坐禅...自らに向き合えば、新しい自分にきっと出会える!

法話:新着

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新着の法話

2017/11/21〜30   四摂法(ししょうぼう)

講師 愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

皆さんは「誰かのために何かできないかな」と思ったこ
とはありませんか?仏さまは、他人のために役にたつと
いう事は、自分を救う道であり慈悲の心であると示され
ました。

仏教には慈悲の心の実践するための『四摂法』という教
えがあります。
布施(ふせ)分かち合うこと。
愛語(あいご)優しいことば。
利行(りぎょう)人のためになることをする。
同事(どうじ)相手の立場に立って物事を行うこと。
これを四摂法といいます。

皆さんは、托鉢をしているお坊さんを見たことはありま
すか?ある老僧が「托鉢をする時は、自分の誓願も大切
だが、何よりも相手の気持ちがよく伝わってくる。いろ
んな感情に出会う。」と話されていました。

最初、私はその意味がよくわかりませんでした。托鉢の
何たるかが、よくわかっていなかったからです。しかし、
災害で被災された方々の復興の一助にと托鉢を行った時、
老僧の話していた意味が初めてわかりました。

本当に多くの方が足を止めて浄財を寄せてくださいまし
た。大人、子供、会社帰りの方、学校帰りの学生さん、
買い物途中の女性からも善意を寄せて頂きました。浄財
を頂く側の私に手を合わせてくる方、「頑張ってくださ
い」「お願いします」と声をかけてくれる方、無言のま
ま寄進される方。お気持ちの表し方はさまざまでしたが、
被災地の為に何かしたい、困っている人を助けたいと思
っている人が多いことを感じました。

私は、この托鉢こそ四摂法の実践だと思いました。自分
のものを惜しまず与える布施の心。有難うございます、
頑張ってくださいという愛語の心。困っている人に手を
差しのべる利行の心。自分の事のように心配する同事の
心。四摂法のすべてが托鉢にはありました。

私たちはけして一人で生きているわけではありません。
生きていく上で、必ず繋がりを持ちます。その繋がりを
より良いものにしていく為には、人が喜んでいる時は共
に喜び、人が悲しんでいる時は共に悲しむ。共に歩む実
践こそが仏教の説く四摂法であり、慈悲の心なのです。
今から今日から、身近な人との関わり方から、始めてみ
ませんか?

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2017/11/11〜20   思いやり

講師 愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

私は、トイレ掃除をするときトイレットペーパーの先を
三角に折ります。この習慣は、十八年ほど前、福井の永
平寺で修行中に教えられました。

曹洞宗の修行は、禅宗なので坐禅は当たり前ですが、食
事、お風呂、掃除、生活のすべてが修行になります。修
行である以上、それぞれに作法がありその作法の中で生
活をします。

トイレ掃除の仕方にも作法があり、その中のひとつがト
イレットペーパーを三角に折るということでした。

あるとき、同輩と3人でトイレ掃除をしていたときのこ
とです。先輩による掃除の点検中にトイレットペーパー
が三角に折れていないことを指摘されました。

先輩は低い声で、聞いてきます。「どうしてトイレット
ペーパーは三角に折るかわかるか。誰か、答えてみろ」
「はい、トイレを掃除し終わったということです」と友
人が答えます。すると先輩に「ここはホテルではないぞ」
と問い返されました。それならばと、私は「道元禅師様
の教えだからです」と答えました。

曹洞宗は鎌倉仏教です。道元禅師様の時代にトイレット
ペーパーがあるわけがありません。それなのに先輩は、
「そうだ、その通りだ」と真顔で答えたのです。

「え?当たった?」私は内心驚きましたが、先輩はさら
に続けて「じゃあその教えとはなんだ?」私はその先を
答えることができませんでした。「わからないなら明日
もトイレ掃除だ」と言い残して先輩は戻って行きました。

私は焦りました。答えがわからなかったら毎日トイレ掃
除だ。必死で考えましたが、答えは出てきませんでした。

トイレ掃除がそれから三日続き、あきれた先輩から「三
角に折ってあったら使いやすいだろ、相手に対しての思
いやりの行動だ。思いやり、それが道元禅師様のみ教え
だ」と答えをいただきました。

私はその時はじめて、トイレットペーパーの三角折りが
次に使う人の為、取りやすいようにという思いやり、慈
悲のこころの行いだったのだと気づかされました。私は
トイレットペーパーの三角を見るたびそのことを思いだ
します。

思いやりを行動にいたしましょう。

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2017/10/20〜31   脚下照顧(きゃっかしょうこ)

講師 愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

あるお寺の掲示板に、次のような言葉が書かれていまし
た。

履物をそろえて脱ごう
心がおちつく
履物が乱れていたら
そっとそろえておこう
みんなの心がおちつく

皆さんは、普段から履物を揃えておられますか?実は、
先日、約束の時間に遅れそうになって急いで出かけた
ところ、忘れ物をしたのに気が付いて、慌てて履物を
揃えないまま、それを取りに戻りました。間の悪いこ
とに、ちょうどそのとき小学校一年生の子供が学校か
ら帰ってきて、「お父さん靴が反対だよ!」と言われ
ました。

私はつい、「いいのいいの、すぐ出るから」と言って
しまいました。しかし同時に、(あっ、違う。そうじ
ゃない。どんなに急いでいても言い訳にならない)と
思い直し「そうだねお父さん靴反対に脱いでいたね」
と真っすぐに直しました。

子供は笑いながら「急いでいても靴は揃えないとだめ
だよ」と言っていました。

これくらいまあいいかと思う少しの油断が、私の行動
に現れた瞬間でした。履物を揃えるのに、すぐにまた
出るとか、ちょっとの時間だからとか、そんなのは関
係ないことですね。

では、なぜ履物を揃えなければならないのでしょうか?

お寺の玄関で「脚下照顧=きゃっかしょうこ」という
額を見かけることがあります。禅宗のお寺では好んで
使われる言葉で、一見すると「脚元を見なさい、履物
をそろえましょう」というふうに解釈されがちです。

しかし、真意はもっと深いところにあります。脚下と
は自分の足もとのことを指していますが、単なる足も
とではなく、現在只今の自分ということであり、今の
自分自身を考えさせる言葉なのです。

今の自分を考えるには、心に余裕がないと出来ません。
どんなに忙しいときでも、急いでいるからこそ履物を
そろえて脱ぐくらいの心の余裕が必要です。履物を揃
える心の余裕が、今の自分を知ることに繋がります。
あなたが今脱いだ履物、きちんと揃っていますか?

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2017/10/11〜20   今、ここ

講師 愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

私は以前、十年ほど札幌のお寺でお世話になったことが
あります。この時大変目をかけてくださった、ご老師が
おられました。

そのご老師が八十代になり、体の調子も悪く、一緒に法
要お通夜に行く機会も減ってきましたある日、久しぶり
にご一緒にお通夜に出かけることになりました。

お通夜の後の法話の時、ご老師の話が突然止まりました。
私は『あれっ?』と思いましたが、法話はそのまま終わ
ってしまいました。

お通夜からの帰り道、ご老師が突然、「生きるとはどう
いうことだと思う?」と聞いてきました。私は少し考え
「目的を持って、それに向かって生活することではない
でしょうか?」と応えました。

するとご老師は「若い人にはそれも大事だね。でも、健
康な人はいいけど、なかなか目的が持てない人もいる。
誰もが健康にゆっくりと歳を重ねるってことは出来ない
のだよ。」と言われました。

私は「では、生きるってどういうことなのですか?」と
たずねると、「今、ここに存在しているということだ。
今のこの一瞬だ。今日お通夜のお話が突然止まったのも、
今の私の姿だ。昔はすんなり出来たものが、今は出来な
くなった。そんな今の自分をどう受け入れるかだ。」と
話されました。

私たちは生老病死を受け入れられないから苦しみます。
誰もがこの苦しみを嫌い、思いたくないと感じます。過
ぎ去ったもの、出来なくなる恐怖、移り変わる自分を観
察したとき、過去を追ってしまいます。

生きがいを持つ、目的を持つ、大切なことですが、その
目的や、生きがいを、果たし探すために私たちは生きて
いるわけではないという事、自分のすべてを受け入れ、
ただひたすらに今を生きる、体が動く限り自分のあたえ
られた役割を果たす。ご老師が最後に私に教えてくれた
ことです。

今日という人生をいかに生きるか、限りある命を感じる
ことができれば、私たちの生き方は必ずかわります。皆
さんにとって生きるとはどういうことでしょうか?

生きているのは今日只今。今、ここにいる私。今、ここ
にいるあなたです。

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2017/09/21〜30   恩返しは恩送り

講師 高知県 予岳寺 濱田道圓師

先日、あるご婦人のお葬式に出向きました。その方には、
お二人の小学生のお孫さんがいらっしゃいました。

お通夜の席から、翌日のお葬式まで下の男の子のお孫さ
んは、大声は出さないにしろ、普段経験しない雰囲気に
興奮したのでしょう。ウロウロして落ち着きのない様子
でした。

しかし、葬儀が終わり、斎場に赴き、お棺を炉に入れた
直後でした。文字通り、堰を切ったようにその男の子が
激しく泣き始めたのです。ゆっくり閉まる仕切りのドア
の向こうのおばあさんに、声にならない声を、嗚咽に混
ぜ込んで送っておりました。はっきりとは聞き取れなか
ったのですが、「おばあちゃん」という声が私の耳に届
きました。

拾骨が終わり、初七日の法要後、私はお孫さんに次のよ
うなお話を致しました。

「今日、火葬場で君の涙が私に教えてくれたことが三つ
ありました。一つめは君が本当に、おばあちゃんのこと
が好きだっただなあってこと。二つめはおばあちゃんも、
君のことが本当に大好きで君にとっても優しく接してい
たんだろうなあってこと。三つめは本物の愛情を君は知
っているということです。
辛いことだけれども、この世の中には大好きな人、大切
な人といつまでも一緒にいたいなあと思っても、いつか
は必ず、お別れしなければならないという苦しみがある
んだ。そのことをおばあちゃんは今日、君に教えてくれ
たんだよ。その苦しみを知った君には、同じ立場になっ
たお友達や周りの人の気持ちがよく分かるようになるは
ずだ。君が心の底から優しい言葉を掛けることができる、
優しい人間になって欲しいって、きっとおばあちゃんは
願っているよ。」と。

死とは、苦しみ、悲しみ、或いは後悔を伴うお別れです。
同時に、故人から頂いた愛情と御恩を振り返り、向き合
う機会でもあります。その愛情、御恩を自分自身に留め
置くだけでなく、周りの方に向ける行い。いわゆる恩送
りも、故人への供養、恩返しのひとつかもしれません。

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2017/09/11〜20   初心

講師 高知県 予岳寺 濱田道圓師

私の師匠は現在満九十歳。数え九十一歳になり、今年で
住職として七十五年を迎えます。昭和十七年に先の住職、
師匠の父が急逝し、弱冠十六歳の時から、お檀家様のご
支援を頂きながらお寺を護持しております。

師匠は折に触れお檀家さんに「故人の夢は見ますか?」
と尋ます。たいていの方は「いいえ見ません。」とお答
えになります。それを聞くと師匠は「そうですか。きち
んとご供養できましたね。」などと返します。

けれども、一度だけ、いつも通りの答えに加えて、「実
は私は母の夢を時々見るのです。」と話したことがあり
ます。

前述した通り、師匠は長きに亘り当山を護持し続けてま
いりました。然しながら、師匠の中には、未だ母の願い
に応え尽くせていない、御恩に報いきれていないという
思いがあるのではと感じられずにいられませんでした。

師匠は、早くに夫に先立たれたことに加え、お檀家様の
少なかった当山の先行きを案じて涙する母を見て、十代
でお寺を護持する決意を固めたそうです。その初心を忘
れることなく、また母の涙を心に刻み続けていることに
私は心動かされました。

『相続也大難』と言う禅語があります。「初心を保ち続
け、行いを継続していくことは大変困難なことである」
という意味です。

初心を保ち続けるという事は大変難しいことです。私た
ちは長年同じ境遇にいて同じことを繰り返していますと、
慣れが高じて、何となく惰性で繰り返すだけになりがち
です。或いは又、慣れ親しんだことだから、集中しなく
ても努力しなくても出来ると慢心してしまいがちです。
今の自分が誰かのお役に立てているのか、正しい行いが
出来ているのか、常に自らに問い続け、今を積み重ねて
いきたいものです。

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2017/08/20〜31   かんのんさまの眼

講師 高知県 予岳寺 濱田道圓師

皆さんは観音様をご存知でしょうか?日本では最も身近
と言って良い菩薩様です。観音様はこの世の生きとし生
けるものすべてを救うため、相手の苦しみに合わせてそ
のお姿を様々に変えてお救いになることでも知られてお
ります。

先日、当山に於いて、曹洞宗管長猊下の特命を受けて派
遣された和尚様による法話の催しがございました。

ご説法の前日に特派布教師様をお迎えしての粗宴を設け
たのですが、その席で特派布教師様にこうお尋ねました。
「今まで聴衆が少ない教場は何名くらいでしたか?」と。
そのお答えは「6名」でした。

私は驚き、重ねてお聞きしました。「その人数でご法話
は出来たのですか?」と。すると「いやぁ、普段してい
るようなお話は出来ませんでした。そこで、演台を下り
座布団を敷いて、お茶を飲みながら車座で世間話の体で
させて頂きました。」とのお答えでした。

特派布教師様が演台を下りられ、聴衆と車座になって同
じ目の高さでお話される姿を思いうかべたとき、そのお
姿が私には観音様と重なりました。

相手との距離を縮めたいと願うときには、相手の気持ち
をなるべく理解しようとする意志が必要です。その意志
を持ったとき、自分の目の高さは自ずと、相手の目の高
さに近づきます。なぜなら、相手との最短距離は上から
でも下からでもない、同じ高さでの距離なのですから。

いつでも、どこでも、どんなときであっても、相手と同
じ目の高さを持つ観音様の目を心がけましょう。同じ目
の高さになった時、はじめてお互い気持ちが通じやすく
なり、『あなたと共に』の心が生まれてくるというもの
です。今までとは違った見方や感じ方が出来る、新しい
自分自身に気付くはずです。

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2017/08/11~20   お盆によせて

講師 高知県 予岳寺 濱田道圓師 

今年も季節は巡りお盆を迎えます。
御存知の通りお盆は御先祖さまが皆様の元に帰ってこら
れる期間と言われております。

お盆のお勤めに車で移動していると、ラジオからは盛ん
に帰省ラッシュや高速道路の渋滞情報が聞こえてきます。

お勤めに伺ったご家庭では、暑い盛りに長旅でぐったり
しながらも故郷に帰ってきた息子さんや娘さん、そして
お孫さん。お孫さんを見て、顔を綻ばすおじいさん、お
ばあさん。久しぶりの再会に戸惑いながらもいつの間に
か、所狭しと家中を駆け回る子どもたち。酒を酌み交わ
しながら、近況の報告、昔話に花を咲かせる大人たち。

そんな様子を、微笑みながら静かに見守っているのが、
きれいなお花や沢山の心づくしがお供えされた霊壇の向
こうの、ご先祖様の遺影です。

そのような光景を目にし、温かい雰囲気を感じておりま
すと、盂蘭盆会御和讃の「みほとけを よろこび迎えし
盂蘭盆会 いのちの集い 有り難や」という一節を思い
出します。

それぞれの人がそれぞれの生活を営みながらも、なんと
か都合を合わせて一堂に会し、ご先祖様を迎えること。
悲喜交交、繰り返す人生を懸命に生きるその姿を、お互
いが励まし合えること。無事に集まれたことを喜び合え
ること。そこにお盆の行事の有り難さを感じます。

皆様が、慈しみ溢れるお盆を過ごされることを心より願
っております。

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2017/07/21~31   知っているということ

講師 徳島県 城満寺 田村航也師

私は学生のとき、インドの宗教を勉強いたしました。仏
教がインドから伝わってきたということで、そのインド
の宗教を、仏教を含めて、勉強しようと思ったのです。

インドの言葉も学習して、宗教書もいろいろ読みました。
そして、いよいよ現地調査をしようと、勇んでインドの
高名な宗教者のもとに、乗り込んで行ったのです。

インドという国は、私たちの母国日本とはかなり様子が
異なっていました。

たとえば有名な話では、インドの方々はご飯やおかずを
手で食べるのです。なかなか慣れることができず、イン
ド人の友達に、「インドでは手で食べるけど、清潔感が
ない」と言いました。すると友達は、「そんなことはな
い!食堂の食器なんて、私達の前に誰が使ったか分から
ないぞ!それに引き換え、自分の手は、世界で唯一、自
分だけの食器じゃないか」と言われて、なるほどと唸っ
たことがありました。

そんな経験をしながら、宗教者のところに参りました。

その方は、「この宗教書を知っているかね」と私に尋ね
ました。勉強したことがあったので私は、「はい、知っ
ています!」と答えました。するとその方は、このよう
に言いました。「そうか!では、冒頭の部分から言って
みなさい」

私は、顔を真っ赤にして俯きました。勉強して全体の内
容は頭に入っていても、まさかすべて暗記はしていなか
ったのです。

「頭に入っていなければ、実践もできないではないか」
と、その方は言いました。

インドでは、『知っている』というのは、『隅から隅ま
で頭に入っている』さらには、『その知識を実践してい
る』ということだったのです。

昔は私たちも、漢文の素読や、古典の暗記などを、よく
させられたものです。「行く川の流れは絶えずして」な
どと、意味は分からなくとも諳んじているうちに、年を
取ってから、はっと気が付くところがあり、本当に自分
のものになるという経験は、よくあることです。

お経も同じようなもので、人生を幸福に生きるための実
践へと導く知識にあふれています。そして、お経や古典
のそのような知識こそが、私たちの人生の中で、深い味
わいとなっているのではないでしょうか。

あまりに多くの情報が流れて行く現代社会の中で、私た
ちの身になっている知識、自分の本当に「知っている」
ものをもう一度見直し、その良さを次の世代に伝えてい
かねばなりません。

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2017/07/11~20   聞くということ

講師 徳島県 城満寺 田村航也師

私は学生の時、仏教の源流を知るためにインドの宗教を
研究しておりました。研究のために、インドの言語も学
習し、インドでの合宿勉強会にも参加しましたし、現地
の友達も作りました。

インド全体の公用語としては、話す人が最も多いヒンデ
ィー語とともに、英語も公用語とされています。実は、
インドにはたくさんの言語があり、インドの人同士でも
英語でなければ会話ができない場合もあるのです。

面白いのは、インドの紙幣です。たとえば日本の二千円
札には、漢字で大きく「弐千円」と書いてあります。イ
ンドのお金の単位はルピーですが、5ルピー紙幣にはな
んと十五の言語で「5ルピー」と書いてあるのです。同
じ国の言語なのに、お互いに文字を読むことすらできな
いということがあるのです。

そういうわけで、インドの方々は日常で英語を使うので、
とても流暢に英語を話します。しかし、インドの言語の
発音に影響されて、私たちが学校で学習する英語とは、
かなり発音の異なる英語となっています。私にとっては
大変に早口で、聞き取りにくい英語でした。

そんな中で私は、インドの友達と他愛もない会話をする
時などは、聞き取ろうとする努力もせず、適当に聞き流
す癖がついてしまいました。

ある日、私の友達の中で、先祖伝来の儀礼をとても大切
にする家庭に生まれた方とお話をしていたときのことで
す。

楽しく会話していたのですが、その友達は、私が話して
いる時に、両耳に手を添えながら話を聞き、相槌を打つ
のです。私はなんとも奇妙に思い、その友達に聞きまし
た。

「両耳に手を当てているけれども、わたしの話は聞こえ
にくいのですか?」その友達は答えました。「いいえ、
違います。私は、大切なあなたの話、大切なあなたの声
を、少しも漏らさず聞くために、手を当てているのです」

私は衝撃を受けました。言われてみれば、私の発する声
は、すべて彼の耳に吸い込まれていくかのようです。私
は、会話の細かいところを流して聞いていた自分を恥じ
ました。

後で知ったのですが、両耳に手を当てるのは、神の声や
師匠の声を聞き洩らさないためにする、インド伝来の儀
礼の所作でした。

このように神や仏の声、人の声に耳を傾けることが、は
たしてどれほどあるでしょうか。ともすれば、自分の主
張のために相手の話を遮ってしまうようなことが横行す
る今日、このインドの友達の姿は、私の脳裏から離れる
ことがありません。

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2017/06/21~20   私たちは繋がっている

講師 徳島県 城満寺 田村航也師

私は学生時代、インドの宗教を勉強していました。実際
にインドの現地に行かなければ分からないことも多く、
何度かインドを訪れました。訪れるうちに、列車で隣に
乗り合わせた方や、サイクルタクシーの運転手さんなど、
現地の方々の友達もできました。

インドの方々の習慣というのは私たちと正反対のことも
多く、慣れるまでかなり時間がかかりました。

たとえば、相槌の打ち方。
私たちは、「はい」の時は首を縦に振り、「いいえ」の
時は首を横に振りますが、インドの方々は、「はい」の
時には、首を大きく横に振るのです。この習慣に慣れる
までは、とても奇妙な感じがしたものでしたが、不思議
と、現地の友達と交流する中で慣れていき、自分もすっ
かり同じようにするようになり、日本に戻った時にその
習慣がしばらく抜けずに大変困りました。

また、インドの友達に会いますと、「元気だったか?勉
強はうまくいっているか?」と、歓迎してくれます。そ
して、さらに続けて、「お父さんは元気か?お母さんは
元気か?兄弟はどうしている?おじいさん、おばあさん
は?」と、立て続けに訊いてきます。

これにも私は、戸惑いました。私の両親や兄弟、祖父母
とも、会ったこともないのに、どうしていちいち訊いて
くるのだろう。しまいには、いちいち面倒だな、会った
こともないのに失礼ではないか、とまで思うようになっ
てしまいました。

それでも友達は、「元気だよ」と答えるといちいち喜ぶ
ので、ある時、ついに訊いてしまいました。「あなたは
私の家族と会ったこともないのに、どうしてそんなに気
にするのですか?」友達は笑って答えました。「だって
さ、君の家族が元気で幸福なら、君も幸福だろう。だか
ら、君の家族が幸福なら、友達の僕も幸福で嬉しいんだ
よ!」

私は、心の中で、何かがぱあっと開けたような気がしま
した。

そうか、私たちは繋がっていたんだ。人間はひとりひと
りに見えるけれど、家族も、友達も、皆、繋がっていた
んだ!と。

仏教では、どんなものでも単独で、それ一つだけで存在
するものは無いという私たちのあり方を、「縁起」と言
います。

私は、家族とさえも繋がれていなかったかも知れない自
分を見、また、その「縁起」の一端を、この時に初めて
見たのでした。

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2017/06/11~20   ぼくらはみんな生きている

講師 徳島県 城満寺 田村航也師

私は仏教発祥の地であるインドに憧れ、学生時代に何度
かインドを訪れました。

初めてインドを訪れたときは、驚きの連続でした。例え
ば、タクシーに乗って信号待ちをしていたら、物乞いの
子供たちが窓のところに群がってきました。そんなとき
皆さんならどうなさいますか?私は可哀そうに思って小
銭を渡していました。

ところが、小銭を受け取った子どもたちが走り去る姿を
目でおっていたら、交差点の脇で座ってこっちを見てい
る大人がいることに気が付きました。なんとそれは、子
供たちの元締めで、子供にあげた小銭を全部取り上げて
いたのです。腹が立って睨み付けたら、ニコッとして手
を振ってきました。そのとき私はインドとの間に、乗り
越えがたい壁があることを痛感しました。

またある日のこと、道路を横断しようと思って見てみる
と、道路の真ん中に牛が寝そべっています。インドでは
牛は神の動物とされていて、みんなこの牛をよけて通り
ます。そのため後ろの方は大渋滞、しかも、牛をよけた
後の車は猛スピードで急加速するのです。自動車の切れ
目を探っていると、いつの間にか私の足元に犬が寄って
きていました。よく見ると、私と同じように車の流れを
見ています。いよいよ車の流れが切れて私が渡り出しま
すと、なんと、この犬も一緒に道路を渡るのです。

この時、私の胸に、はっと閃くものがありました。そう
か、牛も犬も人間も、何もかも一緒に生きているんだ!
人間と犬とは違うと当たり前のように思っていたけれど
も、みんな一緒に生きているんだ!と実感したのです。
私たちは、この地球でみんな一緒に生きていたのです。

タクシーに乗って交差点で感じたインド人と私との壁。
道路を渡ろうとして感じた人間と動物という壁。お釈迦
さまの生まれ故郷インドは、私の中にあった様々な壁を
すべて取り払ってくれたのでした。

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2017/05/21〜31   誕生日は感謝の日

講師 愛媛県 法蓮寺 川本哲志師 

皆さんはご自身の誕生日をどのように過ごしておられる
でしょうか。

自分がこの世に生まれた日は、年に一度の大切な記念日
です。家族や友人に囲まれて祝ってもらう人、恋人と二
人きりで過ごす人、一人で過ごす人、自分の誕生日なん
て興味が無い人、それぞれだと思います。

水戸黄門として有名な徳川光圀は、自身の誕生日には最
も粗末な食事を取っていたそうです。

「誕生日は、自分が亡き母上を最も苦しめた日である。
陣痛に耐えた母上のご苦労を思えば、豪華な食事でお祝
いなどする気にはなれない。自分はせめて一年中でこの
日だけでも、粗末な食事で母上のご恩を感謝したい」と
家臣に伝えていたそうです。

誕生日は自分が生まれた日だと思いがちですが、母親が
自分を生んでくれた日である、ということに気付かされ
る言葉です。

「自分の意思で生まれてきたわけじゃない」とか「子は
親を選べない」と言う人がいますが、自分が生まれる前
の記憶を持つ子供が稀にいて「自分は親を選んで生まれ
てきた」と語る子供も多いそうです。

それならば、みんなお金持ちや優しい親だけを選びそう
なものですが逆に、虐待を受ける子も自分でそれを知り
ながらあえて、「そんなことをしてはいけない」と教え
るために、そういう親の元に生まれていたのだと証言す
る子もいるそうです。

ということは、生まれながらに病気を患っている子や、
死産や流産で亡くなる子も、それぞれに何らかのメッセ
ージを伝えようとして、親を選んだということなのでし
ょうか?

人がこの世に生まれてくるということには、それぞれに
大切な意味があるということなのかもしれませんね。
道元禅師様は「人は自ら願ってこの世界に生まれてきた
のだ」と『修証議』で説かれています。なぜ、悩み苦し
みの多いこの世界に生まれてきたのかと言えば、お釈迦
さまの教えに出会うために、あえて願って生まれてきた
のだと説かれたのです。

人生の辛い局面に出くわした時には、生まれてきたこと
を恨めしく思うことすらあります。しかし、お釈迦さま
の教えに出会うことができるこの世界は、より良く生き
るための道標がたくさん用意されている世界です。そう
いう、ありがたく幸せなこの世界に生まれることを自ら
願い、その願いを両親が叶えてくれて、今ここに生きて
いるのだと思えば、両親に感謝せずにはいられないはず
です。

次の誕生日は誰かに祝ってもらうことよりも、ご両親に
「ありがとう」と感謝の気持ちを表す記念日にしません
か。

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2017/05/11〜20   陰徳(いんとく)

講師 愛媛県 法蓮寺 川本哲志師 

私が会社勤めをしていた頃の話です。
上司の課長と私の二人で、取引先の別の会社を訪問して
いた途中、視覚障がいの方が使う白い杖を持った中年の
男性が横断歩道で信号待ちをいました。

その男性は、横断歩道の信号が青になっても渡ろうとし
ません。その男性一人だけが横断歩道を渡らずに立ちつ
くしていたのです。信号が変わったことに気付いていな
いのか、周りの人たちはその男性を避けるように歩き、
まるで川の水が岩を避けて流れるかのようでした。

それを見た課長はその男性に「どちらへ行かれるのです
か?」と、声をかけました。歩いて十五分ほどの場所に
向かっているとのことですが、行く先は交差点が多い道
のりでした。

荷物も持っておられたので、課長はその男性に付き添う
ことにしました。取引先との約束の時間が迫っているの
で、私は課長とその男性と別れ、一人で訪問先の会社へ
向かいました。

先に到着した私は、課長が遅れて到着することを先方に
伝えました。案の定、気に入らないという思いが表情に
出ています。しばらくして、無事に男性を送り届けた課
長も到着し、遅れたことを詫びました。しかし、先方の
不満は明らかに態度に表れています。一時間ほどの商談
は終始重い雰囲気でしたが、課長は、遅れた理由を先方
に説明することをしませんでした。

商談に遅刻したことは私たちの会社の耳にも入り、その
ことで課長と私は部長からきつく叱られました。しかし
その時も、課長は遅れた理由を話しませんでした。
「人助けをしていたから遅れた」と説明すれば、商談も
良い流れになっただろうし、部長にも言い訳がたつのに、
なぜ課長は言わないのか、と思いました。

私は課長に「遅れた理由を私から説明させてください」
と何度かお願いしたのですが、その度に課長から「困っ
ている人の役に立てたから、それでいいんだ」と止めら
ました。あえて話さない課長の態度を、とても潔いと感
じました。

何か良いことをした時に、それを誰かに知らせいたいと
思うことがあります。しかしそれは、「自分は良いこと
をしたのだ」という満足感が執着になっています。

仏教では、人に知られないところで行われる善行を「陰
徳」と言います。課長があえて言い訳をしなかったこと
が、まさに陰徳だったのだと、僧侶になった今、思い出
します。

見られる、見られない、知られる、知られないに関わら
ず、人知れず行われるところに大きな功徳があるのです。
言うは易く行うは難しではありますが、しかし、課長の
ような人は案外、数多くいるに違いありません。

なぜなら「陰徳」であるが故に、人に知られていないだ
けですから。

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2017/04/21~30   要求吠え

講師 愛媛県 法蓮寺 川本哲志師 

私は十年ほど前から犬を飼っています。中型で柴犬に近
い雌の雑種です。

毎日の朝と夕方の散歩が日課になっていますが、散歩の
時間が近づいてくると、いつも「ワンワンワン」と大き
な声で吠えます。「早く散歩に行きたい」と訴えてくる
のです。エサの時間が近づいた時にも、「早くご飯ちょ
うだい」と言わんばかりに「ワンワンワン」と、エサを
出すまで吠え続けます。

犬が吠えるのは当たり前と思って気にしていなかったの
ですが、犬の飼い方に詳しい方から、「散歩やエサの時
間を毎日同じ時間にしていませんか?」と言われました。

犬は習慣性の強い動物なので、散歩やご飯の時間をしっ
かり覚えていて、その時間を飼い主が几帳面に決めてい
ると、犬は「そろそろ時間だ」と要求するようになるそ
うです。

「ワンワンワン」と訴えてくるのは「要求吠え」と呼ば
れる犬の行動なのだそうです。

そして、吠えるということは犬の欲求不満でありストレ
スであるから、犬の精神的に悪いことだとも言われまし
た。習慣になっていることが当たり前となり、それが果
たされないことで不満やストレスを与えてしまっていた
ようです。

その助言を聞いて、私達人間にも似たようなことがある
と思いました。挨拶をしたけれど返してくれなかったと
不満を感じたり、何かをしてあげたけれどお礼の言葉が
なかったと気分を害したり、自分の中に「当然だ」とい
う思い込みがあるために、その思い込みが自分を苦しめ
ていることはないでしょうか。何かを求めることで苦し
みを生み出しているということはないでしょうか。

煩悩や執着が、喉が渇いて水を求めるような貪りの心と
なって苦しみの原因をつくる、とお釈迦さまは説かれま
した。

日本人は戴き物をした時など、直ぐにお返しをしたり、
お礼の電話やお礼状を出すなど、礼儀を尽くすことに神
経質な国民性なのだそうです。それ自体は素晴らしい国
民性だと思いますが、それが昂じて贈り物の見返りを求
めることにまで神経質になると、そこに執着が生まれ、
不平不満がストレスとなり、苦しみとなってしまいます。
不満や怒りやストレスを感じた時には、まず自分自身を
見つめてみましょう。

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2017/04/11~20   蝉は春秋を知らない

講師 愛媛県 法蓮寺 川本哲志師 

夏に鳴く蝉は、成虫として生きられる時間が数週間しか
ないことから、はかない命の代名詞のように言われます。

「蝉は春や秋を知らない」という言葉があります。道教
の始祖の一人とされる荘子の言葉です。夏の盛りに地上
に出てきて、秋が訪れる前にその生涯を終える蝉は、他
の季節があることを知ることがないという意味です。

夏以外の世界を知らないということは、そもそも自分が
過ごしたのが夏という季節だと知らないことでもありま
す。ただ、蝉が鳴くのは夏だということを、人間が知っ
ているだけのことです。過ごしやすい春や秋を知らず、
この世界は一年中暑いものだと思っている蝉を人間から
見れば、不憫にさえ感じます。

しかし実際は、蝉は地上に出るまでに何年も地中で過ご
しますので、土の中とはいえ春夏秋冬を何度も体験して
います。

「蝉が春や秋を知らない」という言葉を、仏教では人間
に向けられた言葉として受け止めます。あっという間に
死んでいくように見える蝉と自分を、重ねて考えるよう
に解釈します。

この世界で生まれて、この世界で生きて、この世界で死
んでいく人間にとっては、この世界が全てです。私たち
が「全て」だと思っている「この世界」も、蝉の生きて
いる「夏」と変わらないのです。それ以外の世界を知ら
ない私たちは、自分が過ごしている世界が何であるかを
知らないのです。

お釈迦さまはこの世の真理に目覚め、お悟りを開かれま
した。お釈迦さまが悟りの境地から見た私たちは、私た
ちが見る蝉と同じだったのでしょう。私たちが蝉を不憫
に思うように、お釈迦さまは私たちに慈悲の眼を向けて
くださったのです。それゆえ、私たちが人生をいかに生
きていくべきかを仏法としてお示しくださったのです。

私たちが蝉に「短い一生、精一杯生きてね」と思うこと
と同じように、お釈迦さまは「限られた命、幸せに生き
てください」と私たちを励ましてくださっているのです。

この世界が何であるか、自分が何者であるか、分かって
いるつもりで生きてきたけれど、実は何も分かっていな
い私たちです。そんな私たちにとって、この世の真理に
目覚めたお釈迦さまの教えを聞くことができることは、
この上なく有り難いことです。私たちはお釈迦さまの教
えに、もっともっと耳を傾けなければならないのです。

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2017/03/21~31   つながる思い  

講師 香川県 祥福寺 本山良宗師

昨年暮れのことです。東京での会議の合間に世界遺産ラ
スコー展を見学してきました。

今からおよそ二万年前に、クロマニヨン人がフランス南
西部のラスコー洞窟に描いた壁画や、見事な彫刻を施し
た様々な狩猟道具、裁縫に使った針や多彩な装飾具など
が展示されていて、芸術の爆発とも言われる二万年前の
クロモニヨン人たちの豊かな表現力に驚かされました。

そんな展示物の中で最も心をゆさぶられたのは、頭部に
貝殻のビーズの飾りを施して埋葬されていた一人の女性
の化石でした。

マンモスやホラアナライオンなどの大型動物が闊歩して
いた時代に生きたクロマニヨン人です。獰猛な動物に襲
われて、命を落とすこともあったことでしょう。病に倒
れれば、なすすべもなく見守るしかなかったことでしょ
う。

そんな彼らが、大切な家族や仲間を亡くした時には、現
代人同様に悲しい別れに涙しながら、亡き人を懇ろに弔
っていたのだと思うと同時に、先立つ人は残る人たちの
無事を願いながら逝ったに違いなかったろうと思ったの
です。もしかすると、そういう願いは現代に生きる私た
ちより深かったかもしれません。

クロモニヨン人などというと、遠い昔に絶滅した人種と
思われがちですが、最新の研究では、そのDNAが現代
ヨーロッパ人につながっているとされています。

それはつまり、残る者の無事を祈りながら逝った人たち
の思いが、命のつながりとして現代まで確かに繋がって
きたということですね。

人の幸せを祈ること、人を思う心を大切に一日一日をす
ごしてまいりましょう。

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2017/03/11~21   微かな光

講師 香川県 祥福寺 本山良宗師

三月を迎え、黄砂で夜空もかすみ始める日本列島の裏
側、南米チリ標高5000mのアタカマ高地では66
台もの巨大な電波望遠鏡を運用して銀河の誕生を探る
という、世界的な研究が行われています。

この研究に参加するために現地へ行った方によれば、
「夜、外に出ると金星の光で自分の影ができる」のだ
そうです。

金星といえば、太陽、月に次いで明るく見えることか
ら明けの明星とか宵の明星といわれていますが、電気
の灯り溢れる日本では、月の明りで影ができることは
あっても、金星からの光で影ができるなどとは想像す
ら出来ません。

思うに、人の心や、人の思い、人の命の繋がりという
のも、星の光と同じなのではないでしょうか?

喜んだり悲しんだり時には怒ったり…。人間らしいと
いえば人間らしい日送りですが、それが本当に人間ら
しい生活とは限りません。電気の光に囲まれて見る、
星の光と同じように、時間に追われ感情に振り回され
て、大切なものを見失ってはいないでしょうか?

春のお彼岸がまいります。お仏壇の前で、お墓の前で、
静かに手を合わせてみましょう。きっと、あなたを見
守っている微かな光に気がつくはずです。

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2017/02/21~28   布施

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

昨年の十一月、三重県の大紀町という町にお説法でお邪
魔したときのことです。とても心あたたまる出会いがあ
りました。

お寺でのお説法が終わって、車で30分程離れた特急列
車の止まる無人駅まで送って貰った時のことでした。少
し、時間があったので駅の周辺を散策していると、ふと、
デイルームと書いた看板が目に留まったのです。

ああ、ここにもデイルームがあるんだなと目を凝らして
みると、その上に「放課後」と書いてあります。

急速に過疎化が進んでいると聞いた町ですので、今問題
の待機児童の子供さんたちではないであろうと思いなが
ら、立ち寄って見学させて頂きました。

そこには、年齢もまちまちの子供たちが、ゲームをしな
がら楽しみ、笑っていたのです。近くを歩いていた方に
聞くと、『要支援』。支援が必要な子供たちだと言うの
です。

「直ぐそこに小学校があって、全校生徒200名を切っ
ているんですが、この学校には要支援の子供等が1割程
度いるんです」と悲痛にも見える表情で話してくださっ
たのです。

そんな話を伺っている時、多分一・二年生だと思います。
一人の少女が、私に近づいてきて笑顔でこう言うのです。
「和尚さん、美味しいから、これあげる」と、手にして
いたビニールの袋からお菓子を取り出して私に勧めてく
れたのです。

「お嬢ちゃん、どうもありがとう。和尚さんは、さっき
ご飯を食べてきましたから、お腹いっぱいなんです。だ
から気にしないであなたが食べてください。本当にあり
がとうね」と言いますと、また笑顔で「はーい!」と元
気な声が返ってきました。

その少女は見知らぬ訪問者であった私に、「優しい心」
と「笑顔」という布施をくださったのです。

宗祖道元様は「布施とは貪ることなく、へつらうことな
く、見返りを持たない生き方である」と示しています。

思うに、その少女の行いは相手を思う優しさだけであり、
まさに「布施」そのものであったと思うのです。

布施とは見返りを求めないこと。何人も置き去りにしな
いこと、させないこと。願わくは、諸人がそういう生き
方であれと祈るのです。

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2017/02/11~20   同事

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

三月には東北大震災から七年目、四月には熊本地震から
丸一年を迎えるわけですが、熊本地震が起きてから三カ
月しか経っていない昨年七月、市内のお寺さま方のお招
きでお説法に伺いました。

あのような大災害が起こるとは思っても居なかった時か
らのお約束で、復旧とは程遠い状況にある時期でしたの
で、伺うことにとても躊躇いたしました。

しかしながら、「こんなときだからこそ、お説法が必要
なんです」という、地元のお寺さまからのお声を聞いて
伺うことにしたのです。

熊本巡回での最後のお寺さまで、お檀家の方とお話する
機会がありました。そのとき、強く感じたことがあった
のです「人間て良いもんだなぁ、人間て強いんだなぁ!」
と。

お檀家の方のお話では、そのお寺さまは大きな駐車場を
抱えていて、あの大地震が起きた日には駐車場に車で避
難してくる人、テント持参でやってくる人、着の身着の
ままの人、檀家さんだけでなく大勢の人が押し寄せたそ
うです。

その日からすぐに、救援物資の配布も始まったのだが、
誰が指示するでもなく整然とした列が出来たと・・・譲
り合いですね。

車中泊を続けていると、足を延ばして寝たくなってくる。
すると、テント暮らしの人が「昼間で良かったら、テン
トで横になりませんか?」と声をかけてあげていたそう
です。

あるいはまた、簡易ガスコンロで食事を作っている人が、
隣にいる人たちに声を掛けていたそうです「食事してな
いようでしたら、良かったらこれ食べませんか?」と。

誰にも指図されたわけでなく、お互いがお互いを思いや
りながら助け合って過ごしていたというのです。人はけ
して一人じゃないんですね。

宗祖道元様は、「同事と言うは不偉なり、自にも不偉な
り他にも不偉なり、他をして自に同ぜしめて後に自をし
て他に同ぜしむる道理あるべし」と、示されました。

「同事とは、他の人と心通わして同じ気持ちになること
である。それは自分であっても他の人であっても変わり
はないのだ。我々には大きな経験と言うものが存在する、
その経験と人を思いやる心を同化させたならば、心が通
い合うのだ」と説かれました。

困っている時は、「お互い様」を忘れたくないものです
ね。お互い様の心が、正に世界を救うものなのです。

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2017/01/21〜31   愛語

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

昨年、北海道の帯広一帯を お説法で廻ったときのこと
です。

帯広に入って三日目となり、そろそろ洗濯をしないと着
替えがなくなってきましたので、ホテルから歩いて10
分ほどという、最寄りのコインランドリーを紹介して貰
いました。

フロントで渡された小さな地図をたよりに10分ほど歩
いたのですが、一向にコインランドリーが見えてきませ
ん。歩くのが遅いのかと、さらに10分歩いてみても見
つからず、人に尋ねようにも、あいにくの雨降りで誰も
歩いていません。

困ったなあと思っておりましら、たまたま、登校途中で
信号待ちをしている小学五・六年生くらいの子どもたち
を見かけました。

これ幸いと、その子どもたちに「すみません、あなたた
ちに少し尋ねたいことがあるんですけど、宜しいでしょ
うか?」と尋ねると、その中の一人が「はい、いいです
よ」と、返してくれました。

そこで、地図を見せながら「実は、このランドリーに行
きたいんですけど、この近くじゃないでしょうか?教え
て頂けますか?」。

そうすると怪訝な顔で私と地図を見比べるようにしなが
ら、「あのぉ、このランドリーは、イトーヨーカドーの
近くです。」と教えてくれたのです。

しかし、悲しいかな旅人の私には、それが何処にあるか
分かりません。さらに、二言三言話をしたのですが、な
かなか要を得ず、これ以上は無理だと思った私は「諦め
てホテルに戻ります、ありがとうございました。」とお
礼を述べて頭を下げました。

子どもたちは「すみません、ごめんなさい」と、頭を下
げながら学校の方へと歩きだしたのですが、四歩か五歩
のところで急に私の方に振り返り、大きな声で、こう言
ったのです。

「すみません!お力に成れずに申し訳ございません!」
そう言いながら、ランドセルの背が見えるほど深々とお
辞儀をして下さったのです。

もう私は、感激して何も言えませんでした。その感激を
私は一生忘れることは無いでありましょう。

もし私が、年上だからと偉そうに「ここへ行きたいんだ
が教えてくれんか?」と言ったとしたなら、果たして、
その子どもたちは「すみません、お力に成れずに申し訳
ございません」と、返してくれたでしょうか?私は、感
動的な子どもたちの言葉と行いに、出会うことが出来た
でしょうか?

宗祖道元様の「愛語よく廻転の力あること学すべき也」
すなわち、「相手のことを敬い思いやりながら発する言
葉には、人を動かす力がある」とのお示しは、まさにこ
のようなことなのでありましょう。

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2017/01/11~20   少欲知足

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

「世の中が、我侭気ままになるならば、年中三月常月夜、
お前十八わしゃ二十歳、死なぬ子三人みな孝行、後先息
子で中娘、使ぉて減らぬ金十両、死んでも命があるよう
に、寝ていてしょんべんしてみたい」

この和歌は、東京が江戸と言われていた時代に流行った
戯れ歌だそうです。当時の江戸っ子はこの和歌にメロデ
ィーをつけて手拍子でも打ちながら歌ったのでしょうね。

たしかに、その当時を想像しながら自分で勝手に抑揚を
つけて口ずさんでみると、何ともお気楽で滑稽さを感じ
る戯れ歌ですが、きょうは、その滑稽さを話題にしたい
わけではなくて、この歌の中身についてお話ししたいの
です。

この戯れ歌の「俺がとか、私さえ、楽しければそれで良
いんだ!」という心。「自分さえ」「俺が私が」の心、
果たして江戸時代の人だけだと言えるでしょうか?その
心、今を生きる私、そしてあなたの心の中にもないでし
ょうか? きっと、ありますよね?
 
でも、普段はその心を微塵も感じさせないのです、我々
は。なぜかと言えば、理性も知性もあるからです。「自
分さえ良ければ」という心を私たちは気付かない内に覆
い隠してるのです。

ところが、ある時、その心が、ふと芽生えることがあり
ます。そんな時、その心が芽生えていない私たちが「自
分さえ」という光景や言葉を目にすると、どう思うでし
ょうか?「やだなぁ!」と感じますよね?
 
お釈迦様は、私たちに「少欲知足」。すなわち「少ない
欲で足りることを知りなさい」ということを説いてくだ
さっています。

私たち人間は、欲が無いと生きていけない状態になるそ
うですから、欲には必要な部分もあります。でも、「自
分さえ、俺さえ良かったら良いんだといった心は、つま
らん欲だから捨ててしまえ」と、お釈迦様は極めて強く
説いておられるのです。

人様のことをこれっぽっちも考えない私たちではつまら
ないですよね?人様を思うことを忘れると、人間は今を
生きているんだという感覚が薄れて来てしまうのだそう
です。

人を思う心が、我が心をより豊かにするのです。

新しい年が始まりました。他を思う心を大切に過ごして
まいりましょう。

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