坐禅...自らに向き合えば、新しい自分にきっと出会える!

法話:新着

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新着の法話

2017/04/21~30   要求吠え

講師 愛媛県 法蓮寺 川本哲志師 

私は十年ほど前から犬を飼っています。中型で柴犬に近
い雌の雑種です。

毎日の朝と夕方の散歩が日課になっていますが、散歩の
時間が近づいてくると、いつも「ワンワンワン」と大き
な声で吠えます。「早く散歩に行きたい」と訴えてくる
のです。エサの時間が近づいた時にも、「早くご飯ちょ
うだい」と言わんばかりに「ワンワンワン」と、エサを
出すまで吠え続けます。

犬が吠えるのは当たり前と思って気にしていなかったの
ですが、犬の飼い方に詳しい方から、「散歩やエサの時
間を毎日同じ時間にしていませんか?」と言われました。

犬は習慣性の強い動物なので、散歩やご飯の時間をしっ
かり覚えていて、その時間を飼い主が几帳面に決めてい
ると、犬は「そろそろ時間だ」と要求するようになるそ
うです。

「ワンワンワン」と訴えてくるのは「要求吠え」と呼ば
れる犬の行動なのだそうです。

そして、吠えるということは犬の欲求不満でありストレ
スであるから、犬の精神的に悪いことだとも言われまし
た。習慣になっていることが当たり前となり、それが果
たされないことで不満やストレスを与えてしまっていた
ようです。

その助言を聞いて、私達人間にも似たようなことがある
と思いました。挨拶をしたけれど返してくれなかったと
不満を感じたり、何かをしてあげたけれどお礼の言葉が
なかったと気分を害したり、自分の中に「当然だ」とい
う思い込みがあるために、その思い込みが自分を苦しめ
ていることはないでしょうか。何かを求めることで苦し
みを生み出しているということはないでしょうか。

煩悩や執着が、喉が渇いて水を求めるような貪りの心と
なって苦しみの原因をつくる、とお釈迦さまは説かれま
した。

日本人は戴き物をした時など、直ぐにお返しをしたり、
お礼の電話やお礼状を出すなど、礼儀を尽くすことに神
経質な国民性なのだそうです。それ自体は素晴らしい国
民性だと思いますが、それが昂じて贈り物の見返りを求
めることにまで神経質になると、そこに執着が生まれ、
不平不満がストレスとなり、苦しみとなってしまいます。
不満や怒りやストレスを感じた時には、まず自分自身を
見つめてみましょう。

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2017/04/11~20   蝉は春秋を知らない

講師 愛媛県 法蓮寺 川本哲志師 

夏に鳴く蝉は、成虫として生きられる時間が数週間しか
ないことから、はかない命の代名詞のように言われます。

「蝉は春や秋を知らない」という言葉があります。道教
の始祖の一人とされる荘子の言葉です。夏の盛りに地上
に出てきて、秋が訪れる前にその生涯を終える蝉は、他
の季節があることを知ることがないという意味です。

夏以外の世界を知らないということは、そもそも自分が
過ごしたのが夏という季節だと知らないことでもありま
す。ただ、蝉が鳴くのは夏だということを、人間が知っ
ているだけのことです。過ごしやすい春や秋を知らず、
この世界は一年中暑いものだと思っている蝉を人間から
見れば、不憫にさえ感じます。

しかし実際は、蝉は地上に出るまでに何年も地中で過ご
しますので、土の中とはいえ春夏秋冬を何度も体験して
います。

「蝉が春や秋を知らない」という言葉を、仏教では人間
に向けられた言葉として受け止めます。あっという間に
死んでいくように見える蝉と自分を、重ねて考えるよう
に解釈します。

この世界で生まれて、この世界で生きて、この世界で死
んでいく人間にとっては、この世界が全てです。私たち
が「全て」だと思っている「この世界」も、蝉の生きて
いる「夏」と変わらないのです。それ以外の世界を知ら
ない私たちは、自分が過ごしている世界が何であるかを
知らないのです。

お釈迦さまはこの世の真理に目覚め、お悟りを開かれま
した。お釈迦さまが悟りの境地から見た私たちは、私た
ちが見る蝉と同じだったのでしょう。私たちが蝉を不憫
に思うように、お釈迦さまは私たちに慈悲の眼を向けて
くださったのです。それゆえ、私たちが人生をいかに生
きていくべきかを仏法としてお示しくださったのです。

私たちが蝉に「短い一生、精一杯生きてね」と思うこと
と同じように、お釈迦さまは「限られた命、幸せに生き
てください」と私たちを励ましてくださっているのです。

この世界が何であるか、自分が何者であるか、分かって
いるつもりで生きてきたけれど、実は何も分かっていな
い私たちです。そんな私たちにとって、この世の真理に
目覚めたお釈迦さまの教えを聞くことができることは、
この上なく有り難いことです。私たちはお釈迦さまの教
えに、もっともっと耳を傾けなければならないのです。

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2017/03/21~31   つながる思い  

講師 香川県 祥福寺 本山良宗師

昨年暮れのことです。東京での会議の合間に世界遺産ラ
スコー展を見学してきました。

今からおよそ二万年前に、クロマニヨン人がフランス南
西部のラスコー洞窟に描いた壁画や、見事な彫刻を施し
た様々な狩猟道具、裁縫に使った針や多彩な装飾具など
が展示されていて、芸術の爆発とも言われる二万年前の
クロモニヨン人たちの豊かな表現力に驚かされました。

そんな展示物の中で最も心をゆさぶられたのは、頭部に
貝殻のビーズの飾りを施して埋葬されていた一人の女性
の化石でした。

マンモスやホラアナライオンなどの大型動物が闊歩して
いた時代に生きたクロマニヨン人です。獰猛な動物に襲
われて、命を落とすこともあったことでしょう。病に倒
れれば、なすすべもなく見守るしかなかったことでしょ
う。

そんな彼らが、大切な家族や仲間を亡くした時には、現
代人同様に悲しい別れに涙しながら、亡き人を懇ろに弔
っていたのだと思うと同時に、先立つ人は残る人たちの
無事を願いながら逝ったに違いなかったろうと思ったの
です。もしかすると、そういう願いは現代に生きる私た
ちより深かったかもしれません。

クロモニヨン人などというと、遠い昔に絶滅した人種と
思われがちですが、最新の研究では、そのDNAが現代
ヨーロッパ人につながっているとされています。

それはつまり、残る者の無事を祈りながら逝った人たち
の思いが、命のつながりとして現代まで確かに繋がって
きたということですね。

人の幸せを祈ること、人を思う心を大切に一日一日をす
ごしてまいりましょう。

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2017/03/11~21   微かな光

講師 香川県 祥福寺 本山良宗師

三月を迎え、黄砂で夜空もかすみ始める日本列島の裏
側、南米チリ標高5000mのアタカマ高地では66
台もの巨大な電波望遠鏡を運用して銀河の誕生を探る
という、世界的な研究が行われています。

この研究に参加するために現地へ行った方によれば、
「夜、外に出ると金星の光で自分の影ができる」のだ
そうです。

金星といえば、太陽、月に次いで明るく見えることか
ら明けの明星とか宵の明星といわれていますが、電気
の灯り溢れる日本では、月の明りで影ができることは
あっても、金星からの光で影ができるなどとは想像す
ら出来ません。

思うに、人の心や、人の思い、人の命の繋がりという
のも、星の光と同じなのではないでしょうか?

喜んだり悲しんだり時には怒ったり…。人間らしいと
いえば人間らしい日送りですが、それが本当に人間ら
しい生活とは限りません。電気の光に囲まれて見る、
星の光と同じように、時間に追われ感情に振り回され
て、大切なものを見失ってはいないでしょうか?

春のお彼岸がまいります。お仏壇の前で、お墓の前で、
静かに手を合わせてみましょう。きっと、あなたを見
守っている微かな光に気がつくはずです。

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2017/02/21~28   布施

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

昨年の十一月、三重県の大紀町という町にお説法でお邪
魔したときのことです。とても心あたたまる出会いがあ
りました。

お寺でのお説法が終わって、車で30分程離れた特急列
車の止まる無人駅まで送って貰った時のことでした。少
し、時間があったので駅の周辺を散策していると、ふと、
デイルームと書いた看板が目に留まったのです。

ああ、ここにもデイルームがあるんだなと目を凝らして
みると、その上に「放課後」と書いてあります。

急速に過疎化が進んでいると聞いた町ですので、今問題
の待機児童の子供さんたちではないであろうと思いなが
ら、立ち寄って見学させて頂きました。

そこには、年齢もまちまちの子供たちが、ゲームをしな
がら楽しみ、笑っていたのです。近くを歩いていた方に
聞くと、『要支援』。支援が必要な子供たちだと言うの
です。

「直ぐそこに小学校があって、全校生徒200名を切っ
ているんですが、この学校には要支援の子供等が1割程
度いるんです」と悲痛にも見える表情で話してくださっ
たのです。

そんな話を伺っている時、多分一・二年生だと思います。
一人の少女が、私に近づいてきて笑顔でこう言うのです。
「和尚さん、美味しいから、これあげる」と、手にして
いたビニールの袋からお菓子を取り出して私に勧めてく
れたのです。

「お嬢ちゃん、どうもありがとう。和尚さんは、さっき
ご飯を食べてきましたから、お腹いっぱいなんです。だ
から気にしないであなたが食べてください。本当にあり
がとうね」と言いますと、また笑顔で「はーい!」と元
気な声が返ってきました。

その少女は見知らぬ訪問者であった私に、「優しい心」
と「笑顔」という布施をくださったのです。

宗祖道元様は「布施とは貪ることなく、へつらうことな
く、見返りを持たない生き方である」と示しています。

思うに、その少女の行いは相手を思う優しさだけであり、
まさに「布施」そのものであったと思うのです。

布施とは見返りを求めないこと。何人も置き去りにしな
いこと、させないこと。願わくは、諸人がそういう生き
方であれと祈るのです。

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2017/02/11~20   同事

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

三月には東北大震災から七年目、四月には熊本地震から
丸一年を迎えるわけですが、熊本地震が起きてから三カ
月しか経っていない昨年七月、市内のお寺さま方のお招
きでお説法に伺いました。

あのような大災害が起こるとは思っても居なかった時か
らのお約束で、復旧とは程遠い状況にある時期でしたの
で、伺うことにとても躊躇いたしました。

しかしながら、「こんなときだからこそ、お説法が必要
なんです」という、地元のお寺さまからのお声を聞いて
伺うことにしたのです。

熊本巡回での最後のお寺さまで、お檀家の方とお話する
機会がありました。そのとき、強く感じたことがあった
のです「人間て良いもんだなぁ、人間て強いんだなぁ!」
と。

お檀家の方のお話では、そのお寺さまは大きな駐車場を
抱えていて、あの大地震が起きた日には駐車場に車で避
難してくる人、テント持参でやってくる人、着の身着の
ままの人、檀家さんだけでなく大勢の人が押し寄せたそ
うです。

その日からすぐに、救援物資の配布も始まったのだが、
誰が指示するでもなく整然とした列が出来たと・・・譲
り合いですね。

車中泊を続けていると、足を延ばして寝たくなってくる。
すると、テント暮らしの人が「昼間で良かったら、テン
トで横になりませんか?」と声をかけてあげていたそう
です。

あるいはまた、簡易ガスコンロで食事を作っている人が、
隣にいる人たちに声を掛けていたそうです「食事してな
いようでしたら、良かったらこれ食べませんか?」と。

誰にも指図されたわけでなく、お互いがお互いを思いや
りながら助け合って過ごしていたというのです。人はけ
して一人じゃないんですね。

宗祖道元様は、「同事と言うは不偉なり、自にも不偉な
り他にも不偉なり、他をして自に同ぜしめて後に自をし
て他に同ぜしむる道理あるべし」と、示されました。

「同事とは、他の人と心通わして同じ気持ちになること
である。それは自分であっても他の人であっても変わり
はないのだ。我々には大きな経験と言うものが存在する、
その経験と人を思いやる心を同化させたならば、心が通
い合うのだ」と説かれました。

困っている時は、「お互い様」を忘れたくないものです
ね。お互い様の心が、正に世界を救うものなのです。

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2017/01/21〜31   愛語

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

昨年、北海道の帯広一帯を お説法で廻ったときのこと
です。

帯広に入って三日目となり、そろそろ洗濯をしないと着
替えがなくなってきましたので、ホテルから歩いて10
分ほどという、最寄りのコインランドリーを紹介して貰
いました。

フロントで渡された小さな地図をたよりに10分ほど歩
いたのですが、一向にコインランドリーが見えてきませ
ん。歩くのが遅いのかと、さらに10分歩いてみても見
つからず、人に尋ねようにも、あいにくの雨降りで誰も
歩いていません。

困ったなあと思っておりましら、たまたま、登校途中で
信号待ちをしている小学五・六年生くらいの子どもたち
を見かけました。

これ幸いと、その子どもたちに「すみません、あなたた
ちに少し尋ねたいことがあるんですけど、宜しいでしょ
うか?」と尋ねると、その中の一人が「はい、いいです
よ」と、返してくれました。

そこで、地図を見せながら「実は、このランドリーに行
きたいんですけど、この近くじゃないでしょうか?教え
て頂けますか?」。

そうすると怪訝な顔で私と地図を見比べるようにしなが
ら、「あのぉ、このランドリーは、イトーヨーカドーの
近くです。」と教えてくれたのです。

しかし、悲しいかな旅人の私には、それが何処にあるか
分かりません。さらに、二言三言話をしたのですが、な
かなか要を得ず、これ以上は無理だと思った私は「諦め
てホテルに戻ります、ありがとうございました。」とお
礼を述べて頭を下げました。

子どもたちは「すみません、ごめんなさい」と、頭を下
げながら学校の方へと歩きだしたのですが、四歩か五歩
のところで急に私の方に振り返り、大きな声で、こう言
ったのです。

「すみません!お力に成れずに申し訳ございません!」
そう言いながら、ランドセルの背が見えるほど深々とお
辞儀をして下さったのです。

もう私は、感激して何も言えませんでした。その感激を
私は一生忘れることは無いでありましょう。

もし私が、年上だからと偉そうに「ここへ行きたいんだ
が教えてくれんか?」と言ったとしたなら、果たして、
その子どもたちは「すみません、お力に成れずに申し訳
ございません」と、返してくれたでしょうか?私は、感
動的な子どもたちの言葉と行いに、出会うことが出来た
でしょうか?

宗祖道元様の「愛語よく廻転の力あること学すべき也」
すなわち、「相手のことを敬い思いやりながら発する言
葉には、人を動かす力がある」とのお示しは、まさにこ
のようなことなのでありましょう。

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2017/01/11~20   少欲知足

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

「世の中が、我侭気ままになるならば、年中三月常月夜、
お前十八わしゃ二十歳、死なぬ子三人みな孝行、後先息
子で中娘、使ぉて減らぬ金十両、死んでも命があるよう
に、寝ていてしょんべんしてみたい」

この和歌は、東京が江戸と言われていた時代に流行った
戯れ歌だそうです。当時の江戸っ子はこの和歌にメロデ
ィーをつけて手拍子でも打ちながら歌ったのでしょうね。

たしかに、その当時を想像しながら自分で勝手に抑揚を
つけて口ずさんでみると、何ともお気楽で滑稽さを感じ
る戯れ歌ですが、きょうは、その滑稽さを話題にしたい
わけではなくて、この歌の中身についてお話ししたいの
です。

この戯れ歌の「俺がとか、私さえ、楽しければそれで良
いんだ!」という心。「自分さえ」「俺が私が」の心、
果たして江戸時代の人だけだと言えるでしょうか?その
心、今を生きる私、そしてあなたの心の中にもないでし
ょうか? きっと、ありますよね?
 
でも、普段はその心を微塵も感じさせないのです、我々
は。なぜかと言えば、理性も知性もあるからです。「自
分さえ良ければ」という心を私たちは気付かない内に覆
い隠してるのです。

ところが、ある時、その心が、ふと芽生えることがあり
ます。そんな時、その心が芽生えていない私たちが「自
分さえ」という光景や言葉を目にすると、どう思うでし
ょうか?「やだなぁ!」と感じますよね?
 
お釈迦様は、私たちに「少欲知足」。すなわち「少ない
欲で足りることを知りなさい」ということを説いてくだ
さっています。

私たち人間は、欲が無いと生きていけない状態になるそ
うですから、欲には必要な部分もあります。でも、「自
分さえ、俺さえ良かったら良いんだといった心は、つま
らん欲だから捨ててしまえ」と、お釈迦様は極めて強く
説いておられるのです。

人様のことをこれっぽっちも考えない私たちではつまら
ないですよね?人様を思うことを忘れると、人間は今を
生きているんだという感覚が薄れて来てしまうのだそう
です。

人を思う心が、我が心をより豊かにするのです。

新しい年が始まりました。他を思う心を大切に過ごして
まいりましょう。

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