坐禅...自らに向き合えば、新しい自分にきっと出会える!

法話:書庫1 ~ 2010年

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法話:書庫1 ~ 2010年12月

2010/12/21~31   絆の根本は信仰

講師 香川県 南隆寺 大石 光昭 師

年の瀬の風物詩となった、その年の世相を漢字一文字で表す
「今年の漢字」が、「暑」あついという字に決まり、清水寺
の森管長によって揮毫されました。

本当に今年の夏は暑くて長い夏でした。NHKの調べでは、
その影響で熱中症により亡くなられた方が、全国で500人
を上回る数だったそうです。

それともう一つは、高齢者の所在不明問題。戸籍があるのに
現住所が確認できない100歳以上の方は全国で23万人を
超え、このうち120歳以上は8万人近く、150歳以上は
884人に上るそうです。

いろんな原因があるのでしょうが、中には、亡くなった親を
数十年も押し入れに隠していたとか、自分の親とは30年以
上も音信不通という、すでに80を超えるお年寄りの話とか
耳を疑うようなニュースがありました。

しかしこれは、今年の夏の猛暑だけが原因なのでしょうか。
経済格差や、貧困だけが原因でしょうか。この2つの出来事
の根底にはもっともっと憂慮すべき共通する問題が横たわっ
ていると、私は思います。

それは、ご近所どうしの絆、親戚の絆、家族の絆、そういう
一番身近な絆が希薄に、いや既に崩壊状態であるということ
ではないでしょうか。この崩壊状態の絆をどう繋ぎ合わすか
中々簡単ではありません。

先日、お檀家さんのお法事で、「あら!叔母さん、元気だっ
たん?近くで居っても、こんな時でないと顔合わさんなあ」
「ほんまやなあ」というような挨拶が交わされていました。
それを聞いて、私は、「これだ!」と思いました。

ご法事では、亡くなった父や母、ご先祖様が家族や親戚を集
め、心を一つに繋いでくれます。近所の祠のお地蔵さんや神
仏の縁日も、ご近所どうしの心を繋いでくれます。

今や、日本中の町や村では、町おこし村おこしで神様、仏様
不在の「◯◯まつり」と称される、人集めのための大きなイ
ベントが催されます。集客力は有るでしょうが、人と人の心
までは中々繋げてくれません。何が違うのでしょうか?

命の繋がりに感謝したり、大自然の恵みに感謝する者どうし
の集まり、そこにこそ心の繋がりが生まれるのです。大きな
違い、それはそこに一番大事な「信仰」、ということが在る
か無いかです。

新しい年の初めには、どうかご家族揃ってお仏壇のご本尊を
はじめご先祖様に、新しい年が迎えられたことへの感謝のま
ことを捧げましょう。                                 

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2010/12/11~20   どうぞおさきに

講師 愛媛県 宗安寺  能仁 洋一 師
    
テレビや新聞などを見ていると、毎日尽きることなく起きて
いる様々な事件。特に目を引くのが、お金を簡単に入手した
い等という、正に自分の私利私欲のために他人を傷つけ、簡
単に命を奪ってしまう事件の増加です。

時には、他人の苦しんでいる顔を見たかったからとか、どう
なるか見てみたかったからなどという、正に自己中心的で我
が儘極まりない理由での事件も頻発するようになってきてい
ます。

なぜ、このように凶悪で自己中心的な動機での事件が増えて
いるのでしょうか?

私は一つの理由としてコミュニケーションの希薄化があるの
ではないかと思います。

以前起こった殺人事件で、犯人は同じアパートに住む男性だ
ったというものがあったのは、まだ記憶に新しいと思います。
同じアパートに住んでいても、仕事の時間帯が違えば顔を合
わすこともほとんどなく、どんな人が住んでいるのかを知ら
ない。そういったことが、ごく当たり前になりつつあります。

一概に言えませんが、仕事を求め夢を持って多くの人たちが
集まる都会に行けばいくほど、人との距離は大変近づきます
が、心の距離は逆に離れていっているように感じた事でした。

修証義というお経の中に、「己未だ度らざる前に 一切衆生
を度さんと発願し営むなり」とあります。

これは、自分だけが安穏と生活するのではない。自分は後回
し。私よりもまず先に人を渡す、救う。そういった考えです。

自分の欲の為に他人を傷つけたりするのではなく、周りの人
たちが幸せになるにはどうしたらいいのかを考える。

互いにコミュニケーションを取り合い、この修証義の一説の
ような思いで日々を暮らしてみてはいかがでしょうか。
                        
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2009/10/21~31   ぬくもりの中で

講師 高知県 淨貞寺  伊藤 正賢 師
    
この時期に成りますと思いだすことがございます。

四十数年前、高知県の四万十川流域にあるホント小さな村に
誕生致しました。

小学校に上がる少し前のこと。村はずれに、子供にしては結
構大きな柿の木がありました。その時代、日本の高度成長期
にあっても、小さな村故にお菓子と言う物があまりなかった
のです。

甘い物が欲しくてたまらない年頃です。当然、色づいた柿の
実が気になるのです。

その実を見上げていると、その村に住む「厳爺」が側にやっ
て来て、私に声を掛けるのです。

「坊、この柿が食いてぇか?そうか。それじゃ、おんちゃん
が採っちゃろぉ。」

そう言うと、厳爺は近くにあった竹を拾って来て、柿の木の
中程にある柿の実を 私に取ってくれたのです。

「もっと 採り易い下の方でも良かったのに…。」

と小さく声を掛けると

「あのなぁ、お寺の坊、良~く聴きや。 あんな、下の方に
ある柿の実は この道を旅している人が、喉が渇いた時に食
べて貰うのさ。 ほんでなぁ、上の方にある柿の実はなぁ、
小さな坊と同じように、腹を空かせた鳥達に食べて貰うのさ。
だから、坊に採ってやるのは 中程にある柿の実なんだ。解
ったか? 坊…」

その当時は、何も解らなかった私。

振り返りますに、あの厳爺が、今、私共に欠けているモノを
教えてくれているように思うのです。

優しさと言うぬくもり。そこには決して我が為にという観念
はございません。

人の「ぬくもり」を感じ、その中で生きるということは心地
良いものです。で、あるならば、私もそうありたいと願うの
です。                  

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2009/10/11~20   あなたは知っていますか?

講師 愛媛県 宗安寺 能仁 洋一 師
       
先日、友人たちと石鎚山に登って参りました。あいにくの曇
空で、霧深い中での登山でしたが、自然の雄大さを肌に感じ
とても清々しい気持ちになりました。

その道中にこんなことがありました。

霧深い中での久々の登山は、最近なまっていた私には中々き
つく、友人達の背中をやっとの思いで追いかけながら登って
おりました。

途中休憩をとった時の事、生き返る思いで登山者用に設けら
れた丸太造りのベンチに腰掛けると、どこからともなく小鳥
のさえずりが聞こえてきました。

とても奇麗な声に癒されながら、友人に「きれいな声が聞こ
えるよ」と申しましたところ、「登ってくる道中にも、いろ
んな小鳥たちの声が聞こえてたよ」と言われました。

どうやら私は、みんなの後を追いかけて登ことだけで一杯に
なり、小鳥たちの声さえも耳に入らなくなっていたのでした。

私たちは日々、家庭で、職場で、学校で、目が回るような日
常を送っています。忙しさの余り、最近は空を見上げること
も、風の音や、鳥たちの声に耳を傾けることも無いなと言わ
れる方も多いのではないでしょうか。

自分が少し耳や目を傾けるだけで、自然本来の姿が見えてき
ます。

道元禅師様のおうたに『春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬
雪さえて すずしかりけり』とあります。

このおうたで、道元禅師様は「春には花が咲き、夏になれば
ホトトギスが鳴く。秋にはきれいな月が出て、冬には雪が降
る。極々当たり前のことですが、とても大切なことですよ」
とお示しになられております。

たとえ当たり前のことであっても、本人が気づいてなければ
意味はありません。

あなたは、本当の自分を知っていますか?風の音や鳥たちの
声と同じように、耳や目を傾けてもう一度よく自分を見つめ
てみましょう。

自分は何が好きで何が苦手で何がしたい人間なのか。どんな
人間なのか。自分本来の姿を知ってこそ、人生の次のステッ
プに進むことができます。
 
どんなに忙しくても、忙しいからこそ、大きく深呼吸。自分
を見つめ、周りを見つめ、本来の姿を今一度 観察してみま
しょう。                     

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2009/09/21~30   お彼岸の心

講師 愛媛県 大通寺 越智 正道 師
    
私たちはいつも幸せでありたいという気持ちをいつも持って
います。

今年も彼岸がやってまいりました。暑さ寒さも彼岸まで」と
言われていますが、暑さもようやく峠を越して、一段と秋め
いてまいりました。喉元過ぎれば熱さを忘れると昔から言わ
れていますが、人肌的に丁度よい時候です。

これを彼岸と考えると暑くもない寒くもない幸せの時期です。

人生も四苦、八苦の中に生きています。苦しい生活の中に楽
しいこともある、それの繰り返しであろうと思います。毎日
の生活の中で、あそこが痛い、ここが痛いと、いろんな心配
があると思います。

しかし、何の心配もなく一日が過ぎたとしたら、こんなに幸
せなことはありません。自分の現在に感謝することです。

「ありがたいと思う心が今日の幸せ」です。こんな一日を大
事にし、いつも他人のために働く生活の中で、自分をみがく
心がけをもたなければなりません。

私たちがこの世で幸せに生きていくには、姿や容貌ではあり
ません。「何か私にできるお手伝いをしたい」という優しい
「心」をもつことです。

この心が「利他行」なのです。利他行」とは、相手のことを
思って、自分のことを思わない、私心のない優しさをいうの
です。

「いたわり」も「優しさ」もそれを受けとめてくれる相手が
いて成り立つものです。むしろ、相手によって自分の優しい
気持ちを引き出してもらっているともいえます。

「朝に合掌、昼は汗、夜は感謝で眠りましょう」と昔から言
われています。「物で栄えて、心で滅ぶ時代」といわれる現
今ですが、せっかく生きている人生を、優しい「心」をもっ
て隣近所、困っている人々に呼びかけ、お互い励まし合い、
いたわり合い、感謝して生きていくことができたらどんなに
幸せなことでしょう。

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2009/09/11~20   お彼岸を迎えて

講師 愛媛県 宝蔵寺 石井 一行 師
    
お彼岸を迎える頃となりました。年に二回春と秋、お日様が
真東から昇り、真西に沈むちょうど真ん中の日を彼岸として
御先祖様たちは特別にいのちを慈しみ 祖先を敬ってきまし
た。

この”真ん中”はお釈迦様の中道の教えに通じ「かたよらな
い」「とらわれない」「こだわらない」心でゆったりと真ん
中を歩きましょうという 理想の生き方に近づく為の実践修
行の期間がお彼岸の一週間です。

物の豊かでなかった昔、餅米やお米、砂糖、小豆を使ってご
飯とお餅の中間のおはぎを作り、自然に感謝し仏様や祖先に
お供えしてきた先人の智恵には本当に驚かされます。

彼岸とはもともと古いインドの言葉で”修行を完成する”と
か”悟りに至る”という意味の「パーラミター」に由来しま
す。

日常の忙しさに追われ、ついつい感情に流され、自分中心の
生き方に陥ってしまいがちな現代ですが、ひととき心を静め
み仏の教えに触れ、自分を見つめ直すことが大切になってい
ます。

特に、今年は長い連休になっていますが、こういう時こそ、
御先祖様たちが大切にしてきたお彼岸の生活を思い起こし、
感謝と真心で迎えたいものです。

亀井勝一郎さんの言葉に
「人間が宗教的になるというのは、どういうことでしょうか。
それは、今まで見えなかったものが、見えるようになること
ではないでしょうか。今まで感じられなったことが、深く感
じられるようになることではないでしょうか。今まであたり
まえと思っていたことがおどろきであると、いのちと人生を
見なおさせていただく人間になることではないでしょうか」
とあります。

ご先祖様たちが大切に守り伝えてきた、お彼岸の信仰と暮ら
しを私たちもしっかりと引き継いでいくことが、幸せで理想
的な人生に近づく道すじとなっていくのではないでしょうか。
                            
     
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2009/08/21~31   挨拶

講師 愛媛県 医王寺 竹中 義実 師
    
お盆の棚行でお檀家のお宅を一軒一軒歩いてお参りしており
ましたら、後ろの方から「和尚さまー」と呼ぶ声がします。

驚いてすぐ振り返ると、数十メートル先の路地から出てきた
小学校低学年くらいの男の子二人が、私に向かってまた「こ
んにちはー」と言いながら手を振っています。

私は、どこのこかなあと思いながら目を凝らして見ましたが
知らない子供たちでした。

しかし、わざわざ遠くから知らない私に対して挨拶をしてく
れたこと、そして「和尚さまー」という丁寧な呼び方がまた
嬉しくて、私もまた少し弾んだ声で「こんにちはー」と手を
振りました。

正直、猛暑にまけそうになっておりましたが、その子供たち
のお陰で心に心地よい風が吹き、元気をもらうことができま
した。

最近は大人でも、知っている人にでさえ挨拶ができなかった
りしますが、遠くを歩いている知らない私にわざわざ大きな
声で挨拶をしてくれた子供たちから、大事なことを改めて教
えられたように思いました。

挨拶は、お互いに言葉をとりかわしたりする礼儀を意味しま
すが、もともとは触れるとか押すとか迫るといった意味で、
禅の修行道場では、師家(指導者)が問答を行い雲水の言葉
や振る舞いから、悟りの程度を確かめるのに用いたようです。

お互いに研鑽しあい、自分をみがいていこうとしたのがもと
もとですが、どちらにしても、人と積極的関わりをもって行
くのが挨拶といってよいでしょう。

駅の切符売り場や改札にしても、また高速道路の料金所(E
TC)にしても、以前は人と人とのやり取りがありましたが
今ではほとんど機会が相手です。

機械がしゃべる場合もありますが、やはり温かみはありませ
ん。

このように、何かと人と人との関わりが少なくなっている今
だからこそ、挨拶を大事に。そして、もっともっと積極的に
挨拶することを心がけていきたいものです。

知っている人とも、知らない人とも、挨拶によってお互いが
気持よく心通わせ、温かな人間関係が多く築かれて行く事を
願っています。
                                     

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2009/08/11~20   日常の感謝

講師 香川県 南隆寺 大石 光昭 師

先月二十二日、日本中が皆既日食で沸きました。四国地方で
も部分日食を見ることができました。

元宇宙飛行士の毛利衛さんは、日食前にテレビのインタビュ
ーにこのように答えています。

「四十六年前、高校一年生の時に、網走で見ました。その時
の感動は今でも忘れられません。月の影が地球に映っている
わけです。宇宙は、とてつもなく大きな力で動いている。人
間では、どうしようもない壮大な力で。宇宙の力を目の当た
りにした体験は、私にとって大きな刺激になりました。この
体験が、私の今の原点になっています。もっと自然を知りた
いという強い思いが芽生え、科学者になろうと決めました。
そして、宇宙飛行士への道に広がっていったわけです。」

皆既日食を目の当たりにした人は人生観すら変わるとさえ言
われています。

実際に、他にも多くの人たちの感動の声がテレビで伝えられ
ました。テレビを通して、その様子を見た私も大いに感動さ
せて頂きました。

しかし、よく考えてみてください。

何十年に一回という宇宙の大スペクタクルを見なければ感動
はできないのでしょうか。

いいえ、例えば、日に三度の食事、私たち人間に食べられよ
うと思って育った命は何一つありません。しかし、お米も野
菜も、魚やお肉も、三度三度私たちの前に料理され、行儀よ
く並びます。

そのとき、私たちは皆既日食を見た時と同じ、いやそれ以上
の感動をしなければならないのです。

もっと言えば、「吐く息、吸う息。」この営みさえも、宇宙
や地球の歴史、生物の誕生から人間にまで進化した歴史の証
なのです。

その瞬間瞬間が感動の連続でなければならないはずです。

その感動をあらわす言葉が、「感謝」といいます。この感謝
なしでは私たち人間は、決して幸せにはなれません。

現代の飽食国家日本では、栄養上の飢えはないかも知れませ
んが、反面、精神的な飢えや渇きは際限なく広がりつつあり
ます。

この心の飢え、渇きを少しでも癒し潤いを与えてくれるのが
仏さまの教えであり、お盆の行事であります。お盆の三日間
心からご先祖をお迎えし、命の繋がり、ご縁に感謝いたしま
しょう。
                                         

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2009/07/21~31   感謝

講師 愛媛県 渓寿寺 金岡 潔宗 師

毎年私は、市の健康診断を受けているのですが、先日健康セ
ンターより封書が届きました。

何か悪い所がある人は封書で早く通知があるとのこと。

「まさか」と思いながら中を開けると、大腸の精密検査を早
く受けるようにとの内容でした。「えーっ、どこも痛くない
し、どうして?」ショックでした。

私たちは健康な時、すべてが当たり前だと思っていますが、
違うのです。

お経には「世に生まれて人となることか難し、仏世に値ふこ
とまた難く、なお大海の中に盲亀の浮木に値ふがごとし」と
説かれています。

それは人間に生まれて仏法にであうことの難しいことは、あ
たかも大海に棲む盲亀が百年に一度だけ水面上に首をだすの
ですが、その際水面に漂っている浮木の孔に首を突っ込むこ
との難しさにもひとしいというのです。

人として生まれ仏法とであうことの難しさ、今こうして、こ
こにいる事の不思議さ、有り難さ、当たり前ではないのです。

朝、目が覚めて、トイレに行き出るものが出る。私たちは、
ふだん何とも思わないのですが、寝ている間に胃や腸が働い
て、その日に食べた物を消化してくれているのです。もちろ
ん心臓も休むことなく何十年も動いているのです。当たり前
ではなく、朝目が覚めたら有難う。トイレで出るものが出た
ら有難う。

そして人は空気や水がないと生きていけません。私たちが出
した二酸化炭素を、植物が吸いこんで酸素に変え、空からは
太陽が光を、また無料で降ってくる水、私たちを取り囲んで
いる、ありとあらゆることのすべてが、感謝する対象ではな
いでしょうか。

今の自分の置かれている状況に、有難うと感謝したいもので
す。
                                         

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2009/07/11~21   鐘声

講師 高知県 予岳寺 濱田 祐禅 師

鐘楼堂が建立されて二ヵ年が過ぎようとしている。多くの善
男善女の行き交う場所となり、皆それぞれの人生を歩む姿を
かいま見る。遠近の人々が妙音に一応に心が洗われますと、
聞かされる。

現今の不況は誰もが良い話もない。私たち四国、特に山間が
次々に荒廃している。古きを尋ねて新しきを知る。地方に育
まれた文化遺産は擁護されなければならない。

特筆したいのは住人がいない山里が各所に見られる事態は、
異常な局面といえよう。為政者は即刻打開策を取らなければ
後世に悔いを残す。多くの老人が切実な不安を抱え乍らの生
活を強いられている。上流の保全が維持されなくては下流域
の復興は有り得ない。

国破れて山河有りの感性は今、危惧の念が切実となっている。

加うるに吾れ吾れ生活様式もいたずらに増長に過ぎている。
物の豊かさに対する心が粗末ではもったいない。少し頭を冷
やした方が良い。一歩も二歩も下がって内省する暮らしを流
れてはならない。

一日を了えて晩鐘の音声に心を癒してほしい。世情が不如意
で困った時節でも辛抱強く生きれば春もこよう。

それぞれの地域の伝統を守る日常でなければいけない。荒廃
は国土の乱れに繋がる。

お寺に参拝の老若男女何をか祈らん。合掌し、手向く誠に美
しい姿である。一日、一日の自身を見つめる祈りでありたい。

信心は行動と一体で成り立って行く。

高祖様お示しの自利利他円満の実践である。人を信じ自分を
信じるの喜びを大事に養っていこう。

山のお寺の梵鐘は今日も余韻を残して里之里之と伝わってゆ
く。お手々つないで帰る。家庭に平和の団欒に子達は安らい
住む人の幸いを万効迄も響かせて行く。
                                         

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2009/06/21~30   歌詞を味わう

講師 愛媛県 宗光寺 岡 芳雄 師

     あなたが この世に生まれ
     あなたが この世を去る
     私が この世に生まれ
     私が この世を去る
     その時  涙があるか
     その時  愛があるか
     そこに幸せな別れがあるだろうか
 
     世の中が平和でも、戦争がなくても
     人は死にます
     必ず死にます
     その時に  生まれてきてよかった
     生きてきてよかったと思いながら
     死ぬことができるでしょうか
     そう思って死ぬことを
     大往生といいます
 
この歌詞は、永 六輔さんと 名コンビだった作曲家 中村八大
さんとの最後の作品だそうです。

私は、檀家さんにお話しする折、この歌詞をよく引用させて
頂きます。

非常に分かり易く人生そのものだと思います。

気に入った詩や文章を声を出して何度も繰り返す。この作業
が以外と心の癒し効果になっていることに最近気付きました。

人の一大事は何と言っても、この世に生まれるということと
亡くなるということだと思います。

けれども、お釈迦さまもお示しのとうり、亡くなった後のあ
の世のことに思いめぐらすよりも、現実の今の生き方やあり
方に工夫をこらす方が正しいと言えます。

その結果、生まれてきてよかった、生きてきてよかったと思
える人は真に幸福者であり、大往生を迎えるにふさわしい人
と言えるでしょう。
                                          

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2009/06/11~20   愛語(やさしい言葉)

講師 愛媛県 泰平寺 星野 尚禅 師    
    
「愛語は愛心より起こる、愛心は慈心を種子とせり」

人を生かし、人を仏道に導く言葉が愛語です。愛語は人を愛
することに始まります。人を愛するとは、無限の縁の中で支
え支えられているお互いを自覚し、慈しみあう心を根本とし
ます。

現在ほど言葉の乱れた時代があったでしょうか。粗雑な言葉
は世の乱れを生み、愛心なく慈悲心のない命を軽視した社会
に拍車をかけます。

現実に、家庭も国際社会もすべて言葉で動いています。

好ましい関係は好ましい言葉によって結ばれます。赤ちゃん
を前にして限りなく優しくなれるその心で、ともに語り合い
ましょう。

徳ある行いは素直に讃え、徳いたらぬ時こそ慈しみの心を忘
れてはなりません。

愛語の実践が、柔らかにして他を思いやる自己を育て、ひい
ては人権を尊重し、平和を願い、環境に思いを馳せる人を育
むのではないでしょうか。

先日、松山の県立美術館で開催されました良寛さまの墨宝展
に行き、展示されていたお軸に一際目を引いたのが「愛語」
のお軸でした。

道元禅師さまお示しの「正法眼蔵」の中の一説を良寛さま独
特の滑らかで心優しい愛心の滲み出た筆使いのこのお軸には
全く驚嘆し、良寛さまの愛心・愛語が私の心にひしひしと伝
わってきました。

将に「愛心は愛語より起こる、愛心は慈心を種子とせり」で
はないでしょうか。

これからは、相手の立場に立ち、思いやりの心で優しい言葉
すなわち愛語を施そうではありませんか。日々、愛心を心が
けてまいりましょう。

最後に坂村真民先生の詩を紹介いたします。
 
    人に喜んで与えたい
    優しい言葉一つでもいい
    思いやりの心が自然に湧いて
    相手の身になって
    してあげたい
                                         

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2009/05/21~31   草に遊ぶ

講師 愛媛県 安穏寺 島津 雄児 師    
    
山の緑もいっそう濃く、夏の匂いが日に日に感じられる
ようになって着ました。皆さまいかがお過ごしですか?

この季節になりますと、私どものお寺では草引きが日課
のようになってまいります。

庭や畑をされる方は良くわかると思いますが、わずか一
日 目を離しただけで、ものすごい勢いでいたるところ
に草が生えてまいります。静かにしていれば葉っぱが伸
びる音が聞こえてくるのではと思うくらいです。

そこで、草引きを行うわけですが、いつも心に思い出す
ことがあります。

あれは、初夏の日差しの強い日のことでした。

親戚のお宅へとご挨拶に行きましたら、そのお宅のおば
あさん。もう九十をとうに過ぎ頭も真っ白になっている
方が、家の前の畑にちょこんと座って草引きをされてい
ます。

「こんにちは、精が出ますね。草がいっぱい生えてくる
けん大変ですね。」

と声をかけますと、にっこりと笑い

「いやいや、草に遊んで貰いよるのよー。」

と返事が返ってきました。

思いもよらない答えでした。とても謙虚でありながら、
なんと余裕があり、自由闊達な言葉でしょう。

草木ひとつにも命を感じ、その中で生かされ、自分の行
うことに喜びを持って、させていただくということでは
ないでしょうか。

おばあさんの何気ない一言のなかに、大切な仏さまの教
えを感じたひと時でした。

さて私ですが、まだまだおばあさんの境涯には達せない
ようです。90歳を越せばあんな余裕が出ますでしょう
か?

宮崎奕保禅師曰く
「学びとは真似ること、一日まねれば一日のまね、三日
まねれば三日のまね、死ぬまでまねれば本物である」

うーん、90歳まではまだまだ時間がありますし、死ぬ
のにもいささか時間があるようですので、それまでは、
おばあさんの真似をしてみようと思います。

さあ、今日も草と遊んでもらおうか。
                                 

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2009/05/11~20   鯉のぼりに学ぶ

    
講師 香川県 報四恩精舎 野田 大燈 師
    

時は五月。まさに五月晴れの大空が広がっています。

五月五日のこどもの節句はとっくに過ぎていますのに、
大空には鯉のぼりが悠々と泳いでいます。

じっと眺めていた私は、ふと思いました。アメリカやヨ
ーロッパ、そして中国などには、日本の鯉のぼりに相当
するものがあるのかなあ、と。

でも、外国の風土に鯉のぼりは似合わないように思いま
した。やはり田植前後の田園風景と鯉のぼりは日本の誇
るべき風物詩ではないでしょうか。

そこで考えたのです。この鯉のぼりは、何時のころから
大空に泳ぐようになったのかと。

調べてみましたら、現在は子どもの日として国民の祝日
となっていますが、元来は中国五節句の一つで、五月五
日に軒先に菖蒲や 蓬を挿して粽(ちまき)や柏餅を食
べて邪気を祓う、と言う行事があったそうです。

江戸時代になって、武士の家が旗指物などの武家飾りを
門口に立てたのに対し、町人たちが滝をも登るとされる
出世魚のコイを幟として立てたことに始まっています。

近世以降は、男の児のいる家では鯉のぼりを立てて甲冑
や刀・武者人形を飾り成長を祝うようになったようです。

子どもは、男の子ばかりではありません。

三月三日は、女の節句として、女の児の成長と幸福を願
って部屋に雛人形を飾り桃の花や白酒・菱餅を供えます。

男の子、女の子に相応しい行事が伝統として今に残り、
行われているのは嬉しいですね。

お寺でも、季節の変わり目である立春の前日には、春の
節分として邪気を払い福を招く、として豆撒きの行持が
盛大に行われているところもあります。

改めて大空に舞う鯉のぼりを見ていて考えました。

どうしてあのように悠々・堂々と大空を泳げるのかと。

道元禅師様は、如浄禅師様の言葉を引いて「渾身ロに似
て虚空に掛かる」と言われています。つまり、気に入ら
ない風もあろうけど、総てを受け入れているからこそ悠
々なのですね。

鯉のぼりに学んだ私でした。
                                          

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2009/04/20~30   ケンカの後で

講師 高知県 淨貞寺  伊藤 正賢 師    
    
道で見かけた、見るからにピカピカの新入生、そろそろ
新しい環境に馴染んできたのではないかと元気な子供ら
の顔を見ながら、そう感じさせて頂きました。

私自身の小学校新入時の頃を思い出しました。

新しいお友達や、保育園で同じだった見慣れた顔のお友
達…。初めて会うクラスの先生…。それらの思い出とと
もに、友人とケンカをして担任の先生にまで手を煩わせ
たこと。

その時、自分はちゃんとケンカ相手の友人に謝ったのだ
ろうかと、ふと疑問を持ったのです。

然しながら、その友人とは、今もつまらない話に花を咲
かせながら杯を重ねている程ですので、お互いに謝りあ
っていたと望む自分が此処にいるのです。

法句経にこんな文言が示されています

「その報い、よも、われには来たらざるべし。かく思い
て悪しきを軽んずる事莫れ。水のしたり、したたりて、
水瓶を満たすが如く、愚かなる人は、ついに悪を満たす
なり」

これは、私達には些細な心の迷い、物のはずみといった
小さな過ちが、まさか自分に報いてこようとは思いもし
ないことがままあるのです。

しかし「小罪軽んずることなかれ」とは、古来仏教で言
われていることです。

でも、此処で言いたいのは、人間は最初から悪を志す人
はいないのです。

ただ、自他共に見過ごしがちな「小罪」を反省して、悪
の芽を一つ一つ、小さな新芽のうちに摘み取っていくか
それとも放ったらかしにして悪の芽を伸び放題にするか
否かと言うことなのです。

そうなるとどうなるか…、私達、善悪の感覚が鈍くなっ
てくるのです。

人間の私、時には夫婦げんかも致します。様々な些細な
ことが積み重なりケンカとなるのですが、そこは一つ一
つの小さなこと、間違い」と言う小さな悪を確認しあっ
て行かねばと反省させられることが多いのです。

特に小さな子供たちは、友人と沢山ケンカをした方が良
いように思うのです。

ただですね、ケンカをした後そのケンカの内容、それは
小さな過ちとして、ここが君は良くなかった。ここは、
君が正しかったと子供たちがお互いに相手を思い遣りな
がら確認しあって欲しいのです。

そうせねば、子供たちの怒りと言う水瓶がいつか満杯に
なってからでは遅いじゃないですか…。
                                         

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2009/04/11~20   天上天下唯我独尊

講師 愛媛県 宗安寺  能仁 洋一 師
    
    
今から約2600年前の4月8日にお釈迦様は、お母様
であるマーヤー婦人がお産のために実家に里帰りをされ
ている途中、ルンビニの花園でお休みになられた時に、
お誕生になりました。

お誕生されたとき、天は祝福し甘い雨が降り注いでお釈
迦様の身体を清めました。

すると、お生まれになられてからすぐにお釈迦様は七歩
歩かれ、右手で天をそして左手で大地を指さされ、『天
上天下唯我独尊』と言われたそうであります。

これは、「この世に自分より尊いものはない。つまりひ
とりひとりが一つしかない命をいただいている尊い存在
である。」いうことを意味しています。

今の世の中、痛ましい事件が後を絶ちません。

いじめであったり強盗であったり、殺人事件であったり
戦争であったり。こういった事件を聞かない日が無いと
いうこの現状。とても悲しいことであります。

これらは、お釈迦さまが言われた『天上天下唯我独尊』
この世に自分より尊いものはない。ひとりひとりが一つ
しかない命をいただいている尊い存在であるという精神
からはかけ離れております。

自分自身がこの世界において唯一の存在。そこまでしか
目に入らない。自分自身が世界において唯一ならば、あ
の人も、この人も、一人一人が、唯一の尊い存在なんだ
と認識できたならば、いじめることもないでしょう。

傷つけることも、まして、命を奪うことなんて考えない
はずです。

新年度を迎え、そしてお釈迦様の誕生日を迎えたばかり
であります。

もう一度、お釈迦さまが言われた『天上天下唯我独尊』
の教えをよくかみしめて、この新年度を共に日々精進し
てまいりたいものであります。
                                         

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2009/03/21~31   現今の世相に思う

講師 愛媛県 長命寺  清水 昭信 師    
    
芥川三平氏の(寝てしもた)と題する詩に
「さて人間ちゅうのは、めんどい生き物で朝昼晩飯を食
 わないかん、冬眠などの芸当もできんはてさて」
              銀杏 平成21年728号掲載

食べるということは、生きとし生けるものの宿命です。
宿命とはいえ、飽食の時代、人間の食べる事への執念に
は異様ささえ感じざるおえません。

昨年末の世界的な金融危機が引き金に成り、派遣社員の
解雇は『派遣切り』という冷たい風となり冬の巷を容赦
なく吹き抜け、一夜にして職を失い、住まいを追われ、
今日明日食べることすら儘ならない状況は全国的に多数
の方々に苦悩をもたらしました。

しかし、本当に有り難いことに支援団体による救済によ
り急場を凌いだ方も多数おられたことは、自分中心型の
社会世情を強く感じられる昨今、仏の教え、『修証儀』
で(布施行)「布施とは貪りの心を抑え、自分のもてる物
を惜しみなく相手に捧げる、また布施をしている人をね
たまず妨げす心から讃えることも立派な布施である」と
説かれています。支援活動は社会的な布施行といえます。

ただ、種々の支援救済により一時的な生活の保障は有り
ますが、生きがいをもち一歩を歩みだし、社会復帰を果
たせる方は数少ない現実があります。

金融危機以後、経済は落ち込み格差社会の様相は一段と
強まりを見せています。何とか歯止めは効かないもので
しょうか?

近くの古老が田圃(水田)見渡しながらこう言われまし
た。「年々、田圃が荒れていく、一度荒れてしまったら
米作りは大変だ。作物作りは土作りが第一じゃ。次の世
代はどうなるのかのう?籾一粒からどれだけの米がとれ
ると思う、田圃を守る事が儂の生きがいじゃったし、食
べるに困ったことはなかったのう・・・。」

一粒の籾からどんなに沢山の米がとれるかは言うまでも
有りませんが、この一粒を大切に育ててきたからこそ豊
かな生活の向上をもたらせたのではないかと思います。

一米粒(いちべいりゅう)を粗末にすることなかれ、足
ることを悟らず、先人が育んできた人に対し物に対する
精神文化を、今一度思い考えてみてはどうでしょうか。

寒い寒いと言いながら、三月春のお彼岸です。

菩提寺やご先祖のお墓参りをされる方も多いことと思い
ます。どうか、先人に感謝報恩の念をもたれ、一粒で結
構です菩提の種を蒔いて頂きたいものです。
                                         

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2009/03/11~20   お彼岸を迎えて

講師 愛媛県 西滝寺  福村 俊弘 師    
    
ついこの間お正月だと思ったら、二月はあっという間に
過ぎ、はや三月。春のお彼岸がやって参りました。

お彼岸とは”向こう岸に渡る”という意味です。

向こう岸は、仏の世界であり、真実の世界です。こちら
の岸は、今私たちの生きている迷いの世界です。

この両岸の間には、深い河があり、河にはとうとうと水
が流れ、水は煩悩という大きな力で、河を渡ろうとする
人々を押し流してしまします。

私たちは、常にこの煩悩にまどわされ、のみこまれ、迷
いの世界から抜け出すことができません。

仏教では、この迷いの世界から抜け出して、真実の世界
に渡るためには、次の六つの行いを実践しなさいと教え
ています。

その行いとは
一、施す方はおごらず、施しを受ける者はへつらわず、
  互いに感謝の気持ちを持ちましょう。これを布施と
  いいます。
二、悪い事をしない、良いことはすすんでしましょう。
  これを持戒といいます。
三、感情に流されず、苦しみ悲しみに堪えましょう。こ
  れを忍辱といいます。
四、怠ることなく、仏さまの教えにしたがいましょう。
  これを精進といいます。
五、あれこれ余計なことを持ちこまず、静かな心を保ち
  ましょう。これを禅定といいます。
六、ありのままの真実の姿を受けとめ、自分の損得をも
  ちこまないようにしましょう。これを智慧といいま
  す。

以上、この六つの行いを六波羅蜜といいますお彼岸は特
に、すべての人がこの六波羅蜜を実践する大切な時なの
です。
                                         

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2009/02/21~28   阿難よ。此の経は父母恩重経となずくべし

講師 愛媛県 安穏寺  島津 良雄 師
    
    
耳は二つあり口は一つ、聴く事は二倍以上聴けと昔から
言われますが、生きて元気でおればこそ聞く事も話す事
も出来ます。

私は二歳で死ぬる事に成っていました。

大正生まれの私は二歳を過ぎても少しも片言も話しませ
ん。檀家の方も地区の人々も「お寺の長男は全然ものが
言えないそうよ、可哀想よね」と噂し、それがいつの間
にか母の耳に入ります。

母は「この子が長く生きていても不幸の人生を過ごすだ
ろう。可哀想だ、私も共に不幸、一緒に下の池に飛び込
み死のう。自殺はお釈迦様の教えに反し、悪い事ですが
あなたを抱いて、二人で死ぬる事が二人の幸せと思い続
けているとき、大正十二年に関東大震災があり、子供の
晴れ着を被災地に送り、いよいよ決心した頃、何と不思
議、人一倍も喋り、話すようになって自殺しないことに
なったんですよ。今日、大学合格のお祝いができて、お
母さんは本当に幸せですよ。今まであなたを傷つけるか
ら話さなかった。」と母の涙ながらの話で、昭和十六年
春、駒澤大学合格の発表の日。私は大声で泣き叫んだ、
涙の祝いの日を思いだいます。

「父母恩重経」には「父母の恩重きことは天の極まり無
きがごとし如し」と再三説かれてています。

一説には「若しそれ子のために、やむを得ざることあれ
ば、自ら悪行を造りて悪趣におつる事を甘んず」と母親
の「業」を諭されている言葉もありますが、母の悩みは
大変であったと思います。

お釈迦様が王舎城で説かれた父母恩重経に「一切の善男
子善女人よ、父に慈恩あり、母に非恩あり、人の此の世
に生まれるは、宿業を因として父母を縁とせり、父にあ
らざれば生まれず。母にあらざればそだてられず・・」
と長々と説かれた父母恩重経の中に父と母に十の恩が有
ると説かれてあります。

母の思いつめたのは大八以造悪業の慈愛の教えです。

わが子の為にせっぱつまって、お釈迦様の教えに反して
まで、わたしを抱きしめて下の池で自殺まで思いつめた
母の尊い恩に感涙した一日でした。

恩の字をよくよく見れば、因という字の下に心を書いた
恩の字であります。私が米寿まで生きたことは父母、先
祖、母の慈愛のお陰であります。

二月は逃げる月、もうすぐ三月、お彼岸の月です。我が
家に昔からつたわる延宝三年に印刷された父母恩重経を
今年も涙して読み父母の恩に報いたいと思います。

年に一回は父母恩重経を読みましょう。
                                         

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2009/02/11~20   釈尊涅槃会によせて

講師 愛媛県 金剛寺  生田 公文 師    
    
お釈迦さまが説かれた、数々の教えの中に「仏説父母恩
重経」という教えがあります。

その言われているところは、子供を持って親となり、は
じめて親を憶う気持ちになったとき、その時は、すでに
遅きに失した。という憶を反省させられる内容の教えで
す。

親子断絶がいわれて久しい昨今、このお経により世の中
をいかに生きるべきかを教えられます。

これをお伝えされた方は「仏の十大弟子」の一人阿難尊
者という方です。

阿難様は、八歳の時出家をされ、修行に励まれました。
特に「父母の恩とは何か」「父母の愛とは何か」という
ことを深く学ばれ、人間関係と親子のかかわり合いを教
え示されました。

これが今は伝えられたところの、「父母恩重経」と称さ
れているお経です。

人々は、父母の恩と愛情を目一杯受けて育てられ、やが
て社会へと旅立ちます。心穏やかに、健康に、幸あれと
願いつつも、世の中、なかなかそんなに上手くはいかぬ
ことばかりです。

仏教思想の中に「煩悩」という言葉があります。

この「煩悩」一切を総称して、八万四千煩悩、あるいは
百八煩悩といいます。人間は皆んなこの沢山の煩悩に悩
まされて生きています。静かな心を失い、悟りの妨げに
なると、仏教思想にはあります。

しかし幸いなる哉、禅門においては、この「悟」と「煩
悩」という二者を別のものとはしない、相い反するもの
とはしないという教えがあります。

それは「煩悩即菩提」という教えです。

煩悩大いに結構、煩悩とともに生きよう、煩悩の中で生
ききる。人間らしく力強い、すばらしい生き方ではあり
ませんか。それ故に「人間とは考える動物である」とい
われるのかも知れません。

二月十五日は釈尊涅槃会の日です。父母や周りの人々に
沢山の御恩をいただいて、今日まで来ました。その多く
の人々も即にこの世を去り黄泉の国へと旅立たれました。
                                         

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2009/01/21~31   釈尊涅槃

    
講師 愛媛県 極楽寺  高木 英教 師
    
もう間もなくですが、2月15日はお釈迦さま、釈迦牟
尼仏の涅槃、お亡くなりになった日です。

お釈迦さまは、お涅槃を悲しんで集まった弟子や信者に
対して、最后の説法、尊い教えを説かれています。

このことは、お釈迦さまのご遺言とも云われる仏遺教経
あるいは単に遺教とも云われるお経の中で説かれていま
す。

『世は皆、無常なり、会うものは必ず離るることあり。
憂悩を懐くこと勿れ、世相是の如し。当につとめて精進
して早く解脱を求め、智慧の明を以て、諸の痴暗を滅す
べし』

この世に定在不変のものは何一つ無く出会うものはいつ
か必ず離れる定めにあるのだ。憂い悩むことなかれ。こ
れこそは世の常の姿なのだからこそ、皆努めて精進し、
もろもろの生き物が生じては滅し、滅しては生ずるこの
無常の世界を早く逃れ出て、知恵の明かりをもって、も
ろもろの煩悩、悩み苦しみをなくしなさい。と、お説き
になられました。

この世の中は実に危うくて、もろいものだ。朝、元気に
出かけて行った人が、夕方、無事に帰って来られるとは
限らぬように、堅固で確実なものは何一つとしてないの
だ。

このことは現代社会にも通じ、身につまされるところで
す。

お釈迦さまは、最後の教えとして

あなた方弟子たちよ、常に一心に勤めて生死の世界を逃
れ出て、まことの安楽に到る道を求めなさい。時はまさ
に過ぎようとしている。私は何の憂いもなく、やすらぎ
に入ろうとしている。
                                         

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2009/01/11~20   心の豊かさ

    
講師 徳島県 法泉寺  杉生 忠光 師
    
新しい年を迎えることが出来、年が重ねられることの感
謝する日々を送る中、世間では末世が近いといわれます
が、何を根拠に言われているのか考えてみました。

末世とは辞書にこの様に書いてあります。“時代の終わ
り”“滅びかかった時代”“仏法の衰えた世の中”“人
間の倫理観、人として踏み行うべき道、道徳、善と悪を
判断できる人間本来の愛と慈悲の心が欠落する時代”な
どとありました。

また、昨年日本漢字能力検定協会より募集された漢字の
中から選ばれ、京都清水寺森清範貫主様が書かれた漢字
は「変」でした。

ここ十年ほどで日本古来より積み重ねてきた心の文化が
失われてきた結果、社会・日本が変になったように思わ
れます。

国民が“夢”をもてず、倫理観を失い、世界企業の看板
方式が物流に止まらず、利益追求の名目で目先のことだ
け考え、雇用・解雇も簡単にすまされる。

そして、子供を生むのに安心して生めない医療体制、お
年寄りに不親切な福祉・年金問題、目的をもてない若者
が心の豊かさを無くして、善と悪の区別すらできない自
分さえよければいい時代になってしまったのかとこころ
が痛みます。

日本古来の文化は“人は石垣”“人は城”“駕籠に乗る
人、担ぐ人、そのまた草履を作る人”夫々の人々が誇り
を持って仕事をしていた日本の国だあったと思います。

“はい”と言える尊敬の心
“ありがとう”と言える感謝の心
“ごめんなさい”と言える反省の心

三つの心で無関心な自分を戒め“物質の豊かさ”を追う
時代を終わらせ“心の豊かさ”を求める時代へと変革し
たいものであります。
                                         

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2008/12/21~31   煩悩即菩提

    
講師 高知県 永源寺  島崎 敬童 師
    
早いもので、平成20年も終わろうとしております。

若いころは、新年への期待が大きかったのですが、歳の
せいか最近は、行く年を惜しむ気持ちの方が大きくなっ
てきたような気がいたします。

しかし、いくら惜しんでも時は無常に過ぎて行きます。
そして今年もまた1年最後の日、大晦日を迎えます。

大晦日の夜半から元旦にかけて、日本全国各地のご寺院
様で除夜の鐘が鳴り響きます。

人間の持つ百八の煩悩を取り除くために百八回鐘を衝く
のが古来よりの慣わしであります。僧侶はひとつ鐘を衝
くごとにお拝をいたします。百八の鐘を衝くのに一時間
以上はかかるものです。

さてこの、煩悩とは、欲望や怒りといった、我々の心と
体を悩ませ、正しい判断の邪魔をする心の働きを言いま
す。

ストレスなども現代の煩悩のひとつではないでしょうか。

では、この煩悩を克服あるいは解決する方法はあるので
しょうか?

中国、唐の時代の禅僧、趙州は「どうすれば煩悩を免れ
ることができるか?」と問われたとき、「免れてどうす
るのだ?」と答えたそうです。

人類は大昔から数々の苦悩と対自してきました。その中
には、解決不可能な問題も多々あります。

たとえいくらかの悩みは解決できたとしても、また新た
な問題が煩悩やストレスとなって、我々を襲い続けこと
でしょう。

悩みのために悩むことをやめて、解決できない問題もあ
ることを自覚し、必要以上に考えない、思い悩まないこ
とが大切ではないでしょうか。

訪れる新年が、皆様にとりまして、煩悩や悩み事の少な
い希望に満ちたすばらしい一年となりますよう心よりお
祈り申し上げます。
                                         

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2008/12/11~20   成道会

    
講師 愛媛県 天福寺  宇野 弘倫 師
    
12月の宗教行事といえば、みなさんはキリスト教のク
リスマスをすぐ思い出されることでしょう。

実は仏教の方でも、とても大切な行事があちこちのお寺
で行われます。

それは成道会といって、お釈迦さまがお悟りを開かれた
日をお祝いする行事です。

仏教には三仏忌といって、お釈迦さまがお生まれになっ
た4月8日の花まつり、そして12月8日の成道会、い
ま一つはお亡くなりになった2月15日の涅槃会があり
仏教徒は最も大切な日としております。

さて、12月8日は成道会。

29歳で出家されたお釈迦さまが、難行苦行6年の末に
お悟りになったのは、人間の歩むべき真実の道、仏さま
の教えでした。

身も心も疲れきった修行者お釈迦さまは、村の娘スジャ
ータから乳粥を供養されます。

コーヒーに入れるミルクの商品名に「スジャータ」とい
うのがありますね。あれは、お釈迦様に乳粥を供養した
村娘の名前なんです。

12月1日、元気を取り戻されたお釈迦さまは、大きな
菩提樹の下で静かに坐禅を組まれます。そして8日目の
朝、明けの明星のなかで、仏さまの教えをお悟りになっ
たのです。

それからのお釈迦さまは説法の旅ひと筋の人生でした。
80年の生涯を終えられるまで、休むことなくそれはつ
づきます。

そして現代。

2500年もの年月を経ても、輝きつづけているお釈迦
さまの教えを思うとき、お悟りの日、成道会を心からお
祝いしたく思うのは、仏教徒ならだれしものことです。

なぜなら、12月8日こそ、仏教の出発点だからです。
12月8日のお悟りがあればこそ、私たちはみ仏のみ教
えに生きることができるのです。

どうぞ、あなたも仏教の出発点、成道会をお祝いしまし
ょう。
                                         
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2008/11/11~20   老いを生きる

    
講師 愛媛県 吉蔵寺  福田 尚文 師
    
人間が、いかに生きるかと云う事は、簡単なようで難し
いことであります。

人が幸せに元気で人生を送る為には、一人ひとりの心の
中に自分自身を愛する気持ちが必要です。

人生は楽しいことばかりではなく、苦しいこと、悲しい
こと、色々の悩み事を抱えて生きています。その悩みの
元として、老、病、死といわれる苦があるのです。

若いときには気にもしなかった事が、高齢になるとさら
に苦が増します。老いは必然的にやってきます。

家族や親しい人との死別や離別、収入の低下による経済
的自立難、健康不安、社会とのつながり等、さまざまな
苦難体験が重なり、これが老人のむなしさ、空虚感を増
大していきます。

特に社会活動から離れることで、生きがいを失い、自分
はこの世で必要とされていないと思う気持が起こった時
それがさらに老化を進める事になっていくのです。

中高年期、このように生きるのが大変な時期なのです。

けれども、人は生きていかねばなりません。悩みを抱え
て苦しんでいる人の多くは、自分だけが苦しんでいると
思いがちで、心を閉ざし、ついにはこの苦悩から抜けだ
せず、心も体も病気になります。

そうならない為には、心を少し開いて、その苦しさを誰
かに聞いてもらうことが必要です。

その相手には、菩提寺の和尚さん、信頼の置ける友人、
知人、家族です。

相談を受けた人は、その話をよく聞いてあげて答えが出
なくても、相談した人は、心が「いやされる」のです。

老い、病、別れ、死、は自然の事です。人がそれぞれ出
会う条件を静かに受け入れることです。そして生かされ
ていた事に感謝しながら、人生を終りたいものです。
                                          

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2008/10/21~31   愛語はことばなり

講師 愛媛県 栖源寺  河野 道孝 師
    
日頃、私たちがお唱えしている「修証義」というお経の
中に「愛語」という言葉が出てまいります。

愛語とは、愛するに国語の語と書きます。

道元禅師様は「正法眼蔵」の中で「しるべし、愛語は愛
心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり」という句を残
されておられますが、愛語は愛欲とか渇愛、苦しみから
のがれたいというような自己中心的な愛の言葉とは違い
ます。慈悲による他人への博愛の愛のことであり、慈悲
心からの言葉が愛語である、と示されております。

たとえば、母親が自分の赤ん坊をみるように子供の為に
つくすように、すべての他人に対しても同じように慈愛
の念を忘れないことも愛語であると言われています。

言葉はとても便利なものです。お互いのコミュニケーシ
ョンをとるのに必要不可欠のものです。一年一生の間に
どれほどの言葉を喋り、聞いていることでしょう。

そんなに多くの言葉に毎日接していても、時として、た
ったひとつの言葉が相手を深く傷つけ、一生その言葉が
心を痛め続ける事もあります。また反対に、たったひと
つの言葉が、その人を勇気付け、一生の支えになること
もあります。

最近、特に気になっていたことがありますが、それは、
通り魔により多数の人々を一瞬にして傷つけてしまった
り、自分の我子を傷つけてしまったり、という信じ難い
犯罪のニュースを聞き、いったいどうしたんだ、何故な
んだという疑問と共に、たいへん心苦しく感じていると
ころであります。

私達は言葉に、思いやりや願いや祈りを込めることがで
きるのです。

広い意味で、この愛語の心を忘れないことが大切だと思
います。人と人、心と心を繋ぐ架け橋こそ愛語であり、
言葉なのです。

何時でも、何処でも、誰にでもできる事、心をこめた挨
拶、おはよう、こんにちは、ありがとう、これらの言葉
も、思いを込めれば「愛語」となるのであります。
                                          

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2008/10/11~21   和顔愛語

講師 高知県 願成寺  伊藤 郁宥 師
    
天高く馬肥ゆる秋、などと云いすごしやすい好時節ですが
日常の食生活を今一度見つめ直してみたいものです。

この夏は感動を一杯もらいました。スポーツを通して、う
れし涙くやしい涙と人々に感動をあたえたオリンピック、
パラリンピックでした。やれば出来る努力すれば必ず納得
しうることを教えてくれました。

人私生活の中にも努力すれば必ず人々に感動を送ることが
あります。

其の中に、和顔愛語と云う言葉があります。

修証義というお経の中に「むかひて愛語をきくは、おもて
をよろこばしめこころを たのしくす。むかわずして愛語
をきくは肝に銘じ魂に銘ず」とあります。

なかなか日常生活を実践しているかと云うと 言うは易し
行うは難し というのが実感ではないでしょうか、穏やか
な表情、やさしい語りかけですが、その精神は他人への思
いやりなのです。

道元禅師のことばに「人間と云うのは面と向かってやさし
い言葉を聞けば心に刻んで忘れないものだ」と、云ってい
ます。

一寸した言葉で人を傷つけ、一寸した言葉で救われます。
相手を思いやった、いたわりの言葉をかけたいものです。
「ありがとう」「ごめんなさい」この二つが素直に言える
ように務めたいものです。私たちもお互いに幸せになるよ
うに努力したいものです。慈愛に満ちた言葉を耳にするの
は気持ちのいいものです。

たかが言葉ではないのです。

西洋のある哲学者は「言葉は存在の家である」とまで言い
ました。言葉はまさに愛語でなければならないのです。み
んな素敵な笑顔で思いやりのある和顔愛語でありたいもの
です。

本当はね みんな素敵な笑顔を持っているのです みんな
がいい種をまきましょう。
                                         

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2008/09/21~30   彼岸の一歩

講師 香川県 見性寺  北口 善則 師
    
「暑さ寒さも彼岸まで」といわれますように、春の彼岸
頃になりますと寒さも薄れ、秋の彼岸頃になりますと残
暑もなくなってまいります。

さて、お彼岸を迎えております。平生は生業に忙しく追
われ、仏道修行をしたり、善根功徳を積むことが容易で
はない此岸の住人ではありますが、一年のうちで大変過
ごしやすいこの彼岸の一週間、仏道修行にふさわしい季
節、少しでも彼岸(仏)に近づく日暮れを心がけていた
だきたいものです。

彼岸(仏)に近づく日暮れとは、一体どのようなものな
のでしょうか。

『正法眼蔵』に「仏となるにいとやすきみちあり、もろ
もろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆
生のために、あはれみふかくして、かみをうやまひ、し
もをあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふここ
ろなくて、心におもふことなく、うれふることなき、こ
れを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ」

諸悪を作さず、善きことを身をもって行う。誰でもが知
っている当たり前のことです。

お彼岸は、ご先祖さまに感謝しご供養するとともに、仏
道修行の期間です。まず、誰でもが知っている、当たり
前のことから初めてみてはどうでしょうか。

諸悪を作さず、善き行いを心がけて、彼岸をお過ごしく
ださい。
                                         

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2008/09/11~21   彼岸に向けて

講師 徳島県 江音寺  矢野 通玄 師
    
暑さ寒さも彼岸までの言葉が、今年は通じるのでしょう
か。ご先祖様はお盆に帰ってこられ、今年の暑さをどの
ように思われたでしょうか。

毎年思うことながら、どんな天候であろうと彼岸が来る
と田んぼの畦に彼岸花(まんじゅしゃげ)が咲きます。
この時期にしか咲かない、咲けないこの花は、今年の厳
しい暑さに対応し、何時もと変わらぬ花を咲かせてくれ
るでしょうか。

お釈迦様は、人間は生まれながらにして仏であると説か
れ、道元禅師様は、仏であるが故に日々の勤めを怠って
はいけないといわれています。

仏仏祖祖皆凡夫なり。凡夫の時は、必しも悪行あり、悪
心あり、痴もあり、然あれども尽く改めて知識に隋いて
修行せしゆえに皆仏祖と成りしなり

彼岸は生きている者の修行期間でもあり、仏であるとい
う自覚を持つことのできる時でもあります。

足を組み背筋をまっすぐ伸ばし、息を整え坐った坐禅の
姿は仏様の姿であり、合掌し神仏・ご先祖様を拝む姿・行
為は、仏の道の実践「仏道」であります。

合掌とは、ただ左右の手と手を合わせるだけではなく、
指と指の間を開けず、中指の高さが自分の鼻まで、顔に
近づけすぎず握り拳一個ぐらい開けた形が、正しい合掌
の形です。頭を下げた時もこの形はくずさないようにし
ます。

仏道の実践として、日頃お唱えする修証義第四章の中に
四つの徳目が示されています。「布施」自分の持ってい
るもの形あるものでも、心でも分け与え、「愛語」いつ
もニコニコ笑顔で、「利行」他人のためになる行いをす
る「同事」仏の教えられた行いをみんなが他人の身にな
って行動する。

彼岸を迎えるにあたり、自己をみつめ、自己にめざめ、
今の生活が仏の生活であることを自覚して仏道を実践し
て下さい。
                                         

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2008/08/21~31   父母の恩

講師 愛媛県 宗安寺  能仁 洋一 師
    
先日、地元で同窓会をした折、友人たちから、ゆくゆく
は地元に戻ってきてご先祖様のお墓を護って行きたいと
いう話が出ていました。

私の地元は山奥の小さな集落ですので、同級生も十人ほ
どではありますが、みながそんな気持ちでいる事に何と
もいえない嬉しさを覚えました。

お経に『父母恩重経』というものがあります。

これは、お釈迦さまが父母の恩がどんなに尊いものであ
るかを説かれたものであり、その中に、父母に対して十
の尊い恩があるとお示しになられております。

一には、懐(かい)胎(たい)守(しゅ)護(ご)、懐妊中、母
    が子を守護してくれた恩。
二には、臨(りん)産(さん)受(じゅ)苦(く)、出産の時、
    苦しみに耐えてくれた恩。
三には、生(しょう)子(し)忘(ぼう)憂(ゆう)、出産後、
    それまでの苦しみを忘れてくれた恩。
四には、乳(にゅう)哺(ほ)養(よう)育(いく)、乳を飲ま
    せ、養育してくれた恩。
五には、廻(かい)乾(たい)就(しゅう)湿(しつ)、子に乾
    いた場所をゆずり、湿った所に寝てくれた恩。
六には、洗(せん)灌(かん)不(ふ)浄(じょう)、この不浄
    物を、洗いそそいでくれた恩。
七には、嚥(えん)苦(く)吐(と)甘(かん)、子に食物を与
    える時、口に含み、苦いものは呑込み、甘いも
    のを吐き出して与えてくれた恩。
八には、為(い)造(ぞう)悪(あく)業(ごう)、子のため、
    自らあえて悪業をつくってくれた恩。
九には、遠(おん)行(ぎょう)憶(おく)念(ねん)、遠くに
    行った子の安否を気づかってくれた恩。
十には、究(く)竟(きょう)憐(れん)愍(みん)、最初から
    最後まで、ひたすら慈愛をかけてくれた恩。

そして、この十の尊い恩に対し、子はどのように報いる
べきかも説かれています。

まず、外出した時、新鮮な果物や珍しい食べ物を手に入
れたら、持ち帰って父母に差し上げること。父母は歓び
自分が食べることをもったいないと思い、先ずこれを佛
・法・僧の三宝に布施するので、結果として菩提心(仏
道を求める心)を起こさせたことになる、と。

また、父母が病気になったら傍を離れず、自ら献身的に
看護すること。全ての事を、他人に任せることなく自分
で看護する。そして、日夜親の病気が癒えることを願い
常に報恩の心を抱いて、片時も忘れてはならない、と。

現代にあって、親が子を殺し、また子が親を殺すという
ニュースが後を絶たないのは、きっとお互いが父母重経
にあるこの『恩』というものが希薄になってきているか
らだと思います。

今一度、ここに自分が居るありがたさ、ご先祖様に両親
に、そして子供達に、心から『ありがとう』と言える感
謝の気持ちを心に刻み、日々精進していきたいものです。
                                         

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2008/08/11~20   お盆に想う

講師 愛媛県 雲祥寺  林 尚文 師
    
今年もお盆の時期がやってきます。

お盆と言って皆さんは、何を思い浮かべますか?

盆灯籠、きゅうりの馬、ナスの牛、お墓参りなどを思い
浮かべることと思います。

今では、見かけることも少なくなりましたが、お盆には
「精霊棚」というものを作り、その上に御位牌、野菜や
果物などのお供えを置き、盆灯籠をつけてお家のご先祖
様をお迎えして御供養をさせていただきます。

しかし、本当はご先祖様だけではなく、全ての霊、全て
の人が救われますように、という御供養なのです。又、
野菜・米・果物などをお供えするのには「五穀豊穣」へ
の願いと感謝の気持ちが込められているそうです。

このようにして飾られた「精霊棚」や「御仏壇」に向か
い手を合わせるのです。

皆の幸せを願い、全ての者を御供養させていただく、と
いうお釈迦様の思いが感じられます。そして、何よりも
私達が、家族が、健康で日々を過ごしている、というこ
とも大切な御供養なのです。

「子や孫の健康・幸せこそが親の願い」と、よく言われ
ます。お盆に戻って来られる御先祖様に家族が皆元気で
いることを見ていただき、御先祖様にいつも見守られて
いるというありがたさに気づき、感謝をする、これが本
来の「お盆」なのでしょうね。

今年のお盆には、このようなことを思いながら過ごして
みませんか。きっと御先祖様方も喜んで下さり、皆さん
も心温まるお盆になることでしょう。
                                         

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2008/07/21~31   お盆を迎えて

講師 愛媛県 観音寺  三好 真人 師
    
うっとうしい梅雨も終わり、夏も本格的になってきまし
た。私共もお盆の準備に追われる季節になってきます。

その時期に目に付く光景で時折、疑問に思う事がありま
す。

それは、お盆の最中にお墓参りをされる人達です。

私自身、子供の頃から、お盆には御先祖様を家の仏壇に
迎えてお墓参りするものだと教えられました。そしてい
ざ住職になってみて、お檀家さんの中から、お盆に間に
お墓参りをするのが、良いのかどうかを問われる事が多
々ありました。

これは、今現在のお檀家の方々、もしくはその身内の方
々からすれば当然の事かもしれません。

しかし先にも申しましたが、お盆に間は、自宅の仏壇に
御先祖様は帰ってくるものだと考えれば、その間は、お
墓ではなく、仏壇にお参りする方が良いのではないかと
思います。あえてお墓に行くとすれば、お盆が終わった
後、御先祖様がまた帰って行くお墓をきれいにしておく
という意味で掃除に行くのは、よろしいのではないかと
思います。

大事な事は、御先祖様を敬う心が一番大事なんです。

そしてこの機会に身内同士の縁や絆の大切さを再確認し
て頂く事だと思います。

最近は、兄弟、親戚が離れてしまい、中々一同に集まれ
なくなってしまっています。このお盆という機会に、御
先祖様がとりもつ縁を大事にしていただければ、御先祖
様も喜んでくださるでしょうし、何より良き御供養にな
るのではないでしょうか。
                                        

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