでしょう。成長しているでしょうか。

残念ながら私は、まだまだです。どうしたら成長できる
のでしょうか。

ある本にこんな事が書かれていました。

よろこんで与える人間となろう
物があれば物を 力があれば力を
知識があれば知識を
みんなに与えよう
なければ自分の中に育てて与えよう
花は美しさを惜しまず
小鳥は楽しい歌を惜しまない
誰にでも 与える
与える時 人はゆたかになり
惜しむ時 いのちは貧(まず)しくなる
よろこんで与える人間となろう

と。

私達は、旅行などに行くと家族や知人にお土産を買いま
す。

その時、相手のことを思って「これがいいのでは」とい
うように決めます。その時、私たちの心には相手の顔が
浮かび優しい気持ちになります。

しかし、「貪り=むさぼり・瞋=いかり・痴さ=おろか
さ」によって、心は知らない間に汚れてしまいます。誰
にでも優しくするには、感謝の心がないといけません。

先日、御婦人から、今年、主人の十七回忌になるので、
お寺に連絡をと思っていたら丁度、お寺から案内が来た
ので、有難うございました。とお礼の電話がありました。

お元気なお声に、私は「お幾つになられましたか」と尋
ねると「九十一になります。毎日、感謝して生きていま
す。幸せです。」と話されていました。

そのお声から、楽しく幸せな暮らしぶりが、目に浮かん
できました。自分も何だか嬉しい気持ちで、電話を切り
ました。

感謝することは、お釈迦様の教えの根本です。お互いに、
まずは「有難う」の感謝から始め心を成長させたいもの
です。

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2015/01/11~20   身心一如

講師 愛媛県 宗光寺 岡 芳樹師

禅語とは、仏教の中の禅宗の文献に出てくる言葉です。
短い言葉の中に、禅の心が凝縮されています。

たくさんの禅語の中の一つに『身心一如=しんじんいち
にょ』という言葉があります。

身心一如の漢字は、シンと言う字は背の高さの身長の身。
ジンはこころという字です。イチは数字の一という字で、
如は女ヘンにクチと書きます、如しという字です。

この禅語の意味は、身体(からだ)と心は同じもので一
つです。という意味です。

私たちが日常的に使う『心身共に=しんしんともに』と
言う心身とは前後が逆となります。

それでは、何故心身という字が逆になるのでしょうか?
それは、心を育むには心よりも身体とその行為がより重
要であるという事を説いているのです。

例えば、お寺参りやお墓参りをする時も、多くの人が手
を合わせます。手を合わせた時、心の中に亡き人をより
身近に感じることができるのではないでしょうか?

私は三十代半ばになってから『身心一如』という言葉が
とても好きになりました。それは、何よりも解りやすく
実践し易かったからです。

ご法事や葬儀の際にも、鏡を見て少し綺麗に着物を着る。
身なりを調えて、少し早く準備を済ませて呼吸を調える。
背筋をのばして姿勢を良くしてお経をお唱えする。

自分の心を調えるのは、意味が曖昧でよく解らないと思
っていましたが、自分の服装や仕事に向かう姿勢は、自
分の気持ち次第でその日からすぐに変えることができま
した。

二十一世紀は心の時代と言われています。しかし、心の
在り方を見つめても具体的な答えが見つからない時もあ
ると思います。

そんな時には、『身心一如』。身体と心は切り離すこと
はできません。疲れた身体をちょっとひと休みをさせて
みてはいかがでしょうか?

身体を休める事により、考え方も前向きになり、心も明
るくなるかも知れません。

今日一日、あと半日だけでも、いつもより背筋をのばし
てみませんか?少し暖かい日ならばお墓参りをしてみま
せんか?

何かを少し行動にうつすだけで、今日の貴方の行為が、
貴方の心を変えてゆくのです。

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2014/12/21~31   年の瀬、感謝と慎みで

講師 香川県 南隆寺 大石光昭師

七十歳を過ぎて坐禅とご縁のできたMさんは真言宗のお
寺の檀家さんですが、私のお寺の行事にもよく参加して
下さっていました。

坐禅後の茶話会では、若い参加者に「あんた達はええな
あ!私もあんた達みたいに若いうちに坐禅と縁があった
らさぞ良かったのにと思うわ。」と、

私の代わりに「坐禅と出会えた幸せを感謝しなさいよ」
と言わんばかりに声をかけて下さり「坐禅の間は、周り
には仏さん等が大勢坐っとるし、余計な心配も危いこと
も何ひとつないし、いやあ、ここの坐禅堂こそが極楽そ
のものですわ。ここは有難いとこでえ」と

ほかの参加者を見渡しながら、皺が深く刻まれた顔に優
しい笑みを浮かべて話されておられました。

またある時は、「私はちっとも真面目じゃないのに、周
りからは真面目だとか、ええ人だとか言われて、若いこ
ろからずうっと猫を被って生きてきました。坐禅をさせ
てもらうようになって、この歳まで来たら死ぬまで猫を
被りつづけたらええわ、と思うようになった途端に心が
軽うなりましたわ。」という言葉には、常日頃から自分
自身を戒めておられる慎み深さを感じました。

信仰心の篤いMさんは、暮れになると町内のお堂や祠な
どのしめ縄をいくつも作り、架けかえておられ、坐禅に
来られるようになってからは、私のお寺の鎮守さんにも
立派なしめ縄を奉納して下さっていました。

ある年の冬至の夜、鎮守さんの星供養のご祈祷法要に、
Mさんの姿が見えません。それどころか新しくなってい
るはずのしめ縄も古いままです。

次の日、鎮守さんのお札を持ってご自宅を訪ねると、座
敷の襖の間からMさんの遺影が見えるではありませんか。

息子さんの話では、数日前の日曜日、坐禅会から帰った
後、しめ縄づくりのため納屋の中二階に上がろうとして
梯子段から後ろ向きに落ちて、頭を打ったらしいという
ことでした。

納屋は、藁(わら)仕事をしている場所とは思えないく
らい綺麗に整頓され、清らかささえ感じるほどでした。

その場所を拝見させて頂いたとき、毎日を感謝で過ごさ
れたMさんの八十数年の生涯を一瞬垣間見たように思い
ました。

鎮守さんに飾られるはずだった作りかけのしめ縄も、蛇
がとぐろを巻くように、しかし力なく横たわっていまし
た。

年の瀬の忙しさにかまけることなく、一年を無事送り、
またひとつ、新しい年を迎えることのできる有難さをよ
くよくかみしめて、感謝と慎みをもって過ごしたいもの
です。

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2014/12/11~20   幸せとは??

講師 愛媛県 福成寺 本土悠悟

幸せとは何か?と聞かれたときに、健康であること。日
々の暮らしに困らないこと。あるいは、充分なお金があ
って、ほしいものがいつでも手に入れられることなど、
世間的な目で恵まれた境遇にあることを幸せと答えるこ
とが多いのではないでしょうか?

けれども、その逆に、たとえお金持ちでなくても幸せに
暮らしている人も多いと思いますし、病の床にあっても
幸せを感じている人もおられるのではないでしょうか?

また、健康であっても不幸な人はいますし、お金があっ
ても幸せでない人もいます。

健康であっても、家族が不和であったり、お金があって
も、子どもがぐれてしまったりして「なぜ、こんなこと
が私ばかりに起こってしまうのか」と悩んでいる人もい
ることでしょう。

では、私にとっての幸せとは何かと問われたら、「どんな
ときでも、楽しく生きられること」なのですが、なかなか
すべてがうまくいくとは限りません。

様々な幸せの姿がある中で、自分自身の幸せに気づいてい
く一つの方法は、素直な心になるということではないでし
ょうか?

素直な心。別な言葉でいうと、柔らかさといってもいいか
もしれません。

お釈迦さまは柔和な心をとても大切にしました、悟りを深
めていくと柔和な心を得るというのです。

この柔和な心、柔らかい心というのは、たとえて言えば、
付きたてのお餅のようなものです。

私のお寺では、毎年、暮れになると餅をついて鏡餅をいく
つも作り、仏様にお供えします。

付きたてのお餅は柔らかで、どんな形にでもなるので、簡
単に鏡餅を作ることができます。

このお餅を、心に当てはめてみると、自分の考えもあるの
だけれど、心を柔らかくして、相手の気持ちをまず察し、
相手の身になって考えてみるということです。

相手の身になって考えてみると、今まで気がつかなかった
ことがたくさん見えてくるはずです。

鏡餅は七草が過ぎ、鏡開きの頃ともなると、硬くカチカチ
になっています。

これを心に当てはめてみると、意固地という心境ではない
でしょうか?

意固地とは、「かたくなに意地を張る」と言う意味で、お
餅がカチカチになってしまった姿にそっくりです。

そこには相手の気持ちを察する気配はありません。ですか
ら、相手のしてくれていることに気づかないのです。

心を柔らかに、素直にしていくことが、自分の幸せに気づ
く大切な方法で、その心を大切にしていくことによって、
自分の幸せに気づくだけでなく、有り難いという感謝の心
をも育ててくれるのではないでしょうか。

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2014/11/21~30   目の前のしあわせ

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

経済大国と言われていた日本ですが、近年、その輝きが
失せ、色あせてきたように感じているのは私だけでしょ
うか。

せっかく家を建てたものの突然のリストラに遭ってしま
い、どうやって返済していけばいいのか途方に暮れる人
が大勢おられます。今年の春の消費税増税では、私たち
は買い控えをすることで、日々の生活をやり繰りしてい
ます。

そこで、お聞きいたしますが、あなたは今の暮らしに満
足し、本当に幸せだと感じていますか?

私たちが普段着ている服を例にして考えてみましょう。

世間を見渡してみれば、どう拝見いたしましても、昔で
いえば一張羅であります。穴が開いたり破れたりして、
継ぎはぎだらけの方を見ることは、まずありませんでし
ょう。小さな子供さんからお年寄りまで、身ぎれいに小
ぎれいになさっておられる。

食べ物でもそうですね。食事制限をしているような方で
ない限り、食べ物の心配をすることは、ほとんどありま
せん。おまけに、日本に居ながら色々な国の料理だって
食べることができます。

住むことに関しても、立てつけが悪く隙間風が入ってく
るような家は、最近見なくなってまいりました。また、
家電製品の性能は日進月歩で私どもの生活を快適にして
くれています。

でも、なぜか不平不満だらけになっています。何故でし
ょう?

物に恵まれている我々日本人。その日本人に対して、あ
る調査で「あなたは今、幸せですか?」と質問した結果
が出ていました。その結果は、「はい、幸せです」では
なくて、「やっぱり、どちらかと言えば幸せなんやと思
う」に留まるのです。 

インドと中国の間にブータンという国があります。ブー
タンは仏教を国教とする国で、規模としてはとても小さ
な国です。

そのブータンで同じ質問をしてみると、95%の方が「は
い、幸せです」と答えるというのです。我々日本人で、
「はい、幸せです」と答えたのは、僅か8%です。

我々日本人は、物に恵まれてはおりますけれども、なぜ
か心が満たされていないように感じているということな
んですね。

物やお金に振り回されるばかりで、心がそれについてい
けない、伴っていけないんでしょうね。

でも、その幸せは人さまが決めることなんかじゃなくて、
自分自身が決めることなんです。

今、自分が幸せではないと感じているあなた。自分を誰
かと比べていないでしょうか?幸せは、誰かと比べると、
もっともっと遠のいていってしまいます。

本当の幸せは、物やお金といった物差しで測るのではな
く、「心」の持ち方であろうと和尚は考えるのです。

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2014/11/11~20   しぜんの姿

講師 徳島県 黒松寺 矢野通玄師

今の時季は紅葉の季節で、山は色とりどりの錦に飾られ
ています。でも、紅葉狩りに行かれて見事な景色に見と
れる時もあれば、散り果てた枝に出会い、何か寂しい思
いをすることもあるのではないでしょうか。

道元禅師のお歌の中に、「峰の色 渓の響きも みなな
がら わが釈迦牟尼の 声と姿と」と、あります。

禅師様は、山をお釈迦様に喩え、景色の移り変わりをお
姿に、そして渓の響きや鳥の囀りは、そのままお釈迦様
の説法であると、とらえ詠われております。

また、お釈迦様は「一切衆生、悉有仏性」宇宙の森羅万
象全部仏(ほとけ)である。この世の中のすべてに、仏性
が備わっている。仏(ほとけ)であると説かれています。

この世の中、それぞれ個性を持った仏(ほとけ)様の集ま
り。生かし生かされ、支え支えられ、持ちつ持たれつ。
楽しい悩みのない世の中のはずなのに、住みにくい世の
中になっているのではないでしょうか。

人間は、方向を変えて色々な角度からみることが出来る
「智慧」を持っています。ところが、煩悩という厄介な
ものが、この「智慧」の働きの邪魔をします。自然に対
しても、豊かな暮しを求めるが故に、自然を壊し、異常
気象などを起こす原因を作っているようにも、思われま
す。

自分が仏(ほとけ)であることに気付き、わがままな行い
をしていることに気付き、この「気付き」ということに
よって、「智慧」が働き、煩悩や悩みが解消され、心豊
かな生活が送れるようになります。

私たちは、大きな自然のお釈迦様の懐に抱かれ、守られ
ています。耳を澄ますと、自分は、ほめられているのか、
叱られているのか、自然のいろいろな声や音が聞こえ、
教えてくれると思います。今、この素晴らしい景色を見
て感じてみてください。

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2014/10/21~31   自灯明・法灯明

講師 高知県 永源寺 島崎敬童師

だんだんと秋も深まり、夜の時間もずいぶん長く、灯り
の恋しい季節となりました。

10月21日は「灯りの日」だそうです。

お釈迦さまにも、灯りにまつわるお言葉があります。

お釈迦さまの最後の教え『自灯明・法灯明』。自らを灯
とし、法を灯としなさいという有名なお言葉です。

「私がいなくなっても、だれかに頼るのではなく、自分
自身をよりどころとし、正しい教えを道しるべとして、
生きてゆきなさい」このような意味かと思われます。

『法灯明』は、お釈迦さまの教えを灯りとし、迷わずに
進みなさいと言うことですから、よくわかります。しか
し、『自灯明』はどうでしょう。こんなに頼りなく、迷
い続けている私自身が、灯りとなるのでしょうか。

私たちは、常に自分自身を見つめながら、人生を歩まね
ばなりません。お釈迦さまは「他者に頼るな」と言われ
ました。

これは、周りに惑わされるなということではないでしょ
うか。

他人の行動や結果に一喜一憂することなく、自身の性格
や能力に応じた、ありのままの自分で、悠々と人生を歩
みなさい、というお釈迦さまの励ましのお言葉に聞こえ
ます。

こんな私でも、自分の弱さに気づき、お釈迦さまの教え
を守り、実践することで、いつか必ず自分を灯りとする
ことが出来るのだと思います。

人は誰しも、苦しい事や嫌な事に直面すると、逃げ出し
たり、他人をあてにしたりします。しかし、それではよ
けいに苦しくなるだけです。

いま、ここで、私が、なすべき事をしっかりとする事で
自分が灯りとなり、自身の人生を堂々と歩むことができ
るのではないでしょうか。そして、それを信じ大切に思
う。その姿、その思いこそが『自灯明』ということでは
ないでしょうか。

これからだんだんと寒くなってまいります。お釈迦さま
より自灯明の教えをいただいたそのお身体をお大事に、
ご自愛ください。

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2014/10/11~20   真心に生きる

講師 愛媛県 観音寺 上本英昭師

梅花流詠讃歌、報謝御和讃に「一期一会の人の世は 尊
きものと知るものを み篤き今日のおもてなし いかで
忘れん諸共に」という一節があります。

私には、この御和讃をお唱えするたびに思い起こす、大
切な思い出があります。

それは、今から二十年程前のことです。

私は、修行中に亡くした父方と母方の二人の祖母の供養
のためにと、四国霊場八十八カ所遍路の旅を思い立ちま
した。

当時、若く元気な私はペース配分も考えず、初日から飛
ぶようにして歩き出しました。

しかし、慣れない厳しい道のりの毎日は余りに辛く、次
第に足がまともに動かなくなりました。余りの痛みに、
いつしかこれが本当に供養になるのかと、疑問すら湧い
てきたのでした。

ある日の夕方、ついに疲れ果てて道端で坐りこんでしま
った私に、一人のおばあさんが声をかけてくださいまし
た。

「どうしたの?大丈夫かい?今日泊る所はあるの?」そ
して、見ず知らずの私を家に泊めてあげようとおっしゃ
るのです。

私は遠慮しながらも、藁をもすがる思いでご好意に甘え
ました。

おばあさんは、事情があって中学生のお孫さんとの二人
暮らしをされているご様子でしたが、二人は笑顔で食事
を振舞い、温かいお風呂にお蒲団、真心の込もったもて
なしをしてくださいました。

お遍路の旅人をもてなすことを「お接待」と申しますが、
この二人のお接待は、幾度か公園や無人駅などで夜を過
ごしてきた私にとって、本当に涙がこぼれるほど有難い
お接待でした。

さて、この他人を家に泊めるというお接待。実は「無財
の七施」といわれる布施の徳目の一つで「坊舎施」とい
います。

漢字で布施という文字の「布」とは、あまねく分け隔て
なく。「施」とは、与えるとの意味です。

私はあの日、あのおばあさんとお孫さんに、家に泊めて
いただくという布施以外にも、沢山の布施を頂きました。

慈しみの言葉や、優しい眼差しに溢れる笑顔。何よりも
心温まる真心を頂戴しました。

その後、二人からの真心を頂戴した私は、これからは出
会った方々に真心を与える生き方をしようと心に誓い、
真心で生きることこそ祖母やご先祖様への供養なのだと
思いながら、感謝の気持ちでお遍路道を歩き続け、無事
満願の日を迎えることができたのです。

まさに「一期一会の人の世は 尊きものと知るものを 
み篤き今日のおもてなし いかで忘れん諸共に」であり、
御仏のお導きで頂戴した、有難き御縁でした。

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2014/09/21~30   安心~あんじん

講師 愛媛県 宗安寺 能仁洋一師

先日、坐禅をしたいと一人の男性がこられました。

その方は以前、他のお寺の参禅会に参加し、一度坐禅を
したことがあるとのことでしたので、三〇分程の坐禅を
休憩をはさんで 二回坐っていただきました。

その後、一緒にお茶をいただきながらお話をし、爽やか
な面持ちで帰って行かれました。

坐禅の時によく聞かれますのが「坐禅は何のためにする
の?」とか、「坐禅をしたら何か見えるようになるの?」
などなど・・・。

お答えしつつも私自身、修行道場に上がる際に「修行を
することで、何か特別な事が身につくのではないだろう
か?」と考えていたことをふと思い出します。

大本山永平寺御開山 道元禅師様は、お示しになります。
『坐禅は習禅にはあらず、
大安楽の法門なり、不染汚の修証なり』と。
坐禅は悟りを得るため、何かを習得するために行うもの
ではない。仏道への、大安楽への入り口であると。

また、道元禅師様は、こう歌を詠まれています。
『濁りなき 心の水に すむ月は 
波も砕けて 光とぞなる』
濁りなく澄みきり、落ち着いた心にこそ、物事の本質を
見ることのできる正しい智慧が現れ、正しい智慧によっ
て迷いや煩悩から解き放たれる。坐禅を続けていくこと
により、澄みきった落ち着いた心が更に深まっていくの
だ、と。

どうぞ、みなさまも坐禅を通して「身を調え、息を調え、
心を調えて」忙しい日常生活の中に、心やすまるひとと
きを、取り入れてみてください。

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2014/09/11~20   敬う心を大切にする

講師 愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

九月十五日は敬老の日です。
長い間社会の為に尽くしてこられた高齢者を敬い、長寿
を祝う日です。あわせて、若い世代が高齢者の福祉に関
心を深める機会になるようにとの願いが、込められてい
ます。

お釈迦様の説法に最も近いとされる原始仏典『法句経』
の中に次のような言葉があります。
「常に敬礼を守り、年長者を敬う人には四種のことがら
が増大する。すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とで
ある。」

お釈迦様は、今から二千五百年前に年長者を敬う心得を
示しておられました。

世界のどの国でも、年長者や先祖を敬う文化があります
が、日本は特に、年功序列による高齢者(年長者)を敬
う道徳がありました。

敬老の日は、母の日のように国外から輸入された記念日
と違って、日本を起源とする日本独自の祝日であると言
われています。

現代の日本は、家族化により異世代の交流が少なくなっ
ています。また、市場原理主義によって終身雇用制度が
崩壊し、年功序列の意識が低下しました。

しかし、社会や家族の姿がどのように変化しても、高齢
者を敬う心は人間として守り続けたい倫理です。

高齢者には長く生きてこられた経験と、豊富な知恵があ
ります。若い人にとっては人生の先輩であり先生です。
その経験と知恵を表に出して、社会に蓄積させていくこ
とが大切です。

世間に発信されることによって、法句経にある、寿命と
美しさと、楽しみと、力の、四つのことがらを得ること
につながります。

九月十五日は敬老の日。そして、その敬老の日から一週
間は、老人週間とされています。

この機会に、身近な高齢者の方々と接してみてはいかが
でしょう。何気ない会話の中にも、人生において大切な
ものが心に響き、染みこんでくるのではないでしょうか。

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2014/08/21~31   正しく生きる

香川県 寶光寺 加部弘元師

暑い日々も、ようよう揺るぐ今日この頃。「暑い」とい
う苦しみからのがれ「楽になった」という思いが湧いて
来ませんか。

お釈迦様は、苦しみを感じるときには必ず原因があると
考え、その原因とは、人の心の中にあるさまざまな「煩
悩」で「強欲」や「快楽」などむさぼることであると説
かれました。この煩悩を消すことで苦しみが滅すると、
お考えになれたのです。

その「煩悩を消す為にはどうすれば良いのでしょうか?

お釈迦様は、人の苦しみを取りのぞく為に、その原因で
ある「煩悩」をなくし、人格を健全にするための「八正
道」という、八つの修行法を説かれました。

お釈迦様はこの「八正道」で
まず「正見」。正しいものの見方をすること。
「正思惟」。正しいものの見方に基づいた正しい考え方
を持つこと。
「正語」。正しい言葉を語ること。
「正業」。正しい行いをすること。
「正命」正しい生活をすること。
「正精進」正しい努力をすること。
「正念」正しい自覚を持つこと。
「正定」正しい冥想をすること、をすすめたのです。
そうすることで真の安らぎを得られると説かれました。

煩悩をのぞくことは大変むずかしいことですが、少しで
も減らすことができれば、真の楽(安らかな心)の生活
ができるのではないでしょうか。

誰しもが真の楽(安らぎ)を得られますよう切に望みま
す。

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2014/08/11~20   掃除の五徳

講師 愛媛県 円久寺 村上徳樹師

今年もお盆の季節がやってまいりました。みなさま御先
祖様をお迎えする準備にお忙しいことと存じます。

御先祖様をお迎えするにあたってなすべきことの一つに
お仏壇やお墓の掃除をして清めるということがあります。

この掃除ということにつきまして、先にブラジルで開催
されましたサッカーワールドカップに関連しまして、嬉
しくなるニュースを耳にしました。

日本が初戦のコートジボワールに敗退したということは
ご存知かと思いますが、その試合の後に、日本のサポー
ター達がスタジアムのゴミの掃除をし、その姿を見た海
外の人々から賞賛されたということでした。

試合に負けて良い気分でないにもかかわらず、自分達が
使った場所を清掃して帰るという行為に、異国の方々は
感銘を受けたのです。

清潔好きは日本人の美徳の一つであり、世界に誇るもの
なのでしょう。

古来より掃除には五つの徳があると言われております。

その五つの徳とは「一に自心清浄、二に他人の心を清浄
ならしむ、三に諸仏諸天歓喜して地に応現す、四に勝福
の善業を植ゆ、五に速やかに無上道に入らしむ」という
ことです。

つまり掃除は、自分の心を清らかにし、同時に他人の心
をも清らかにします。仏様や天人も清められた場所に現
れ、勝れた結果を招き、速やかにこの上のない仏道に入
らしめる、ということです。

実際、掃除や片付けをしますと、心がすっきりして軽や
かになり、綺麗に清掃された場所を見ますと、こちらの
心も清らかになります。逆に掃除をしないでいますと、
何か心に引っかかりができ、それがストレスになったり
します。また汚れた場所を見ますと、こちらの心も散乱
してきます。

特にお仏壇やお墓が汚れていると、何か気になってしま
います。良いご供養をしたいと思いましたら、まずは掃
除をすればよいでしょう。

お盆の時節、御先祖様をお祀りしているお仏壇やお墓を
掃除し、心を整え、報恩供養されてはいかがでしょうか。
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2014/07/21~31   きまり事の大切さ

講師 愛媛県 安穏寺 島津雄児師

私たちの日常の中には多くのきまり事があります。普段
生活していると、それが煩わしくさえ思うこともあるの
ではないでしょうか…?

少し前の事、お寺の近くを走る県道。その県道はあまり
見通しが良くありません。いつもは点滅している信号が
その日に限って赤になっていました。

先を急ぎたいところでしたが、信号に従い停車しました。
すると物陰から手押し車を押したおばあさんが俯いたま
ま道を横切って行きました…。

点滅信号だと、お婆さんの存在にも気づかなかったこと
でしょう。赤は停まるという「きまり」のお陰で人の命
の安全が守られたのです。

ところで、仏様のみ教えの中にも多くのきまり事があり
ます。仏教ではこれを「戒」と呼び、私たち仏教徒が守
らねばならない「きまり」とされています。
では何故、そのような「戒」があるのでしょうか…?

道元禅師様は、人間は「仏心=仏様のこころ」を与えら
れてこの世に生まれてきたとお示しになられました。
みんな、仏様の心を持っているのです。でも、時として
我儘になってしまって、仏様としての生き方が隠れてし
まうのです。

例えば目の前に空き缶が落ちていた…。拾ってクズ籠へ
とはみんな知っている。でも「誰かがやってくれる」「私
がやらなくても」という思いが頭をかすめます。すると、
善い行いが出来なくなってしまいます。

そこで、キマリで我儘を抑え、仏様の行いができるよう
手助けするのが「戒」なのです。

ここで、簡単な三つの「戒」を聴いて下さい
 ・一つ目は悪い事を行わない事
 ・二つ目は、善い行いをすること
 ・三つ目は、世の為、人のためになること
をすること。

言葉にすると簡単であたり前のことです。しかし、いざ
実践するとなると大変に難しいものです。煩わしいと感
じたり、面倒くさいと思ってしまいます。

でも、そこで踏んばるのです。我儘な自分に流されず、
勇気をだして一歩踏み出しましょう。

ほんの一歩前に踏み出すことで、自分を磨き自分が調っ
てくるのです。

「戒」を守ることを通して、自分にそもそも備わってい
る仏様を表して生きて行きたいと願っております。

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2014/07/11~20   泥中の蓮華

講師 愛媛県 明應寺 仙井俊明師

雨上がりに見る草木の緑が清々しい、この季節。梅雨も
あと少しとなりました。

今、私の寺の境内では、5年程前から育て始めた 蓮と
睡蓮が、夏本番を前に、今年も、色とりどりの花を咲か
せています。
美しく咲き始めた花たちが、睡蓮鉢を気持ちよさそうに
泳ぐメダカと共に、お参りに来られた方達の目を楽しま
せています。

蓮や睡蓮と聞いて、お寺をイメージする方も多いのでは
ないでしょうか?
泥の中に根を張りながら、泥にまみれることなく、美し
い花を咲かせる姿は、仏教では人生の喩えとして使われ
ます。

維摩経というお経にはこのようにあります。
〝高原の陸地に蓮華を生さず
卑温の汚泥に即ち此の華を生ずるが如し〟
乾燥した清潔な陸地では、蓮華や蓮の花を咲かせること
は出来ません。美しく気高い蓮華は、汚い泥の中からし
か花を咲かせないのだと説かれています。

悩みや苦労は、誰もが抱えています。それは、泥の中に
生きるようなものです。
しかし、その中にあっても、その泥に染まることなく、
それを肥料として、花を咲かせなければなりません。

また、泥水が濃ければ濃いほど、綺麗な花を咲かせるよ
うに、私達の人生も辛い事ばかりではなく、必ず報われ
る事があると、蓮は教えてくれています。

私たちは、仕事や学校など、忙しい日々に追われがちで
すが、辛く苦しい時こそ、多くの人達と触れ合いながら、
沢山の事を学び、毎日の生活の中に、感謝の気持ちを持
ち続けていれば、いつの日か人生の花を咲かせることが
できるのではないでしょうか。

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2014/06/21~30   時間

講師 高知県 善教寺 伊藤和人師

時間というものを 考えたことがありますか?

私は、時間の謎を知っている人は、地球上に誰もいない
だろうと思っています。

なぜなら、時間がいつから流れ始めたのか、誰にもわか
らないからです。

わからないということは、始まりがないのです。

では、いつ終わるのでしょうか。

これも、始まりと同じで誰にもわかりません。したがっ
て、これも終わりがないのです。

つまり、スタートも、ゴールもないということです。

時間について書かれた本を読んでみても、スタートとゴ
ールについては、不明のままです。

何しろ、時間は地球が宇宙空間に誕生する以前から、す
でに流れていたのです。そして、もし、地球がなくなっ
てしまっても、時間は流れつづけるでしょう。

時間を分ける方法は、3つしかありません。「過去」
「現在」「未来」の3つしかないのです。

大本山永平寺の仏殿には、三世仏といって過去、現在、
未来の仏さまが祀られています。
 「過去世」→ 阿弥陀如来
 「現在世」→ 釈迦如来
 「未来世」→ 弥勒仏
です。

これを、家族に当てはめてみましょう。

 「過去世」→ さかのぼってのご先祖
 「現在世」→ 自分
 「未来世」→ 先々の子孫
ということになります。

時間は逆に戻ることはありません。ご先祖さまからいた
だいた命は、現在ただ今の時間の中にあります。

時間を大切に、今この時を大切に、命と向き合って進ん
でいければと考えます。

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2014/06/11~20   合掌

講師 愛媛県 野間寺 高木恒人師

お寺にお参りをしたり、お墓参りをしたりする時、仏様
やご先祖様の前で 私たちは自然と手をあわせます。こ
れを合掌といいます。

合掌は、インドから仏教とともに中国、朝鮮を経由して
日本に伝わってきました。

インド人は右手を神聖な手、左手を不浄な手として分け
て考える習慣があります。人間には神聖な面と不浄な面
があり、それをあわせることは人間の真実の象徴として
考えられました。

合掌は自分をさらけだして、心から相手に接する気持ち
のあらわれ。

インドや南アジア諸国では、合掌が日常の挨拶に使われ
ています。

日本のお坊さんも挨拶として合掌を用いています。

もともと挨拶に使われていた合掌ですが、日本伝来時に
現在のように仏事に関する作法として一般に定着したよ
うです。

合掌は挨拶の他にも感謝の表現としても使われています。

食事の時「いただきます」「ごちそうさま」と言う際に
合掌されると思います。

私たちが食事の時いただく食材は、もともと命のあった
もの。その命をいただいていると考えれば自然と感謝の
気持ちが現れるのではないでしょうか?

ご先祖様の前での合掌には、挨拶と感謝、両方の意味が
ふくまれています。

私たちは一人で生まれてきたわけではありません。もし、
ご先祖様のどなたか一人でも欠けていたら今の自分はい
なかったかもしれません。

お仏壇の前に座ったりお墓参りをする際は、ご先祖様へ
の挨拶と感謝の気持ちを込めて合掌をしてみてはいかが
でしょうか。

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2014/05/21~31   正見

講師 愛媛県 高徳寺 竹中義実師

何年か前のある日のこと、小学校低学年くらいの 男の
子が、寺の境内で ひとり遊んでおりました。

見かけたことのない子でしたので、「ぼく、どこから来
たの?」と聞くと「大阪。」と、答えてくれました。

よくよく聞くと、ご法事のために帰ってきた、ご近所の
お孫さんのようでした。

その子が急に「なんかトイレの臭いがする」と言いだし
ました。

私は、本堂脇のお手洗いから臭いがしているのかなと思
い、意識して 空気を吸ってみましたが、私には臭いま
せん。

しかし、「あ、そうか」と ピンと来たのです。

その子と一緒に臭いのもとの傍まで行って、「もしかし
たらこの臭い?」と尋ねると、予想通り「うん、そう」
という返事が 返ってきました。

驚いたことに、それは、いっぱいに花をつけたキンモク
セイの香りだったのです。

私は、思わず笑ってしまいましたが、同時に なんだか
寂しい気持にもなりました。

おそらく、この子の家のトイレには、キンモクセイの香
りの芳香剤があるのだなあと想像できましたが、芳香剤
を キンモクセイの香りだと 思うのではなく、キンモ
クセイが トイレの臭いと思われるのは、何が本物なの
か分からないということになり、複雑な気持ちになった
のでした。

しかし、私どもも この子のように、正しいと思い込ん
でいるものが、実はそうではないということが多くある
のではないでしょうか?

仏教では、苦しみを滅するために実践すべき正しいみち、
正しい実践行を 説いていますが、その一つに「正見=
しょうけん」があります。

正見とは、正しいものの見方をすること。正しく真実を
見ることをいいます。

自分が思い込んでいる一つの思いに執着せず、よくよく
観察したり、思いを巡らしてみたりしながら、仏教に照
らしつつ 正しく真実を見る目や 心を 養っていきた
いものです。

自分の考えや 見方だけが 正しいと思うのではなく、
謙虚な心でもって 物事を考えたり 見たりする姿勢が
大事ですね。

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2014/04/21~30   天上天下唯我独尊

講師 愛媛県 安穏寺 島津雄児師

四月八日は「降誕会」。お釈迦さまがお生まれになった
日で「花まつり」とも申します。

日本全国津々浦々のお寺では、甘茶が沸かされ、お祝い
の法要がお勤めされます。

私事ですが、今年の四月八日は、娘がピカピカの一年生、
小学校への入学式でした。まだまだ大きいランドセルに
背負われながら、意気揚々と登校していきました。

その後ろ姿を見送りながら、十年ほど前の四月八日、着
慣れないジキトツ姿(僧侶の着物姿)で、修行道場への
参道を上った自分を思い出しました。

一般大学をでて会社勤めをしていた私にとって、参道を
上り道場に近づく一歩一歩は、修行生活への不安と期待
が入り混じった気持ちが、徐々に大きくなる一歩一歩で
した。

お釈迦さまは、お誕生の直後に東西南北に七歩ずつ歩か
れ、右手で天を指さし、左手で地を指さし「天上天下唯
我独尊」と申されたと伝えられています。

「天上天下唯我独尊」天にも地にも我独り尊し。この世
の中で、私という命はたった一つの尊いものであり、そ
れと等しく周りの人たちの命もそれぞれ、たった一つの
尊いものである。自分も他人も大切に・・・と申された
のです。

お釈迦さまが、この世に初めてお立ちになり、初めて説
かれたこのお言葉は、不安や期待を胸に新しい人生のス
タートを切る私たちにとって激励の言葉であるように思
うのです。

自分という人間がどんなに小さく弱い者だと感じても、
この宇宙に唯ひとつの尊きものなのだと自信を持ちなさ
い。そして、新たに出会うすべての方が私と同じように
尊い者であると尊重しなさい。

私には、お釈迦様がそのようにお示しになって下さって
いるように感じられるのです。

新居浜の瑞應寺さまの参道は、桜の花びらが舞って桜色
に染まっています。その中を、今春から修行に上がる新
人の雲水さんがひとり上っていきます…
修行の無事を祈り、その背中へそっと手を合わせました。

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2014/03/11~20   ただ誹(そし)られるのみの人

講師 愛媛県 瑞光寺 宇野弘倫師

最近は マスコミが発達していますから どんな事件でも
たちまち日本全国へ 伝わってしまいます。

伝わるが早いか 賛否両論、個人に対してでさえ容赦をし
ません。

それは 身近な地域社会でも 同じです。

Aさんは、小学校の先生を 長くお務めになり、このたび
教頭先生におなりになりました。

大変人気のある先生です。私は このお話をお聞きしたと
き、ある日、先生にお会いしてこんな話をしました。

お釈迦さまが お弟子たちと 説法の旅をつづけておいで
のころ、ある村では 誰もが お釈迦さまのことを 善く
言わないのです。

どうも、その土地に長くいる行者が あれこれと、あらぬ
噂を流しているらしいのです。

そこで お釈迦さまのお弟子は 我慢できなくなり、その
行者のところへ 抗議に行こうとしました。

そのときお釈迦さまは、お弟子に向かって 次のように申
されたのでした。

「ただ誹られるのみの人、また、ただ褒められるのみの人
は、過去にもなかったし未来にもないであろう、現在にも
ない」と。

私たちの一生の間には 様々なことがありましょうが、お
釈迦さまが仰るには、誹られるのみ 褒められるのみの人
はない、というのですから 悪口ばかり言い続けられるこ
とはない。かといって、褒められっぱなしもあり得ない。
そんなことは、過去にも 未来にも 現在にもないとお示
しです。

どうぞ、気苦労がたくさんおありでしょうが、そんなとき
の参考に・・・。

教頭先生は、いやはや、よい言葉を教えて下さったと 手
帳にメモをして帰られましたが、まさに お釈迦さまの仰
る通りですね。

いずれにしても 周囲の挑発に乗ることなく、誹られても
褒められても、心落ち着けて 自らを見つめながらの人生
でありたいものです。

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2014/02/11~20   涅槃会によせて

講師 愛媛県 宗安寺 能仁洋一師

『ひとたびは 涅槃の雲にいりぬとも
 月はまどかに 世を照らすなり』

キリスト教に讃美歌があるように 仏教には仏教賛歌があ
り、私たち曹洞宗では 宗祖道元禅師が好まれた梅の花に
ちなんで、梅花流詠賛歌と称して お唱えしております。

冒頭の和歌は、梅花流詠賛歌「大聖釈迦如来涅槃御詠歌=
だいしょうしゃかにょらいごえいか」の歌詞です。

「涅槃=ねはん」とは サンスクリット語のニルヴァーナ
を語源とする言葉で すべての煩悩の火が吹き消された状
態、悟りの境地を意味していますが、生命の火が吹き消さ
れた状態として入滅、死去も意味しており「大聖釈迦如来
涅槃御詠歌」は お釈迦様が ご生涯を終えられたことを
詠われたものです。

今からおよそ2500年前の2月15日、お釈迦様は80
歳のご生涯を終えられました。

この年、お釈迦様は インドのマダカ国を出られ ガンジ
ス川を渡り、バーヴァーという町を通られます。

その折りに、この町で鍛冶屋を営んでいた チュンダとい
う方からお受けになられた 食事のご供養によって 病を
発症されました。
そして、そのまま治癒することなく クシナーラ城まで赴
かれ、2月15日夜半、沙羅双樹の間に横になられ お弟
子の方々に 最後の教えをお諭しになられた後、静かに息
を引き取られたと 伝えられています。

お釈迦様が 涅槃に入られたことは、お弟子の方々にとっ
て 深い悲しみでありました。

そしてその悲しみの中から、お弟子さまたちに 二つの思
いが 生まれるのです。

一つ目は、お釈迦様は 百歳の寿命をおもちであったが、
衆生、つまり、私たちすべての者に 20歳の寿命をわか
ち与えてくださり、そのお蔭で、私たちの今日の暮らしが
あるのだという、今ある 私たちの命に お釈迦様を重ね
合わせる 追慕の思い。

そして二つ目は、確かに お釈迦様はご入滅になられたけ
れども、実は お釈迦様は その御教えの中に 今でも生
きておられ、私たちを 導いてくださっているのだという
不滅の思いです。

「大聖釈迦如来涅槃御詠歌」では、二つ目の思いを 天に
輝く月になぞらえて「照り輝いていた月が 雲間に入り、
私たちの目に 見えなくなっても、月は 雲の上に輝いて
いるのです。それと同じように、お釈迦様は 涅槃に入ら
れ お隠れになられても、私たちの胸の中に 教えとして
生き続けておられ、導いてくださっている」と詠われてい
ます。

2月15日は 仏教徒にとって とても大切な日の一つ、
お釈迦様が お亡くなりになられた お涅槃の日です。

近くのお寺で あるいは お家のお仏壇でも 構いません
ので お釈迦様に 感謝の気持ちを込めて 心から 手を
合わせ お参りください。

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2014/01/21~31   布施の心

講師 愛媛県 泰平寺 星野隆信師

あの東日本大震災から 3年の月日が流れようとしていま
す。

被災地では、いまだに大勢の方々が不自由な生活を送って
いらっしゃると聞いておりますし、福島では放射能汚染と
いう大問題を抱えています。

まだまだ、本当の復興という日は 遠いのかもしれません。

発災当時、日本のみならず、世界中に支援活動の輪がひろ
がりました。自ら現地に赴きボランティア活動をする人。
お菓子やおもちゃを我慢して募金した子供たち。いままで
考えもしなかった節電に努める若者たち。さまざまな報道
を耳にいたしました。

あれから3年が経ち、テレビや新聞が報道しなくなりつつ
ある今でも、被災された人々の為に今自分のできることを
と、地道に支援活動を続けておられる方々が大勢おられま
す。

ある雑誌に、発災当時の被災地と2年後の整備された写真
を見比べた、インドの男性のコメントが掲載されておりま
した。

「1945年、広島と長崎に爆弾を落とされたときはどう
だったか?全土が荒廃した中、彼らは15年後にあらゆる
分野で世界をリードしていた。そこには、無私の献身があ
ったからだ。今回も同様に、日本と日本人がこの2年間で
どれほど困難を乗り越え、団結して素晴らしい国にしたか
考えると称賛に値する。2年という期間は非常に短いもの
であったが、彼らは、献身と奉仕の強さを見せてくれた」

この記事を読んで、私は何か誇らしい気持ちになりました。

無私の献身、すなわち私欲を捨てるということ。それは、
人を思いやる心です。

この、人を思いやる心こそ「布施の心」に他ならないので
はないでしょうか。

布施とは、物でも心でも惜しみなく分かち合うということ
であり、見返りを求めることなく、互いに生かしあう生き
方であります。

我々は一人で生きているのではなく、周りの人々と共に生
かされております。ですから、自分さえよければという考
えではなく、物でも心でも分かち合って共に生きていくと
いうことが大切なのではないでしょうか。

東日本大震災から3年が経とうとしている今も、被災地は
まだまだ復興半ばです。

これからも、人びとの悲しみや辛さに向きあい、寄り添い、
共に分かちあう「布施」の心を忘れずに、復興支援活動を
続けてまいりましょう。手を取り合って、共に生きてまい
りましょう。

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2014/01/11~20   変わる ~諸行無常~

講師 高知県 善教寺  伊藤和人師

ガリバー旅行記の作者ジョナサン・スウィフトは「この世
で変わらないのは、変わるということだけだ」という言葉
を残しています。

この「変わる」という言葉が気になって、色々と考えてみ
ました。

現代では、ボールペンで書かれた横書きのハガキを見て、
「ボールペンで書くなんて失礼だ」とか、「日本語なのに
横書きはおかしい」などという人は、あまりいないのでは
ないでしょうか。

それどころか、「電子メールではなく、手書きのハガキを
くれるとは、なんて丁寧な人なんだろう」などと、感心さ
れたりするのではないでしょうか。

日本では古来、正式な文書には筆を使うものとされていて、
インクが到来しても、しばらくは万年筆やペンで書かれた
ものは略式であるとされていたそうです。

ボールペンが流通するようになった頃には、ボールペンで
手紙を書くのは失礼な事とされた時代がありました。

さらに、ワープロやパソコンが出現すると、正式なものや
心のこもった文章などは、手書きにするべきだと言われま
したが、今や、ビジネスでも私生活でも電子メールがあた
りまえになりました。

ところが、面白いものです。

このまま筆記用具も不要の時代が来るのかと思いきや、手
書きには手書きの良さがあるということで万年筆が見直さ
れ、静かなブームになっているのだそうです。

これこそまさに「諸行無常」。

生活も、常識も、そして私達自身も、さまざまなことが時
とともに移り変わり「変わらないものは、ない」というこ
となのですね。

変わること、変わりゆくことを、厭うことなく恐れること
なく、一日一日を大切に過ごしてまいりましょう。

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2013/12/21~31   年の瀬を迎えて

講師 愛媛県 慶正寺 長岡一路師

私が住職を務める寺は街中にありますので、道路沿いの歩
道の掃き掃除は、人通りの少ない早朝にしています。

現在はようやく桜の落葉が落ち着いたところですが、ここ
暫くは連日、落ち葉の掃除に追われていました。

なんでこうも遠慮なく多くさんの葉っぱをちらせてくれる
のだと、時に自然を相手に起こしても仕方のない愚痴が浮
かんできますが、そのような折には、お釈迦様がお弟子の
パンタカに、修行として掃除をすることだけを命じられた
エピソードを想い起こし、これも大切な修行なのだと竹箒
を動かしています。

無心に打ち込めるほどには未だ熟さぬ身ですが、時折通過
する車や、人々の生活の音、散歩やジョギングの足音、そ
して箒の音を聞きながら、あれやこれやと浮かんでくる想
いを愉しんだり、時には歯がゆく思ったりしながら過ごし
ています。

さて、十二月八日は私たち佛教徒にとって、とても大切な
日です。

何の日かと申しますと、今から約二千五百年前のこの日の
早朝、お釈迦様が明けの明星をご覧になりお悟りを開かれ
た日、佛教が誕生した日なのです。

今年の十二月八日の明け方は、あいにく曇っていて、明け
の明星は見ることが出来ませんでしたが、二千五百年前の
大いなる出来事と、今毎日のように耳にする嫌な事件など
とを比喩したような言葉に出会いましたので御伝えして、
今年最後となりましたお役を降ろさせて頂きたいと思いま
す。

「風に舞う落ち葉の下に、しかと大地有り」
それでは皆様、よいお年をお迎えください。

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2013/12/11~20   成道会に因んで

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

お釈迦様は遠くインドで 十二月八日、明けの明星を見た
時に おさとりになられました。

私ども人は、多かれ少なかれ お釈迦様のみ教えを頂いて
おります。

では、平成の世を生きる私どもは どのようなことをさと
らねばならないのでしょうか。

「さとり」とか「さとる」と言うと、難しいでしょうか?

では、簡単に申しましょう。人生山あり谷あり その山あ
り谷ありの人生を いかに正しく歩んでいくかに気付いた
のです。

随分昔の話なのですが、ある地域で「母子家庭の大会」が
あり、その折に発表された詩であります。『栗ごはん 栗の
無いのが 母の分』

そう、その詩を詠んだのは一人の少女でありました。

その少女、幼い頃、父親を事故で失ったのです。当然、残
された母親が 女手ひとつで四人の子供を必死に育ててま
いりました。

ある年の秋も深まった夕暮れ時、仕事から帰った母親が、
今日学校で何があったの?お友達とどんな遊びをしたのか
な?それぞれにお母さんとの話に花を咲かせながら、夕餉
を作り始めるのです。

その夕餉は美味しそうな栗ご飯でした。次々と姉弟の分が
名々の茶碗にホクホクとした栗ご飯が盛られていきます。
いつも最後のお茶碗がお母さんのです。

そのお母さんのお茶碗には一粒の栗も入っていなかったの
です・・・。

その時には、何も考えずに子供たちは喜んで食べたに違い
ないと想像しています。ただ、子供たちは気づいていたは
ず・・・。

その情景を数年経って思い出して詠った詩であると思うの
です。

母親というものは悲しいかな・・・自分が食べずともすべ
て子供に分け与え、そこに喜びを感じておられたのであり
ましょうね。

その母の思いを深く推し量り、それが母への感謝となって
この詩を詠ませたのだと確信しています。

お釈迦様は示されます。「自分のことはさておき周りの人
に思いを馳せよと。

自分だけが、自分さえ良ければではいけないというのであ
ります。

果たして、平成の今を生きる我々、このお釈迦様の考え方
が実践出来ているでしょうか?と、問いたいのです。

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2013/10/21~31   只管打坐~しかんたざ~

講師 愛媛県 雲祥寺 林 尚文師

平成十四年の春のこと。私は、修行のため専門僧堂と呼ば
れるお寺の山門に立った。

小雨の降る中、二時間ちかく立っていた。寒さと緊張の中
で、足が震えていたことを今も思い出す。

知客(しか)というお役の方がやってこられ、私を含めた
四人に「あなた方は、ここに何をしに来たのか」と問われ
たしか「私は四十歳になるが、恥ずかしながらお寺のこと
を何も知らない。これから寺を継ぎ、寺を守っていくため
に必要なすべてを学ぶためにここに来ました」と、答えた
ように記憶している。

そして、私の修行は始まった・・・。

小説風な文章になってしまいましたが、今でも思い出す光
景なのです。

この修行があったからこそ、今の自分があるのです。

ある日の坐禅中、堂頭老師(注)から「只管打坐。これは
ただひたすら坐るという意味です。この僧堂に来たからに
は、一日のすべてが修行です。食事をいただく時も、ただ
ひたすらにいただく。掃除も、トイレも、そして寝る時も
ただひたすらに行じるのです。その時その時を大切にし、
決して無駄にしてはいけないのです。一所懸命に物事に打
ち込んでいる姿はとても美しい。その姿は、子供であろう
が、大人であろうが、仏さまのように尊いものなのです」
というお話をいただきました。

このお言葉は、今でも自分の生活で忘れてはいけないこと
だと思っています。

私ども曹洞宗のお経である『修証義』に「光陰は矢よりも
迅やか(すみやか)なり、身命は露よりも脆し(もろし)」
とあります。

この限りある命を、限りある時間を、無駄にせず、目の前
に起こる物事を決して後回しにせず、ひとつひとつ、ひた
すらに行じていきたいものです。

(注)堂頭老師(どうちょうろうし)=お寺の住職の尊称

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2013/09/21~30   今日彼岸、菩提の種をまく日かな

講師 愛媛県 泰平寺 星野隆信師

早いもので、猛暑といわれました夏も終わり、秋のお彼岸
の季節となりました。

「彼岸」とは、向こう側の岸、つまりお悟りの世界という
ことです。

我々が住んでいる苦しみや悩みの多い世界を、こちら側の
岸「此岸」と申します。

お彼岸とは、お浄土にいらっしゃるご先祖様に感謝して、
ご供養するとともに、自分自身も、仏様のお教えを実践し
て、少しでもお悟りの世界へ近づこうと、仏道修行する日
でもあります。

お釈迦様は、悟りの岸に渡るために、六波羅蜜という六つ
の仏道修行の実践をお示しです。

六波羅蜜とは「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」
「智慧」の六つです。

「布施」とは、物でも心でも惜しみなく、見返りを求める
 ことなく 人に施すことです。
「持戒」とは、規則や約束を守るということです。
「忍辱」とは、怒りや苦しみに耐えることです。
「精進」とは、怠ることなく努力する事
「禅定」とは、心を乱さないこと
「智慧」とは、仏様のお教えを守り、正しい考え、判断を
 することです。

我々が生きている「此岸」は、苦しいことや悲しいこと、
自分の思い通りにならないことが たくさんあります。

しかし、毎日の生活に不平不満ばかりで、自分勝手なこと
ばかりしていると、到底、悟りの岸へは渡れません。

「今日彼岸、菩提の種をまく日かな」

彼岸を迎えるにあたり、今、命あることをご先祖様に感謝
し、お釈迦様のみおしえに耳を傾け、そのみおしえを実践
し、菩提という、清らかな悟りの花を咲かせましょう。

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2013/09/11~20   お彼岸によせて 

講師 香川県 見性寺 北口善則師

仏法僧を敬うや否や
常に坐禅を好むや否や
老を敬い幼を慈しむや否や
父母生育の恩に答うや否や
師友の訓導に酬ゆるや否や
古教に心を照らすや否や
禅苑清規より

水不足・ゲリラ豪雨・竜巻と、なんでもありの気候が続い
ております。

わたしたちは、これを異常気象という言葉で片付けてしま
っているようです。

しかし、本当に異常なことばかりが 突然起こっているの
でしょうか?

今一度 ご自分の周りを良く見渡してみてください。

目にみえるもの、肌で感じられることは、すぐにおかしい
と気が付きます。

けれども、それ以外のことは まるで何事もないかのよう
に いつもの通りと 見過ごしてしまいます。

この見過ごしが、いつか異常なこととなっていくのです。

そして、それに気づいたとき、わたしたちはどう対処して
いけばいいのかに 悩んでしまうのです。

今、わたしたちは何を思い、何をしなければならないか、
立ち止まって考えることが大事なのではないでしょうか。

冒頭の言葉は「禅苑清規」の一節です。

ごく当たり前のことのように思えます。

目にみえない、肌で直接感じられない、ただただ通り過ご
してしまいそうなことのようです。

ところが、それを見過ごしてしまえば 後に悔いを残すこ
ととなるでしょう。

お彼岸がまいります。

なんでもありの生活から、ちょっと待てという気持ちで周
りを見渡してみてください。

きっと、たくさんの異常なものが目に見えてくることとな
るのではないでしょうか。

良いお彼岸の期間を 迎えられることを ご祈念申しあげ
ます。

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2013/08/11~31   施食会~せじきえ~

講師 愛媛県 少林寺 宮本寛司師

先日、私のお寺で施食会を行いました。

「これで法要を終わります。」と言うと、何か訴えるよう
な目で 私を見ている参拝者がおられました。

そこで「何かご質問はありませんか?」と問いかけたとこ
ろ、一人の方が「お食事は 本堂でしょうか?庫裏でしょ
うか?」と尋ねられました。

法要の案内には、施食会の意味を書いて ご案内をしてお
ります。しかし、親類の中には、案内状を見ずに来られる
方も多く、施食会とはお寺が参拝者に食事をふるまう会で
あると思っている方も おられるのです。

そこで私は
「施食会とは、施餓鬼会(=せがきえ)とも言います。餓
鬼道にあって苦しむ全ての方々に食物を施して供養する法
要です。食事のときに生飯(さば)と言って、御飯のひと
つまみを餓鬼に施す事からきています。このお供えは、今
でも僧侶の修行の時などに行われています。
本日は、皆様にもそれに習って、たくさんのお供物をお供
えいただきました。
施食会は、本堂の入り口に施食壇をしつらえて供養する法
要で、お盆の前後に行われることが多いようです。
皆様はこの時、供養の功徳を我が家で先立った方や御先祖
に回らし、また、その他の幸薄かった精霊が迷うことなか
れとお塔婆を添えるのです。」と説明しました。

現在、飽食の国、日本。栄養上の飢えはないかもしれませ
ん。しかし反面、精神的飢餓は 際限なく広がりつつあり
ます。心に痛みや病を抱える人のいかに多い事でしょう。

今、心の枯渇状態を少しでも軽減することが仏教の役割で
はないでしょうか。

施食会のようなお寺での行持を通じて、皆様とともに仏様
の教えを学び、心の癒しの機会になればと思います。

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2013/08/21~31   親孝行の第一歩

講師 愛媛県 龍泰寺 舛田豊範師

ある夏の日 お釈迦さまの処に
『先生 先生・・・目連でございます』~目連とは、釈迦
十大弟子の一人で 神通第一と称された 目連尊者です~
『お釈迦さま、お願いがあって参りました。亡き母が餓鬼
道へ落ちて、お腹がすいてご飯を食べようとすると ご飯
に炎が上がって ご飯を食べる事ができず、のどが渇いて
水を飲もうとすると 水が一気に煮えたぎるお湯になって
しまって、水を飲むことができず、苦しい苦しい思いをし
ております。何とか、あの苦しい餓鬼道の世界から助け出
すことは出来ないでしょうか?』と目に涙をいっぱい溜め
て申しました。

お釈迦さまは静かに
『それはお気の毒な事ですね。あなたのお母さんはとても
やさしい方でしたが、たった一度だけ、あまりにも忙しか
ったので、戸口に来て食べ物を願った方に つい施しを忘
れた事がありました。それで餓鬼道へ落ちたのでしょう。
お母さんを餓鬼道から救うには、大勢のお坊さんにお願い
してお勤めをして貰い、その力であなたのお母さんだけで
なく、餓鬼道で苦しむ全ての者たちを救う外はない。幸い
今は雨季のため、私の弟子達が精舎に集まって修行してい
るから、お願いしてごらん』

目連さまは、お釈迦さまのお弟子さま一人一人に『どうか
亡き母のために、お勤めをしてください』と頼みました。

お弟子さま方は、目連さまのお母さんの為に丁寧にお勤め
を致しました。

お勤めをする精霊棚には、畑で採れた野菜や色々な果物が
供えられ、赤々と明かりが灯されました。お経の声は精舎
一杯に響きわたりました。

このお勤めによって、餓鬼道の世界で苦しんでいた目連さ
まのお母さんを救い出す事が出来ました。この目連さまの
親思いの気持ちにはみんなが感心したということです。

この故事が『おぼん』の始まりといわれ、雨季から乾季に
移る頃に『おぼん』といって、亡くなったおじいさんやお
ばあさんや、ご先祖の方々をおまつりして、お勤めをする
ようになりました。

親孝行の第一歩は先祖供養から。皆さんのおうちでも御仏
壇をきれいにし、瓜や茄子を供え燈籠にあかりをつけて、
亡くなられた方をおまつりしてください。

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2013/07/21~31   布施の行い

講師 愛媛県 観音寺 上本英昭師

人は生きておりますと 他の人がとても気になるものです。

人の至らぬ点はよく見え、ひそひそと蔭で口にします。反
対に良い所はというと、それを心なしか否定をし、言葉に
すらしない。挙げ句の果てには、陥れようとしたりもしま
す。

この世の中には、そのようなことが蔓延しているかもしれ
ません。ときには「自分も誰かに、何か言われているので
は?」と考えがちになったりします。そして、同じ意見を
持つ人々とだけ徒党を組もうとしたりもします。

こんなお話があります。

ある時、お釈迦様が説教をしている所へ、バラモンがやっ
て来て連日のように罵倒するのです。

お釈迦様は怒ることなく「バラモンよ、あなたは親しい人
が家に来れば御馳走するか?」と問います。「当たり前だ」
とバラモン。「 では、その客が食事を受け取らなければ、
それは誰のものか?」とお釈迦様は更に問います。「食べ
なければ、それは私のものだ。当然だ」とバラモン。「で
は、あなたの悪言を私は受け取らない。よって、悪言はあ
なたのものである」

この言葉にバラモンは改心し、ついにはお釈迦様のみ教え
に帰依したのでした。

私たちは、日常生活の中で、身と口と心を整えていくこと
を本当に大切にせねばなりません。

それが、人として生かされている私たちの基本だと思うの
です。

無常という我が人生を生き抜く中で、他に向けた良し悪し
の心持ちは、結局のところ、自分自身が受け取るという真
理があります。

真の幸せとは、自他ともに幸せであることにほかなりませ
ん。

真の幸せを心から願うとき、自ずと慈愛に満ちた言葉が出
てくるものです。慈愛の言葉には、自他ともに人生を豊か
にする力があります。

『 真心の施し』『言葉の施し』『笑顔の施し』など、人を
思いやる『布施の行い』が、我が心を豊かにするのです。

ところで、あなたはまだ人の欠点が気になりますか?それ
は、映す鏡で、自分自身かもしれません。

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2013/06/21~30   花まつり

講師 愛媛県 観音寺 三好真人師

こんにちは。今日は「花まつり」についてお話をしたいと
思います。

以前にもお話ししたかもしれませんが、今回は、違った側
面から、お話しをさせていただきます。

「花まつり」というのは、4月8日に行われる、お釈迦様
のお誕生日のことです。

私の寺でも、兄や、近隣のご住職様方にお手伝いをしてい
ただいて法要を行いました。

さて、ここでひとつの疑問が生じませんか?

「私の兄や、他のご住職様方のお寺では、花まつりはどう
したの?」ということです。

時間をずらして対処するという方法もありますが、地域に
よっては、旧暦の4月8日もしくは、月遅れの5月8日に
行うお寺もあるそうです。

それは、何故なのでしょうか?

「花まつり」のときは、お釈迦様をお祀りする御堂の屋根
の部分を、春に咲く花々でお飾りします。私が子供の頃は
兄と一緒に花摘みに行ったものでした。

ところが、地域によっては4月上旬では、まだ花が少なく
御堂の屋根をお飾りすることが出来ません。

そういった理由から、月遅れの5月8日に「花まつり」を
行っているのだと伺いました。

皆さんにとって仏事というと、亡くなった方のご供養とい
うことが先ず頭に浮かぶのではないでしょうか?

しかし、「花まつり」は、お釈迦様のご誕生を祝う行事な
のです。

だからこそ、お祝いのためのお花を必要とします。それも
その季節に咲いている自然の花です。

春の訪れが遅い地域では、春の花が咲くのを待って5月8
日に行うのだそうです。

この「花まつり」は、宗派の別は関係ありません。この時
季が訪れたら、ご近所のお寺に足を運んでみて下さい。

「花まつり」は、全ての仏教徒にとって大切な行事なので
すから。

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2013/06/11~20   一切衆生 悉有仏性

講師 愛媛県 渓寿寺 金岡潔宗師

今年も お寺の境内では 午後の8時頃になると 小さい
明かりが いたる所で飛んでいます。

そうです。今年も ホタルが 境内を自由に飛びまわって
夏の訪れを告げています。

こんな話を聞いたことがあります。

江戸時代の俳人 小林一茶が「やれうつな 蠅が手をする
足をする」と詠んだところ、その句に対して、良寛さんの
父親である橘以南が「そこふむな ゆうべ蛍の いたあた
り」と詠んだということです。

小林一茶の生涯は ご存知のように 困難の連続でした。

52歳で結婚し、長男、長女、次男、三男と4人の子供が
生まれましたが、幼くして亡くなり、妻もまた、37歳の
若さで亡くなりました。

そんなことから 小さな生きものへの愛情や こまやかな
心が培われたのでしょう。

植物はもちろん カエルやホタルなど みんな精一杯 頂
いた命を生きている。ということを詠んでいるように感じ
ます。

ホタルは成虫として 1週間から2週間の命だそうです。
はかない命です。

私は 師匠から「万が一 小さい虫などを殺してしまった
ら、南無三宝・南無三宝・南無三宝と唱えなさい。すべて
のものは、みな仏のいのちが具わっているのだから。」と
教わりました。

お釈迦様は「生きとし 生けるものに 生命(いのち)あ
る」ことを説かれ、説法の旅においても 虫を踏み殺すよ
うなことを厳しく戒められました。

すべてのもの皆が かけがえのない命を 精一杯生きてい
ることを 今一度 考えてみたいものです。

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2013/05/21~31   限りある生命(いのち)

 
講師 愛媛県 西光寺 中川光真師

「ヤァー!メーン!コテー!ドォー」道場の中に響き渡る
剣士達の声。

思い返せば、今から十数年前、私は 夏の暑い日も、冬の
寒い日も、毎日が練習。そして、休日には 試合に明け暮
れる日々を 過ごしておりました。

長かった剣道時代も ついに卒業を迎え、剣道仲間もそれ
ぞれの人生を 歩む事となり、しばらく 会えない日々が
続きました。

皆、どうしているだろう。元気でいるのかなぁ…。そんな
募る思いを胸に、私は修行を終えて、久々の故郷へと戻り
ました。

地元に残っていた友人の中に、当時道場の主将をしていた
親友とも再会し、昔話に花を咲かせました。

月日がたち、地元での暮らしにも慣れてきた頃、親友が仕
事の為、県外へと赴任する事になってしまいました。

「しばらく会えないが、お互い元気にまた会おう」と約束
して今度は、私が見送りました。

ところがつい先日、親友の父親から「息子が事故にあった」
と深夜連絡があり、私は急いで彼の元へと向かいました。

しかしながら時すでに遅く、彼は息を引き取っていました。

「起きてくれ!声を聞かせてくれ!また会おうと言ったじ
ゃないか!…私は何度も何度も彼に呼び掛けましたが、応
答はありませんでした。

後日、私が葬儀を執り行わせて頂き、彼は浄土へと旅立っ
て行きました。

お釈迦様は お言葉の中で「諸々の事象は 過ぎ去るもの
である。怠る事なく修行を完成せよ」とお示しになってお
られます。

つまり、人は誰でも愛する人、大切な人をいつかは失い、
永遠に関係が続くということは あり得ない。人は、何か
を得ると喜びが生じ、そのものが変化すると 苦しみが生
じ、消滅してしまうと 悲しみが生まれる。人生はこの様
であるから、常に心を落ち着かせ、安定できるよう修行し
ておかなければならないとお教えになっておられます。

限りある生命を大切に、一日一日を大切に、亡くなった人
の為、これから共に歩む人の為に、有意義な人生をお送り
下さい。皆様の将来に幸あらん事を。

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2013/05/11~20   仏さまとの言葉のないやり取り

講師 香川県 南隆寺 大石光昭師

早くにご主人を亡くし 月参りを数十年続けているお宅の
おばあちゃんが「色々迷った時は 必ず仏さん(ご先祖さ
まや 亡くなったご主人を指すのでしょうか?)に聞いて
みるんで。仏さんは なんも言わんけどな…。」と、いつ
も そうおっしゃいます。そして、「でも、仏さんは 間
違うたことは言わんなあ。」

そんなおばちゃんは 暑い日には そっと窓を開けて下さ
り、寒い日には 何気なくストーブを 私の方に向けてく
ださいます。何も言わなくとも ちょっとした仕草や表情
で 私の気持ちを くみ取ってくださいます。

今、世間のようすを見ますと「自分の考えをシッカリ相手
に伝えよう。思いを・気持ちをハッキリ言葉に表わそう。
言葉にしなければ 分からない。」そんな考えが主流です。

確かに それも大事なことでしょうが、ついつい行き過ぎ
て 言葉をぶつけたり、考えを押し付けたりしていないで
しょうか。

言った者勝ち。言わなきゃ損。一億総言いたい放題。そん
な風潮が ストレスを 増大させているようにも思えます。

私たち日本人の祖先は 長い長い歳月の間 事あるごとに
神さまにお伺いを立て 仏さまに心を打ち明け 様々なこ
とを 判断してきたのだなと思います。

何もおっしゃらない仏さまの前で 何をくみ取ってきたの
でしょう?何をしてきたのでしょう?それは 自問自答の
中で 自分を見つめて 見つめて 見つめ切ってきたので
しょう。

いにしえの人たちは 何も言わずうつむき坐っている人の
心を くみ取り合ってきたのです。

何も言わず 悲しみにくれる人のそばに 何も聞かず 寄
り添うことが出来たのです。

何も言わず 寄り添ってくれる人の心に 気付いた時、言
葉にできない安心と 喜びを覚え 救われたに 違いあり
ません。

そのような心は やはり仏さま ご先祖さまとの 言葉の
ないやり取りから 培われたに違いありません。

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2013/04/21~30   昨日と同じ様でも 違う今日

講師 愛媛県 安穏寺 島津雄児師

少し前の話になりますが、お檀家さんのお葬儀のお勤めを
し 続けて 友人の結婚式に出席するという経験をしまし
た。

一日の間に 悲しい別れの日と 喜びの門出の日に立ち会
い 少し考えました。

今この瞬間にも 亡くなった人がいて 結婚した人がいて
また新たな生命の誕生があるのだろう・・・

今日 地球上で生きている人が全員 明日も生きているこ
とはないだろうし 今日 地球上にいない誰かが 明日に
は生きている・・・

そんな事を考えていると 今と同じ状況は今しかなく こ
の一瞬が かけがえのない一瞬なんだと 痛切に感じられ

「昨日と似たような今日だが
 昨日とは違う かけがいのない一日
 きのうと同じように過ごしてよいのか!?」

と 鋭く問われているような気がしてきて なんだか気が
焦ってきてしまいました・・・

昨日と同じ様でも 違う今日
今日と同じ様でも 違う明日

昨日は怠けても 今日は頑張る一日にできる
今日は失敗しても 明日は成功の一日にできる

そう信じて 焦らずにやっていこうと思います。

先ずは坐禅で、姿勢を調え、息を調え、心を調えて・・・

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2013/04/11~20   如来は法をもって誘う

講師 愛媛県 掌禅寺 内藤卓洲師

4月8日はお釈迦様のお誕生を祝う「花まつり」でした。

お釈迦様は30代半ばでお悟りを開かれて、80歳で入滅
されるまで、長い間インド各地を伝道し布教して回られま
した。

お釈迦様の45年間に亘るお説教の旅は、決して平坦な道
のりではなくて、特にその初期には多くの困難があったよ
うです。

ある時には、お釈迦様は人々から「人さらい」のように非
難されました。「わが子を奪われた」「夫を奪っていった」
「家を断絶させた」等々です。

こうした非難は、大事な息子や夫がお釈迦様の教えを聞い
て発心し、出家し修行の道に入ったために、残された父母
や妻から起こった抗議の声でした。

この人たちは、お釈迦様に自分の大事な人が一方的に奪わ
れたと感じたのでした。

残された父母や妻たちが集団でお釈迦様の元に来て、息子
や夫を取り戻そうとしたこともありました。

そうした時、お釈迦様はただこのように答えられたそうで
す。
「如来は法をもって誘うに、法に来たるを嫉むものは誰ぞ」

真理の法によって立つ自信と、真理の法に基づく伝道に対
する妥協のないお釈迦様の立場が示された言葉です。

やがて、お釈迦様が不当な方法や目先の利益によって弟子
たちを誘っているのではないことが多くの人々に理解され
ていって、このような抗議や非難の声は消えていったそう
です。

さて、今年の桜の季節も終わりました。

私が住職させていただいている掌禅寺には、樹齢300年
とも400年とも言われる「金龍桜」という立派な一本桜
があります。

彼岸桜ですので、春のお彼岸あたりから咲き始めます。桜
の開花に合わせて、境内にはたくさんの花見の方が訪れる
ようになります。

この時期ばかりは、普段は静かな境内も一日中誰かが散策
しています。花には小鳥が蜜を求めて集まり、境内は鳥の
声で溢れます。

お釈迦様は法によって誘いましたが、こちらはただ花の美
しさによって人々を誘ってくれています。

お寺の境内に桜の古い巨木があるということは、歴代の住
職がそれなりに護ってきたわけです。

桜の木を囲む境内の雰囲気が自然に教えを説いてくれてい
るようにも思います。

住職の不徳を補って、多くの人々を誘い集めてくれる桜の
樹の存在をありがたく思います。

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2013/03/11~20   皆、ともどもに春彼岸

講師 愛媛県 長命寺 清水昭信師

三月の声を聞いた途端、春一番の気象宣言が出されまし
た。西日本は台風なみの雨風が吹き乱れる一日となり、
北日本では暴風雪となるなど、想像を絶する状況に自然
の猛威に恐怖を感じます。

昭和三十八年の豪雪も歴史的に語りつがれていますが、
この冬の青森県・酸ケ湯温の積雪566センチは、記録
に残ることでしょう。

自然環境の異常な変化による災害もさることながら、こ
の数か月の間にトンネルの天井崩落、ナイジェリア人質
テロ、グアムでは痛ましい殺傷事件、エジプトでは気球
墜落事故が起こり、国内外をとわず尊い命が奪われ失わ
れました。親族の方々の心情を思うと本当に心が痛みま
す。

平成二十三年三月十一日、想像を絶する大地震が東日本
に発生しました。亡くなられた方が(15、880名)
行方不明の方(2、694名)という大災害をもたらし
ました。

本年で災害後二年が経過しました。復興支援の取り組み
は進んでいるものの、実状は大変厳しい状況です。
このような状況の下、ある被災地の仮設住宅に一人慎ま
しく住まわれている、七十歳の男性がおられます。
その方は、数年前に耐震性に勝れた近代的な住宅を新築
され、奥様・長男夫婦・お孫さんとの五人暮らしをされ
ていました。

大震災の当日、ご自身は不在でした。奥様をはじめご家
族は、二階に非難されましたが、津波は非情にも四人の
命を奪い去ってしまったのです。

仮設住宅での一人暮らしを余儀なくされてから二年の月
日が流れた今、少しずつ気持ちも落ちつき、小さくても
良いので亡き家族と共に住める家を建てたいという心境
に成られたとのことです。

テレビ画面に映し出された、お墓を清める男性の姿。愛
しげに抱かれたお孫さんのオレンジ色のランドセルがと
ても印象的でした。

しかし、被災者の方々、皆さんが、この男性の様に自分
自身で希望のひかりを、心の支えを見いだせるわけでは
有りません。

今後の生活支援を考えるとき「心のケアサポート」の継
続性をもった支援活動の必要性と大切さを思います。
今月は、春のお彼岸です。十一日には福島市に於いて、
東日本大震災三回忌追悼慰霊・復興祈願法要が営まれま
す。また、各地でも追悼法要が行なわれます。ご先祖様
の供養とともに御霊の安らかなることを祈りたいもので
す。

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2013/02/21~28   行(ぎょう) ー非思量ー

講師 香川県 寶光寺 加部弘元師

まだまだ寒い日が続いておりますが、暖をとって家に
籠ってばかりになってはいませんか?

じっとして動かないでいると、何も為さずに時をむな
しく過ごしていると感じることはないでしょうか?

禅の教えでは、生きる事そのものが修行であり、大切
な行事です。ですから、一所懸命に生きること、三昧
(ざんまい)の行いが良いのです。

三昧とは「頭を使うな、からだ全体でやりなさい、そ
のものになりきりなさい」という、我(が)を捨てた
「身心一如」の集中状態に入ることです。

私たちにとっては、「三昧」「なりきること」「行」
が大切なのです。

「行」とは「行なう」ことではありません。「行なう」
と云うと意味を求める動作になってきます。計算の入
った、善し悪しを考える、頭の中の概念の世界になる
のです。

たとえば、禅の教えにおいて「読経」は「お経を読む」
ことではありません。お経を読むというのは、お経を
理解するということです。

大切なのは、お経を読むことではなくて「お経を行ず
る」ことなのです。「読経」は一つの「行」ですから
身体で行ずるのです。「読経」がそのまま、命の行に
なるのです。

何事も、頭で考えて余分な計らいを持ち込むとうまく
いきません。ひとつのことに集中して、それを行ずる
ことが良いのです。「なんで」「どうして」などと考
えると、それをすることに「満足」できなくなります。

一日の終わりに「ああ、今日も良い一日だったな」と
思えることが、一日を行ずることであり、満足のでき
る生き方なのです。

「寒い」「暑い」は、それを為さない理由にはならな
いのです。それを理由にして怠けることが「正しく生
きる」ことを妨げるのです。

理由など考えず「三昧」に「行」をする生き方こそ、
今この時を大切にする生き方であり、尊い命を大切に
する生き方なのです。

せっかく今ここに生きているのですから、「満足」の
ある生き方を歩んで下さい。それこそが「命」の証明
なのですから。

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2013/02/11~20   和顔愛語

講師 香川県 祥福寺 木山良宗師

年度末が近いせいでしょうか、道路工事や水道工事など
公共施設の工事が目につきます。

つい先日も、お檀家さまへと向かう途中、何やら渋滞し
ています。どうしたのだろう?と思っていたら、やはり
道路工事でした。

動いては止まり、また動いては止まり。

それでなくとも、月末と雨降りが重なって、道が混んで
いるのに…と思いながら、待つことしばし。

ようやく白旗に変り、車が動きだしたときです。

警備員さんが旗を振りながら、笑顔で「ありがとうござ
いました!」と挨拶をしてくれたのです。

さして長い時間ではないはずですが、それでも、思いが
けず赤旗で車を停められると、長いこと待たされたよう
な気になるのが人情。ほとんどのドライバーは仏頂面を
していたはずです。

けれども、警備員さんの笑顔と挨拶が、それまでの急い
ていた気持ちをフッと軽くさせてくれ、思わずこちらも
笑顔で会釈を返して通り過ぎることができました。

おそらく、あのときあそこを通った人は皆、そんな気持
ちになったのではないでしょうか。

お経の一節に「和顔愛語=わげんあいご」すなわち「和
やかな顔と思いやりのある話し方」という意味合いの文
言があります。

何かと暗い事件事故の多い昨今。先ずは、笑顔を心がけ
たいものです。笑顔は自分自身を照らし、周りを明るく
してくれるはずです。

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2013/01/21~31   人の温もり

講師 愛媛県 雲祥寺 林 尚文 師

新年を迎え、2月になりますと「えひめマラソン」が開
催されます。今回で51回目を迎えますが、市民マラソ
ンという位置づけになってからは、4年目になります。

私は、そんな市民マラソンのファンの一人です。実は、
もっと正確に言うと市民ランナーの一人なのです。

一昨年、マラソンに初挑戦をしたのですが、途中で足が
動かなくなり無念のリタイヤ。昨年は、その無念を晴ら
すことができました。

人生はよく、マラソンに例えられます。

スタートから42.195㎞は本当に長い道のりですが、
ゴールまでの間、いろんな経験をすることができました。

平坦な道、上り坂、下り坂に加え、追い風や向い風など
の気象の変化がありました。また、平坦な道であっても
苦しい時もあり、楽な時もありました。そして、それに
加えて、関門と呼ばれる時間制限等々・・・本当に、人
生と共通することが、たくさんありました。

そんな長い道のりの中で、大変ありがたかったことは、
沿道の声援です。

特に、折り返し地点を過ぎてからは、肉体的にも精神的
にも疲れが出てきます。

めげそうになる気持ちや疲れを取り払ってくれる力が、
声援にはありました。

寒空の下、ランナーたちは、沿道の声援やボランティア
スタッフの方々の「温もり」を感じながら走ることがで
きたことと思います。

私も苦しい意識の中で「多くの人達に支えられ、励まさ
れ、見守られながら走っているんだ」ということを肌で
感じることができました。

そしてそれは、正に人生においても同じなのだと気づく
ことができました。

沿道の方々のランナーを応援したいという気持ちは『布
施の心』であり、その行いは『利他の心』であり、何よ
りも「がんばれー!」という一声は『愛語』であったよ
うに思います。

私たちは、其々の人生というコースを走るランナーであ
ると共に、他のランナーを見守る応援者でもあります。

今年もそんな「人の温もり」を感じながらゴール目指し
て走りたいと思います。 

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2013/01/11~20   方丈記によせて

講師 愛媛県 慶正寺 長岡一路 師

年の瀬には政治が様変わりして、微かな期待とともに新
しい歳を迎えましたが、皆様にも良き年でありますこと
を祈念いたします。

さて、昨年は鴨長明が古典の名著「方丈記」を書き上げ
て八百年目にあたる記念の年であったということで、臨
済宗の僧侶で作家の玄侑宗久師も紹介をされていました。

そこで私も受験以来、久しぶりに再読してみましたとこ
ろ、高校生の時には味わえなかった人生への深い示唆を
感じることができました。

玄侑師は、その内容が現代日本の世相にそっくりで、震
災以降日本を覆っている混沌とした雰囲気の中で、どの
ように生きていけば良いかを教えてくれると述べておら
れます。

個人的に一番印象深かったのは、飢饉についての記録で
した。京のなかだけでも、捨てられたままの死体が多す
ぎて通行もままならず、臭いもひどかったとあります。
死体の数は四月と五月の二ヶ月の間だけで四万二千体を
超えていたそうです。実際に作者自身が数えたというの
も驚きですが、当時の京の人口の約半数であったという
ことも、想像を絶する事件だと思いました。

そして、他にも戦争など多くの難事を乗り越えて我が身
に命をつて得てくれた、ある意味、運の良い名も知らぬ
多くの我がご先祖のことが、いままでとは違った想いで
偲ばれて有り難く受け止めた次第です。皆様にも、この
機会をかりて紹介させていただきました。

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2012/12/11~20   本来の面目

講師 愛媛県 少林寺 宮本寛司 師

春は花 夏ほととぎす 秋は月
  冬雪さえて すずしかりけり (道元禅師)

本年も年末になり、衆議院解散・総選挙と慌ただしいう
ちに終わろうとしております。

しかし、世の中は変われども、毎年同じように山の木々
は彩り、枯れ落ち、そして、毎朝ごとに寒さが増してき
ております。

季節には季節ごとの装いや彩りがあります。

春には花が咲き、夏にはホトトギスが鳴き、秋には月が
美しく、冬には雪が深々と降り積もる。そのように季節
ごとにそれぞれの姿があるからこそ、その風光を道元禅
師は「すずしかりけり」と清らかで、あるがままの姿と
して詠まれたのでしょう。

それと同じように、我々人間の一生も若く生き生きとし
た季節、老いて力の弱くなる季節、喜びの溢れる季節、
悲しみに心塞がれる季節など、様々な彩りに包まれてい
ます。

しかし、そのような人生の季節を精いっぱい生きる姿こ
そ、清々しく美しいのではないでしょうか。
人の生死というものは「生来たらば生、死来たらば死」
であります。

道元禅師は先ほどの歌に「本来の面目」という題をつけ
ておられます。即ち、本来の在り方ということです。本
来の面目は、春は花、夏ほととぎすというように、常に
目の前にあるということでしょう。

とはいえ、現実の私たちの生活の中では、迷うことばか
りです。

そこで、大晦日には、お近くのお寺さんで除夜の鐘を撞
き、お参りをして迷いを払い「すずしかりけり」のお姿
で、新しい年をお迎えになってはいかがでしょうか。

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2012/11/21~30   緑に囲まれて

講師 愛媛県 西光寺 中川 光真 師

「よいさ、よいさ・・・もてこい、もてこい・・・」
秋のさわやかな青空の中、松山秋祭りが開催されました。

今年は日曜日だったということもあり、例年以上の担ぎ
手と観客の方々で大変にぎわいました。

私も、御神輿を担ぐようになって今年で六年。お祭りで
は、伝統の継承、地域の人々との関わり等、多くの事を
学ばせて頂いております。

中でも、地域の人々との関わりには、六年という短い間
ではありますが、一期一会の出会い、多くのご縁があり
ました。

一期一会の「一期」とは、人が生まれて死ぬまでの一生
を表し、「「一会」とは、ただ一度だけの出会いをいい
ます。

その為、一期一会を、一生に一度の出会いと解釈される
かもしれませんが、それでは、正確ではありません。

たとえ毎日のように会っていても、それは一生に一度の
出会いです。

なぜなら、そこには時間と空間が流れており、日々新た
な生があるからです。

二度と同じものはない人生だから、一瞬一瞬をどう生き
るかが大切なのです。

人間、一人では生きていくことは出来ません。

多くの人々とのおかげさまであり、協力、助け合いによ
って、出会いと別れを繰り返しながら生きているのです。

今ある命を大切に、人と人との繋がりを大切に、しっか
り自分自身の人生を歩んでいって下さい。

人生において定年はありません。老後も余生もないので
す。死を迎えるその一瞬まで、人生の現役です。

長いようで短い人生と思うか、その逆も又、しかり。

自らの人生を悔いなく、今までの出会い、そして、これ
からの出会いに感謝してまいりましょう。

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2012/11/11~20   生きているということ

講師 愛媛県 泰平寺 星野 隆信 師

時の経つのは早いもので、今年もひと月余りとなりまし
た。

地球が誕生した四十六億年前を一月一日とし、今現在を
十二月三十一日として、地球の誕生から現在までを一年
として換算してみますと、人類が誕生したのが、十二月
三十一日の午後四時ごろだそうです。

お釈迦さまがお生まれになったのが、何時ごろになるか
というと、十二月三十一日の午後十一時五十九分四十二
秒ぐらいになります。

そう考えますと、人の命を約一〇〇年と考えましても、
一秒以下ということになります。

光陰は矢よりも速やかに、人の命は露よりも脆しと申し
ます通り、我々は無常の世の中、限りある命を生きてお
ります。限りある命だからこそ、一日一日を大切に生き
ていかなければなりません。

作詞家の永六輔さんの詩に、

「生きているということは
 誰かに借りをつくること
 生きていくということは
 その借りを返してゆくこと
 誰かに借りたら 誰かに返そう
 誰かにそうして貰ったように
 誰かにそうしてあげよう」

という詩があります。

よく「子供には、人さまに迷惑だけはかけるなと教えて
きた」という人がいます。しかし、実際に迷惑をかけな
いで生きてゆくことはできません。

インドでは「人は迷惑をかけるもの、だから他人の迷惑
を許す心を養え・・・」と教えるそうです。

生きているということは、知らず知らずのうちに、周り
の人々や大自然から、たくさんの御恩を受けているとい
うことです。

道元禅師さまは「日日の行持、その報謝の正道なるべし」
とお示しになられております。

限りある命、感謝の心を忘れず、少しでも受けた御恩を
お返ししようと精進することこそ、お釈迦さまのお教え
する正しい道ではないでしょうか。

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2012/10/21~31   秋の彼岸を終えて

講師 愛媛県 観音寺 三好 真人 師

一般的に「暑さ寒さも彼岸まで」とよくいわれますが、
今年の秋彼岸は、正にそのままであったと実感していま
す。

台風16号の接近までは、うだるような暑さで、いつま
でこの残暑が続くのかと思いながら、彼岸入りを前にし
て墓地の掃除をしておりましたら、お檀家さんに声をか
けられました。

「和尚さんも台風が来るけん、早めに掃除かな?」
「はい、台風が通った後やったら大変やけん。」

考える事は同じなんだなと思いながら掃除を続けている
と、他のお檀家さんにも声を掛けられ、似たような会話
を繰り返していました。

できれば台風の被害が少なくて済むようにと願いながら
お彼岸に入り、そしてお中日を迎えました。

お檀家さんの思いが通じたのか、台風の被害は大したこ
となく、少しごみを片付ける程度で済みました。

私共のところは大したことはなかったのですが、大変恐
い思いをされた方々もいらっしゃるのではないかと思う
と、改めて自然の猛威の恐ろしさを感じました。

彼岸の時期というのは毎年決まっておりますが、自然の
猛威は我々の都合はおかまいなしです。

何気無く過ごしている日常の中でも自然と共生していく
には平生の備えがいかに大切であるか、かといって見え
ない不安にとらわれて生活を送るというのは負担が大き
いでしょう。

問題は被害にあった時、周りの人達といかに助け合える
か、物的被害よりも心の被害をどう支え合うか、そうい
う事を考えさせられた今年の秋の彼岸でした。

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2012/10/11~20   ダルマさん

講師 龍泰寺 舛田 豊範 師             

ダルマさんの絵柄は、掛け軸や団扇などに多く描かれて
います。

張り子のダルマは、置物や装飾品、更には選挙の時にも
縁起物として飾られます。また、雪ダルマや運動会のダ
ルマ競争などでも、とても親しまれて居ます。

張り子のダルマさんは、七転び八起きといって、倒して
も転がしてもすぐに起き上がります。

これは達磨大師がどんな苦難にも屈せずに、釈尊のみ教
えを広める為に、不撓不屈の強い精神力で苦難を克服し
切り拓いていったその不退転の気力にあやかっているの
です。

どんな失敗や逆境にもめげず挫折することなく何度でも
立ち上がって邁進しようという意味で最高に尊ばれ、親
しまれ、縁起物として愛されています。

達磨大師は、十七歳の時、釈尊より二十七代目のお祖師
様である、般若多羅尊者より菩提達磨という名前を授か
りました。

その後、お師匠様の命により、釈尊から代々受け継いで
きた真の仏法、正法と坐禅を、はるばる中国に釈尊のお
伝えになられました。

こんな逸話が残っています。梁の武帝が達磨大師に『私
はお寺も建てたり、僧侶を大切にしたりしている。これ
はどういう功徳があるか』と問うたところ、達磨大師は
『どれもこれも功徳にならない』とお答えになりました。

武帝にはこれだけの事をしたから、という自我心が働い
ていたのです。

達磨大師は、そうではなく、ただただ無心に黙々と善行
を重ねる深い心を持たなければいけない、とお諭しにな
られたのです。

この事を『無功徳』といいます。

この世の中は、権力・名誉などすさまじく、達磨大師の
お目から見たら、さぞ浅ましく思し召す事でしょう。

善行をするに当たって損得にとらわれず『廊然無聖』カ
ラッと澄みきった心で、ただ実行あるのみという生き方
ができたら、人生どんなにさわやかになるでしょうか。

その境地に少しでも近づけるよう努力を致したいもので
す。

※十月五日は達磨忌(達磨大師のご命日です) 

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2012/10/01~11   真心の味

講師 愛媛県 溪寿寺 金岡 潔宗 師

今、田んぼでは、たわわに実る稲穂が頭を垂れています。

稲は、八十八回の手を経て、おいしいお米になると言わ
れ、大自然の太陽や水の恵みはもちろんのこと、農家の
皆さんの尊い汗があって、はじめて美味しいお米になる
のです。

先日、あるスーパーで「不揃いなお米を使用して、とこ
とん価格を追求した商品です」というお米が売られてい
ました。

お米にも色々あるのでしょうが、そのどれもが、一つぶ
一つぶ、丹精込めて作られたお米であり、一つぶ一つぶ
の命があるのです。

私たちは、つい、安いとか高いとか、その物の価値を値
段で判断してしまいます。

けれども、すべてのお米には『真心』がこもっているの
です。

禅寺では、六つの味を大切にします。苦い、すっぱい、
甘い、しょっぱい、そして、淡い味です。

淡い味とは、どんな味をいうのでしょうか?

一口食べて、美味しいと感じる味ではなく、食べ終って
からじわじわと美味しさを感じる、素材本来の味、その
ような味を、淡い味というのです。

最近は、マヨネーズや激辛の唐辛子など、さまざまな調
味料をかてけ、素材本来の味や料理を作ってくれた人の
真心が分からなくなっている料理を多く見かけます。

長寿世界一の木村次郎右衛門さんの長寿の秘訣は「食細
くして命永かれ」で、元気の秘訣は「てんとうさんのお
恵みのたまもの」だそうです。

ただ単に食べ過ぎないという事だけでなく、食べ物をい
ただく時には、素材の生命をいただくという事、素材と
調理をしてくれた方の真心、さらに、その素材を丹精込
めて作った方の真心に感謝して食事を頂く事が、「食細
くして」ということに繋がるのではないでしょうか。

食欲の秋です。『真心』の味に感謝して頂きたいもので
す。

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2012/09/21~30   此の岸辺から彼の岸辺へ

講師 愛媛県 安穏時寺 島津 雄児 師

私たちの生きるこの世は、迷いや不安、煩悩に満ちた世
界といわれます。

試しに三分間、目を閉じて黙ってみてください。何も考
えずにいられるでしょうか?

驚くほど沢山の思いが湧いてきます。そして、小さな不
安、例えば「今日のお夕飯どうしようかしら・・・。」
などと気になり始めると、その事で頭がいっぱいになっ
てしまいます。

人は、毎日の生活の中で、目から耳から膨大な情報が入
ってきます。そして、それに合わせ、自分が認識してい
る以上に迷いや不安など、様々な思いを巡らせているの
です。

さて、いま丁度秋のお彼岸です。お寺の脇にも彼岸花が
咲きました。私たちの生きる迷いのこの世界を、此の岸
辺「此岸」と呼びます。対して、迷いのない穏やかな、
さとりの世界を、憧れを込めて、彼の岸辺「彼岸」と呼
ぶのです。

お彼岸は、さとりの世界に思いを馳せる時でもあります。

さあ、溢れる情報から少し自分を切り離し、坐禅で静か
な時間を過ごしてみましょう。

先ず、背筋をまっすぐに伸ばし、姿勢を調えます。次に
呼吸を調えましょう。丹田を意識し、鼻から呼吸をしま
す。力まず緩まず、穏やかな呼吸を行います。坐禅をす
ることに意識を集中していきます。

美しい姿で、気持ちの良い息をして、穏やかな心で坐る
自分をイメージしてください。彼の岸辺へと思いをはせ
てみましょう。

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2012/09/11~20   おじいちゃん死んでないんやなあ

講師 香川県 南隆寺 大石 光昭 師

この夏も格別な暑さの中、お盆の棚経で殆どのお檀家さ
んを回らせて頂きました。

短いながらも数百人の方と挨拶を交わし、お話をしたわ
けですから、最初のほうの方は何ヶ月も前にお会いした
ような、そんな錯覚に陥ります。

そんな中で、数年前に八十前のご主人さんが亡くなった
あるお檀家さんでの話です。

お参りが終わり、玄関から門の方へ奥さんと娘さんと三
人で話しながらお見送り頂く途中、亡くなったご主人が
脳梗塞で倒れたあと、バリアフリーにと作ったスロープ
に蛇が出てきたときの思い出話しを娘さんが始めました。

内心「あーいかん!始まった!お盆は沢山回らないとい
けないから、そんなに丁寧に外まで見送ってもらわんで
も…。」

不謹慎ではありますが、そんなことを思っておりました。

蛇が大嫌いな娘さんが、「キャーッ!」と大声を出すと
娘の一大事と(娘さんといっても六十過ぎですが…)中か
ら半身が不自由なご主人が、手すりにつかまりながら、
しかも、杖を振り上げ、蛇を追い払おうと転びそうにな
りながら出てきたそうです。

娘さん曰く「いつもならおじいちゃんの手を引いて歩く
スロープやけど、あの時だけは、蛇が怖くて、おじいち
ゃんをほったらかしで家へ逃げ込んだんですよ。」

そこで三人そろって大笑い。

笑いがおさまって、後ろで聞いていた奥さんが一言「和
尚さん、やっぱりおじいちゃん死んでないんやなあ、み
んなの中にちゃーんと生きとんやなあ」と。

そのあとのお盆参りの家では、「皆さんの心の中には、
お父さんお母さん、大切な人、愛した人は生きています
か?」と、後ろに座るお檀家さんに問いかける気持ちで
お経をあげさせていただきました。

変な話ではありますが、言いかえれば、亡くなった人は
家族や親しい人の心の中でしか生きられないのです。

来週は、早やお彼岸です。

お墓やお仏壇をいつも以上に清らかにすることで、自分
も澄んだ心となります。その澄んだ心にこそ、亡くなら
れた方々は生きているのです。

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2012/08/20~31   帰家穏坐(キカオンザ)

講師 愛媛県 宝蔵寺 石井 一行 師
 

お盆が終わり、また日常の生活に戻っているところです
が、お盆にはご先祖様の仏壇やお墓参りをして、改めて
亡き人の想いや願いを想い起こし、またこれからの自身
の生き方の軌道修正をするきっかけとされたことと思い
ます。

『帰家穏坐』という言葉があります。生き方に迷い、道
を失いかけた時は、一度家に帰ってゆっくり坐ってみま
しょうということです。

思うように事が運ばない時には自分の想いを変える事も
また大切なことです。

静かに坐ってみることで、積もりつもった垢が洗い流さ
れ、素直になった心が今までと違った世界を見せてくれ
ることもあるでしょう。

ロンドン五輪の日本人選手の活躍は新たな感動を与えて
くれました。特にメダリスト達の話で印象に残ったのは
支えてくれる人、応援してくれる人への感謝の気持ちで
した。

毎日過酷な練習に耐えてなお、身近な人への気配りを忘
れない、その姿に感銘を受け、そういう若い選手が大勢
いることを誇りに思いました。

自分を育ててくれた両親や、おじいちゃんおばあちゃん
のお陰、また多くの廻りの人達の助けがあってこそ今の
自分があることを、彼らは身をもって示してくれました。

戦いの中にあってなお、自分が競技生活を送れることの
大切な縁をじっくりかみしめ、廻りの人達への感謝の気
持ちを表す為に最高のパフォーマンスができればと口々
に言っていました。

その事がなにより一層、私たちの感動を呼び起こしたと
いえましょう。

今選手たちは故郷に帰って、改めて廻りの人達と共に、
感謝と感動を分かち合う喜びを感じているでしょう。
 
私たちも、自身の恵みとなっているすべてのものに感謝
する心に目覚め、一日一日その思いに報いる日送りをし
たいものです。

2012/08/11~20   かけがえのない命  

講師 愛媛県西滝寺 福村 俊弘 師 

今日はお盆の季節にちなみ『迎え火』というご詠歌を紹
介し、いのちについてお話したいと思います。
 
 子等の焚く 迎火の炎のさ
  ゆらぐは みたまの母の
   来たまえるらし
 
関東では7月、関西では8月13日の夕刻、家の門口で
麻乾(あさから)を焚き、ご先祖様をお迎えする習わし
が、迎え火です。

この歌にあるように

お盆の黄昏時、子供たちの焚く迎え火の炎が、かすかに
吹く風のせいか、ふと揺らぎます。でも、それはきっと
その時に、亡きお母様が帰ってきたんだなあと、私はそ
んな風に感じるのです。

お盆は、ご先祖から受けついだ、命の繋がりに感謝し、
その恩に報いる供養の、大切な時です。

いのちを川にたとえると、今私たちが生きている、この
川の上流には 誰が住んでいたのでしょう?

それは、先祖という「いのち」です。そしてまた、はる
か下流という遠い未来には子孫という新しい「いのち」

誕生するのです。

人間だけでなく、すべてのいのちがかかわりあい、地球
という星の上で 生かされているのです。だからこそ、
この命、おろそかにはできない かけがえのない 尊い
命なのです。

遠いご先祖様からあずかり繋がってきた奇跡の命のバト
ン、大切にしたいものです。

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2012/08/01~10   暑さ寒さのない処

瑞應寺単頭 家古谷 光現 師

開祖洞山さまに、ある僧が問(たず)ねました。

僧 「寒さ暑さがやって来た時は、どのように廻避すれ
   ばよろしいでしょうか?」
洞山「どうして寒さ暑さのない処に去らないのだ。」
僧 「寒さ暑さのない処とはどういう処でしょうか?」
洞山「寒い時には、おまえさんが大いに寒がればよいし
   暑い時には大いに暑がればよいのだ。」

古来より多くの祖師方はこの因縁(はなし)を挙(とり
あ)げられています。道元禅師さまは修行する上で、よ
くよく功夫しなさいと示されています。

生きている私達は、あれを避けたい、これを避けたいと
考えるものですが、何も暑さ寒さだけではありません。

生老病死の四苦(4つの苦しみ)は、誰も廻避すること
のできない人生の一大事です。必ず誰もが出あい、有無
を言わせずやってくる大問題です。

この暑さ寒さがやって来る時は「渾暑渾寒(すべてが暑
さ・すべてが寒さ)であって、どちらも逃れることので
きない時節(とき)なのです。

逃れることのできない時節と覚悟する処が、無寒暑(暑
さ寒さのない)処なのだとお示しになります。

そもそも仏教では、私達の苦しみは外の世界にあるので
はなく、自分の内側にある自我・私の勝手な思いが、自
らを苦しめているのだと説かれています。悩みはすべて
自分の心が作り出しているのだと。

お釈迦さまの人生はこの生老病死の四苦から始まってい
るということも、私達にとって勇気づけられる真実では
ないでしょうか。

人それぞれにやってくる、廻避することのできない生老
病死を自ら味わい受けとめ、功夫してゆくこと。これが
自己の人生であり、自分で築きあげていく人生の物語だ
と思うのです。

自分の人生に起こり得るすべての物事を、正しく受けと
め功夫してゆく時節であることを深く味わって行きたい
と思います。

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2012/07/21~31   お盆によせて

愛媛県 宗安寺 能仁 洋一 師

お盆の季節がやってまいりました。「お盆」は、正しく
は「盂蘭盆」といい、古代インドのサンスクリット語の
「ウランバナ」からきています。「ウランバナ」を訳し
ますと「倒懸(とうけん)を救う」となり、わかりやすく
すると「逆さ釣りにされたような苦しみから救う」とな
ります。

では、お盆はいつから始まったのでしょうか?

お盆の由来は、目連尊者にまつわるお話として「盂蘭盆
経」というお経に出てまいります。

お釈迦様の多くの弟子の中でも、十大弟子のおひとりに
神通第一と言われる目蓮尊者がいらっしゃいました。
目蓮さまは、とても母親思いで知られる方でもありまし
た。

ある時、目蓮さまは修行の中で不可思議な力「神通力」
を身につけられました。それは、時間や空間を超え、過
去の出来事や死後の世界さえも見通せるという力であり
ました。

すでに、お母さんが亡くなられていた目蓮さまは、ある
日、その力を使いお母さんを探されます。

すると、どうでしょう。なんと、お母さんは、餓鬼道と
いう世界に落ち、骨と皮ばかりの姿となり苦しんでおら
れるではありませんか。

目蓮さまは力を使い、お母さんにご飯とお水を差し上げ
ましたが、口に入る前に全て炎と化して炭となり、結局
一口も食べることはできませんでした。

あまりの出来事に、目蓮さまはお釈迦様のもとへと馳せ
参じ、事の次第を話されました。

すると、お釈迦様は「目蓮よ、よく聞きなさい。それは
あなただけの力ではどうすることもできない。 あなた
のお母さんは、我が子であるあなたにはとても優しい方
でしたが、我が子可愛さのあまり、知らず知らずの内に
積み重ねてしまった貪欲の報いにより、餓鬼道に落ちて
しまわれたのです。 しかし、七月十五日には九十日間
の厳しい修行を終え清浄になった修行僧達が帰ってきま
す。 その、修行僧達に様々な食べ物や飲み物を供え、
ご供養しなさい。 修行僧達は、ご先祖様や餓鬼道に落
ち苦しんでいる方たちのために、ご供養をしてくれるで
しょう。 そうすれば、その功徳により、あなたのお母
さんも餓鬼道の苦しみから、きっと救うことができるで
しょう」といわれました。

目蓮さまは、お釈迦様の言われたとおりにご供養をされ
ました。すると、その功徳によりお母さんは餓鬼道の苦
しみから解放されたのでした。

以上が「盂蘭盆経」に説かれている、お盆の由来です。

仏教には、「六道輪廻」という考え方があります。これ
は、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄といわれる六
つの世界を、人は生まれ変わり死に変わりしていくとい
うものです。

ですが、これは死後の世界の考えだけではありません。

実は、私たちが生きているこの世界にこそ六道があるの
です。誰かを憎み傷つけあう修羅の世界、手に入っても
満たされる事のない欲望の餓鬼の世界など、特にわかり
やすいのではないでしょうか。

七月十三日~十五日、または、ひと月遅れの八月十三日
~十五日はお盆の期間です。

どうぞ皆様、ご先祖様へ手を合わせご供養するとともに
自分の中にある餓鬼の心を見つめなおしてみましょう。

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2012/07/11~20   無心につとめる

香川県 見性寺 北口 善則 師

一つの道をきわめようとするとき、向上すればするほど
細心のこころを配り、高慢心やうぬぼれ、油断をしりぞ
け、道に対する緊張感や誠実さが重要になってきます。

道元禅師は『正法眼蔵随聞記』に
「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし。古
人云く、百尺竿頭如何進歩と。 然あれば百尺の竿頭に
のぼりて、足をはなたば死ぬべしと思ふて、つよく取り
つく心のあるなり。 其れを一歩を進めよと云ふは、よ
もあしからじと思ひ切て身命を放下するやうに、渡世の
業よりはじめて一身の活計に到るまで、思ひすつべきな
り。 其れを捨てざらんほどはいかに頭然を払ふて学道
するやうなりとも、道を得ることかなふべからずなり。
たゞ思ひ切て身心ともに放下すべきなり。」と、お示し
になられています。

高い竿の先にのぼってもなお、手足を放つこと、身も心
も無心になることとは、頂点に達しても、さらに向上心
を持ち続けよということなのではないでしょうか。

高慢なうぬぼれの心というのは囚(とら)われの心であり
人からもてはやされて有頂天になっている心というのは
迷いの心です。

初心に帰ることを忘れず、継続を怠らず、一切を放下し
て無心になることが大事なことなのです。

無心の心で一切をありのままに見つめ、ほんとうのこと
真実を、真実のままに受け入れてゆく態度。あるべき世
界に向かって、一歩一歩前進していくときにこそ、さら
に新たな世界が開かれてゆくのではないでしょうか。

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2012/06/21~30   和

講師 愛媛県 栖源寺 河野 道孝 師

昨年3月11日、東日本大震災では2万人以上の方々が
被災されました。家が流され家族が行方不明という、日
本では戦後最悪の大災害になってしまいました。

日本中が大災害の事で暗い気持ちいた時期でしたが、ち
ょうどその頃、第6回サッカー女子ワールドカップドイ
ツ大会で日本代表なでしこジャパンが優勝して、日本中
世界中でニュースになりました。

この優勝は、暗い気持ちでいた日本に選手のチームワー
ク一体感 結束力、一人一人が限界ぎりぎりの力で戦っ
ている姿を見た人達に、嬉しい気持ちや勇気、安心感を
与えてくれました。

チームワーク、集団による行動は、選手一人一人と監督
との考え方や気持ちの意思疎通が出来たからこそ、優勝
出来たと思うからです。

一言で優勝と言っても、簡単に優勝出来るものではあり
ません。今回の優勝は、なでしこジャパンのチームワー
クと監督に賞賛をおくりたいと思います。

お経の中に、修行生活をする仲間の意味で「和合僧」と
いう言葉ががあります。「和合」とは、平和の和に合わ
さると書きます。「和」には和らぐ、なごむの意味があ
り、「合」には、あう、あわせるの意味ですので、「仲
良く混ざり合う」という意味になりましょうか。

自分の意見だけを強く主張する事は問題があります。ま
た、個々の意見でバラバラに勝手なことをしていては、
生きていくことは困難になるでしょう。

私達は、毎日が集団生活であります。時には、意見がま
とまらない事も多々あるものです。その中で、集団にお
ける「和」の大切さがあります。仲間を相手を思いやる
気持ちがあれば自然と「和」に繋がります。

今の世の中は個人を尊重し、個性を大事にし過ぎる傾向
にあります。勿論、個性を大事にすることは悪い事では
ありませんが、自己の損得勘定で「個」を主張する人が
多くなってきている気がします。

なでしこジャパンが優勝した事は、人は人に支えられて
生きているということ、人間が生きていくことは、「仲
間」そして「和」を大切にしなければならない事を、再
認識させてくれたように思います。

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2012/06/11~20   放下著

講師 愛媛県 高徳寺 竹中 義実 師

凍てつく寒さの冬も、じりじりと太陽が照りつける夏も、
約3キロメートルの道のりをほぼ毎日のように乳母車を
押して寺へ来られる80歳のおばあちゃんがおられます。

おばあちゃんは、寺に来られると、まずご本尊様に手を
合わされ、それからご主人の眠っておられるお墓に行か
れて「また来たよー」と語りかけられながらお水やお線
香をお供えしています。

そしてその後は、日が暮れる直前まで境内の草引きをし
て帰って行かれるという日々が、もう十数年も続いてい
ます。

乳母車を押して歩いて来られるだけでも大変なことだと
思いますが、お昼過ぎから日没前までの長い時間、一本
一本、丁寧に根っこから草を引いて頂いており、いつも
本当に有り難い気持ちでいっぱいになります。

さすがに帰りも歩いてお帰り頂くのは、身体へのご負担
も大きく心配ですので、最近は車で送って差し上げてい
ますが、またこの車の中での会話が楽しいのです。

私が「今日はまた暑くなりましたねぇ」と言うと、おば
あちゃんからは「暑いや寒いと感じるのも、生きとる証
拠」と一言。

また、ご自身は本当に質素な生活をされていながら、一
所懸命にこつこつ働いて貯められたお金でスリランカに
学校を建てられたり、ご縁のある寺々や社会のためばか
りに使われているので、「もっと自分のことにもお金を
使われたらどうですか?」と言うと、「人生は夢まぼろ
し。誰かが喜んでくれたらそれでええの。お金を持っと
ってもあの世まで持って行けんけんね」と言葉が返って
来ます。

いつも車の中では、このような説法にも似たおばあちゃ
んの話が繰り返されているのです。

このおばあちゃんと話していると、いつも「放下著」と
いう禅の言葉が頭に浮かびます。これは、とらわれを放
ち捨てよというお示しです。

お金や財産、地位や名誉などにしがみつくばかりに争い
が起こったり、苦しみに縛られたりすることが多くあり
ます。

このおばあちゃんのように、少しでもとらわれを捨て、
つまらないことに縛られることなく、まず人のためにと
いう菩薩の心で日送りをして行きたいものです。

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2012/05/21~31   お先にどうぞ

愛媛県 安穏寺 島津雄児 師

日々の生活の中で沢山の決まり事があります。それを煩
(わずら)わしく思うことがあるでしょうし、キマリを守
らなければもっと楽なのにと思う事もあるでしょう。

仏教でも戒(かい)といって様々な決まり事があります。

戒には、仏教徒が守るべき決まりとして「~をしてはな
らない」と、いろいろな事が説かれています。その数は
無数にあります。大変ですね。

なぜ、沢山のキマリがあるのでしょうか?

本来、人は皆 仏様のココロをもっております。しかし、
我儘(わがまま)な自分「我見(がけん)」のためにその仏
さまが隠れてしまいます。

そこで、戒(きまり)というカタチを利用して、我儘な自
分を抑え、仏さまの自分が現れる手助けをする訳です。

煩わしく思いながらも、戒を守る事で、自分が気付かな
くても仏さまに近づいているのです。

なんて言ってたら、信号が赤になりました。あちらの歩
行者が渡って青になるのを 待たなければなりません。

あら、知らず知らずのうちに『お先にどうぞ』できてい
ました…

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2012/05/11~20   母の日に

講師 愛媛県 溪寿寺 金岡 潔宗 師

「母の日に」
 たわむれに母を背負いて
 そのあまり軽(かろ)きに
 泣きて 三歩あゆまず。
 
この短歌は、石川啄木が、おもしろ半分に母を背負って
みたところ、あまりの軽さに母の老いと衰えを思い知ら
され、哀しみと切なさに、涙が溢れてしまい、母を背負
ったまま三歩と歩くことさえ出来なかった。その時の、
気持ちを詠んでいます。

今月の13日は母の日です。皆さんは母の日に何を想わ
れますか?

私は、高校の1年の時、母が病気で亡くなりました。そ
の後父は再婚しました。その母に、15年前から毎年母
の日には感謝の気持ちを込めてアジサイを送っています。

2年前に、故郷にある亡き母のお墓へお参りに行った時
のことです。

母から「いつもアジサイ有難う。送られてきたアジサイ
は、お墓の周りに植えているのよ。寒い所なのでなかな
か つかないけれど」と言われ、お墓の周りを見るとい
くつかのアジサイが植えてありました。私は母の優しさ
に感謝の気持ちで一杯になりました。

徹通義介禅師様は、道元禅師様に、ある時「おまえは、
老婆心がない」と言われました。

後に、徹通義介禅師様が、永平寺の三代目の住職になら
れたある日、母親が永平寺に訪ねて来られました。母親
を本山に入れることも出来ず、大変悩まれた末に住職を
お引きになり二代様にお願いし、ご自分は母親と共に本
山の門前に住まわれ、7年の間、母親に孝行をつくされ
母親が亡くなった後も亡き母の菩提を弔われました。

この徹底した孝行が、老婆心に繋がっているのです。わ
が親に仕える事が、人間として最も大切なことであり、
原点です。

母の日には、感謝の気持ちを伝えたいものです。

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2012/05/01~10   無心

講師 瑞應寺知殿 吉松聖博 師

八十八夜ということで、今年もお茶摘みの季節になりま
した。

瑞応寺でも山内でお茶の葉を摘み、焙じ茶にしていまし
たが、ここ2、3年は、指導者が高齢化したこともあり
摘むだけ摘んで、後は業者にお任せしてあります。

お茶の葉を摘む前に草をむしっておかねばと思い、新緑
で美しく見える藪林のほうを見ていると、目の前に蝶が
ひらひらと舞い込んで来ては、またどこかへ飛んで行く
この頃です。

 「花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ぬ」
という良寛様のお詩があります。

花はただ無心に咲いているだけですが、蝶がすうっと寄
ってきて、花粉を運んでくれる。蝶も花粉を運ぼうと思
って花を尋ねてくるのではなく、ただ無心に蜜を吸うだ
けです。無作為の処に自然の摂理の妙があると歌ったも
のです。

僧堂では、この春にも数名の修行者が上山して、一緒に
修行しております。今年の中旬からは、正式な修業期間
である雨安居がはじまります。

修行について、「仏法は有心を以ても得べからず、無心
を以ても得べからず。」という道元禅師のお示しがあり
ます。

仏道修行というのは、まず先達の教えを信ずることから
はじまるのですが、実際に修行していて、何かの為に修
行をする修行すればなにかが得られると思う心、有心で
はいけないという。

また、無心は無心で良いのですが、ただ無心に修行する
だけではダメで、仏道を極め尽くすことはできないけれ
ど、どこまでも参究していく。すべての衆生が幸せにな
ることはないけれども、そこに思いを巡らしていく。そ
ういう誓願を立てよと言われている。修行に対する姿勢
についての教えだと思います。

しばらく修行をしていても、自分自身では余り変化に気
づかないものです。また、人から何か言われたとしても
そういう毀誉褒貶をあてにするものではないという教え
です。もちろん人に対しては、できるだけ丁寧に接して
いかなければなりません。

自分の完成を持って人に及ぼすのでは、何時までもその
時はこない、及ばずながらということがよく言われます
が、そういう行き方が仏道修行なのです。

春の陽気に照らされて、自身の至らなさに気づかされる
この頃です。

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2012/04/21~30   同事のこころ

愛媛県 宗安寺 能仁 洋一 師

先月、3月11日。東日本大震災発生からちょうど一年
が経ちました。

それにあわせ、被災地はもとより全国各地において、慰
霊法要や復興祈願法要などがいとなまれました。

私は、福島県において行われた復興祈願イベントに参加
し、被災地の方々と食事を一緒に作り、交流を深める機
会をいただきました。

被災地の方々は、「遠くからよく来なさった」と笑顔で
迎え入れてくださり、いろんなことをお話しくださいま
した。

その中で、とても印象に残った言葉がありました。

それは、『この一年は、本当に長かった・・・』という
言葉でした。

被災地から遠く離れた地に住む私達は震災以降、多少な
りとも日常生活の中で制限される部分もございましたが
気が付けば以前とさほど変わらぬ生活を送ってきたよう
に思います。

しかし、被災された方々は、この1年を多くの悲しみや
苦しみ、復旧・復興がままならないという不安の中で毎
日を送ってこられました。

日常生活から、突如として非日常の生活を余儀なくされ
どれほどの不安を覚えたことでしょうか。

私は、『この1年はとても長かった・・・』という言葉
に、そういった不安や苦しみ、またその中にありながら
必死の思いで乗り越えようとしている姿を見たように感
じました。

曹洞宗でお唱えする『修証義』というお経に
「海の水を辞せざるは同事なり、このゆえに、よく水あ
つまりて海となるなり」との教えがあります。

海はいかなる水もこばみません。こばまないことが同事
であり、同事なるがゆえに大海となるのです。「同事」
は、苦しみや悲しみを共感し合える「同苦・同悲」の心
です。

被災地からどれだけ離れていても、被災された方々の痛
みや苦しみ、悲しみを共感しあい、一日も早い完全復興
を目指し、これからも互いに協力をしてまいりましょう。

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2012/04/01~10   達磨さま

講師 瑞應寺僧堂講師 英 純光 師

瑞應寺山内の下に「吾本来茲土、傅法救迷情 = 吾もと
よりこの土に来るは、法を傅え迷情を救わんが為なり」
と、全ての苦しみ悩みを除かんと、一歩一歩あゆみよろ
うとする達磨さまの石像があります。

10月には正當の(達磨忌)供養がございますが、4月
5日(月忌)の朝も、現在20余名の雲水諸士と共に、
達磨さまに親しく、御粥と甘い蜜湯、香り高い御茶をお
供えし御回向させて頂きました。

縁起担ぎのダルマ、七転び八起きのダルマ等で、達磨さ
ま程一般にとけ込んでいる祖師さまはございませんが、
お釈迦さまから28代目の御祖師さまでございます。お
釈迦さまの御教えを余す処無く、欠くることなく中国へ
お伝えし、日本に曹洞禅として華開く大もととなったわ
けです。

修行中の雲水共々、真摯に礼拝し脚下を照らし、本来無
一物無一物中無尽蔵の処に立ち返って自家の宝蔵(一人
一人の確固たる身心)を育て、かけがえのない心の糧を
多く積んでいきたいものです。

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2012/02/21~29   あたりまえの感謝

愛媛県 福成寺 中野 元明 師

先日、宝くじ売り場の前を通りましたところ「1等・前
後賞合わせて5億円当たる。」とありました。

今までは確か3億円だったかと記憶しております。東日
本大震災復興支援との事ですが、想像もできないくらい
の金額であります。   

皆さまの中にも、当たらないとわかっていても宝くじを
購入し、神棚やお仏壇にお供えをして、手を合わせたこ
とのある方がおられるのではないでしょうか?

この様な神仏頼みもどうかと思いますが、もしも、これ
が当たりでもしたら「神様、仏様、御先祖様のお陰です。
感謝いたします。」と、お仏壇も新調し最高級なものに
なることでしょう。まさにこれは稀であり夢のまた夢の
感謝であります。

最近はとても便利になりまして、洗濯機も電子レンジも
全部自動で動いてくれます。スイッチ一つでポンです。

電気製品に関わらず交通・医療など本当に昔とは変わり
ました。

しかし、今でも昔から変わらない便利なことが一番身近
にあります。

それは皆さまの体です。

食事などを例に挙げましても、食べ物を口に運びますと
自然に味を感じ、食道を下り、胃で消化し、腸を通って
栄養を吸収して、余分なものを出す。

この一連の作業は、スイッチを押さなくても、意識しな
くても、生きている限り勝手に動いてくれます。

人の体は頭脳・心・自己治癒など他に例を挙げてもきり
がありません。

夢の感謝も良いですが、普段なら気にも止めない「あた
りまえの感謝」を普段から感じましょう。

代々の御先祖様からの、今、ここにいる自分そのものが
奇跡なのです。

人の力では到底作り得ることの出来ない、皆さま御自身
の心と体が、仏様の力であり本当に感謝するべきところ
ではないでしょうか。

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2012/01/21~31   報恩

愛媛県 宗安寺 能仁 洋一 師

私たちは、日々 様々ものに助けられ、支えられて生か
されています。

あなたはそのことに気付いていますか?
 
お経に、『父母恩重経』というものがあります。

これは、お釈迦さまが父母の恩がどんなに尊いものであ
るかを説かれたものであり、その中に、父母に対して十
の尊い恩があると説かれております。

一には、懐胎(かいたい)守護(しゅご)
    =懐妊中、母が子を守護してくれた恩。

二には、臨産受(りんさんじゅ)苦(く)
    =出産の時、苦しみに耐えてくれた恩。

三には、生子忘憂(しょうしぼうう)
    =出産後、それまでの苦しみを忘れてくれた恩。

四には、乳哺(にゅうほ)養育(よういく)
    =乳を飲ませ、養育してくれた恩。

五には、廻乾就湿(かいたいじゅうしつ)
    =子に乾いた場所をゆずり、湿った所に寝てく
    れた恩。

六には、洗灌(せんかん)不浄(ふじょう)
    =子の不浄物を、洗いそそいでくれた恩。

七には、嚥苦吐甘(えんくとかん)
    =子に食物を与える時、口に含み、苦いものは
     呑込み、甘いものを残し与えてくれた恩。

八には、為造(いぞう)悪業(あくごう)
    =子のため、自らあえて悪業をつくってくれた
     恩。

九には、遠行(おんぎょう)憶(おく)念(ねん)
    =遠くに行った子の安否を気づかってくれた恩。

十には、究竟憐愍(くきょうりんみん)
    =最初から最後まで、ひたすら慈愛をかけてく
     れた恩。
 
そして、この十の尊い恩に対し、子はどのように報いる
べきかも説かれています。

まず、外出した時、新鮮な果物や珍しい食べ物を手に入
れたら、持ち帰って父母に差上げること。 父母は歓び
自分が食べることをもったいないと思い、先ずこれを佛
・法・僧の三宝に布施するので、結果として菩提心(仏
道を求める心)を起こさせたことになる、と。

また、父母が病気になったなら傍を離れず、自らが献身
的に看護すること。 全ての事を、他人に任せることな
く自分で看護する。 そして、日夜親の病気が癒えるこ
とを願い、常に報恩の心を抱いて、片時も忘れてはなら
ない、と。

身近であればあるほど、自然にあればあるほど、それが
当たり前になりすぎてしまって気付かない。そういった
ことは、私たちの日常において沢山あるのではないでし
ょうか。

家族、友人、ご先祖さん、地域の方々、空気、水、大地
太陽・・・。 目に見えるもの見えないもの、挙げれば
きりがありませんが、自分を取り巻く多くの支えによっ
て生きているのです。

そのことに気付いたならば、自分のことを誰かがいつも
見守ってくれていることにも気付くことでしょう。

今ここにある自分のいのち。支えていただいている全て
のものに報恩感謝の心を持ち、日々精進してまいりまし
ょう。

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2011/02/11~20   涅槃会と特攻隊

講師 愛媛県 安穏寺 島津 良雄 師
    
「耳は二つ、口は一つ、聞くことは二倍聞きなさい」と
言われますが、卒壽の愚僧の話を聞いて下さい。

二月は逃げる月と申しますが、二月はお釈迦さまが亡く
なられた月、二月十五日は涅槃会であります。

生まれた以上は、死に向かっていることを知る月です。
「死は必ず来る事を忘れない日々の生活をせよ」との教
えかと存じます。

「諸行無常」どんな人間でも死ななければなりません。

人間は無期の死刑囚だともいわれております。死という
ものは、十年先なのか、一年先なのか、明日なのか、今
日なのか、まったくわからないのです。

私は今から六十六年前二十三歳の時、お釈迦様の教えの
第一不殺生戒に反して特攻隊員になりました。

「桜花特攻機」は胴体は軽金属で、翼は木製。女学生か
送られた「桜花」と書かれた血書の鉢巻きを締めて一人
で乗り、先端には千二百キロの爆弾を装備して、昭和二
十年八月十三日に、横須賀の特攻基地から米国軍艦に愛
国の名のもとに、死を美化されて体当たり。死ぬること
になっておりましたが、二日後、八月十五日終戦となり
ました。

生きながらえて卒壽になって、お釈迦様の「独生独死独
去独来」の教えが身にしみて理解されます。

生きているこの一秒一秒を大切にしなければならないこ
とになります。一秒間生きるには、「唯一人では生きら
れない、生かされている。多くの人や物に支えられて、
生かされることによって生きています。その恩に報いる
ことは人を生かし物を生かすこと」であります。

今、ここで、静かに坐禅をするわが身と命に感謝するこ
とは「私の命を誕生させてくださった、父と母に深く感
謝致します。父と母の命を誕生させてくださった、祖父
と祖母に深く感謝いたします。」ご先祖お一人お一人、
命が脈々と受け継がれて私の命があるのです。不思議で
尊く有難いことです。

ご先祖へ感謝の誠をささげ、のこり少ない、かけがえの
ないこの命を、皆さんの幸せ作りに役立てる事を誓いま
す。

一日の二十四時間は、皆が平等です。生きていることは
幸せです。人間の終着駅までに皆さんのために、社会の
ために、世界の人々の幸せづくりに、一緒に役立てるこ
とを誓いませんか。                      

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2011/01/21~31   無縁社会

   
講師 愛媛県 龍泰寺  舛田 豊範 師   

昨年の流行語に、『無縁社会』と言う言葉がノミネイトされ
ました。

無縁社会とは、単身世帯が増えて、人と人との関係が希薄と
なりつつある現代社会の一面を指す言葉です。

結婚に対する若者の意識の変化、地縁血縁社会の崩壊、核家
族化社会によって家族や社会とのコミュニケーションができ
ない、したくない若者、中年層の急増など、もろもろの要因
が重なり合い、かつて存在した地域社会のつながりはなくな
り、単身者はますます孤立しやすい社会へと急速に移行して
います。

さらに、日本では年間で3万人以上が孤独死しています。人
はただ一人では生きられない多くの人や、物に支えられ生か
されることによって生きている。私達は、自己中心的なエゴ
イストに陥りやすく、何事も自分中心に物事を判断しがちに
なる面を持っています。

そうした根因は、あらゆる欲望・つまらぬ事に立腹する・正
しい判断のできぬ愚かさつまり貪瞋痴の三毒の煩悩にあるわ
けです、それが災いの種となって心の奥底にある清淨心が無
くなってしまうのです。

とかく私達は、自分一人の力で生きているかのように錯覚し
がちですが、考えてみれば、いかに偉大な人でも自分一人の
力では決して生きられません。

四恩(父母・師・天地自然界・衆生社会)のお陰なくして生
きている人は、一人もありません。人生は深い縁の不思議な
出会い 縁は人間同士の縁だけではなく、それを通じて人生
の不思議に気付かせてくれたり、悲しみを通して真実や悟り
と出会わせてくれたりします。

どのようにつらい事でも、それを縁として自分が成長し感謝
出来る様になってみたら、心に逆らう縁も助けられる縁もい
ずれも自分を育てる縁です。

そのような、真実との出会いを『仏縁』と言います。そうい
う仏縁を喜べる人生にすれば、社会問題『無縁社会』は無く
なると思います。           
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2010/12/21~31   絆の根本は信仰

講師 香川県 南隆寺 大石 光昭 師

年の瀬の風物詩となった、その年の世相を漢字一文字で表す
「今年の漢字」が、「暑」あついという字に決まり、清水寺
の森管長によって揮毫されました。

本当に今年の夏は暑くて長い夏でした。NHKの調べでは、
その影響で熱中症により亡くなられた方が、全国で500人
を上回る数だったそうです。

それともう一つは、高齢者の所在不明問題。戸籍があるのに
現住所が確認できない100歳以上の方は全国で23万人を
超え、このうち120歳以上は8万人近く、150歳以上は
884人に上るそうです。

いろんな原因があるのでしょうが、中には、亡くなった親を
数十年も押し入れに隠していたとか、自分の親とは30年以
上も音信不通という、すでに80を超えるお年寄りの話とか
耳を疑うようなニュースがありました。

しかしこれは、今年の夏の猛暑だけが原因なのでしょうか。
経済格差や、貧困だけが原因でしょうか。この2つの出来事
の根底にはもっともっと憂慮すべき共通する問題が横たわっ
ていると、私は思います。

それは、ご近所どうしの絆、親戚の絆、家族の絆、そういう
一番身近な絆が希薄に、いや既に崩壊状態であるということ
ではないでしょうか。この崩壊状態の絆をどう繋ぎ合わすか
中々簡単ではありません。

先日、お檀家さんのお法事で、「あら!叔母さん、元気だっ
たん?近くで居っても、こんな時でないと顔合わさんなあ」
「ほんまやなあ」というような挨拶が交わされていました。
それを聞いて、私は、「これだ!」と思いました。

ご法事では、亡くなった父や母、ご先祖様が家族や親戚を集
め、心を一つに繋いでくれます。近所の祠のお地蔵さんや神
仏の縁日も、ご近所どうしの心を繋いでくれます。

今や、日本中の町や村では、町おこし村おこしで神様、仏様
不在の「◯◯まつり」と称される、人集めのための大きなイ
ベントが催されます。集客力は有るでしょうが、人と人の心
までは中々繋げてくれません。何が違うのでしょうか?

命の繋がりに感謝したり、大自然の恵みに感謝する者どうし
の集まり、そこにこそ心の繋がりが生まれるのです。大きな
違い、それはそこに一番大事な「信仰」、ということが在る
か無いかです。

新しい年の初めには、どうかご家族揃ってお仏壇のご本尊を
はじめご先祖様に、新しい年が迎えられたことへの感謝のま
ことを捧げましょう。                                 

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2010/12/11~20   どうぞおさきに

講師 愛媛県 宗安寺  能仁 洋一 師
    
テレビや新聞などを見ていると、毎日尽きることなく起きて
いる様々な事件。特に目を引くのが、お金を簡単に入手した
い等という、正に自分の私利私欲のために他人を傷つけ、簡
単に命を奪ってしまう事件の増加です。

時には、他人の苦しんでいる顔を見たかったからとか、どう
なるか見てみたかったからなどという、正に自己中心的で我
が儘極まりない理由での事件も頻発するようになってきてい
ます。

なぜ、このように凶悪で自己中心的な動機での事件が増えて
いるのでしょうか?

私は一つの理由としてコミュニケーションの希薄化があるの
ではないかと思います。

以前起こった殺人事件で、犯人は同じアパートに住む男性だ
ったというものがあったのは、まだ記憶に新しいと思います。
同じアパートに住んでいても、仕事の時間帯が違えば顔を合
わすこともほとんどなく、どんな人が住んでいるのかを知ら
ない。そういったことが、ごく当たり前になりつつあります。

一概に言えませんが、仕事を求め夢を持って多くの人たちが
集まる都会に行けばいくほど、人との距離は大変近づきます
が、心の距離は逆に離れていっているように感じた事でした。

修証義というお経の中に、「己未だ度らざる前に 一切衆生
を度さんと発願し営むなり」とあります。

これは、自分だけが安穏と生活するのではない。自分は後回
し。私よりもまず先に人を渡す、救う。そういった考えです。

自分の欲の為に他人を傷つけたりするのではなく、周りの人
たちが幸せになるにはどうしたらいいのかを考える。

互いにコミュニケーションを取り合い、この修証義の一説の
ような思いで日々を暮らしてみてはいかがでしょうか。
                        
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2009/10/21~31   ぬくもりの中で

講師 高知県 淨貞寺  伊藤 正賢 師
    
この時期に成りますと思いだすことがございます。

四十数年前、高知県の四万十川流域にあるホント小さな村に
誕生致しました。

小学校に上がる少し前のこと。村はずれに、子供にしては結
構大きな柿の木がありました。その時代、日本の高度成長期
にあっても、小さな村故にお菓子と言う物があまりなかった
のです。

甘い物が欲しくてたまらない年頃です。当然、色づいた柿の
実が気になるのです。

その実を見上げていると、その村に住む「厳爺」が側にやっ
て来て、私に声を掛けるのです。

「坊、この柿が食いてぇか?そうか。それじゃ、おんちゃん
が採っちゃろぉ。」

そう言うと、厳爺は近くにあった竹を拾って来て、柿の木の
中程にある柿の実を 私に取ってくれたのです。

「もっと 採り易い下の方でも良かったのに…。」

と小さく声を掛けると

「あのなぁ、お寺の坊、良~く聴きや。 あんな、下の方に
ある柿の実は この道を旅している人が、喉が渇いた時に食
べて貰うのさ。 ほんでなぁ、上の方にある柿の実はなぁ、
小さな坊と同じように、腹を空かせた鳥達に食べて貰うのさ。
だから、坊に採ってやるのは 中程にある柿の実なんだ。解
ったか? 坊…」

その当時は、何も解らなかった私。

振り返りますに、あの厳爺が、今、私共に欠けているモノを
教えてくれているように思うのです。

優しさと言うぬくもり。そこには決して我が為にという観念
はございません。

人の「ぬくもり」を感じ、その中で生きるということは心地
良いものです。で、あるならば、私もそうありたいと願うの
です。                  

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2009/10/11~20   あなたは知っていますか?

講師 愛媛県 宗安寺 能仁 洋一 師
       
先日、友人たちと石鎚山に登って参りました。あいにくの曇
空で、霧深い中での登山でしたが、自然の雄大さを肌に感じ
とても清々しい気持ちになりました。

その道中にこんなことがありました。

霧深い中での久々の登山は、最近なまっていた私には中々き
つく、友人達の背中をやっとの思いで追いかけながら登って
おりました。

途中休憩をとった時の事、生き返る思いで登山者用に設けら
れた丸太造りのベンチに腰掛けると、どこからともなく小鳥
のさえずりが聞こえてきました。

とても奇麗な声に癒されながら、友人に「きれいな声が聞こ
えるよ」と申しましたところ、「登ってくる道中にも、いろ
んな小鳥たちの声が聞こえてたよ」と言われました。

どうやら私は、みんなの後を追いかけて登ことだけで一杯に
なり、小鳥たちの声さえも耳に入らなくなっていたのでした。

私たちは日々、家庭で、職場で、学校で、目が回るような日
常を送っています。忙しさの余り、最近は空を見上げること
も、風の音や、鳥たちの声に耳を傾けることも無いなと言わ
れる方も多いのではないでしょうか。

自分が少し耳や目を傾けるだけで、自然本来の姿が見えてき
ます。

道元禅師様のおうたに『春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬
雪さえて すずしかりけり』とあります。

このおうたで、道元禅師様は「春には花が咲き、夏になれば
ホトトギスが鳴く。秋にはきれいな月が出て、冬には雪が降
る。極々当たり前のことですが、とても大切なことですよ」
とお示しになられております。

たとえ当たり前のことであっても、本人が気づいてなければ
意味はありません。

あなたは、本当の自分を知っていますか?風の音や鳥たちの
声と同じように、耳や目を傾けてもう一度よく自分を見つめ
てみましょう。

自分は何が好きで何が苦手で何がしたい人間なのか。どんな
人間なのか。自分本来の姿を知ってこそ、人生の次のステッ
プに進むことができます。
 
どんなに忙しくても、忙しいからこそ、大きく深呼吸。自分
を見つめ、周りを見つめ、本来の姿を今一度 観察してみま
しょう。                     

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2009/09/21~30   お彼岸の心

講師 愛媛県 大通寺 越智 正道 師
    
私たちはいつも幸せでありたいという気持ちをいつも持って
います。

今年も彼岸がやってまいりました。暑さ寒さも彼岸まで」と
言われていますが、暑さもようやく峠を越して、一段と秋め
いてまいりました。喉元過ぎれば熱さを忘れると昔から言わ
れていますが、人肌的に丁度よい時候です。

これを彼岸と考えると暑くもない寒くもない幸せの時期です。

人生も四苦、八苦の中に生きています。苦しい生活の中に楽
しいこともある、それの繰り返しであろうと思います。毎日
の生活の中で、あそこが痛い、ここが痛いと、いろんな心配
があると思います。

しかし、何の心配もなく一日が過ぎたとしたら、こんなに幸
せなことはありません。自分の現在に感謝することです。

「ありがたいと思う心が今日の幸せ」です。こんな一日を大
事にし、いつも他人のために働く生活の中で、自分をみがく
心がけをもたなければなりません。

私たちがこの世で幸せに生きていくには、姿や容貌ではあり
ません。「何か私にできるお手伝いをしたい」という優しい
「心」をもつことです。

この心が「利他行」なのです。利他行」とは、相手のことを
思って、自分のことを思わない、私心のない優しさをいうの
です。

「いたわり」も「優しさ」もそれを受けとめてくれる相手が
いて成り立つものです。むしろ、相手によって自分の優しい
気持ちを引き出してもらっているともいえます。

「朝に合掌、昼は汗、夜は感謝で眠りましょう」と昔から言
われています。「物で栄えて、心で滅ぶ時代」といわれる現
今ですが、せっかく生きている人生を、優しい「心」をもっ
て隣近所、困っている人々に呼びかけ、お互い励まし合い、
いたわり合い、感謝して生きていくことができたらどんなに
幸せなことでしょう。

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2009/09/11~20   お彼岸を迎えて

講師 愛媛県 宝蔵寺 石井 一行 師
    
お彼岸を迎える頃となりました。年に二回春と秋、お日様が
真東から昇り、真西に沈むちょうど真ん中の日を彼岸として
御先祖様たちは特別にいのちを慈しみ 祖先を敬ってきまし
た。

この”真ん中”はお釈迦様の中道の教えに通じ「かたよらな
い」「とらわれない」「こだわらない」心でゆったりと真ん
中を歩きましょうという 理想の生き方に近づく為の実践修
行の期間がお彼岸の一週間です。

物の豊かでなかった昔、餅米やお米、砂糖、小豆を使ってご
飯とお餅の中間のおはぎを作り、自然に感謝し仏様や祖先に
お供えしてきた先人の智恵には本当に驚かされます。

彼岸とはもともと古いインドの言葉で”修行を完成する”と
か”悟りに至る”という意味の「パーラミター」に由来しま
す。

日常の忙しさに追われ、ついつい感情に流され、自分中心の
生き方に陥ってしまいがちな現代ですが、ひととき心を静め
み仏の教えに触れ、自分を見つめ直すことが大切になってい
ます。

特に、今年は長い連休になっていますが、こういう時こそ、
御先祖様たちが大切にしてきたお彼岸の生活を思い起こし、
感謝と真心で迎えたいものです。

亀井勝一郎さんの言葉に
「人間が宗教的になるというのは、どういうことでしょうか。
それは、今まで見えなかったものが、見えるようになること
ではないでしょうか。今まで感じられなったことが、深く感
じられるようになることではないでしょうか。今まであたり
まえと思っていたことがおどろきであると、いのちと人生を
見なおさせていただく人間になることではないでしょうか」
とあります。

ご先祖様たちが大切に守り伝えてきた、お彼岸の信仰と暮ら
しを私たちもしっかりと引き継いでいくことが、幸せで理想
的な人生に近づく道すじとなっていくのではないでしょうか。
                            
     
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2009/08/21~31   挨拶

講師 愛媛県 医王寺 竹中 義実 師
    
お盆の棚行でお檀家のお宅を一軒一軒歩いてお参りしており
ましたら、後ろの方から「和尚さまー」と呼ぶ声がします。

驚いてすぐ振り返ると、数十メートル先の路地から出てきた
小学校低学年くらいの男の子二人が、私に向かってまた「こ
んにちはー」と言いながら手を振っています。

私は、どこのこかなあと思いながら目を凝らして見ましたが
知らない子供たちでした。

しかし、わざわざ遠くから知らない私に対して挨拶をしてく
れたこと、そして「和尚さまー」という丁寧な呼び方がまた
嬉しくて、私もまた少し弾んだ声で「こんにちはー」と手を
振りました。

正直、猛暑にまけそうになっておりましたが、その子供たち
のお陰で心に心地よい風が吹き、元気をもらうことができま
した。

最近は大人でも、知っている人にでさえ挨拶ができなかった
りしますが、遠くを歩いている知らない私にわざわざ大きな
声で挨拶をしてくれた子供たちから、大事なことを改めて教
えられたように思いました。

挨拶は、お互いに言葉をとりかわしたりする礼儀を意味しま
すが、もともとは触れるとか押すとか迫るといった意味で、
禅の修行道場では、師家(指導者)が問答を行い雲水の言葉
や振る舞いから、悟りの程度を確かめるのに用いたようです。

お互いに研鑽しあい、自分をみがいていこうとしたのがもと
もとですが、どちらにしても、人と積極的関わりをもって行
くのが挨拶といってよいでしょう。

駅の切符売り場や改札にしても、また高速道路の料金所(E
TC)にしても、以前は人と人とのやり取りがありましたが
今ではほとんど機会が相手です。

機械がしゃべる場合もありますが、やはり温かみはありませ
ん。

このように、何かと人と人との関わりが少なくなっている今
だからこそ、挨拶を大事に。そして、もっともっと積極的に
挨拶することを心がけていきたいものです。

知っている人とも、知らない人とも、挨拶によってお互いが
気持よく心通わせ、温かな人間関係が多く築かれて行く事を
願っています。
                                     

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2009/08/11~20   日常の感謝

講師 香川県 南隆寺 大石 光昭 師

先月二十二日、日本中が皆既日食で沸きました。四国地方で
も部分日食を見ることができました。

元宇宙飛行士の毛利衛さんは、日食前にテレビのインタビュ
ーにこのように答えています。

「四十六年前、高校一年生の時に、網走で見ました。その時
の感動は今でも忘れられません。月の影が地球に映っている
わけです。宇宙は、とてつもなく大きな力で動いている。人
間では、どうしようもない壮大な力で。宇宙の力を目の当た
りにした体験は、私にとって大きな刺激になりました。この
体験が、私の今の原点になっています。もっと自然を知りた
いという強い思いが芽生え、科学者になろうと決めました。
そして、宇宙飛行士への道に広がっていったわけです。」

皆既日食を目の当たりにした人は人生観すら変わるとさえ言
われています。

実際に、他にも多くの人たちの感動の声がテレビで伝えられ
ました。テレビを通して、その様子を見た私も大いに感動さ
せて頂きました。

しかし、よく考えてみてください。

何十年に一回という宇宙の大スペクタクルを見なければ感動
はできないのでしょうか。

いいえ、例えば、日に三度の食事、私たち人間に食べられよ
うと思って育った命は何一つありません。しかし、お米も野
菜も、魚やお肉も、三度三度私たちの前に料理され、行儀よ
く並びます。

そのとき、私たちは皆既日食を見た時と同じ、いやそれ以上
の感動をしなければならないのです。

もっと言えば、「吐く息、吸う息。」この営みさえも、宇宙
や地球の歴史、生物の誕生から人間にまで進化した歴史の証
なのです。

その瞬間瞬間が感動の連続でなければならないはずです。

その感動をあらわす言葉が、「感謝」といいます。この感謝
なしでは私たち人間は、決して幸せにはなれません。

現代の飽食国家日本では、栄養上の飢えはないかも知れませ
んが、反面、精神的な飢えや渇きは際限なく広がりつつあり
ます。

この心の飢え、渇きを少しでも癒し潤いを与えてくれるのが
仏さまの教えであり、お盆の行事であります。お盆の三日間
心からご先祖をお迎えし、命の繋がり、ご縁に感謝いたしま
しょう。
                                         

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2009/07/21~31   感謝

講師 愛媛県 渓寿寺 金岡 潔宗 師

毎年私は、市の健康診断を受けているのですが、先日健康セ
ンターより封書が届きました。

何か悪い所がある人は封書で早く通知があるとのこと。

「まさか」と思いながら中を開けると、大腸の精密検査を早
く受けるようにとの内容でした。「えーっ、どこも痛くない
し、どうして?」ショックでした。

私たちは健康な時、すべてが当たり前だと思っていますが、
違うのです。

お経には「世に生まれて人となることか難し、仏世に値ふこ
とまた難く、なお大海の中に盲亀の浮木に値ふがごとし」と
説かれています。

それは人間に生まれて仏法にであうことの難しいことは、あ
たかも大海に棲む盲亀が百年に一度だけ水面上に首をだすの
ですが、その際水面に漂っている浮木の孔に首を突っ込むこ
との難しさにもひとしいというのです。

人として生まれ仏法とであうことの難しさ、今こうして、こ
こにいる事の不思議さ、有り難さ、当たり前ではないのです。

朝、目が覚めて、トイレに行き出るものが出る。私たちは、
ふだん何とも思わないのですが、寝ている間に胃や腸が働い
て、その日に食べた物を消化してくれているのです。もちろ
ん心臓も休むことなく何十年も動いているのです。当たり前
ではなく、朝目が覚めたら有難う。トイレで出るものが出た
ら有難う。

そして人は空気や水がないと生きていけません。私たちが出
した二酸化炭素を、植物が吸いこんで酸素に変え、空からは
太陽が光を、また無料で降ってくる水、私たちを取り囲んで
いる、ありとあらゆることのすべてが、感謝する対象ではな
いでしょうか。

今の自分の置かれている状況に、有難うと感謝したいもので
す。
                                         

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2009/07/11~21   鐘声

講師 高知県 予岳寺 濱田 祐禅 師

鐘楼堂が建立されて二ヵ年が過ぎようとしている。多くの善
男善女の行き交う場所となり、皆それぞれの人生を歩む姿を
かいま見る。遠近の人々が妙音に一応に心が洗われますと、
聞かされる。

現今の不況は誰もが良い話もない。私たち四国、特に山間が
次々に荒廃している。古きを尋ねて新しきを知る。地方に育
まれた文化遺産は擁護されなければならない。

特筆したいのは住人がいない山里が各所に見られる事態は、
異常な局面といえよう。為政者は即刻打開策を取らなければ
後世に悔いを残す。多くの老人が切実な不安を抱え乍らの生
活を強いられている。上流の保全が維持されなくては下流域
の復興は有り得ない。

国破れて山河有りの感性は今、危惧の念が切実となっている。

加うるに吾れ吾れ生活様式もいたずらに増長に過ぎている。
物の豊かさに対する心が粗末ではもったいない。少し頭を冷
やした方が良い。一歩も二歩も下がって内省する暮らしを流
れてはならない。

一日を了えて晩鐘の音声に心を癒してほしい。世情が不如意
で困った時節でも辛抱強く生きれば春もこよう。

それぞれの地域の伝統を守る日常でなければいけない。荒廃
は国土の乱れに繋がる。

お寺に参拝の老若男女何をか祈らん。合掌し、手向く誠に美
しい姿である。一日、一日の自身を見つめる祈りでありたい。

信心は行動と一体で成り立って行く。

高祖様お示しの自利利他円満の実践である。人を信じ自分を
信じるの喜びを大事に養っていこう。

山のお寺の梵鐘は今日も余韻を残して里之里之と伝わってゆ
く。お手々つないで帰る。家庭に平和の団欒に子達は安らい
住む人の幸いを万効迄も響かせて行く。
                                         

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2009/06/21~30   歌詞を味わう

講師 愛媛県 宗光寺 岡 芳雄 師

     あなたが この世に生まれ
     あなたが この世を去る
     私が この世に生まれ
     私が この世を去る
     その時  涙があるか
     その時  愛があるか
     そこに幸せな別れがあるだろうか
 
     世の中が平和でも、戦争がなくても
     人は死にます
     必ず死にます
     その時に  生まれてきてよかった
     生きてきてよかったと思いながら
     死ぬことができるでしょうか
     そう思って死ぬことを
     大往生といいます
 
この歌詞は、永 六輔さんと 名コンビだった作曲家 中村八大
さんとの最後の作品だそうです。

私は、檀家さんにお話しする折、この歌詞をよく引用させて
頂きます。

非常に分かり易く人生そのものだと思います。

気に入った詩や文章を声を出して何度も繰り返す。この作業
が以外と心の癒し効果になっていることに最近気付きました。

人の一大事は何と言っても、この世に生まれるということと
亡くなるということだと思います。

けれども、お釈迦さまもお示しのとうり、亡くなった後のあ
の世のことに思いめぐらすよりも、現実の今の生き方やあり
方に工夫をこらす方が正しいと言えます。

その結果、生まれてきてよかった、生きてきてよかったと思
える人は真に幸福者であり、大往生を迎えるにふさわしい人
と言えるでしょう。
                                          

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2009/06/11~20   愛語(やさしい言葉)

講師 愛媛県 泰平寺 星野 尚禅 師    
    
「愛語は愛心より起こる、愛心は慈心を種子とせり」

人を生かし、人を仏道に導く言葉が愛語です。愛語は人を愛
することに始まります。人を愛するとは、無限の縁の中で支
え支えられているお互いを自覚し、慈しみあう心を根本とし
ます。

現在ほど言葉の乱れた時代があったでしょうか。粗雑な言葉
は世の乱れを生み、愛心なく慈悲心のない命を軽視した社会
に拍車をかけます。

現実に、家庭も国際社会もすべて言葉で動いています。

好ましい関係は好ましい言葉によって結ばれます。赤ちゃん
を前にして限りなく優しくなれるその心で、ともに語り合い
ましょう。

徳ある行いは素直に讃え、徳いたらぬ時こそ慈しみの心を忘
れてはなりません。

愛語の実践が、柔らかにして他を思いやる自己を育て、ひい
ては人権を尊重し、平和を願い、環境に思いを馳せる人を育
むのではないでしょうか。

先日、松山の県立美術館で開催されました良寛さまの墨宝展
に行き、展示されていたお軸に一際目を引いたのが「愛語」
のお軸でした。

道元禅師さまお示しの「正法眼蔵」の中の一説を良寛さま独
特の滑らかで心優しい愛心の滲み出た筆使いのこのお軸には
全く驚嘆し、良寛さまの愛心・愛語が私の心にひしひしと伝
わってきました。

将に「愛心は愛語より起こる、愛心は慈心を種子とせり」で
はないでしょうか。

これからは、相手の立場に立ち、思いやりの心で優しい言葉
すなわち愛語を施そうではありませんか。日々、愛心を心が
けてまいりましょう。

最後に坂村真民先生の詩を紹介いたします。
 
    人に喜んで与えたい
    優しい言葉一つでもいい
    思いやりの心が自然に湧いて
    相手の身になって
    してあげたい
                                         

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2009/05/21~31   草に遊ぶ

講師 愛媛県 安穏寺 島津 雄児 師    
    
山の緑もいっそう濃く、夏の匂いが日に日に感じられる
ようになって着ました。皆さまいかがお過ごしですか?

この季節になりますと、私どものお寺では草引きが日課
のようになってまいります。

庭や畑をされる方は良くわかると思いますが、わずか一
日 目を離しただけで、ものすごい勢いでいたるところ
に草が生えてまいります。静かにしていれば葉っぱが伸
びる音が聞こえてくるのではと思うくらいです。

そこで、草引きを行うわけですが、いつも心に思い出す
ことがあります。

あれは、初夏の日差しの強い日のことでした。

親戚のお宅へとご挨拶に行きましたら、そのお宅のおば
あさん。もう九十をとうに過ぎ頭も真っ白になっている
方が、家の前の畑にちょこんと座って草引きをされてい
ます。

「こんにちは、精が出ますね。草がいっぱい生えてくる
けん大変ですね。」

と声をかけますと、にっこりと笑い

「いやいや、草に遊んで貰いよるのよー。」

と返事が返ってきました。

思いもよらない答えでした。とても謙虚でありながら、
なんと余裕があり、自由闊達な言葉でしょう。

草木ひとつにも命を感じ、その中で生かされ、自分の行
うことに喜びを持って、させていただくということでは
ないでしょうか。

おばあさんの何気ない一言のなかに、大切な仏さまの教
えを感じたひと時でした。

さて私ですが、まだまだおばあさんの境涯には達せない
ようです。90歳を越せばあんな余裕が出ますでしょう
か?

宮崎奕保禅師曰く
「学びとは真似ること、一日まねれば一日のまね、三日
まねれば三日のまね、死ぬまでまねれば本物である」

うーん、90歳まではまだまだ時間がありますし、死ぬ
のにもいささか時間があるようですので、それまでは、
おばあさんの真似をしてみようと思います。

さあ、今日も草と遊んでもらおうか。
                                 

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2009/05/11~20   鯉のぼりに学ぶ

    
講師 香川県 報四恩精舎 野田 大燈 師
    

時は五月。まさに五月晴れの大空が広がっています。

五月五日のこどもの節句はとっくに過ぎていますのに、
大空には鯉のぼりが悠々と泳いでいます。

じっと眺めていた私は、ふと思いました。アメリカやヨ
ーロッパ、そして中国などには、日本の鯉のぼりに相当
するものがあるのかなあ、と。

でも、外国の風土に鯉のぼりは似合わないように思いま
した。やはり田植前後の田園風景と鯉のぼりは日本の誇
るべき風物詩ではないでしょうか。

そこで考えたのです。この鯉のぼりは、何時のころから
大空に泳ぐようになったのかと。

調べてみましたら、現在は子どもの日として国民の祝日
となっていますが、元来は中国五節句の一つで、五月五
日に軒先に菖蒲や 蓬を挿して粽(ちまき)や柏餅を食
べて邪気を祓う、と言う行事があったそうです。

江戸時代になって、武士の家が旗指物などの武家飾りを
門口に立てたのに対し、町人たちが滝をも登るとされる
出世魚のコイを幟として立てたことに始まっています。

近世以降は、男の児のいる家では鯉のぼりを立てて甲冑
や刀・武者人形を飾り成長を祝うようになったようです。

子どもは、男の子ばかりではありません。

三月三日は、女の節句として、女の児の成長と幸福を願
って部屋に雛人形を飾り桃の花や白酒・菱餅を供えます。

男の子、女の子に相応しい行事が伝統として今に残り、
行われているのは嬉しいですね。

お寺でも、季節の変わり目である立春の前日には、春の
節分として邪気を払い福を招く、として豆撒きの行持が
盛大に行われているところもあります。

改めて大空に舞う鯉のぼりを見ていて考えました。

どうしてあのように悠々・堂々と大空を泳げるのかと。

道元禅師様は、如浄禅師様の言葉を引いて「渾身ロに似
て虚空に掛かる」と言われています。つまり、気に入ら
ない風もあろうけど、総てを受け入れているからこそ悠
々なのですね。

鯉のぼりに学んだ私でした。
                                          

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2009/04/20~30   ケンカの後で

講師 高知県 淨貞寺  伊藤 正賢 師    
    
道で見かけた、見るからにピカピカの新入生、そろそろ
新しい環境に馴染んできたのではないかと元気な子供ら
の顔を見ながら、そう感じさせて頂きました。

私自身の小学校新入時の頃を思い出しました。

新しいお友達や、保育園で同じだった見慣れた顔のお友
達…。初めて会うクラスの先生…。それらの思い出とと
もに、友人とケンカをして担任の先生にまで手を煩わせ
たこと。

その時、自分はちゃんとケンカ相手の友人に謝ったのだ
ろうかと、ふと疑問を持ったのです。

然しながら、その友人とは、今もつまらない話に花を咲
かせながら杯を重ねている程ですので、お互いに謝りあ
っていたと望む自分が此処にいるのです。

法句経にこんな文言が示されています

「その報い、よも、われには来たらざるべし。かく思い
て悪しきを軽んずる事莫れ。水のしたり、したたりて、
水瓶を満たすが如く、愚かなる人は、ついに悪を満たす
なり」

これは、私達には些細な心の迷い、物のはずみといった
小さな過ちが、まさか自分に報いてこようとは思いもし
ないことがままあるのです。

しかし「小罪軽んずることなかれ」とは、古来仏教で言
われていることです。

でも、此処で言いたいのは、人間は最初から悪を志す人
はいないのです。

ただ、自他共に見過ごしがちな「小罪」を反省して、悪
の芽を一つ一つ、小さな新芽のうちに摘み取っていくか
それとも放ったらかしにして悪の芽を伸び放題にするか
否かと言うことなのです。

そうなるとどうなるか…、私達、善悪の感覚が鈍くなっ
てくるのです。

人間の私、時には夫婦げんかも致します。様々な些細な
ことが積み重なりケンカとなるのですが、そこは一つ一
つの小さなこと、間違い」と言う小さな悪を確認しあっ
て行かねばと反省させられることが多いのです。

特に小さな子供たちは、友人と沢山ケンカをした方が良
いように思うのです。

ただですね、ケンカをした後そのケンカの内容、それは
小さな過ちとして、ここが君は良くなかった。ここは、
君が正しかったと子供たちがお互いに相手を思い遣りな
がら確認しあって欲しいのです。

そうせねば、子供たちの怒りと言う水瓶がいつか満杯に
なってからでは遅いじゃないですか…。
                                         

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2009/04/11~20   天上天下唯我独尊

講師 愛媛県 宗安寺  能仁 洋一 師
    
    
今から約2600年前の4月8日にお釈迦様は、お母様
であるマーヤー婦人がお産のために実家に里帰りをされ
ている途中、ルンビニの花園でお休みになられた時に、
お誕生になりました。

お誕生されたとき、天は祝福し甘い雨が降り注いでお釈
迦様の身体を清めました。

すると、お生まれになられてからすぐにお釈迦様は七歩
歩かれ、右手で天をそして左手で大地を指さされ、『天
上天下唯我独尊』と言われたそうであります。

これは、「この世に自分より尊いものはない。つまりひ
とりひとりが一つしかない命をいただいている尊い存在
である。」いうことを意味しています。

今の世の中、痛ましい事件が後を絶ちません。

いじめであったり強盗であったり、殺人事件であったり
戦争であったり。こういった事件を聞かない日が無いと
いうこの現状。とても悲しいことであります。

これらは、お釈迦さまが言われた『天上天下唯我独尊』
この世に自分より尊いものはない。ひとりひとりが一つ
しかない命をいただいている尊い存在であるという精神
からはかけ離れております。

自分自身がこの世界において唯一の存在。そこまでしか
目に入らない。自分自身が世界において唯一ならば、あ
の人も、この人も、一人一人が、唯一の尊い存在なんだ
と認識できたならば、いじめることもないでしょう。

傷つけることも、まして、命を奪うことなんて考えない
はずです。

新年度を迎え、そしてお釈迦様の誕生日を迎えたばかり
であります。

もう一度、お釈迦さまが言われた『天上天下唯我独尊』
の教えをよくかみしめて、この新年度を共に日々精進し
てまいりたいものであります。
                                         

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2009/03/21~31   現今の世相に思う

講師 愛媛県 長命寺  清水 昭信 師    
    
芥川三平氏の(寝てしもた)と題する詩に
「さて人間ちゅうのは、めんどい生き物で朝昼晩飯を食
 わないかん、冬眠などの芸当もできんはてさて」
              銀杏 平成21年728号掲載

食べるということは、生きとし生けるものの宿命です。
宿命とはいえ、飽食の時代、人間の食べる事への執念に
は異様ささえ感じざるおえません。

昨年末の世界的な金融危機が引き金に成り、派遣社員の
解雇は『派遣切り』という冷たい風となり冬の巷を容赦
なく吹き抜け、一夜にして職を失い、住まいを追われ、
今日明日食べることすら儘ならない状況は全国的に多数
の方々に苦悩をもたらしました。

しかし、本当に有り難いことに支援団体による救済によ
り急場を凌いだ方も多数おられたことは、自分中心型の
社会世情を強く感じられる昨今、仏の教え、『修証儀』
で(布施行)「布施とは貪りの心を抑え、自分のもてる物
を惜しみなく相手に捧げる、また布施をしている人をね
たまず妨げす心から讃えることも立派な布施である」と
説かれています。支援活動は社会的な布施行といえます。

ただ、種々の支援救済により一時的な生活の保障は有り
ますが、生きがいをもち一歩を歩みだし、社会復帰を果
たせる方は数少ない現実があります。

金融危機以後、経済は落ち込み格差社会の様相は一段と
強まりを見せています。何とか歯止めは効かないもので
しょうか?

近くの古老が田圃(水田)見渡しながらこう言われまし
た。「年々、田圃が荒れていく、一度荒れてしまったら
米作りは大変だ。作物作りは土作りが第一じゃ。次の世
代はどうなるのかのう?籾一粒からどれだけの米がとれ
ると思う、田圃を守る事が儂の生きがいじゃったし、食
べるに困ったことはなかったのう・・・。」

一粒の籾からどんなに沢山の米がとれるかは言うまでも
有りませんが、この一粒を大切に育ててきたからこそ豊
かな生活の向上をもたらせたのではないかと思います。

一米粒(いちべいりゅう)を粗末にすることなかれ、足
ることを悟らず、先人が育んできた人に対し物に対する
精神文化を、今一度思い考えてみてはどうでしょうか。

寒い寒いと言いながら、三月春のお彼岸です。

菩提寺やご先祖のお墓参りをされる方も多いことと思い
ます。どうか、先人に感謝報恩の念をもたれ、一粒で結
構です菩提の種を蒔いて頂きたいものです。
                                         

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2009/03/11~20   お彼岸を迎えて

講師 愛媛県 西滝寺  福村 俊弘 師    
    
ついこの間お正月だと思ったら、二月はあっという間に
過ぎ、はや三月。春のお彼岸がやって参りました。

お彼岸とは”向こう岸に渡る”という意味です。

向こう岸は、仏の世界であり、真実の世界です。こちら
の岸は、今私たちの生きている迷いの世界です。

この両岸の間には、深い河があり、河にはとうとうと水
が流れ、水は煩悩という大きな力で、河を渡ろうとする
人々を押し流してしまします。

私たちは、常にこの煩悩にまどわされ、のみこまれ、迷
いの世界から抜け出すことができません。

仏教では、この迷いの世界から抜け出して、真実の世界
に渡るためには、次の六つの行いを実践しなさいと教え
ています。

その行いとは
一、施す方はおごらず、施しを受ける者はへつらわず、
  互いに感謝の気持ちを持ちましょう。これを布施と
  いいます。
二、悪い事をしない、良いことはすすんでしましょう。
  これを持戒といいます。
三、感情に流されず、苦しみ悲しみに堪えましょう。こ
  れを忍辱といいます。
四、怠ることなく、仏さまの教えにしたがいましょう。
  これを精進といいます。
五、あれこれ余計なことを持ちこまず、静かな心を保ち
  ましょう。これを禅定といいます。
六、ありのままの真実の姿を受けとめ、自分の損得をも
  ちこまないようにしましょう。これを智慧といいま
  す。

以上、この六つの行いを六波羅蜜といいますお彼岸は特
に、すべての人がこの六波羅蜜を実践する大切な時なの
です。
                                         

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2009/02/21~28   阿難よ。此の経は父母恩重経となずくべし

講師 愛媛県 安穏寺  島津 良雄 師
    
    
耳は二つあり口は一つ、聴く事は二倍以上聴けと昔から
言われますが、生きて元気でおればこそ聞く事も話す事
も出来ます。

私は二歳で死ぬる事に成っていました。

大正生まれの私は二歳を過ぎても少しも片言も話しませ
ん。檀家の方も地区の人々も「お寺の長男は全然ものが
言えないそうよ、可哀想よね」と噂し、それがいつの間
にか母の耳に入ります。

母は「この子が長く生きていても不幸の人生を過ごすだ
ろう。可哀想だ、私も共に不幸、一緒に下の池に飛び込
み死のう。自殺はお釈迦様の教えに反し、悪い事ですが
あなたを抱いて、二人で死ぬる事が二人の幸せと思い続
けているとき、大正十二年に関東大震災があり、子供の
晴れ着を被災地に送り、いよいよ決心した頃、何と不思
議、人一倍も喋り、話すようになって自殺しないことに
なったんですよ。今日、大学合格のお祝いができて、お
母さんは本当に幸せですよ。今まであなたを傷つけるか
ら話さなかった。」と母の涙ながらの話で、昭和十六年
春、駒澤大学合格の発表の日。私は大声で泣き叫んだ、
涙の祝いの日を思いだいます。

「父母恩重経」には「父母の恩重きことは天の極まり無
きがごとし如し」と再三説かれてています。

一説には「若しそれ子のために、やむを得ざることあれ
ば、自ら悪行を造りて悪趣におつる事を甘んず」と母親
の「業」を諭されている言葉もありますが、母の悩みは
大変であったと思います。

お釈迦様が王舎城で説かれた父母恩重経に「一切の善男
子善女人よ、父に慈恩あり、母に非恩あり、人の此の世
に生まれるは、宿業を因として父母を縁とせり、父にあ
らざれば生まれず。母にあらざればそだてられず・・」
と長々と説かれた父母恩重経の中に父と母に十の恩が有
ると説かれてあります。

母の思いつめたのは大八以造悪業の慈愛の教えです。

わが子の為にせっぱつまって、お釈迦様の教えに反して
まで、わたしを抱きしめて下の池で自殺まで思いつめた
母の尊い恩に感涙した一日でした。

恩の字をよくよく見れば、因という字の下に心を書いた
恩の字であります。私が米寿まで生きたことは父母、先
祖、母の慈愛のお陰であります。

二月は逃げる月、もうすぐ三月、お彼岸の月です。我が
家に昔からつたわる延宝三年に印刷された父母恩重経を
今年も涙して読み父母の恩に報いたいと思います。

年に一回は父母恩重経を読みましょう。
                                         

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2009/02/11~20   釈尊涅槃会によせて

講師 愛媛県 金剛寺  生田 公文 師    
    
お釈迦さまが説かれた、数々の教えの中に「仏説父母恩
重経」という教えがあります。

その言われているところは、子供を持って親となり、は
じめて親を憶う気持ちになったとき、その時は、すでに
遅きに失した。という憶を反省させられる内容の教えで
す。

親子断絶がいわれて久しい昨今、このお経により世の中
をいかに生きるべきかを教えられます。

これをお伝えされた方は「仏の十大弟子」の一人阿難尊
者という方です。

阿難様は、八歳の時出家をされ、修行に励まれました。
特に「父母の恩とは何か」「父母の愛とは何か」という
ことを深く学ばれ、人間関係と親子のかかわり合いを教
え示されました。

これが今は伝えられたところの、「父母恩重経」と称さ
れているお経です。

人々は、父母の恩と愛情を目一杯受けて育てられ、やが
て社会へと旅立ちます。心穏やかに、健康に、幸あれと
願いつつも、世の中、なかなかそんなに上手くはいかぬ
ことばかりです。

仏教思想の中に「煩悩」という言葉があります。

この「煩悩」一切を総称して、八万四千煩悩、あるいは
百八煩悩といいます。人間は皆んなこの沢山の煩悩に悩
まされて生きています。静かな心を失い、悟りの妨げに
なると、仏教思想にはあります。

しかし幸いなる哉、禅門においては、この「悟」と「煩
悩」という二者を別のものとはしない、相い反するもの
とはしないという教えがあります。

それは「煩悩即菩提」という教えです。

煩悩大いに結構、煩悩とともに生きよう、煩悩の中で生
ききる。人間らしく力強い、すばらしい生き方ではあり
ませんか。それ故に「人間とは考える動物である」とい
われるのかも知れません。

二月十五日は釈尊涅槃会の日です。父母や周りの人々に
沢山の御恩をいただいて、今日まで来ました。その多く
の人々も即にこの世を去り黄泉の国へと旅立たれました。
                                         

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2009/01/21~31   釈尊涅槃

    
講師 愛媛県 極楽寺  高木 英教 師
    
もう間もなくですが、2月15日はお釈迦さま、釈迦牟
尼仏の涅槃、お亡くなりになった日です。

お釈迦さまは、お涅槃を悲しんで集まった弟子や信者に
対して、最后の説法、尊い教えを説かれています。

このことは、お釈迦さまのご遺言とも云われる仏遺教経
あるいは単に遺教とも云われるお経の中で説かれていま
す。

『世は皆、無常なり、会うものは必ず離るることあり。
憂悩を懐くこと勿れ、世相是の如し。当につとめて精進
して早く解脱を求め、智慧の明を以て、諸の痴暗を滅す
べし』

この世に定在不変のものは何一つ無く出会うものはいつ
か必ず離れる定めにあるのだ。憂い悩むことなかれ。こ
れこそは世の常の姿なのだからこそ、皆努めて精進し、
もろもろの生き物が生じては滅し、滅しては生ずるこの
無常の世界を早く逃れ出て、知恵の明かりをもって、も
ろもろの煩悩、悩み苦しみをなくしなさい。と、お説き
になられました。

この世の中は実に危うくて、もろいものだ。朝、元気に
出かけて行った人が、夕方、無事に帰って来られるとは
限らぬように、堅固で確実なものは何一つとしてないの
だ。

このことは現代社会にも通じ、身につまされるところで
す。

お釈迦さまは、最後の教えとして

あなた方弟子たちよ、常に一心に勤めて生死の世界を逃
れ出て、まことの安楽に到る道を求めなさい。時はまさ
に過ぎようとしている。私は何の憂いもなく、やすらぎ
に入ろうとしている。
                                         

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2009/01/11~20   心の豊かさ

    
講師 徳島県 法泉寺  杉生 忠光 師
    
新しい年を迎えることが出来、年が重ねられることの感
謝する日々を送る中、世間では末世が近いといわれます
が、何を根拠に言われているのか考えてみました。

末世とは辞書にこの様に書いてあります。“時代の終わ
り”“滅びかかった時代”“仏法の衰えた世の中”“人
間の倫理観、人として踏み行うべき道、道徳、善と悪を
判断できる人間本来の愛と慈悲の心が欠落する時代”な
どとありました。

また、昨年日本漢字能力検定協会より募集された漢字の
中から選ばれ、京都清水寺森清範貫主様が書かれた漢字
は「変」でした。

ここ十年ほどで日本古来より積み重ねてきた心の文化が
失われてきた結果、社会・日本が変になったように思わ
れます。

国民が“夢”をもてず、倫理観を失い、世界企業の看板
方式が物流に止まらず、利益追求の名目で目先のことだ
け考え、雇用・解雇も簡単にすまされる。

そして、子供を生むのに安心して生めない医療体制、お
年寄りに不親切な福祉・年金問題、目的をもてない若者
が心の豊かさを無くして、善と悪の区別すらできない自
分さえよければいい時代になってしまったのかとこころ
が痛みます。

日本古来の文化は“人は石垣”“人は城”“駕籠に乗る
人、担ぐ人、そのまた草履を作る人”夫々の人々が誇り
を持って仕事をしていた日本の国だあったと思います。

“はい”と言える尊敬の心
“ありがとう”と言える感謝の心
“ごめんなさい”と言える反省の心

三つの心で無関心な自分を戒め“物質の豊かさ”を追う
時代を終わらせ“心の豊かさ”を求める時代へと変革し
たいものであります。
                                         

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2008/12/21~31   煩悩即菩提

    
講師 高知県 永源寺  島崎 敬童 師
    
早いもので、平成20年も終わろうとしております。

若いころは、新年への期待が大きかったのですが、歳の
せいか最近は、行く年を惜しむ気持ちの方が大きくなっ
てきたような気がいたします。

しかし、いくら惜しんでも時は無常に過ぎて行きます。
そして今年もまた1年最後の日、大晦日を迎えます。

大晦日の夜半から元旦にかけて、日本全国各地のご寺院
様で除夜の鐘が鳴り響きます。

人間の持つ百八の煩悩を取り除くために百八回鐘を衝く
のが古来よりの慣わしであります。僧侶はひとつ鐘を衝
くごとにお拝をいたします。百八の鐘を衝くのに一時間
以上はかかるものです。

さてこの、煩悩とは、欲望や怒りといった、我々の心と
体を悩ませ、正しい判断の邪魔をする心の働きを言いま
す。

ストレスなども現代の煩悩のひとつではないでしょうか。

では、この煩悩を克服あるいは解決する方法はあるので
しょうか?

中国、唐の時代の禅僧、趙州は「どうすれば煩悩を免れ
ることができるか?」と問われたとき、「免れてどうす
るのだ?」と答えたそうです。

人類は大昔から数々の苦悩と対自してきました。その中
には、解決不可能な問題も多々あります。

たとえいくらかの悩みは解決できたとしても、また新た
な問題が煩悩やストレスとなって、我々を襲い続けこと
でしょう。

悩みのために悩むことをやめて、解決できない問題もあ
ることを自覚し、必要以上に考えない、思い悩まないこ
とが大切ではないでしょうか。

訪れる新年が、皆様にとりまして、煩悩や悩み事の少な
い希望に満ちたすばらしい一年となりますよう心よりお
祈り申し上げます。
                                         

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2008/12/11~20   成道会

    
講師 愛媛県 天福寺  宇野 弘倫 師
    
12月の宗教行事といえば、みなさんはキリスト教のク
リスマスをすぐ思い出されることでしょう。

実は仏教の方でも、とても大切な行事があちこちのお寺
で行われます。

それは成道会といって、お釈迦さまがお悟りを開かれた
日をお祝いする行事です。

仏教には三仏忌といって、お釈迦さまがお生まれになっ
た4月8日の花まつり、そして12月8日の成道会、い
ま一つはお亡くなりになった2月15日の涅槃会があり
仏教徒は最も大切な日としております。

さて、12月8日は成道会。

29歳で出家されたお釈迦さまが、難行苦行6年の末に
お悟りになったのは、人間の歩むべき真実の道、仏さま
の教えでした。

身も心も疲れきった修行者お釈迦さまは、村の娘スジャ
ータから乳粥を供養されます。

コーヒーに入れるミルクの商品名に「スジャータ」とい
うのがありますね。あれは、お釈迦様に乳粥を供養した
村娘の名前なんです。

12月1日、元気を取り戻されたお釈迦さまは、大きな
菩提樹の下で静かに坐禅を組まれます。そして8日目の
朝、明けの明星のなかで、仏さまの教えをお悟りになっ
たのです。

それからのお釈迦さまは説法の旅ひと筋の人生でした。
80年の生涯を終えられるまで、休むことなくそれはつ
づきます。

そして現代。

2500年もの年月を経ても、輝きつづけているお釈迦
さまの教えを思うとき、お悟りの日、成道会を心からお
祝いしたく思うのは、仏教徒ならだれしものことです。

なぜなら、12月8日こそ、仏教の出発点だからです。
12月8日のお悟りがあればこそ、私たちはみ仏のみ教
えに生きることができるのです。

どうぞ、あなたも仏教の出発点、成道会をお祝いしまし
ょう。
                                         
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2008/11/11~20   老いを生きる

    
講師 愛媛県 吉蔵寺  福田 尚文 師
    
人間が、いかに生きるかと云う事は、簡単なようで難し
いことであります。

人が幸せに元気で人生を送る為には、一人ひとりの心の
中に自分自身を愛する気持ちが必要です。

人生は楽しいことばかりではなく、苦しいこと、悲しい
こと、色々の悩み事を抱えて生きています。その悩みの
元として、老、病、死といわれる苦があるのです。

若いときには気にもしなかった事が、高齢になるとさら
に苦が増します。老いは必然的にやってきます。

家族や親しい人との死別や離別、収入の低下による経済
的自立難、健康不安、社会とのつながり等、さまざまな
苦難体験が重なり、これが老人のむなしさ、空虚感を増
大していきます。

特に社会活動から離れることで、生きがいを失い、自分
はこの世で必要とされていないと思う気持が起こった時
それがさらに老化を進める事になっていくのです。

中高年期、このように生きるのが大変な時期なのです。

けれども、人は生きていかねばなりません。悩みを抱え
て苦しんでいる人の多くは、自分だけが苦しんでいると
思いがちで、心を閉ざし、ついにはこの苦悩から抜けだ
せず、心も体も病気になります。

そうならない為には、心を少し開いて、その苦しさを誰
かに聞いてもらうことが必要です。

その相手には、菩提寺の和尚さん、信頼の置ける友人、
知人、家族です。

相談を受けた人は、その話をよく聞いてあげて答えが出
なくても、相談した人は、心が「いやされる」のです。

老い、病、別れ、死、は自然の事です。人がそれぞれ出
会う条件を静かに受け入れることです。そして生かされ
ていた事に感謝しながら、人生を終りたいものです。
                                          

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2008/10/21~31   愛語はことばなり

講師 愛媛県 栖源寺  河野 道孝 師
    
日頃、私たちがお唱えしている「修証義」というお経の
中に「愛語」という言葉が出てまいります。

愛語とは、愛するに国語の語と書きます。

道元禅師様は「正法眼蔵」の中で「しるべし、愛語は愛
心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり」という句を残
されておられますが、愛語は愛欲とか渇愛、苦しみから
のがれたいというような自己中心的な愛の言葉とは違い
ます。慈悲による他人への博愛の愛のことであり、慈悲
心からの言葉が愛語である、と示されております。

たとえば、母親が自分の赤ん坊をみるように子供の為に
つくすように、すべての他人に対しても同じように慈愛
の念を忘れないことも愛語であると言われています。

言葉はとても便利なものです。お互いのコミュニケーシ
ョンをとるのに必要不可欠のものです。一年一生の間に
どれほどの言葉を喋り、聞いていることでしょう。

そんなに多くの言葉に毎日接していても、時として、た
ったひとつの言葉が相手を深く傷つけ、一生その言葉が
心を痛め続ける事もあります。また反対に、たったひと
つの言葉が、その人を勇気付け、一生の支えになること
もあります。

最近、特に気になっていたことがありますが、それは、
通り魔により多数の人々を一瞬にして傷つけてしまった
り、自分の我子を傷つけてしまったり、という信じ難い
犯罪のニュースを聞き、いったいどうしたんだ、何故な
んだという疑問と共に、たいへん心苦しく感じていると
ころであります。

私達は言葉に、思いやりや願いや祈りを込めることがで
きるのです。

広い意味で、この愛語の心を忘れないことが大切だと思
います。人と人、心と心を繋ぐ架け橋こそ愛語であり、
言葉なのです。

何時でも、何処でも、誰にでもできる事、心をこめた挨
拶、おはよう、こんにちは、ありがとう、これらの言葉
も、思いを込めれば「愛語」となるのであります。
                                          

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2008/10/11~21   和顔愛語

講師 高知県 願成寺  伊藤 郁宥 師
    
天高く馬肥ゆる秋、などと云いすごしやすい好時節ですが
日常の食生活を今一度見つめ直してみたいものです。

この夏は感動を一杯もらいました。スポーツを通して、う
れし涙くやしい涙と人々に感動をあたえたオリンピック、
パラリンピックでした。やれば出来る努力すれば必ず納得
しうることを教えてくれました。

人私生活の中にも努力すれば必ず人々に感動を送ることが
あります。

其の中に、和顔愛語と云う言葉があります。

修証義というお経の中に「むかひて愛語をきくは、おもて
をよろこばしめこころを たのしくす。むかわずして愛語
をきくは肝に銘じ魂に銘ず」とあります。

なかなか日常生活を実践しているかと云うと 言うは易し
行うは難し というのが実感ではないでしょうか、穏やか
な表情、やさしい語りかけですが、その精神は他人への思
いやりなのです。

道元禅師のことばに「人間と云うのは面と向かってやさし
い言葉を聞けば心に刻んで忘れないものだ」と、云ってい
ます。

一寸した言葉で人を傷つけ、一寸した言葉で救われます。
相手を思いやった、いたわりの言葉をかけたいものです。
「ありがとう」「ごめんなさい」この二つが素直に言える
ように務めたいものです。私たちもお互いに幸せになるよ
うに努力したいものです。慈愛に満ちた言葉を耳にするの
は気持ちのいいものです。

たかが言葉ではないのです。

西洋のある哲学者は「言葉は存在の家である」とまで言い
ました。言葉はまさに愛語でなければならないのです。み
んな素敵な笑顔で思いやりのある和顔愛語でありたいもの
です。

本当はね みんな素敵な笑顔を持っているのです みんな
がいい種をまきましょう。
                                         

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2008/09/21~30   彼岸の一歩

講師 香川県 見性寺  北口 善則 師
    
「暑さ寒さも彼岸まで」といわれますように、春の彼岸
頃になりますと寒さも薄れ、秋の彼岸頃になりますと残
暑もなくなってまいります。

さて、お彼岸を迎えております。平生は生業に忙しく追
われ、仏道修行をしたり、善根功徳を積むことが容易で
はない此岸の住人ではありますが、一年のうちで大変過
ごしやすいこの彼岸の一週間、仏道修行にふさわしい季
節、少しでも彼岸(仏)に近づく日暮れを心がけていた
だきたいものです。

彼岸(仏)に近づく日暮れとは、一体どのようなものな
のでしょうか。

『正法眼蔵』に「仏となるにいとやすきみちあり、もろ
もろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆
生のために、あはれみふかくして、かみをうやまひ、し
もをあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふここ
ろなくて、心におもふことなく、うれふることなき、こ
れを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ」

諸悪を作さず、善きことを身をもって行う。誰でもが知
っている当たり前のことです。

お彼岸は、ご先祖さまに感謝しご供養するとともに、仏
道修行の期間です。まず、誰でもが知っている、当たり
前のことから初めてみてはどうでしょうか。

諸悪を作さず、善き行いを心がけて、彼岸をお過ごしく
ださい。
                                         

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2008/09/11~21   彼岸に向けて

講師 徳島県 江音寺  矢野 通玄 師
    
暑さ寒さも彼岸までの言葉が、今年は通じるのでしょう
か。ご先祖様はお盆に帰ってこられ、今年の暑さをどの
ように思われたでしょうか。

毎年思うことながら、どんな天候であろうと彼岸が来る
と田んぼの畦に彼岸花(まんじゅしゃげ)が咲きます。
この時期にしか咲かない、咲けないこの花は、今年の厳
しい暑さに対応し、何時もと変わらぬ花を咲かせてくれ
るでしょうか。

お釈迦様は、人間は生まれながらにして仏であると説か
れ、道元禅師様は、仏であるが故に日々の勤めを怠って
はいけないといわれています。

仏仏祖祖皆凡夫なり。凡夫の時は、必しも悪行あり、悪
心あり、痴もあり、然あれども尽く改めて知識に隋いて
修行せしゆえに皆仏祖と成りしなり

彼岸は生きている者の修行期間でもあり、仏であるとい
う自覚を持つことのできる時でもあります。

足を組み背筋をまっすぐ伸ばし、息を整え坐った坐禅の
姿は仏様の姿であり、合掌し神仏・ご先祖様を拝む姿・行
為は、仏の道の実践「仏道」であります。

合掌とは、ただ左右の手と手を合わせるだけではなく、
指と指の間を開けず、中指の高さが自分の鼻まで、顔に
近づけすぎず握り拳一個ぐらい開けた形が、正しい合掌
の形です。頭を下げた時もこの形はくずさないようにし
ます。

仏道の実践として、日頃お唱えする修証義第四章の中に
四つの徳目が示されています。「布施」自分の持ってい
るもの形あるものでも、心でも分け与え、「愛語」いつ
もニコニコ笑顔で、「利行」他人のためになる行いをす
る「同事」仏の教えられた行いをみんなが他人の身にな
って行動する。

彼岸を迎えるにあたり、自己をみつめ、自己にめざめ、
今の生活が仏の生活であることを自覚して仏道を実践し
て下さい。
                                         

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2008/08/21~31   父母の恩

講師 愛媛県 宗安寺  能仁 洋一 師
    
先日、地元で同窓会をした折、友人たちから、ゆくゆく
は地元に戻ってきてご先祖様のお墓を護って行きたいと
いう話が出ていました。

私の地元は山奥の小さな集落ですので、同級生も十人ほ
どではありますが、みながそんな気持ちでいる事に何と
もいえない嬉しさを覚えました。

お経に『父母恩重経』というものがあります。

これは、お釈迦さまが父母の恩がどんなに尊いものであ
るかを説かれたものであり、その中に、父母に対して十
の尊い恩があるとお示しになられております。

一には、懐(かい)胎(たい)守(しゅ)護(ご)、懐妊中、母
    が子を守護してくれた恩。
二には、臨(りん)産(さん)受(じゅ)苦(く)、出産の時、
    苦しみに耐えてくれた恩。
三には、生(しょう)子(し)忘(ぼう)憂(ゆう)、出産後、
    それまでの苦しみを忘れてくれた恩。
四には、乳(にゅう)哺(ほ)養(よう)育(いく)、乳を飲ま
    せ、養育してくれた恩。
五には、廻(かい)乾(たい)就(しゅう)湿(しつ)、子に乾
    いた場所をゆずり、湿った所に寝てくれた恩。
六には、洗(せん)灌(かん)不(ふ)浄(じょう)、この不浄
    物を、洗いそそいでくれた恩。
七には、嚥(えん)苦(く)吐(と)甘(かん)、子に食物を与
    える時、口に含み、苦いものは呑込み、甘いも
    のを吐き出して与えてくれた恩。
八には、為(い)造(ぞう)悪(あく)業(ごう)、子のため、
    自らあえて悪業をつくってくれた恩。
九には、遠(おん)行(ぎょう)憶(おく)念(ねん)、遠くに
    行った子の安否を気づかってくれた恩。
十には、究(く)竟(きょう)憐(れん)愍(みん)、最初から
    最後まで、ひたすら慈愛をかけてくれた恩。

そして、この十の尊い恩に対し、子はどのように報いる
べきかも説かれています。

まず、外出した時、新鮮な果物や珍しい食べ物を手に入
れたら、持ち帰って父母に差し上げること。父母は歓び
自分が食べることをもったいないと思い、先ずこれを佛
・法・僧の三宝に布施するので、結果として菩提心(仏
道を求める心)を起こさせたことになる、と。

また、父母が病気になったら傍を離れず、自ら献身的に
看護すること。全ての事を、他人に任せることなく自分
で看護する。そして、日夜親の病気が癒えることを願い
常に報恩の心を抱いて、片時も忘れてはならない、と。

現代にあって、親が子を殺し、また子が親を殺すという
ニュースが後を絶たないのは、きっとお互いが父母重経
にあるこの『恩』というものが希薄になってきているか
らだと思います。

今一度、ここに自分が居るありがたさ、ご先祖様に両親
に、そして子供達に、心から『ありがとう』と言える感
謝の気持ちを心に刻み、日々精進していきたいものです。
                                         

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2008/08/11~20   お盆に想う

講師 愛媛県 雲祥寺  林 尚文 師
    
今年もお盆の時期がやってきます。

お盆と言って皆さんは、何を思い浮かべますか?

盆灯籠、きゅうりの馬、ナスの牛、お墓参りなどを思い
浮かべることと思います。

今では、見かけることも少なくなりましたが、お盆には
「精霊棚」というものを作り、その上に御位牌、野菜や
果物などのお供えを置き、盆灯籠をつけてお家のご先祖
様をお迎えして御供養をさせていただきます。

しかし、本当はご先祖様だけではなく、全ての霊、全て
の人が救われますように、という御供養なのです。又、
野菜・米・果物などをお供えするのには「五穀豊穣」へ
の願いと感謝の気持ちが込められているそうです。

このようにして飾られた「精霊棚」や「御仏壇」に向か
い手を合わせるのです。

皆の幸せを願い、全ての者を御供養させていただく、と
いうお釈迦様の思いが感じられます。そして、何よりも
私達が、家族が、健康で日々を過ごしている、というこ
とも大切な御供養なのです。

「子や孫の健康・幸せこそが親の願い」と、よく言われ
ます。お盆に戻って来られる御先祖様に家族が皆元気で
いることを見ていただき、御先祖様にいつも見守られて
いるというありがたさに気づき、感謝をする、これが本
来の「お盆」なのでしょうね。

今年のお盆には、このようなことを思いながら過ごして
みませんか。きっと御先祖様方も喜んで下さり、皆さん
も心温まるお盆になることでしょう。
                                         

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2008/07/21~31   お盆を迎えて

講師 愛媛県 観音寺  三好 真人 師
    
うっとうしい梅雨も終わり、夏も本格的になってきまし
た。私共もお盆の準備に追われる季節になってきます。

その時期に目に付く光景で時折、疑問に思う事がありま
す。

それは、お盆の最中にお墓参りをされる人達です。

私自身、子供の頃から、お盆には御先祖様を家の仏壇に
迎えてお墓参りするものだと教えられました。そしてい
ざ住職になってみて、お檀家さんの中から、お盆に間に
お墓参りをするのが、良いのかどうかを問われる事が多
々ありました。

これは、今現在のお檀家の方々、もしくはその身内の方
々からすれば当然の事かもしれません。

しかし先にも申しましたが、お盆に間は、自宅の仏壇に
御先祖様は帰ってくるものだと考えれば、その間は、お
墓ではなく、仏壇にお参りする方が良いのではないかと
思います。あえてお墓に行くとすれば、お盆が終わった
後、御先祖様がまた帰って行くお墓をきれいにしておく
という意味で掃除に行くのは、よろしいのではないかと
思います。

大事な事は、御先祖様を敬う心が一番大事なんです。

そしてこの機会に身内同士の縁や絆の大切さを再確認し
て頂く事だと思います。

最近は、兄弟、親戚が離れてしまい、中々一同に集まれ
なくなってしまっています。このお盆という機会に、御
先祖様がとりもつ縁を大事にしていただければ、御先祖
様も喜んでくださるでしょうし、何より良き御供養にな
るのではないでしょうか。
                                        

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