坐禅...自らに向き合えば、新しい自分にきっと出会える!

法話:新着

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新着の法話

2021/09/21~30   なくてはならない存在

講師:香川県 南隆寺 大石光昭師

皆さんハリガネムシってご存じですか?カマキリなどの
昆虫に寄生する虫の名前です。小さい頃上級生が、カマ
キリを捕まえて「おい!見よれよ」といって、カマキリ
のおしりを水に浸けると、その先から黒くて細長い、ま
さに針金のような虫がニョロニョロと出てきて驚いたも
のでした。

去年のお彼岸前、飼っている犬がカマキリを捕まえて咥
えていました。カマキリは水には浸かっていたわけでは
ないのですが、絶命していたからなのか、おしりからニ
ョロニョロとハリガネムシが出てきていました。それを
見て小さい頃のことを思い出しました。この寄生虫のこ
とが気になったのでちょっと調べてみました。

すると、神戸大学の佐藤先生という方が調査研究をして
いて、このハリガネムシも生態系のなかではなくてはな
らない存在だと判明したのだそうです。

どういう事かというと、ハリガネムシに寄生されたカマ
キリやカマドウマは脳の中に、ある種のタンパク質が送
り込まれ、池や川などの水辺の方へと導かれます。そし
て最後には、川のなかに飛び込まされてしまうのです。

それを待ち構えているのがイワナやヤマメなどサケ科の
魚です。この魚たちの年間摂取エネルギー量の六割は、
夏から秋にかけて水に落とされたカマドウマなどで占め
られていたそうです。陸上の虫が水に飛び込むことで、
川の中の水生昆虫は、あまり魚に食べられなくなり数が
増えます。そうすると、川に生える苔や藻だけでは餌が
足りなくなって、川底の落ち葉がどんどん食べられ、分
解されていきます。

次に先生たちは、実験的に川のそばでカマドウマやカマ
キリが水に入れないようにしてみました。魚の餌になっ
ていた陸上の虫が落ちてこないので餌が減って、水生昆
虫がより多く食べられてしまいます。数が減った水生昆
虫たちは藻だけで餌が充分足りるので、落ち葉を食べな
くなります。そうすると落ち葉の分解が遅れてしまい、
生態系に変化が生じてしまったそうです。

佐藤先生によって、世界で初めてハリガネムシのような
寄生虫でも、チャンと生態系に寄与していることが証明
されたのです。

寄生虫ですら・・というと「おまえら人間のように環境
破壊はしないぞ」とハリガネムシに言われそうですが、
敢えて、寄生虫ですら、この大自然のなかでなくてはな
らない存在です。

私たち人間、一人一人だって同じです。気が付かないと
ころでどこかの誰かを、どこかの何かを支えているに違
いありません。人のためじゃなくて良いんです。何も出
来ないときは、何もしなくても良いんです。そこにいる
だけで、誰かを支えているということもあります。人間
だれもが、なくてはならない存在なんです。

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2021/09/11~20   わたっしゃ幸せじゃわ

講師:香川県 南隆寺 大石光昭師

四国四県どこの県も同じだと思いますが、特に香川県は
弘法大師のお生まれになったところですので、お家の宗
旨とは別にお大師さん(弘法大師空海)への信仰をお持ち
の方が多勢おられます。

二十年ほど前に百二歳の長寿を全うされた檀家のおばあ
さんも、そんな方のお一人でした。毎月十日、先立たれ
たおじいさんの月命日にお伺いすると、お経の後はお仏
壇に供えられたお霊供膳と同じ献立のお膳が出ます。そ
の日のお昼はおうちの方も、みんな同じメニューです。
おそらく何代も前からそうやって、ご命日にはお精進を
食べてこられたのでしょう。

そして、もっと感心させられたのは、そのおばあさんは
毎月二十日の昼を過ぎると肉魚は一切口にせず、煮物を
始めお汁のダシに至るまで肉や魚を使ったものは食べな
かったことです。

お嫁さんや若い方がついうっかり肉や魚のお料理を作っ
ても、怒ったり叱ったりはしませんが、お漬け物だけで
ご飯を済ませ、ササッと奥に引っ込みます。他のものに
は一切手をつけません。ご家族は顔を見合わせ「あっ!
明日はお大師さんの日や!」と。そうです。毎月二十一
日はお大師さんのご命日で、前日の二十日のお昼から精
進潔斎していたのです。お嫁に来てから八十年、ずっと
そうやって暮して来たのです。

そしてもう一つ。おばあさんは若い頃、目を患っていま
した。すがる思いで、眼病平癒で有名な島根県の一畑薬
師さんに願を掛けたのです。どんな願掛けだったかとい
うと、「目を患って以来、目に良いといわれる鰻の肝を
よく食べているので、毎月八日のお薬師さんの御縁日に
鰻を川へ放生(放流)する」ということでした。

最近ではすっかり見かけなくなった手押し車の魚屋さん
に頼んで、鰻を毎月持ってきてもらって近くの川へ放し
ていました。その甲斐あって、目がよく見えるようにな
ってからも、亡くなるまでずっと続けました。足が弱っ
て歩くのがままならなくなってからは、魚屋さんに川で
放してもらって、代金だけ渡していたそうです。

明治生まれのおばあさんは戦前、戦中、戦後と、激動の
時代を生き抜いて、大変な苦労をしてきたに違いありま
せん。しかし、口癖のように「わたっしゃ、幸せじゃわ」
といっていました。そして続けて「こうやってご先祖さ
んに手を合わせてもらえて、お大師さんにはすぐ近くで
守られて、目を患ったお陰で、お薬師さんともご縁がで
けて」と。まさに信仰に救われた人の言葉ですね。

心の行き場を失いそうになったとき、そっと手を合わせ
てみてください。あなたのことを見守ってくださる優し
い眼差しに気が付くはずです。

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2021/08/21~31   もちつもたれつ

講師:香川県 南隆寺 大石光昭師

去年の夏のことです。ミニトマトを作ってみようとホー
ムセンターへ行き、苗を選んでいるときに、ある檀家さ
んが「何の苗でもな、安いん三本買うなら高いん一本の
ほうがようけ実が成るんで」と話していたのを思い出し
ました。

そこで、奮発して高い苗を買って育て始めたのですが、
花が咲いて実がつく頃に病気に罹ってしまい、ほんの数
個獲れただけで終わってしまいました。

そのトマトを見た農家の檀家さんが、「やっぱり得手不
得手ゆうもんがあるんやなあ。和尚さんはお経や坐禅を
しよったらええんちゃうん?ワシらは米や野菜作らせた
ら売るほどできるけど、ワシが檀家行ってお経を読んで
も誰も有り難がってくれんどころか、追い出されるやろ?
ワハハハハーッ」と…。私を慰めてくださったんでしょ
うけれど、心中複雑なトマト栽培の顛末でした。

ところで、皆さん、日曜日の夕方の長寿番組「サザエさ
ん」をご覧になりますか?いつ頃からか、あの番組のエ
ンディングのテーマソングに載せて、原作の四コマ漫画
が流れています。ちょうど、あのトマトが病気に罹って
しまった頃に放映されていた話しがこうです。

母親の舟さんが縁側で裁縫をしているところに、ワカメ
ちゃんが折紙を持って「奴さん折って!」と走ってきま
した。すると舟さんは「自分のことは自分でやりなさい」
とピシャリ。しかたがないので、ワカメちゃんは悪戦苦
闘。その横では、舟さんが針に糸が通らなくて四苦八苦。
そこで場面が変わって、折り紙と針を交換した二人が、
難なく「できたあ!」という落ちです。

サザエさん一家の毎日のように、人はそれぞれが自分の
出来ること、好きなことをしているようでいて、気が付
いてみるとお世話になったり、迷惑をかけたり。しかし
ながら、絶妙なバランスでちゃんと支え合って暮らして
いるんですね。持ちつ持たれつです。

今、世間では「私は誰にも迷惑をかけたくない。子供ら
には負担をかけない。自分のことは自分で」と言って墓
じまい、永代供養が大はやりです。しかし、迷惑を掛け
ないと言ってはいるものの、結局はすべて対価を支払っ
て、最終的には必ず誰かの手を煩わせています。火葬場
のボタンを、お棺から手を出して自分で押すことは出来
ませんよね。

われわれお坊さんのツルツル頭も、修行道場では必ず二
人一組になって「お願いします」「有り難うございます」
「どういたしまして」「お世話になりました」と、わざ
わざ人の手を煩わせて剃り合います。慣れてくれば、自
分一人で剃った方が早く終わるし、失敗されて切って血
を出し「こいつとはもう組まんぞ」などと思ったりしな
くて済むのですが、必ず二人一組で剃りあいます。これ
もまた、持ちつ持たれつ、そんなことを教えてくれてい
るのでしょう。

世の中はもちつもたれつ、誰にも迷惑をかけないのでは
なく、誰かに必ず迷惑をかけていることを自覚し、感謝
して暮らすことが何よりも大切なことです。

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2021/08/11~20   すべてのことは、おかげさま

講師:香川県 南隆寺 大石光昭師

今月はお盆ですね。私たち僧侶はお盆と言えば、棚経と
も言われるお盆のお参りで、檀家さんを地区ごとに分け
て毎日何十軒も廻ります。

このお盆参りでいちばん思い出すのは、昭和五十四年、
私が高校二年生の夏のことです。その年、私の師匠であ
る父はガンの手術をしました。

退院を前に、母は私に「今年は一緒に廻りなよ」と説得
します。「もう来年はお父ちゃんは居らんよ。檀家さん
覚えとかないかんやろ」。私が「一回廻ったくらいで覚
えられへんわ」と口答えをすると母は「あんたが覚えら
れんでも檀家さんは覚えてくれるわな!」ご尤もなので
すが、嫌で嫌でしょうがないわけですから納得はできま
せん。

そんなことを言い合っているうちに、とうとうその日が
やって来ます。本当のことを伝えていない父には、手術
後大変なので一緒に声を出してあげるという名目で、父
の後についてお盆参りをすることになりました。

初日は七十軒ほどの檀家さんが固まっている地区です。
朝七時前から父についてポンポンとリズム良く廻ってい
きます。

初めの何軒かは、お仏壇の前には座布団が一枚しか用意
されていません。「弟子を連れて廻ります」なんてこと
はお知らせしてませんから、当然のことですね。しかし、
九時を回った頃から座布団二枚、飲み物二人分、なかに
はお布施まで包んでくださるお家もありました。昔のこ
とですので、留守でも鍵を懸けず、そんなふうに用意し
てくださっていたのです。

うちわを二枚持ったおばあさんもいました。「お父さん
の手伝いな?偉いなあ」と一枚は私に手渡し、セルフで。
もう一枚はおばあさんが手に持って、お経の間中、父の
背中を扇いでくださっていました。なぜ、うちわかとい
うと扇風機ではお蝋燭が消えてしまうからという心配り
なんですね。

父は言います。「もう伝令が廻っとるな」私が「何が?」
と聞くと「座布団見てみ、もう、どの家に入っても二枚
出してくれとるやろ」と。ご近所どうし親戚兄弟、何代
も前からのお付き合い。「おじゅっさん、今年は息子連
れて来よるでえ」誰がどこに連絡するなんて決まっても
いないのでしょうが、いつの間にかちゃんと隅々まで、
行き渡っているのです。

次の年からは座布団一枚、団扇のおばあさんは「あーあ
お父さんが送ってくれると思とったのに」といいながら、
父を扇いでいたときと同じように私を扇いでくださいま
した。

地球は、私たちが夜寝ている間に、七十億の人間や無数
の生き物、山河大地を載せて、誰が舵取りをするでもな
く、ぐるりと回って東から日が昇って朝がやって来ます。
暑い暑いと言ってもお盆が過ぎれば確実に日は短くなっ
てきて、秋の準備が着々と進んでいます。本当に有難い
ことに、様々なことが私たちの与り知らぬところで、様
々なご縁をいただいてお膳立てが整えられているのです
ね。

「すべてのことは、おかげさま」あれから四十二年、今
でもお盆参りに行ってお仏壇の前に用意された座布団を
見るとそんなことを思います。

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2021/07/21~31   広い視野をもつ

講師:徳島県 城満寺 田村航也師

皆さん、禅寺で坐禅をされたことはありますか?体験し
たことのある方は、坐禅をどう感じられたでしょうか?

以前、子供さんたちがお寺体験をする『子供坐禅会』を
開いた時のことです。坐禅が終わった後に、一人の男の
子が「あー、気持ち良かった!」と大きな声をあげまし
た。その男の子は、坐禅をしている最中も落ち着いた様
子でほとんど動かずに坐っていたので、「坐禅の時、ど
んな感じだったかな?」と訊いてみました。

すると、「とっても広かった!遠くで鳥の声も聞こえた」
という答えでした。

坐禅の時には目を普通に開いて坐るのですが、曹洞宗の
坐禅は壁と向き合って坐るので、前が塞がれて窮屈な感
じを持たれる方もおられるようです。そのため、「どこ
を見れば良いのですか」という質問を受けることがあり
ます。

そんなときに私は「目に入るものをありのままに、その
まま受け入れます。一点に集中しないで、見える範囲全
部を見てください」と説明しています。

私たちは普段、どうしても何かを見ようとします。欲し
いものを見ていたり、見たいものだけを見つめていたり。
その時には、欲しいもの、見たいもの以外のものは、目
には見えているのに、無意識のうちに捨ててしまってい
るのです。「目に入るものをありのままに受け入れる」
というのは、捨ててしまっているものをもう一度、取り
戻そうということなのです。

「とっても広かった!遠くで鳥の声も聞こえた」という
男の子の言葉は、五感で感じたことをありのままに受け
入れたからこその感想だということですね。

仏教では、欲しいものや手に入れたいものがあるとき、
そしてそれが手に入らないときの欲望は、炎のように燃
え盛って、私たちに迫って来て、苦しみの元になると教
えています。この、心に迫る欲望の炎が消えて静かに安
らぐ境地を、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)といいま
す。

涅槃寂静、なかなか難しいですが、姿勢を調え、息を調
えて、心静かに坐る坐禅が、良い入口になるはずです。

苦しさを感じた時、禅寺を尋てみませんか?ほんの少し
立ち止まって、一息つく時間をもちましょう。周りをゆ
っくり見渡せば、それまで目に入って来なかったものが
見えてくるはずです。空は何色ですか?雲はどんな形を
していますか?ゆったりした時間を持てば、自分がどれ
ほど狭い中で右往左往していたかに気が付き、広々とし
た世界が、目の前に戻ってきます。広い視野を持って、
毎日を過ごして参りましょう。

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2021/07/11~20   自分を磨いて人に感動を

講師:徳島県 城満寺 田村航也師

私はつい先日知ったばかりのですが、佐賀県の海苔の漁
師さんで大変に努力してピアノを弾けるようになった方
がおられるそうですが、皆さんはご存じでしょうか?

その方のお名前は、徳永義昭さん。佐賀県佐賀市の海苔
漁師さんで、かつてはパチンコが大好きな方だったのだ
そうです。しかし、その大好きなパチンコで大金を使っ
てしまい、とても落ち込んでいた時に、テレビでフジコ
ヘミングという方が弾く、ラ・カンパネラというピアノ
曲に出会いました。

徳永さんは、その演奏にたいそう感動して「自分でも弾
いてみたい」と一念発起。それまで触ったことも無いピ
アノに52才から挑戦して、毎日何時間も練習した結果、
なんと次の年には弾けるようになり、今では演奏会に呼
ばれるほどの腕前になりました。

この徳永さんの挑戦が多くの方に希望と力を与えている
そうで、私も、すごいなあ、人間、夢中になればすごい
ことができるものだなあ、と感じ入りました。

徳永さんは「演奏会では失敗やミスが多い。それでも、
皆さんに喜んでもらえると嬉しいし励みになる」と言っ
ておられます。私はこの、徳永さんの姿をみたとき『自
未得度先度他』という、仏教の教えを思い起しました。

『自未得度先度他』…自分が救われていなくても他の人
を先に苦しみから救おう、という仏教の実践項目の一つ
です。

ご自身の挫折が出発点ではありましたが、徳永さんはラ・
カンパネラという曲に出会って行いを改め、夢中になっ
て練習に打ち込みました。そして、乞われて出向く演奏
会では、たとえ完全でなくとも来場した方々に喜んでも
らおうと真摯にピアノに向かっています。その姿は自然
のうちに『自未得度先度他』の教えと同じ姿となってい
るのではないかと思うのです。

徳永さんは「演奏会で上手く弾けずに落ち込んだ時、必
ず応援のメッセージが来た、だから頑張れる」と言って
おられます。『自未得度先度他』の「自分」と「他の人」
が感動という力で互いに支え合い、一つになっているの
だと思います。自分を磨き続けることによって、多くの
方との心の通い合いに至るというのは、本当にすばらし
いことですね。

もちろん徳永さんはピアノでなくても、元々作っておら
れた海苔でも、多くの方に幸福を届けておられたことで
ありましょう。しかし、夢中になって打ち込んだピアノ
によって、多くの方との心の通い合いが顕れたのです。
感動から自分を磨き、多くの方に感動を運び、その感動
がまた自分に返ってくる。本当にすばらしい感動の連鎖
ではないでしょうか。

コロナ禍で、何かと気持ちがふさぎがちになる毎日です
が、私たちも自分を磨き続けることで、徳永さんのよう
に周りの方々を明るくしていきたいものですね。

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2021/06/21~30   自分という壁を取はらえば

講師:徳島県 城満寺 田村航也師

皆さんは、登場人物同士の心が入れ替わるというストー
リーの映画やドラマを見たことはありませんか?私が大
学生の頃、お父さんと娘さんの心が入れ替わってしまう
という面白いドラマがありました。

ある日、お父さんと娘さんが事故に遭い、病院で目が覚
めたら、二人の心が入れ替わっていて、娘さんがお父さ
んの姿で会社の会議に出たり、お父さんが娘さんの姿で
学校の試験に臨む、というお話でした。

つい最近も、刑事と犯人の心が入れ替わるドラマが人気
だったそうですから、誰しもが面白く感じる設定なので
しょうね。

ところが、「そんなことは理解できない」と言った人が
いました。それは誰かというと、実は、私のお友達のイ
ンド人です。

彼は「たとえ心が入れ替わったとしても、記憶まで入れ
替わることはあり得ないんだ」と言うのです。「なぜな
ら、心と記憶は別々なんだよ。記憶はどこにある?と聞
かれたら、頭の中にあるよね。では、心はどうだろう。
頭の中にあるとは言わないよね。だから、心と記憶は別
々で、たとえ心が入れ替わったとしても、記憶は頭の中
から動かないから、入れ替わりには気が付かないんだ。
実は、僕たちの心は常に入れ替わっていて、誰もが重な
り合っているんだよ」と言うのです。

私は、彼の話を聞きながら「これは私が説明の仕方を間
違えたのかもしれないぞ。どうやら彼は心という言葉と
魂という言葉を同じ意味だと思ってしまったらしい。そ
れにしても、いろんな考え方があるものだなあ」と感心
すると同時に、坐禅を指導する時のことを思い出しまし
た。

私は「坐禅をする前に、必要のないものは全て置いてき
てください。名前をお呼びすることはないので、名前も
置いてきてください。過去のことも問いませんので、記
憶も置いてきてください。そうすると、名前も、記憶も、
体も、心も、自分というものが無くなって、まっさらな
姿になります。そうすると、自分というものがスッと抜
け落ちて、自分と他人を隔てていた境目がなくなって、
皆と等しく繋がれるのです」と説明しています。

ドラマのように、心が入れ替わるというのはなんとも不
思議な話ですが、インドの友人が言うように、心が知ら
ぬ間にいつも入れ替わっているというのも、また不思議
な話ですね。

いつも入れ替わっているかどうかまではさすがに分かり
ませんが、自分と皆とが等しく繋がっているというのは、
とても素晴らしいことですね。いつでも、どこでも、ど
んなときも繋がっているお互いだという思いやりの気持
ちをもって、支え合っていきたいものですね。

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2021/06/11~20   諸行無常、だから変われる

講師:徳島県 城満寺 田村航也師

先日、親しくしている高校生に、こんなことを言われま
した。「どうせ人間、いつかは死んでしまうのに、どう
して勉強しなければいけないのでしょうか?勉強をして、
良い学校に行って、良い仕事に就くことはできるかも知
れないけれど、使いもしない知識を詰め込むことに、意
味があるのでしょうか?人間、いつかは死んでしまうの
に、勉強なんかしても意味がないと思います。仏教でも、
諸行無常と言っていますよね?」ということでした。

この諸行無常という言葉。「すべてのものは永遠には続
かない」という意味ですが、古典文学の平家物語の冒頭
の文章「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で有
名ですね。

武士たちの力によって強大な権力を作り上げた平家が、
あっという間に源氏に滅ぼされてしまった歴史を、仏教
に照らして、諸行無常と表現したものです。祇園精舎と
いうのはお釈迦さまが教えておられた修行道場の名前で、
そのお釈迦さまの教えである諸行無常を鐘の響きに託し
た美しくもはかない名分ですね。

お釈迦さまはどうして「すべてのものは永遠には続かな
い」と教えたのでしょうか。それは、私たちの心に潜む
自己中心的な思いを打ち砕くためでした。私たちの体を
見てください、どれもいつかは無くなってしまうもので、
永遠の自分というものは無いですね。ですが、だからと
言って、すべては空しく、どうでもいい、ということに
なるでしょうか。

諸行無常は、みんな無になるという運命論ではありませ
ん。永遠には続かないというのは、「みんないつも変わ
りつつある」ということです。もし今の自分が永遠に続
くとしたら、どんな努力をしても、変わることができま
せん。諸行無常だからこそ、変わることができるという
ことなのです。

皆さんには、自分はこうなれたら良いなあと思っている
ことはありませんか?私は、お経の源典をすらすらと読
めるようになれたら良いなあと思っています。

例の高校生も、いろいろと話している間に、勉強嫌いな
自分を変えることもできるんだと思ってくれたようで、
あれから受験勉強に励んで無事に大学に合格したそうで
す。諸行無常を前向きにとらえて、毎日の活力の源にし
たいですね。

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2021/05/21~31   愚痴

講師:高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

今日は、仏教用語のお話しの4回目「愚痴」です。

私事で恐縮ですが、このところ愚痴が多くなっている我
が身に気がついて、年金世代にもなって、なんとまぁお
粗末なことよと反省しきりでした。そしてその、愚痴の
原因は何かと言えば、お恥ずかしいことに自分の行いに
対してなのです。

実は、去年の秋に健康のためにと、息子からスポーツタ
イプの自転車が送られてきました。せっかくのプレゼン
トだからと乗り出してみると楽しくて、調子に乗って20
㎞ 30㎞ 50㎞ 100㎞と、走る距離をどんどん伸ばしてい
きました。

ところがある日、トンネルの中でバランスを崩し、転倒
してしまったのです。どうやら、気を失っていたらしく、
たまたま通りがかった人が通報してくれて、近くの病院
に救急搬送されました。

肋骨三本が折れて坐骨にヒビが入っていたため、横にな
っているときは不自由を感じないものの、トイレに行く
にも杖をつかないと歩くこともままならない状況でした。

退院してからもそんな状態が続いていたある日、「なん
てことだ、まったく…」と、ことあるごとに愚痴をこぼ
している自分に気がついたのです。まるで世の中で自分
だけが辛い思いをしているように嘆いている自分を情け
なくさえ感じました。

さてこの「愚痴」という言葉。愚も痴も共にオロカと言
う意味です。一般的には、言うても仕方がないことをク
ドクド嘆くことを「愚痴」と言いますが、仏教では、愚
かなこと、無知であることを「愚痴」と言います。

正法眼蔵随聞記という書物の中には、宗祖道元禅師さま
のお言葉として『愚痴なる人は、その栓なき事を思い云
うなり』「オロカなる人というものは、かいもないこと
を考えて言うものだ」と出て参ります。

つまり、オロカという言葉そのものだったわけですが、
それが江戸時代には「間違った意味のないこと」となり、
現在のような「言うても仕方の無いこと」というふうに
変化してきたようです。

おりしも五月病が話題になる時期ですが、この春、新し
い学校や職場でスタートを切った皆さんのみならず、ど
んな人にも「今まで」と「今」とが違うということが多
々あろうかと思います。

そんなときこそ、今までが良かったという思いにとらわ
れて後ろ向きにならぬよう、愚痴なる人にならぬよう、
気持ちを切り替えて、今、そしてこれからを大切に、前
向きな一歩を踏み出していただきたいと思うのです。か
く申す私も、愚痴なる我が身を反省し、先ずは昨日より
今日、今日より明日と、すっかり落ちた気力体力の回復
に努めてまいります。

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2021/05/11~20   老婆心

講師:高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

風薫る五月。コロナ禍とはいえ、みずみずしい新緑を目
にすると心が洗われるような気がする今日この頃です。

そんな心地よい季節のはずの五月ではありますが、「五
月病」という言葉を耳にしたことはないでしょうか?新
入学生や新入社員となった青年たちが、ゴールデンウィ
ークでお休みが続くと、それまでの一か月間、緊張して
張り詰めていた心の糸がプツリとキレて、休み明けに、
学校や会社に行きたくないとか、なんとなく体調が優れ
ないといった状態になることを称して「五月病」という
のだそうです。

端から見ている分には、一所懸命に受験勉強をしたり就
職活動をしたりして、せっかく入った学校や会社じゃな
いか。何があったか分からないが、もう少し頑張ってみ
ないかい?と老婆心ながら言ってやりたくなったりも致
しますね。

そこで、今回はこの「老婆心」という言葉を紐解いてい
こうと思います。

今時は、この言葉自体、使う人が居なくなったのではな
いかと思えるほど死語に近いかも知れませんね。皆さん
なら、この老婆心という言葉をどのように解釈されます
か?

曹洞宗の宗祖道元禅師さまに、修行僧の食事を作るにあ
たっての、修行僧の心得を書き記した『典座教訓』と言
う書物があります。その書物の中で道元禅師さまは、老
婆心とは「父母の心」なりと示されているのです。

さて、ではどのような心が「父母の心」なのでしょうか?
この書物の中にその心が書かれていました。「自らの寒
さを顧みず、自らの暑さを顧みず、子を蔭い子を覆う」
と。

なるほどそうですね、子供のこととなれば自分のことは
さておいて、まずは、子供を飢えや暑さ寒さからかばい、
守る。それが親の愛情、親心というものですね。

そこで道元禅師さまは、食事を作るに当たっては、食物
を取り扱うことひとつ、水を取り扱うことひとつも、親
が子を育てる時と同じように慈しみ深く真心をもって務
めよと仰るのです。

そしてさらに道元禅師さまは、こうも示して下さってい
ます。「一途に他のもののことを思い、努力することを
『老心』『老婆心』という」と。

甘やかすでもなく、厳しくするでもなく、一途に他のも
ののことを思いやる行いが老婆心だと仰るのです。老婆
心をもって、新入学生や新入社員に接すれば、五月病で
苦しむ人も減るに違いありません。

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2021/04/21~30   内証~自己を見極める

講師:高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

今日は、仏教用語のお話しの2回目「内緒」です。
「内緒の話」という童謡がありますが覚えておいででし
ょうか?そうです「ないしょ、ないしょ、内緒の話はあ
のねのね~♬」という、あの歌です。この歌に代表され
るように、一般的に「内緒」と言えば、「これは誰にも
言っちゃ駄目だからね」という意味で使われます。

でも、元々この言葉は仏教用語で、内外の内に、証明書
の証と書いて「内証」が本来の言葉なのだそうです。さ
らにこの「内証」は、元々の言葉である「自内証」を略
したものだとのことです。

どういう意味かというと、自分で正しいことを悟る・明
らかにするということ。・・・私たちが普段使っている
内緒とは大分違っていますね。

実は、昨年の十月のこと。遠方に住む次男から健康の為
にと、自転車が送られて来ました。スポーツタイプのな
かなか格好いいスタイルが気に入って、暇を見つけては
その自転車に乗るようになり、「今日は、何キロ走った」
とか「カロリーをこんなに消費したぞ!」と、一人で悦
に入っていたのです。新しい自転車にも慣れて、どんど
ん距離を伸ばして100キロ走に挑戦し始めたある日の
こと。それはフトした、一瞬の心の隙間の出来事でした。

歩くより遅いくらいのスピードでUターンをしようと、
足を路面に伸ばしたときにその事件が起きたのです。長
距離を走って疲れていたのでしょうね、足を伸ばしたつ
もりが伸ばし切れておらず、砂利道で無様にドターン!
と転んでしまったのです。数日前に購入したばかりの新
品のヘルメットは勿論のこと、顔も、砂利道にズリズリ
と・・・。幸いなことに顔の傷は軽かったのですが、お
気に入りのヘルメットが傷だらけになってしまったのが
とてもショックでした。

この転倒事件、さすがに自転車を買ってくれた息子に隠
し立て出来ず、「あのな、内緒の話なんだがな・・・」
と報告したのです。すると、息子がこう言ってくれまし
た。「ほかに怪我したところは無かったのか?」と心配
してくれたり、「ヘルメットを被っていて、良かったじ
ゃない」と。

そこで気が付いたのです。『ないしょ』とは、自転車で
転んだことを隠そうとするのが「内緒」ではなく、体幹
を鍛えるトレーニングを怠っていたのがそもそもの原因
であると見極めるのが「内証」であったと。その見極め、
内証を明日へと繋ぐことが、気遣ってくれた息子の心を
生かすことになるのかなぁ?!と自戒した次第です。

人に隠し事をする内緒ではなく、自分をしっかりと見極
める内証を、明日への一歩にしたいものであります。

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2021/04/11~20   自在~こだわりを捨てる

講師:高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

今年も早いモノで四月となり、真新しいランドセルを背
負ったピカピカの小学一年生の姿を目にするようになり
ました。可愛くて好いものですね。まだまだ新型コロナ
の影響が強いご時世ですが、普段の生活の中で出会う、
小さな喜びを大切にして過ごしたいものであります。

さて、今日から四回に渡って、仏教語講座・・と言うと
偉そうに聞こえるのですが、普段私たちが何気なく使っ
ている言葉の中から、これが仏教用語なの?と思われる
ものを紹介してまいります。

今回は其の一、「自在」です。この言葉、自由自在とか、
自在に操るなどと、何でも思い通りに動かしたり、意の
ままに操ることが出来るという意味合いで使われること
が多いようです。

私は子供の頃よく、人をラジコンのヘリコプターのよう
に自由自在に操ってみたいなあって考えたことがありま
した。でも、そんなこと出来る訳が無いですよね。当然、
夢見物語でした。人は、玩具や機械と違って、ポチッと
スイッチを入れたり、ボタンやレバーを回すだけでは動
かないんです。人は心でしか動かされないんです。そん
なことに、随分大人になってから気付かされました。

そんな「自在」という言葉ですが、仏教では、『心が悩
み苦しむことから解き放たれて、思うがままに行える力』
を自在と言うのだそうです。そして、そんな力がお釈迦
さまや菩薩さまには備わっているとされています。

実は、この自在という言葉のつく菩薩さまが、かの般若
心経に出てまいります。皆さんお気づきでしょうか?そ
うです、冒頭の「観自在菩薩」です。観自在菩薩さまは
世の中のすべてのモノをこだわりのない心で、思うがま
まに観ることが出来る優れた力を持つとされ、観音さま
とも言われております。

とかく私たちは、人の目を気にしたり、人と比べて、こ
うしなければならないんだと、何かに縛られたような日
送りになりがちです。しかし、その、何かに縛られると
いう、とらわれや、こだわりや、欲望から離れれば、心
が軽やかになります。人の言葉に振り回されることなく、
自分で考え、自分の意志で、正しい行いができるように
なります。それこそが「自在」なんですね。

コロナ禍でギスギスした気持ちになりがちな毎日ですが、
自在な心で、軽やかにすごしてまいりましょう。

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2021/03/21~31   思いやりを忘れずに

講師:高知県予岳寺 濱田道圓師

先日ラジオを聞いておりましたら、思春期の子供につい
ての番組で、司会の方が専門家の先生に「思春期の子供
とどういうふうに向き合えば良いか」と尋ねると、その
先生は「先ず一つ目は、しっかり話を聞き、同意するこ
と。二つ目は、親が聞くことを8割にし、話すのは2割
に留めること。そして三つ目は、褒めることより認める
こと」と仰っていました。

また、ある日のこと、在宅介護でお世話になっている訪
問介護のヘルパーさんに、介護で大切にしていることを
尋ねると「いくら認知症が進んでいらっしゃって、あや
ふやな言動をされていても、まずは相手を受け入れるこ
とが最初の仕事です。」という答えが返ってきました。

このお二人の話を伺ったとき、私は曹洞宗の経典「修証
義」の中の一文を思い出しました。

それは「他をして自に同ぜしめて後に自をして他に同ぜ
しむる道理あるべし」という文言です。年代や境遇を問
わず、自分が自分以外の人と接するときに、まずは相手
のことを素直に受け入れること。次に相手の反応や受け
止め方を考えること。そして最後に自分の考えや思いを
伝えよとのお示しです。現代の言葉で要約すれば「思い
やりの心を忘れずに」という意味になりましょうか。先
程のラジオでの子供への接し方然り、ヘルパーさんの接
し方然りですね。

今、この思いやりが失われて問題になっているのが、イ
ンターネットでのやり取りです。コロナ禍で密集・密接
・密閉の三密を避けるためにインターネットを使う人が
多くなりました。

インターネットでのやり取りは、思ったことや感じたこ
とをその場で、そのまま、その瞬間に、世界中に発信で
きてしまうため、不用意な発信が不快感をもたせたり、
深く傷つけてしまうことがあります。その逆に、不用意
な発信が非難され、槍玉に挙げられたりすることもよく
耳にします。相手の立場に立ち、相手の思いを受け止め
て、相手を慮りながら発信する「思いやり」が何より大
切ですね。

インターネットに限らず、コロナ禍にあっては、マスク
に遮られて相手の表情や雰囲気を感じとることが困難に
なりました。人と人とのふれ合い、人と人との生の繋が
りがつくづくありがたく感じられます。お互いの息遣い
を感じながら気持ちを通わせられる、マスクを外して満
面の笑顔で話し合える、そんな日が早く来ることを切に
願います。

2021/03/11~21   フィルターを取り払う

講師:高知県予岳寺 濱田道圓師

昨年の暮れ、お歳暮を贈ろうとお檀家さんが営む酒屋さ
んに伺った時のことです。奥さまに助言を頂きながら品
定めをしたり、宛名を書いたり、包装をして頂きながら
お話をさせて頂きました。

その酒屋さんの奥さまは東京生まれの東京育ち、ご主人
と巡り合うまで東京を離れたことはなかったとのこと。
東京でご主人と巡り会って結婚され、しばらくは東京で
暮らしていたのですが、ご主人のお父さまが体調をくず
されたのを機に高知に帰られたのだそうです。

「慣れぬ田舎での生活で、さぞかし気苦労も多かったで
しょう」と伺いますと。「やはり初めは大変でした」と
仰っていました。

奥さまに「どうやって高知の生活に慣れましたか?」と
伺いますと、暫く考えられた後、「そうですねえ。好き
になることにしました。」と答えられました。

そういえば私も、12年前に高知県に赴いた当初は、慣れ
ぬ言葉や慣れぬ風習に、心の中にモヤモヤとしたイヤだ
な、面倒だなという感情を抱えていました。しかしある
日、落ち葉掃きをしてきれいになった境内を見たときに
「そうだ、このままでは、いつまでもイヤなこと、面倒
なことのままだ」と気が付きました。それ以来、小さな
ことでも、好き嫌いの垣根を取り払って取り組むと、い
つの間にか、周りに溶け込めるようになっていました。

好きや、嫌い、というのは自分自身の心の中のフィルタ
ーを通して物事を感じていることであると言えます。心
の中のフィルターを通して、好きな物には興味や関心を
持ちます。好きな人とは近寄って話をします。その反対
に、嫌いな物には無関心になります。嫌いな人とは距離
をとります。

違った言い方をすれば、好きや嫌いという感情は、心の
中のフィルターを取り払うことで、その感情を切り替え
ることができるということではないでしょうか。

心の中のフィルターを取り払い、身の周りの些細なこと
にでも関心を持って生活していると、気づかなかった喜
びや感動を得ることに繋がります。普段あまり関わりを
持たない人とも交わりが出来れば、新たな学びやご縁が
できるかもしれません。それこそが、恵みのある豊かな
生き方ではないでしょうか?

コロナ禍でソーシャルディスタンスが新たな標準になっ
ておりますが、心の距離だけは離れずに過ごしたいもの
です。

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2021/02/21~28   放てば手に満てり

講師:高知県予岳寺 濱田道圓師

当寺のお檀家さんで、刃物を打つ鍛冶屋さんとして大変有
名な方がおられます。先日、その方のお母さまのご法事の
折りに色々なお話を伺いました。

実はこの方、ある技術を習得するために大変なご苦労と研
鑽を積まれたのだそうです。お祖父さま、お父さまと代々
の鍛冶屋さんの家に生まれたのですが、鍛冶屋を継ぐつも
りはなく、中学校を卒業してすぐに大工さんを志したとの
ことでした。

最終的には、お父さまの跡を継いで腕を磨き、鍛冶屋とし
て立派に生計を立てるまでになられたのですが、それだけ
では満足せずに、さらに極みを目指して刀鍛冶に入門を願
い出たとのこと。

しかし、簡単に入門が許されるはずもなく、何度も何度も
断られた挙げ句、ようやく鍛冶場に入ることを許され、様
々な書物を読んで研究したり実際に何度も打ったりと試行
錯誤を繰り返し、今では、その方にしかできないという特
殊な伝統技法を習得されたのだそうです。

私は、この方がその技法を習得する為に、ひたむきな努力
を続けられた事はもちろんですが、何より一人前の鍛冶屋
であったご自身を更に向上させるため、我(が)を捨てて
頭を下げ、入門を請われた姿に感銘を受けました。

禅の教えの中には「我執=がしゅう」という言葉がよく出
てまいります。自分自身に執着するという意味で、自分自
身へのこだわりのことです。今までの経験や実績は自分自
身の糧となりますが、それにこだわりすぎると、自分自身
の成長を妨げかねません。また、あまりにもこだわりが過
ぎると、周りとの協調が取れなくなることもあります。

禅の教えに「放てば手に満てり」という言葉がありますが、
その言葉が示す通り、手の平を開かなければ手は自由に使
えず、新しいものを掴むことも出来ません。皆さん、その
手にこだわりを握り込んで自分自身が縛られてはいないで
しょうか?こだわりを握り込んで、自分自身を覆い隠して
しまってはいないでしょうか?

手も心も大きく広げて、さまざまな出会いの機会やご縁の
輪を大切にしたいものです。

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2021/02/11~20   息を大切に

講師:高知県予岳寺 濱田道圓師

昨年、一大ブームを巻き起こした代表格に、「鬼滅の刃」
が挙げられるでしょう。私も読ませて頂き、激しい戦い
や、親子兄弟との愛情、困難に立ち向かう仲間との友情
と惜別に、熱い思いをたぎらせた一人です。

作中では、主人公たちが自分自身を強くするために習得
する技術として「〇〇の呼吸」や「全集中」という言葉
がよく出てきました。

実は、我々曹洞宗のお坊さんも坐禅の時に、鬼滅の刃風
に言いますと「全集中の呼吸」をします。但し、強くな
るためではありません。坐禅のはじめに「欠気一息」と
いう深呼吸を行い、肺の中から息という息を出し切り、
まっさらな空気を取り込みます。

坐禅では、まず初めに姿勢を調え、次に息を調え、最後
に心を調えます。体と心の間に呼吸、息が入っています
が、なぜこのように息・呼吸を大切にしなければならな
いのでしょうか?

息というのは、我々の感情や状態を表す言葉としてしば
しば用いられます。いくつか例を紹介しますと、息を荒
げる・息を潜める・息が合う・息が掛かる・息が長い・
息もつかせない・息を呑む・息を抜く・息を弾ませる・
そして、生き死にやいのちに関わるところで、息吹・虫
の息・息を吹き返す。そして、息を引き取る等、身近な
ところにあふれております。

そもそも「息」という漢字は、自らの心と書きます。つ
まり、息そのもの呼吸そのものが私たちの心であり、命
なのだとも申せましょう。

皆さまご存知の通り、息をするという行為は、生命の維
持に必要不可欠です。私たちはごく自然に、当たり前に
息をしています。

では、今の息、今の呼吸は調っていると言えるでしょう
か?怒りに任せて息が荒くなってないでしょうか?塞が
った気持ちで背中が丸くなり、息が浅くなっていないで
しょうか?

コロナが蔓延し出口が見えず、息の詰まる生活が続いて
おりますが、今こそ欠気一息、姿勢を調え、息を調え、
心を調えて、毎日を穏やかに過ごしてまいりましょう。

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2021/01/21~31   新しいお別れの様式

講師:愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

新型コロナウイルスは大切な人との最後の別れであるお
葬式にも大きな影響を及ぼしています。小規模かつ簡素
化が求められ、少人数のみで執り行う家族葬が主流とな
り、都市部では少しでも集まる機会を減らすために通夜
を無くした一日葬や火葬のみを執り行う直葬も耳にいた
します。

大きく変化した葬儀のかたちに次第に慣れつつある今、
変化によって生じてきた様々な問題を耳にするようにな
りました。

緊急事態宣言が出されていた四月にお葬式を行なったお
檀家さまは、限定された近親者のみ八名で行ないました。
お葬式が終わってしばらくすると、「お葬式に行けなか
ったからお線香をあげさせてください」と自宅に大勢の
方が訪ねてきて、対応に追われて大変だったそうです。

また、通夜も告別式もなくして、火葬場で短いお経をあ
げるだけの火葬式を行なった方は、亡くなったことをご
近所に知らせていませんでした。周囲の人は何もなかっ
たかのように接してくるし、「ご主人の具合はどうです
か?」と聞かれて、その都度「亡くなりました」と言う
のがとても辛いとのことです。

同じような悩みを抱える遺族が多いからでしょうか、最
近は参列を限定したり自粛したりするのではなく、お参
りの時間を分散するスタイルがあるようです。通夜や葬
儀は近親者のみで行いますが、身内以外の人は式に差し
障りのない前後の時間帯にお参りに来ていただく方法で
す。

決まった時間帯に大勢の人が集まって、同じ空間に長く
人が居ることを防ぐことができます。故人の最後の姿と
対面することができますし、直接お別れを言うことがで
きます。遺族の方にお悔やみを伝えることもできます。

お葬式は亡くなった方を囲んでその死を悼み、故人を偲
ぶ大切な時間です。最後のお姿と向き合うことで亡くな
ったという事実を受け止め、故人との思い出を遺族や他
の参列者たちと語り合うことで悲しみとの折り合いをつ
けていくのがお葬式です。

気持ちの整理をつけるためのお葬式の役割があるからこ
そ、故人の面影が大切な絆となってあらためて胸に刻ま
れて、それが明日以降生きていける自分の糧になってく
れるのではないでしょうか。

新型コロナウイルスの感染拡大で「自粛警察」などとい
う言葉が生まれるほど精神的に不安定になっている世の
中ですが、身体の距離は離しても心まで離さず、心と心
の触れ合いを心掛けたいものです。

政府が提唱する「新しい生活様式」の中で、知恵を出し
合い工夫を重ね、故人を偲び心静かに弔うという、お葬
式本来の時間を大切に過ごしたいものですね。

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2021/01/11~20   新年をむかえて

講師:愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

新年が明けました。皆さま良いお正月を迎えられたでし
ょうか。

明治以前の日本では、お正月は老いも若きも一斉に年を
取る日でした。昔は数え年で年齢を数えていましたので、
生まれた日を一歳として、正月を迎えるごとに一歳加算
される年齢の数え方でした。したがって、個人の誕生日
を祝うという習慣もなかったようです。「あけましてお
めでとう」の新年の挨拶は、「あなたも私も、誕生日お
めでとう」の意味も含まれていたのかもしれませんね。

とんちで有名な一休さんに、お正月に杖の頭にどくろを
しつらえて、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩い
たという逸話があります。そして、「門松は冥土の旅の
一里塚めでたくもありめでたくもなし」と和歌を詠み、
お正月はめでたいものだが、裏を返せばみんな歳を重ね
てあの世にまた一歩近づいたのだから、めでたくない日
でもあるのだよ、と示したのです。

新年を迎えた、あるいは誕生日を迎えた時に、「また一
つ年をとって老いてしまった」と考えたことはありませ
んか。一休さんの強烈な皮肉は、めでたいと思いながら
も頭の片隅ではさみしさを味わうという私たちの複雑な
心境に似ています。

曹洞宗開祖の道元禅師は、「今日は生きているけれども
明日も命があると思ってはならない。死や危険は今すぐ
にもやってくる」と言われました。今日元気だからと言
って明日も生きているという保証は誰にもありません。
その事実を知れば命のはかなさに気付きます。はかない
命だと思えば、毎日を大切に生きていこうという気持ち
になります。

お正月に初詣に行かれた方が多いと思います。初詣に行
くと神様仏様にいろんなことをお祈りします。私もご本
尊様に三ケ日のお勤めをして、「今年も家族みんなが元
気で平穏に暮らせますように」とお願いしました。その
時に、一休さんの「ご用心、ご用心」の言葉が頭をよぎ
りました。お願いするだけではいけないと気付いたので
す。「健康に気を付けます、バランスの取れた食事と適
度な運動を心掛けます、仕事も大事ですが家族との時間
を大切にします」という目標を伝えることにしました。
儚い命を大切に生きていこうとするならば、神頼みでは
なく目標や決意を伝えるべきだと思ったからです。

誰かに思いを伝えることで、毎日をより良く生きていく
ための行動力になるでしょう。私たちの命は、いつどう
なるか分からない儚い命なのだと用心しながら、令和三
年の毎日を大切に過ごしていきたいものですね。

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