坐禅...自らに向き合えば、新しい自分にきっと出会える!

法話:書庫4 2015年1月 ~ 2016年12月

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法話:書庫4 2015年1月 ~ 2016年12月

2016/10/21~31   やわらかい心

講師 愛媛県 渓寿寺 金岡潔宗師

諏訪中央病院名誉院長の鎌田実さんが「◯に近い△を生
きる」という本の中で『がんばるという「正解」を日本
人が好きなのは知っている。でも、がんばらないという
「別解」もある。がんばらないというのは、がんばるこ
とを否定していない。がんばったり、がんばらなかった
りが大事。◯でも☓でもない。◯に近い△の生き方があ
ることに気づいてほしい』と書かれています。

志水佳奈子ちゃんという女の子が書いた「うさぎとかめ」
という詩があります。

うさぎとかめ

うさぎとかめのおはなしで
かめさんはえらいね
いっしょうけんめい
やすまず あるいたね
でも うさぎさんもえらいよ
だって ちゃんと
おひるねしたでしょ
かなこが おひるねすると
おかあさん
すっごく ほめてくれるもんね

皆さんよくご存知の、ウサギとカメが競争したら、ウサ
ギがカメをあなどって、昼寝をしていてカメに負けたと
いう「ウサギとカメ」のお話しです。

このお話しは、油断をしていると思わぬ失敗をするから、
カメのようにコツコツとがんばりましょうという教訓な
のだと教わりました。

ところが、この詩を作った佳奈子ちゃんは、カメさんは
一生懸命に歩いて「えらい」。ウサギさんも、ちゃんと
お昼寝したから「えらい」と褒めています。

この素直な柔軟性が、私たち大人にも必要なのではない
でしょうか。

仏教では、この柔軟な心のことを「柔軟心=にゅうなん
しん」と言います。柔軟心とは、仏ごころのことです。
いわば、△の生き方のことです。

私たちは、何事においても人と比べて勝ち負けを気にす
るあまり、肩に力が入ったり、頭に血がのぼったりして、
物事を自分の方からしか見ていないことがあります。

色々な見方をすることや、素直な見方をすることが、心
をやわらかくする方法ではないでしょうか。

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2016/10/11~20   見守られている私

講師:愛媛県 渓寿寺 金岡潔宗師

昨年、愛媛県の曹洞宗寺院のお檀家さんの集まりである
護持会の研修で、大本山総持寺に一泊。その後、日光に
行き、中禅寺と東照宮をお参りしました。

中禅寺の御本尊は、立木観音と称される十一面千手観音
で、国の需要文化財に指定されています。

中禅寺の売店では、その十一面千手観音のキーホルダー
が売られていました。

「十一面千手観音の梵字が書かれているところを押さえ
ると、赤・黄緑・黄色と色が変わって、黄色になると願
いが叶うと云われています。いかがですか?ここにしか
ないキーホルダーですよ」と、係の方が勧めているのを
聞いて、二十人位の方が「いいお土産ねえ」と求めてい
ました。

中禅寺の次にお参りした東照宮には、四百年祭というこ
とで大勢の方が参拝に来ておられました。

東照宮の売店では「この絵馬は、今朝皆さんの家内安全、
諸願成就等を願ってご祈祷しました。例年の絵馬は、持
ち帰っていただいて、一年経ったら納め札をしなければ
なりません。でも、今年は百年に一度の大祭で特別です
から、向こう百年ご利益が続きます。大祭ですから、今
年だけですよ、百年は!」

するとまた、我も我もと、売店に人だかりができていま
した。

その光景を離れて所で見ていた檀家さんがこう言いまし
た。「和尚さん、私はこういうの買わないんです」
私が「え?どうしてですか?」と、尋ねますと
その方から「亡くなった主人やご先祖様が見守ってくれ
ているので」という返事が帰ってきて、心がとてもあた
たかくなりました。

見守ってくれているというのは、私たちを見ていてくだ
さるということです。ならば、悲しませない生き方をし
ないといけません。

新居浜にある、ひかり幼稚園では、子どもたちがいつも
本堂でお参りをします。そしてその時に
『ののさまは、口ではなんにも言わないが、ぼくのした
こと知っている。ののさまは、口ではなんにも言わない
が、あなたのしたこと知っている』
という歌を唱います。自分の行動をちゃんと見ている仏
さまがいらっしゃいます。正しい行いを心がけてまいり
ましょう。

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2016/08/11~20   亡き人に思いを寄せて手をあわせましょう

講師 愛媛県 掌禅寺 内藤卓洲師

8月はこの地方ではお盆の月ですので、お盆にまつわる
お話をさせていただきましょう。

関東地方ではお盆は7月に行われます。わたしも若いこ
ろには学生時代にお世話になった東京のお寺のお盆のお
勤めのお手伝いに行っていました。地図を片手に電車や
地下鉄やバスを乗り継いで東京中を回りました。

四国では8月がお盆です。七夕祭りも7月ではなくて、
8月ですね。いわゆる月遅れでお盆をお迎えするわけで
すが、全国的にはこちらの方が多いようです。

この8月のお盆のことを「表/裏」の意味で「うら盆」
と言う方が時にいらっしゃいます。この人にとっては7
月盆が「表」で8月盆は「裏」という理解なのでしょう。

でもこれは間違いです。

「うらぼん」の「うら」は「表/裏」の「うら」ではあ
りません。

わたしたちは「お盆、お盆」と言っていますが、実は、
「盆」と言うのは「盂蘭盆(うらぼん)」というのが正
式で、この「うらぼん」は「表/裏」の「裏」ではあり
ません。

「うらぼん」はもともとインドの言葉で「ウランバナ」
という言葉があって、その言葉を中国の漢字で音をあわ
せて「盂蘭盆」になったのです。

では、「ウランバナ」はどんな意味かというと、それは
「逆さ吊り」ということだそうです。

「逆さ吊り」は苦しいですよね、そういう苦しみにおか
れているあらゆる命あるもの、すでに死せるもの、すべ
てのものを救おうという行事がそもそもの「お盆」の意
味合いです。

また古代イラン語の「霊魂」を意味する「ウルヴァン」
という言葉から「盂蘭盆」となったという説も有ります。

お盆の精霊棚にナスやキュウリをお供えしますね。ナス
やキュウリはイラン地方が原産らしいですから、この説
もあり得るかな、と思います。

どちらの説に従うにしろ、お盆はこの世でさまざまなご
縁をいただいて、今の自分を生み育ててくれた、今は亡
き人々に思いを寄せる時だと思います。ふだん何気なく
使っている「お陰様で」という言葉の意味を改めて受け
とめる時でもあろうと思うのです。

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2016/08/21~31   食べることは、祈ること

講師 愛媛県 掌禅寺 内藤卓洲老師

県内のほとんどの地域のお寺で、7月、8月のお盆にあ
わせて施食会の法要を行います。

私ども曹洞宗では「施食会=せじきえ」と呼びますが、
一般には「施餓鬼会=せがきえ」と呼ぶことが多いよう
です。

どちらにしても「施」=「施す」ことに主眼を置いた法
要です。特に「施食会」というように「食べ物」を施す
ことにこの法要の大切な意味があります。

「人はパンのみにて生きるに非ず」と言います、しかし、
パン無しには人は生きられません。

わたしたちは取りあえず、今日のご飯にも明日のご飯に
も心配なく暮らしています。しかし、わたしたちがこの
ようないわば食べることに於いて安心して生活できてい
るのは、実はひじょうに希なことだということに気づき
たいものです。

陸や海や空のあらゆる生きもの、動物や昆虫は活動のほ
とんど全てを食料を求めることに費やしています。

人類においても、世界では7億9,500万人(9人に
一人 ※国連WFP)が「健康で活動的な生活を送るために
必要かつ十分な食料」を得られていません。

この8億近い数字にわたしたちは驚きます。でもきっと
すぐに忘れて昼食や夕食のテーブルに向かうことでしょ
う。

わたし自身もたぶん今夜の食事の時には、今日のこのお
話を忘れているかも知れません。覚えていても、だから
といって自分の食べる分量を減らしたりはしないでしょ
うね。

現実にわたしたちが直接に何かできるとしたら、国連WFP
等の活動への寄付ぐらいですが、また、祈ることも大切
だとあらゆる宗教は教えているはずです。

特に世界のあらゆるものは縁に由って結ばれている、と
説く仏教にとって、祈りはそのご縁の糸を信じることで
もあります。

今日のわたしの祈りによって、世界のどこかで赤ちゃん
を抱いた母親に一日分の食料が渡されているかも知れな
い。世界のどこかで何日かぶりで子供にパンを与えられ
た父親がいるかもしれない。世界のどこかで一匹のバッ
タが今日の餌にありついたかも知れない、等々のことを
信じたいと思います。

この祈りを法要の形にしたものが「施食会」であり「施
餓鬼会」です。この法要に出会うことがありましたら、
今日のお話を思い出してくださると幸いです。

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2016/07/21〜31   幸せは思いやりの心から

講師 愛媛県 渓寿寺 金岡潔宗師

チベット仏教のダライ・ラマ4世法王は、

本当の幸福は、自分自身や親しい人々という限られた対
象の幸せを気遣うことからもたらされるのではなく、全
ての生きとし生けるものに対する、愛と慈悲の心を育む
ことから生まれてくるのです。怒りや憎しみでは、痛々
しい状況や問題を解決することはできません。それらを
解決できるのは、思いやりと真の優しさによる癒しだけ
なのです

と言っておられます。

やさしいってどんなことでしょうか?

本当の優しさ・・・例えば
子どもが一人で歯磨きをしているのを見て、お母さんは
「えらいねぇ一人で歯磨きできたの」と褒めてあげる。

子どもが学校から帰ってきて「ただいま」と言うと、お
母さんは「お帰り おやつあるよ」

特別な事ではありません。自然なことなのです。

お母さんが夕食の準備をしている時に 赤ちゃんが泣い
たら、お父さんはテレビを見ながら「おい 泣いてるぞ」
と言うから、いけないのです。

その言葉の中には「何でオレが」という我見、自分中心
の思いがあるのです。お父さんは「よしよし」「おむつ
かなぁ」と言って赤ちゃんをあやせばいいのです。誰が
やってもいいのです。自然にできる人がやればいいんで
す。

「私は手が離せないからあなたお願い」なんて言わなく
てもいいのです。

すべて自然に「いってきます」「気をつけて」「早く帰
るから」それだけでいいのです。

こんな言葉があります。

幸せはあなたの心が決めるもの。だから、ちいさなちい
さな倖せ 見過ごさないように。きっと今日も幸せ

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2016/07/11〜20   すべての命は大事な命

講師 愛媛県 渓寿寺 金岡潔宗師

『下校する 児童手を上げ 横断し 
            車に礼して 走り去りゆく』
『おくるべき 母亡き孫は
     赤白の カーネーションを 吾にくれたり』

この句は、昨年亡くなられた ある御婦人の作られた句
で、ご葬儀の会場に 掲げられていました。それぞれの
光景が 目に浮かんでくるような句です。その御婦人が、
一日一日を 大切に生きた証となる 素晴らしい句だと
感じ入りました。

人は誰もが老いて、そして死を迎えます。それを不安に
思わない人はいません。

江戸時代の名僧良寛さまは、
『形見とて 何残すらむ 春は花 
           夏ほととぎす 秋はもみじ葉』
という 辞世の句を残しています。

「今生の別れに臨んで、形見に何か残すとすれば、春は
花 夏は山のほととぎすであり、秋のもみじ葉。美しい
自然そのものこそ 私の命として残したいものです」と
いう意味ですが、良寛さまは「私が生きていること自身
が大自然の一つであり、死ぬこともまた大自然の一つで
す。私は自然の中にいます」と最後に言い遺されたので
す。

私たちはとかく、人間だけが特別なものと 思いがちで
すが、人間も大自然の中の一部でしかありません。みん
な同じいのちを頂いているのです。

いのちの大切さが とても伝わってくる詩を 紹介しま
す。小学一年生の 国語の教科書に載っていた、かわさ
き ひろしさんが書いた『てんとうむし』という詩です。

てんとうむし

いっぴきでも
てんとうむしだよ
ちいさくても
ぞうと おなじ いのちを
いっこ もって いる
ぼくを みつけたら
こんにちはって いってね
そしたら ぼくも
てんとうむしの ことばで
こんにちはって いうから
きみには きこえないけど

生きとし生けるものはみな、大自然の中の大事な命です。
この瞬間を一生懸命生き、すべてのいのちを大切に思う
生き方が、最後まで人間らしく、よかったと言える生き
方ではないでしょうか。

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2016/06/21〜30   隠し味

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

梅雨に入って、鬱陶しいお天気が続くと、なんとなく食
欲が落ちて、体調を崩しやすくなります。

食欲のないときには ハッキリした味のものを食べるの
が一番なのですが、一口に、ハッキリした味と言っても、
人それぞれです。

隣に座っている人が「わ、この三杯酢美味いわ!」と言
っても、「え?と私にはチョッと酸っぱいかな?」など
と思うことはないでしょうか?

人それぞれ、自分の味への感覚を持っているということ
です。

実は私、修行道場にいた頃、調理係を仰せつかっていた
ことがあります。いえいえ、けして冗談ではありません。
本当に作っていたのです。

あの頃は、真剣に「美味しくなれ、美味しくなれ」と、
出来上がっていく料理に声を掛けながら作っていたのを
思い出します。

道場を出てからも料理することにまだ燃えていた三十歳
頃のこと、あるお味噌汁との出会いがありました。

それは私自身にとって衝撃的で、本当に目の覚めるよう
なお味噌汁との出会いでした。

衝撃的とは言っても、中の具材は自分も良く使う具材で
あり、味噌も一般的な合わせ味噌でした。

然しながらであります、味が格段に違うのでありました。
舌の上で味噌汁がビシっと語るのです。「どや、俺が味
噌汁だ」と言わんばかりに主張するのです。それはそれ
は、格別な味わいでありました。

皆さん、いったい何の調味料が入っていたと思われます
か?実は・・・・・おでんに付けて食べる、練りカラシ
だったのです。

味噌汁に練りカラシとは、正直驚かされてしまいました。
これを隠し味というのですよね。

人の心もそれと一緒なのかもしれません。

私たちは一生涯の間に、様々な人との出会いがあります。
出会う人それぞれに個性というものがあります。

お味噌汁に例えるならば、お味噌汁の具材は私たちであ
り、具材としての私たちが共に支え、共に活かし合うこ
とで美味しいお味噌汁ができあがるのです。

そして、そこにホンの少し加えるあなたの思いやりの心
こそが、何よりの隠し味となるのです。

一期一会と言われる出会いの中、その人の光っている部
分、ステキな部分をお互いに見出せたらと思うのです。

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2016/06/11〜20   まいう~!となるために

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

先日、所用で高松まで出かけたのですが、高松と言えば
讃岐、讃岐と言えばうどん。ということで、昼食はうど
んにしようと、人気のうどん屋さんを訪ねました。

行列に並んで待つことしばし、ようやく椅子に座ること
が出来て、さあ食べようとした時です。

相席になった、若者二人がきちんと手をわせて「いただ
きます」と言ったのです。

自分の家ならまだしも、今どきの若者が、大勢の人がい
る中で、きちんと手を合わせて「いただきます」と言う
姿を見て、私は嬉しくなりました。

皆さんは、食べ物をいただくとき、手を合わせて「いた
だきます」と、言われているでしょうか?

悲しいことに近年は、それをガンとして言わない、ある
いは、言わせないという人もいると聞きました。

インドには、人と対面した時、「ナマステ」と言って合
掌する風習というか挨拶があるそうです。

それは、相手を信頼し、相手の仏心を拝ませて頂くとい
うことなのだそうです。あなたを尊敬しています、とい
うことなのでしょうね。

さてそこで、例えば、うどん屋さんに入って、目の前に
うどん。では、そのうどんを見て、今の私どもに尊敬の
気持ちがあるでしょうか?

禅宗の僧侶には、食事の前に行う五箇条のお唱え事があ
ります。それを五観の偈と言います。

その第一に「功の多少を計り、彼の来処を量る」とあり
ます。

どういうことかと言うと、「目の前の料理に、どれほど
の人の労苦があったのか考えよう。これらの食材がどれ
だけの道程を経て、目の前に存在してるか考えよう」と
言うことなのです。

昨今は、そういうことを考える人が少なくなったのでは
ないでしょうか?考えないから、無駄に残したりするの
ではないでしょうか?

子供の頃、ごはん茶碗にご飯粒を残して、よく親に𠮟ら
れました。「お百姓さんがどんだけ苦労して、このお米
を作ったと思うとる!残さんと食べろ!」と。

一粒のお米、一片の野菜それぞれに命が宿り、この私共
のいのちを支えて下さっているのです。

私たちは、それを育てて下さる人の気持ち、調理して下
さる人の気持ちをも量り知らねばならないのではないで
しょうか。

一粒のお米、一片の野菜が、貴方の手を合わす心を見て
らっしゃるのです。

ならば、食べる側の私共の心も、感謝と共に「いただき
ます」と手を合わせて食事をいただいて、タレントの石
ちゃんのように、満面の笑顔で「まいう~!」とならな
ければならないではないでしょうか。

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2016/05/21〜31   思いやりの心

講師 愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

イソップ童話の『ウサギとカメ』をご存知でしょうか。

足の速いウサギと足の遅いカメが競争をして、最終的に
は真面目に走ったカメが、怠けたウサギに勝利するお話
です。

通常、このお話しの教訓は、「油断大敵」あるいは「真
面目にこつこつ努力しましょう」といったところでしょ
うか。

ところが、実はこのお話し、国によって解釈や教訓とす
るところが違うのだそうです。

ある国では、カメは非常に頭が良くて、自分とそっくり
な弟のカメをあらかじめゴール地点に待機させていたと
解釈されています。つまり、ウサギがどんなにがんばっ
ても勝てない仕組みになっているわけです。

そこで、このお話しの教訓は「意味の無い競争はするな」
だそうです。

またある国では、競争に勝ったカメは悪者であると解釈
されています。なぜなら、昼寝をしているウサギを起こ
してあげればいいのに、ほったらかしにしているからで
す。

教訓は「友情を大切にしましょう」だそうです。

このように、お国柄によっていろいろな解釈や教訓があ
るようですので、私もそれに倣って、この話を仏教的に
読んでみました。

まず、そもそもウサギが居眠りをしなかったらどうなっ
ていたのでしょうか?ウサギが勝つのが当たり前です。

しかし、これでは何も面白くありませんね。ウサギが居
眠りをするところに、この話の面白さがあるのですから。

では、なぜウサギは居眠りをしたのでしょうか?そもそ
も、本当に居眠りだったのでしょうか?

そこで、私は考えました。

実はウサギは、居眠りをするふりをしたのです。ウサギ
は一休みをしながら、カメにとっては勝てるはずもない
競争なのに、一生懸命に歩みを進めるカメを見て、「こ
のまま自分が先にゴールしたら、自分は勝って嬉しいけ
れど、カメはきっと悔しがるだろうなあ・・・。そうだ!
カメが先にゴールして喜んでいる姿を見て、自分の喜び
としよう」と思ったのではないでしょうか?

そこでウサギは、両方が喜べるようにと、居眠りをする
ふりをしてカメを先にゴールさせたというのが、私の仏
教的解釈です。

これは、私たちの普段の生活にも当てはまるのではない
でしょうか。

「自分さえ良ければいい」というのは簡単ですが、みん
なが喜ぶ方法を考えていきたいものです。

みんなが喜ぶためにはどうすればいいのでしょうか。

道元禅師様はそれを「自未得度先度他=じみとくどせん
どた」とお示しになりました。「自分が救われる前に他
の人々を救う」という意味です。

他人よりも自分のことを最優先に考えていると、争いや
諍いや、ひいては戦争を引き起こしてしまうことになる
のではないでしょうか。

自未得度先度他という生き方の中には、人を蹴落とした
り、軽蔑したり、排除したり、差別やイジメが入り込む
余地などありません。

「みんな仲良く、助け合って」というのが仏教の基本で
す。相手を思いやる心を大切にしたいものです。

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2016/05/11〜20   学ぶは真似る

講師 愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

何か物事を始めようとする時、皆さんは、どのようなこ
とから始めますか?私はよく、形から入ります。

どういうことかと申しますと、たとえば、書道には臨書
(りんしょ=手本を見て書くこと)という練習方法があ
ります。

臨書とは、お手本をよく見て真似をして書くことで、お
手本が書かれた当時の時代背景や、お手本を書いた人の
心に近づいていこうとする練習方法です。自分はこう書
きたいとか、あんなふうに書いてやろうといった、こだ
わりを捨て、心を柔らかくして、真似ることで、書は早
く上達していきます。

実は、禅宗の修行の始まりも、真似ることから始まりま
す。

禅宗のお寺は坐禅だけが修行ではなく、一日二十四時間
すべてが修行であるとして、食事の仕方や、お風呂の入
り方、寝方に至るまで、作法が細かく決まっています。

禅宗の修行は、テキストを読みながら机の上で勉強する
というものではありません。すべて実践の中で学んでい
くのです。

私は修行時代、老僧に「お袈裟をつけて、毎日毎日、同
じ生活をすることに何の意味があるのででしょうか?」
と、に質問したことがあります。

すると「生活の全てが修行である。まずは、お釈迦様を
真似することであり、役寮(やくりょう=指導してくれ
ている先生)や、先輩の行動をよく見て真似ることで、
僧侶としての心を作りなさい。『威儀即仏法、作法是宗
旨』(いいぎそくぶっぽう、さほうこれしゅうし)」と
いう言葉が返ってきました。

この言葉は、永平寺を開かれた道元禅師様が示された言
葉です。「身支度や礼儀作法、身のこなし、すべてが仏
法である。日々の暮らしの中で、立ち居振る舞いを整え
ることが大切である」と示されております。

学ぶというのはまず真似ることです。真似ていくうちに
そのお手本の本質に気がつくようになっていきます。形
から入り、真似ることが学ぶことの第一歩なのです。

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2016/04/21~30   自分をたいせつに

愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

唐突ですが、お茶席でお茶を頂いたことはありますか?

実は、茶道の作法の中には禅の精神がとけこんでいる所
作がたくさんあります。

たとえば、茶道には柄杓(ひしゃく)で釜(かま)から
湯を汲み取るとき、柄杓に汲んだお湯の半分だけを注い
で、残りの半分は釜に戻すという所作があります。

これは、千利休が禅の精神を、お茶を飲むという作法に
取り入れたからです。

曹洞宗大本山永平寺の正門の石柱には「杓底一残水 汲
流千億人=しゃくていのいちざんすい ながれをくむせ
んおくにん」という文字が刻まれています。

永平寺の付近には、日本三名山(さんめいざん)の一つ
白山(はくさん)からの水が川となって豊富に流れてい
ます。

永平寺をお開きになられた道元禅師様は、仏様にお供え
する水を、毎朝、永平寺の門前を流れる川から柄杓で汲
まれ、柄杓で汲み取った水の半分だけを使い、残りの半
分は元の川に戻されたと伝えられています。

柄杓半分の水の量など、川を流れる水からすれば、比べ
物にならぬほど僅かなものです。

しかし、その僅かなもの。例えば、一滴の水、一枚の紙、
一粒の米。そういうものを粗末にすることは、ほかでも
なく自分自身を粗末にすることだという禅の教えがそこ
にはあります。

携帯やパソコンが普及して、誰に会うこともなく、何処
に行くこともなく、欲しいものを簡単に手に入れられる
ようになりました。

しかし、何の苦労もなく手に入れたものは、往々にして
安易に捨ててしまいがちです。

千利休が茶釜から柄杓でお湯を汲む作法に、お湯を戻す
所作を加えたのは、それを戒めたものであったのかもし
れません。

繰り返しになりますが、物を粗末にするということは自
分自身を粗末にするということです。まずは身近なもの、
どんなに小さく、僅かなものでも大切にしてまいりまし
ょう。

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2016/04/11~20   坐禅のすすめ

高知県 龍宝寺 村上道寛師

尼僧堂修行時代、坐禅に来られる方から「坐禅をすれば、
邪念がとれて良い人間になれますか?」と質問されたこ
とがあります。

実は私も、修行道場に行くまでは、坐禅をすれば迷いが
消えて、物事に動じない強い自分になれると思っており
ました。

私たちは日常、世間体を気にしたり、仕事で業績を上げ
たいと、自分にとって、望ましい評価や成果が得られる
ことを常に意識してしまいます。

そのような自分から離れることが出来るのが坐禅だと、
私も修行に入るまでは考えていました。

しかし、私が修行道場で教わったことは、「坐禅とは自
分以外のものになるのではなく、ありのままの姿そのも
のをいい、実践し続けることが大切なのだ」ということ
でした。

道元禅師様は「善悪を思わず作仏を図ることなかれ=坐
禅をするときは、ものごとの善悪の判断を離れ、さとり
を得ることを目的としてはならない」と示されておりま
す。

心を正念(正しい思い)と邪念(よこしまな思い)に分
けて、邪念を否定し、正念するのみを肯定するのは、も
のごとをどちらか一方に分けてしまうという、選り好み
をすることになってしまいます。

また、何かを求めたり、何かを目指すということは、坐
禅を単なる手段に用いることになってしまいます。

一切の先入観を捨てて、さまざまな迷いや欲にとらわれ
ずに、ただ坐禅をすることを只管打坐といいます。

坐禅は、良い人間や強い心を持つ人間になることを目的
とするのではないということです。

坐禅の時は、どんなにすばらしい考えでも解き放てと教
えています。

つまり、さまざまな思いを解き放つからこそ、嫌なこと
があった時でも良いことがあった時でも、安らかな自分
でいられるということなのだと思います。

お釈迦様がおさとりを開いた時と同じ姿で、飾りの無い
ありのままの姿が坐禅の姿です。背筋を伸ばし、静かに
ゆっくりと呼吸をすると、自然に精神が安定してきます。

みなさま、ただ、ひたすら坐る坐禅に親しんで下さい。
お近くのお寺で坐禅会が催されていましたら、是非一度
足を運んでみて下さい。

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2016/03/21~31   同事のこころ

愛媛県 宗安寺 能仁洋一師

東日本大震災が発生した3月11日にあわせ、今年も被
災地をはじめ全国各地において、慰霊法要や復興祈願法
要などが行われたり、様々なメディアでは東日本大震災
に関する特集番組が放送されました。

今年の3月11日、私は車を走らせながらラジオを聴い
ていました。

スピーカーから聞こえてくるラジオのパーソナリティー
さんのコメントや、四国内や四国近郊のリスナーの方々
の投稿からは『もう5年が経つんですね』『速いもので
すね』『あっという間にそんなに経つんですね』といっ
た声が多く聞こえました。

そんな中、被災をされた東北の方からの投稿がありまし
た。『はや5年と申しますか、まだ5年と申しますか・
・・』との言葉から始まったその方の投稿は『全国各地
で被災地の早期復興を願っていただいていること、東日
本大震災発生当時から多くの方が被災地へと足を運んで
いただき早期復興に向けてご協力をしていただいている
ことなどとても有難い』といった内容でした。

私は、その方の『はや5年と申しますか、まだ5年と申
しますか・・・』という言葉にハッとすると同時に、4
年前、東日本大震災発生から丸1年を迎えるにあたって、
福島県のとあるお寺において行われた復興祈願イベント
に参加した時のことを思い出しました。

被災地の方々と一緒に食事を作りながら交流を深める中
で、被災地の方々は、「遠くからよく来なさった」と笑
顔で迎え入れてくださり、いろんなことをお話しくださ
いました。

その中で、とても印象に残った言葉がありました。それ
は、私が『もう1年が経つんですね』と何気なく出した
言葉に対し、『この一年は、本当に長かった・・・』と
言われた言葉でした。

被災地から遠く離れた地に住む私達は震災以降、多少な
りとも日常生活の中で制限される部分もございましたが、
気が付けば以前とさほど変わらぬ生活を送っていたよう
に思います。

しかし、被災された方々は、多くの悲しみ苦しみや、復
旧・復興がままならないという不安の中で生活を送って
こられました。

日常生活から、突如として非日常の生活を余儀なくされ、
どれほどの不安を覚えたことでしょうか。

私は、『この1年はとても長かった・・・』という言葉
に、そういった不安や苦しみ、またその中にありながら
必死の思いで乗り越えようとしている姿を見たように感
じたのでした。

今回、ラジオから聞こえてきた被災された方からの投稿
を聴き、私自身、忘れてはならない事を忘れてしまって
いたような、とても申し訳なく、そして恥ずかしい気持
ちになりました。

曹洞宗で説かれる四摂法という教えの中に「同事」があ
ります。

「同事」とは、『同じ』という字に事柄の『事』と書き
ます。

では、同じ事とはどういうことでしょうか?同じ事、即
ち、他人の苦しみや悲しみを我が事として同じく、苦し
い、悲しいと感じることのできる心です。

被災地からどれだけ離れていても、被災された方々の痛
みや苦しみ、悲しみを、我が事として同じく感じ、寄り
添い支えあっていく。継続していくことで、目に見える
街の復興だけでなく被災された方々の心の傷を癒し、互
いに心から笑い喜び合える完全復興を目指してまいりま
しょう。

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2016/03/11~20   仏の教えに即した生き方が、そのまま悟りの姿

愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

三月といえば春のお彼岸です。お彼岸は、春分の日と秋
分の日をお中日として、前後三日間ずつを合わせた七日
間です。

お彼岸の由来は浄土思想に基づいていると言われていま
す。

浄土思想で信じられている極楽浄土は、西の方角の遥か
彼方にあると考えられています。春分の日と秋分の日は、
太陽が真東から昇り、真西に沈む日です。

真西に沈む太陽を礼拝して、遥か彼方の極楽浄土に思い
を馳せたのがお彼岸の始まりと言われています。極楽浄
土に生まれ変わることを願ったり、極楽浄土におられる
ご先祖さまを思い描いたとされています。

「彼岸」という言葉は、漢字で「彼の岸」と書きます。
向こう岸、かなたの岸という意味です。

それに対して私たちの居るこの世界を、こちら側の岸と
して「此岸」と言います。

煩悩を川の流れに例えて、それを渡りきった悟りの世界、
理想の世界が「彼岸」とされています。

こちら側の「此岸」は私たちの住んでいる世界で、迷い
の世界、煩悩や欲の世界です。

悩みや迷いや欲望が多いこの「此岸」から、苦しみの無
い悟りの世界である「彼岸」に渡るために、仏の教えに
即した生活を目指すのです。

悩みや苦しみが多いこの世界を私たちは生きているけれ
ども、悩みや苦しみが多いからこそ、自分の至らなさや
未熟さに気付き、見つめることができます。

そうして、その中から「まっとうな生活をしたい」、つ
まりは、仏道を歩もうという決心が生まれるのです。

曹洞宗の開祖である道元禅師さまは「修行して彼岸に到
るのではない」と言われました。

「彼岸」とは、漠然とした場所や境地を示すのではなく、
仏さまの教えを信じて行っていくこと、つまり修行する
ことが彼岸そのものであると言われました。

お彼岸を機会に、お釈迦さまや道元禅師さまや、お祖師
さま方の教えをよすがとして、仏道を実践してまいりま
しょう。

彼岸の世界は、どこか遠く、手の届かない場所にあるの
ではなく、日常の生活の中にこそあるのです。

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2016/02/11~20   思うこと

講師 徳島県 景岩寺 杉生和之師

先日、私のところでは珍しく雪が積もりました。少しで
すが積もった雪を見て曹洞宗の宗歌を思い出しました。

宗歌の一節に、
『雪の夕べに臂を断ち』とあります。

インドから中国に渡られた達磨さまが、嵩山(すうざん)
少林寺において坐禅の修行を続けられていた時のことで
す。

それは、身も切れるほどの厳冬のことでした。中国禅宗
の二祖と言われる慧可さまは、遠くインドから来られた
達磨さまに面会し弟子入りを乞われたのです。

達磨さまは慧可さまの願いをお断りになりますが、慧可
さまは達磨さまに、その切なる願いを腰まで雪に埋もれ
ながら、自らの体を傷つけるほどの強い思いを示して入
門を許されたと伝えられています。慧可さまの、教えを
受け継ぐということへの強い思いが偲ばれるお話しです。

このようにして、達磨さまによってインドから中国へと
伝えられた正法(=正しいみ教え)は、慧可さまの強い強
いによって受け継がれ、そのみ教えが脈々と受け継がれ、
道元さまに至って日本に伝えられ、瑩山さまが広められ
ました。

思いを受け継ぐとか、思いを受け渡すということは大変
難しいことですが、皆さんはご家族の方に、ご自分の思
いを受け渡すようなお話しをされることはありますか?

たとえば、ご自身が大切にされているご先祖さまのお話
であるとか、ご自身の小さいときのお話。そんなお話を
されてみてはいかがでしょうか?そしてそれが、お子さ
んやお孫さんに、仏さまを敬うこころ、ご先祖まを敬う
こころを養っていくことになるのではないでしょうか?

お子様さんやお孫さんが遠くに離れていても、帰ってこ
られたときには、みんなでご先祖さまに手を合わせるこ
とから始めてみましょう。

そんな行いの中で、ご自分の思いを家族に受け渡し、家
族がその思いを受け継いで、お互いに生きる喜びを見い
だしていくことこそが、家族の絆というものなのだと思
うのです。

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2016/01/21~31   三匹の猿

講師 徳島県 黒松寺 矢野通玄師

私は、今年の年賀状に今年の干支申に因み「見ざる・言
わざる・聞かざる」の「三匹の猿」のイラストを入れて
新年の挨拶をしました。

ところが、届いた年賀状の中に私と逆の「三匹の猿」の
イラストがあり、添え文に「見ます・言います・聞かせ
ます」と書かれていました。

「三匹の猿」は日光東照宮の彫刻が有名ですが、この彫
刻は八面で構成されていて、人の一生の生き方を示され
たものと言われています。

三匹の猿はその内の第二番目の額で左から「聞かざる・
言わざる・見ざる」子猿の彫刻です。

この彫刻、子供に向けては、「世の中の悪いことを聞い
たり、見たり、言ったりしないで素直に育ってほしい」
と諭しているのだそうです。そして、大人に向けては、
「人の欠点を見ない、人の悪口を聞かない、人の悪口を
言わない」と戒めているのだそうです。

このような意味を知らずに言葉通りに受けとれば、三匹
の猿は無関心で我関せず、自分本意で身勝手な振る舞い
をしているようにも受けとれます。

さらに、一般的には「良い事にも悪い事にも目をつむり、
不利益な事には聞いていても聞いていない振りをして、
肝心な時には口を閉ざしてしまいなさい」というように
誤解される三猿です。

しかしながら、本来の意味を理解し、「見ざる・言わざ
る・聞かざる」と、「見ます・言います・聞かせます」
ということを、今年一年の過ごし方・指針としてみては
どうでしょうか。

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

これは「懺悔文=さんげもん」といいます。お勤めの経
本の最初に書かれていて、お経をお唱えする前の心構え
としてのことばです。

意訳すると
私が気づく気づかずに関わらず他人様へおかけした迷惑
は、すべて貪(とん=むさぼり)瞋(じん=いかり)癡
(ち=おろかさ)の三つによるものだから、身(み)と、
口(くち)と意(思い)から出た行いは、今ここに反省
し悔い改めます。

私たちは「貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろか
さ)」に侵された煩悩に、悩まされ振り回されています。
生活する中で、人の言葉や悪口・行いや態度が気になる
ものです。

他人のことは気になっても、自分のことは気にならない。
他人と同じことをしていても、自分は違うと正当化し、
他の人を思いはかることは少ないように思います。

一日に一度、自分を振り返る時間をつくり、この三つの
毒に毒されていないか反省する時間をもち、気をつけな
がら日送りをし、見て聴いて人の為に尽くせる行いを心
がけたいものです。

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2016/01/11~20   食とは

講師 高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

遥か昔 お釈迦さまが、こんなふうに言われました。

「人は常に自ら心して量を知りて食を取るべし。さす
れば、苦しみ少なく、又老いること遅く良く壽を保つ
ならん」

取り立てて、解釈には及ばないと思います。

ところで、実は私、年末年始にかけて美味しいものを
いただきすぎました。このところの暴飲暴食で疲れた
胃に、七草粥を食べるととても美味しく感じます。
私どもの、この休みなく働いてくれている胃腸ですが、
関節や筋肉と比べたらどっちがデリケートだと思いま
すか?

実は、胃腸の方がず~っとデリケートに出来ているん
だそうです。

運動する前には準備運動をしますよね?でも、身体よ
りも胃腸のほうがデリケートだというのに、その割に
は食べる前に胃腸の準備運動なんてしませんよね。美
味しそうなご飯を目の前にすれば、人情として当然す
ぐ食べたくなりますもんね。

それなのに、飼っている犬に対しては、上から目線で
「待て!」という…可笑しな話です。

思い起こしてみれば修行道場では、その「待て」とい
う代わりに、多くのお唱えごとを致しておりました。
お腹の中で、早く食べさせて!ッと、いつも思ったも
のでした。

でも、食前にお唱えごとをするというのはとても理に
叶っているんだそうです。目の前に直ぐ食べたいもの
があっても、時間を掛けてお唱えごとをすることによ
って、胃液の分泌を促してくれるのだそうです。所謂
ウォーミングアップですね。

修行道場での朝食ではお粥さんをいただきますが、朝
食の際のお唱えごとの中に「しゅゆうじゅり にょい
あんじん こほうぶへん きゅうきんじょうら」と言
う耳慣れない一文があります。

その意味は、お粥には十個の利益があって、効能は限
りなく煩悩も消え、この上ない安らぎを得られると言
うのです。

敢えて、今日はその十個の利益は申し上げませんが、
お粥さんは、我々の与えられた生命を最大限に活用す
るために、とても良いらしいのです。

豊かと言われる日本経済。我々庶民は、それこそソコ
ソコ豊かと感じております。けれども、その経済力で
食慾の赴くままの食事をしているとするなら、大切に
頂いた、この我が身を自ら傷つけてしまうことになり
ます。勿体無いですよね。

モノを大切に味わうということと、美味しいは大きな
違いです。我が身にもやさしい食事をいただくように
したいものですね。

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2015/12/11~31   ありがたさ

講師 愛媛県 宗安寺 能仁洋一師

先日、私が副住職をつとめているお寺のお檀家さんで、
90歳になるおばあさんが亡くなられました。

夏のお盆参りに伺うと、祭壇に向かってお参りをしてい
る私の後ろに座られ、お参りが終わるまで団扇でずっと
扇いでいただき、お参りが終わるとご自身が体験された
戦時中のことを穏やかな眼差しで私にお話しくださった
ことが、今も脳裏に鮮明に焼き付いております。

数年前のお盆参りで、そのおばあさんのお家に伺った時
のことでした。

いつものようにご一緒にお参りをし、お参りが終わると
いつものように一杯のお茶を出していただきました。

お茶をいただいていると突然、「今の若い人たちは幸せ
やね」と言われるのです。

続けて、「私が若かった頃は戦時中でね、勉強したくて
も勉強もできない。不衛生で、庭先に出ると足にブワッ
とダニが集まってくるのが見えるくらいやった。畑をし
てる時に怖い目にあったこともあったんよ。向こうの山
の上を飛行機が飛んでくるのが見えたら、誰かが「空襲
じゃ!隠れろ!」と言われて必死に山の中に隠れてね。
そしたら、『タタタンッ!』て機銃の音が一回だけ聞こ
えただけで、その飛行機はそのまま飛んで行ったんよ。
私らは「死なずにすんだ!」って皆で抱き合って喜んで
ね。でも、その飛行機は別の町に爆弾を落としてね。私
らが聞いた機銃の音は、試し打ちをしたんだろって話に
なって。でも、私らは助かったけど、その爆弾で大勢の
人が亡くなったみたいでね。今は、そんな心配もせんで
ええし、綺麗な服を着られるしご飯も食べられる。今の
若い人たちは、ほんとに幸せやね」そう話されて、穏や
かな眼差しで私をじっと見つめておられました。

終戦から70年がたち、私たちは飛行機の音や機影に恐怖
を抱くこともなく、飛行機の音がすればどこを飛んでる
のかなと外に出て、のんきに空を眺めたりもしておりま
す。

戦時中ではとても考えられなかったことでしょう。また、
学校や仕事から帰ればあたたかいご飯にお風呂、そして
のんびりと布団に入って横になり、空襲など気にするこ
となく朝を迎えられる。

今ある日常は、戦時中どれほど切望されていたことでし
ょうか。

私たちは、当たり前に思っているこの日常が、どれほど
尊くありがたいものなのか、今一度しっかりと考えない
といけません。そして、この世界のどこかでは、まだ戦
争が続いていることを忘れてはいけません。

仏教詩人、坂村真民さんの詩に「ありがたさ」という詩
があります。

 夜が明けるということは 
 なんとありがたいことだろう
 光が射してくるということは 
 なんとうれしいことだろう

今朝も目覚めることができた。今日も平和に暮らすこと
ができた。今年も残すところあと僅かですが、この一年
無事過ごすことができた。なんとありがたいことでしょ
うか。

今あるその命に、今あるこの平和な暮らしに感謝を忘れ
ず、どうぞよいお年をお迎えください。

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2015/11/11~30   慌てず焦らず

講師 香川県 祥福寺 本山良宗師

三重県の南端、和歌山との県境にある御浜という町に、
私の法友が住職をしているお寺があります。

先月、そのお寺で修行される法要のお手伝いに車で向
かおうと、移動経路をインターネットで調べると、徳
島から和歌山へフェリーで渡って紀伊半島の海岸沿い
を走るルートと、淡路島経由で尾鷲まで高速道を走る
ルートが見つかりました。

時間的に早く着ける後者を選択し、カーナビに目的地
を入れていざ出発。

ところが…。カーナビが案内したのは紀伊半島を横断
する最短ルートで、国道309号と表示はあるものの、
車一台がやっと、落石注意、落盤注意の看板ばかりが
目立つ道。

あとで聞くと、残酷の酷に道と書いて、近畿三大酷道
の一本ともいわれるルートだったのです。

引き返そうにも引き返せず、必死の思いで車を走らせ
ること一時間あまり。なんとか対面通行ができる道に
出て太平洋が見えたときは、心底ホッとすると同時に、
どんなに険しい道でも、いつかは海が見える場所に辿
りつけるんだなと実感したことでした。

年の瀬も押し詰まり、残る日僅かとなったカレンダー
に「もう今年も終わりですよ」と急き立てられるかの
ようにも感じる今日この頃ですが、出来ることをきち
んとやっていけば、今日はきょうの一日。

慌てず、焦らず、過ごしてまいりましょう。

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2015/10/11~

2015年10月テレホン法話は 回線故障で お伝え出来なかった
2015年9月テレホン法話を あらためて お伝えいたしました

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2015/09/21~30   行動力

講師 愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

曹洞宗の経典「修証義」の一節に『徒(いたず)らに百
歳いけらんは 恨むべき日月なり 悲しむべき形骸(け
いがい)なり』という言葉があります。

『たとえ百歳という長寿に恵まれたとしても、欲望だけ
を追い求めるような無為な日送りであるならば、それは
悲しむべきことである』という意味です。

これといった予定もなく、何をするでもないような一日
を過ごしてしまったとき、「ああ、今日は無駄な時間を
過ごしてしまったなあ…」と思ってしまうことはありま
せんか?

「人生に無駄な事はない、必ず何かの役に立っているは
ずだ」と、自分に言い聞かせてみても、「うーん、やっ
ぱり無駄だったかな」と思ってしまうのはなぜなのでし
ょう?

人間も含め、動物、植物、目の前に広がる世界は全て変
化していくのが自然の摂理です。年齢を重ね、日々死に
向かっている事実を少なからず肌で感じ、「今日は、こ
れをやった、あれもやった」と言えるようなことをしな
いと、つい、無駄な時間をすごしてしまったと思ってし
まうのかもしれません。

人の命には限りがあり、それぞれに与えられた時間を生
きています。

限りある時間であるならば、人生を長い短いで片づける
わけにはいきません。昔はこうだった、若い頃はこうだ
ったなどと、言っている場合でもありません。

私たちが生きているのは、昨日ではなく、明日でもあり
ません。今、ここを生きています。

では、かけがえのない今を、今日一日を大切にするため
には、どうしたらよいでしょうか?

私は、興味や関心、好奇心を持ち続けることではないか
と思います。

何かを始めてみましょう。けして大仰なことでなく「新
聞を読もう」とか「笑顔で挨拶をしよう」「毎日散歩に
出かけよう」など、どんなことでもよいのです。

何かをしてみようという思い、その思いから生まれる行
動力こそが、今日一日を大切に過ごす基(もとい)とな
り、良き人生に繋がっていくのではないでしょうか。

良き人生の始まりに、遅いということはありません。今
から、ここから、なにかを始めてみせんか?

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2015/09/11~20   本来の面目

講師 愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて、すずし
かりけり」

これは、道元禅師の詠まれた和歌です。春になれば花が
咲き、夏にはほととぎすが鳴き、秋は月が美しく、冬に
は雪が降る。日本の四季は美しいものです。

この四季の移り変わりの美しさを詠んだ和歌には『本来
の面目』という題がつけられています。

自然が本来具えているあるがままの姿。何の働きかけも
ない純粋な真実の姿を『本来の面目』と申します。全て
のものはそれぞれのあるべき姿において、そこに存在し
ています。

では、春が花で、夏がほととぎすなら、あなたは何です
か?あなたは誰で、何が好きで、何が嫌いで、何をした
い人ですか?

そう尋ねられたら、答えられるでしょうか?

春は花が美しく、夏はほととぎすの鳴き声が心地良いよ
うに、自分自身の本来の自然な姿を知っておきたいもの
です。

今年の夏は、猛暑日の連続記録を更新するなど、特に暑
い夏でした。

お盆のご供養でお檀家を訪問した際、冷房の効いた部屋
に入ると実に快適でした。お勤めを終わって一歩外に出
ると、また厳しい暑さに見舞われて「やっぱり暑いな」
と思いました。

しかし、便利で快適だからと言って、暑さ寒さから逃れ
てばかりでは、日本の四季の変化を心から美しいと感じ
ることを妨げているようにも思いました。

「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるお彼岸はもうすぐで
す。季節は夏から秋へと移り変わります。

実りの秋と言われる収穫の季節に、旬の物をいただいて
「おいしい」と感じること。紅葉の山に目が留まり「き
れいだ」と素直に感じること。

そういう素直な心こそが、私たちの本来の自然な姿、本
来の面目なのではないでしょうか。

本来の面目を発揮する春夏秋冬の美しさを、そのまま感
じ取る素直な心を、忘れないようにしたいものです。

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2015/08/21~31   大切な人

講師 香川県 祥福寺 本山良宗師

お盆のお参りで車を運転していたときのことです。

押しボタン式の歩行者信号が赤になり、先頭で止まりま
した。すると…なんと、停止線で止まったはずなのに、
信号機が全く見えないのです。

しかたがありませんので、運転席から腰を浮かせて、思
い切り身を乗り出すようにして、しばらく信号機を見上
げていました。

信号が青に変わるのを見届けて腰をおろし、アクセルを
踏みながらふと思ったのですが…。

本当に大切なものというのは、押しボタン式の信号機と
同じで、少し離れないと見えないのかもしれません。近
すぎると見えるものも見えなくなってしまうのではない
でしょうか?

あることが当たり前だったモノ。いることが当たり前だ
った人。

それが自分にとってどれほど大切なものだったのかは、
失ってから、はじめて実感することなのかもしれません。

今月はお盆月。お盆には、亡き人がお家に帰ってくるな
どと申します。

お仏壇の本尊様の前に坐って、真っ直ぐにお線香を一本
立てて、背筋をスッとのばし、呼吸を整え、静かに手を
合わせてみてください。

あなたの心の中、瞼の奥で静かに微笑む大切な人と出会
うことができますように。

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2015/08/11~20   原爆忌・8月6日

講師 愛媛県 安穏寺 島津雄児師

私がサラリーマンをしていたときの初任地。そこは広島
でした。

十数年前の8月6日、その日も私は会社に出勤するため
駅からショッピングモールへと続く構内を足早に歩いて
いました。

すると突然、あちらこちらから車のクラクションが鳴り
始めました。驚いて足を止め、周りを見ると、街の人々
が足を止め市内中心に向かって黙とうを捧げていたので
す。

8月6日は、広島に原爆が落とされた日。そして、皆が
祈りを捧げる日なのでした。

どこか遠くに思っていた原爆の事を、今、自分のいる場
所で起こったことなんだと、生々しく感じた事を強く記
憶してます。

そんな広島原爆の日を迎えて、祖父である師匠が思い出
話を語ってくれました。

師匠がその日いたのは横須賀の海軍基地。広島を米軍が
爆撃。米軍は新型爆弾『光爆弾』を使用し、たった一発
で全滅であると報告されたそうです。

そして、

米軍が爆撃に来た時には当然、次回も光爆弾の使用が予
測される!光爆弾は光線にあたると焼かれてしまうので、
防空壕などへ移動する場合は必ず曲がり、入口から陰に
なるように避難せよと指導されたとの事でした。

原爆の、戦争の瞬間を生きてきた師匠の生々しい記憶で
す。

今日もお寺の上空を多くの飛行機が通過しました。まさ
か防空壕へとも思いませんし、まさか、その飛行機から
バラバラと爆弾が落とされるなどとは露ほども想像でき
ません

70年前はそれを現実として実際に生きてきた人と、今
こうして、同じ時を共に生きている。とても不思議な気
持ちがします。

平穏に毎日を過ごせている事のありがたさをあらためて
痛感した原爆忌です。

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2015/07/21~30   心やわらかく

講師 高知県 龍宝寺 村上道寛師

先日、友人の結婚式に出席しました。仏門に入って髪を
下ろしてから初めてとなる旧友たちとの再会でしたので、
友人たちから何を言われるかと、正直、少し緊張しなが
らの出席だったのですが……会場に入ると、「久しぶり、
元気だった?」と、ある友人が笑顔で声をかけてきてく
れたのです。その友人のおかげで、私も緊張が解けて笑
顔で話しの輪に入ることができました。

人は、笑顔で話しかけられると、自然と笑顔で返したく
なるものなのだと、あらためて感じたことでした。

仏教に、「和顔愛語」という言葉があります。これは、
和やかな表情で、やさしく相手に語りかけるという意味
です。

和やかな表情でやさしい言葉をかけたとき、相手は穏や
かな気持ちになり、それを目にする自分もまた穏やかな
気持ちになることができます。

毎日を穏やかに暮らしていくために、「慈悲の心」すな
わち、慈しみや思いやりの心を持ち続けたいものです。

自分一人が良ければそれで良いというのではなく、全て
の人、全てのものに慈しみや思いやりを心がけていくと
き、自ずと心がまるくなり穏やかな日暮らしが出来るよ
うになるはずです。

けれどもそれは、実際にはなかなか難しいことで、穏や
かに過ごせる日ばかりではないかもしれません。腹を立
てたり、イライラしたりすることもあるでしょう。

そういう時に、目をつりあげたり顔をしかめたりして相
手に感情をそのままぶつけるのか、それとも、ひと呼吸
おいてニコッとするのかで、そこから展開していく世界
は全く違ったものとなります。

眉間にしわを寄せる世界からは、まわりと自分の心をよ
り傷つける苦しい世界しかありません。笑うことで明る
い世界が広がっていきます。

心をやわらかくして、笑顔とやさしい言葉を心がけまし
ょう。子ども、お年寄り、男性、女性に関わらず誰もが
出来ることです。

まず、相手が幸せになれるよう祈りながら自分から笑い
かけてみてください。そうすれば、自分の心も自然と明
るくなることでしょう。

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2015/07/11~20   相承~受け継ぐ

講師 徳島県 城満寺 田村航也師

能登半島に峨山道(がさんどう)と称ばれる古道があり
ます。太祖瑩山禅師(たいそけいざんぜんじ)さまのお弟
子さま、峨山韶磧禅師(がさんじょうせきぜんじ)さま
にちなんだ道です。

峨山禅師さまが、能登の總持寺と永光寺の住職を兼務さ
れていた時、住職として両方のお寺の朝のお勤めに参加
なさるために、片道53kmもの道のりを走って間に合
わされたというお話が伝えられております。

峨山道は、その時に峨山禅師さまが走られた道です。

去る5月17日、「峨山道トレイルラン」という大会が
あり、私も峨山禅師さまの走りを体験するために、参加
してまいりました。

46km地点で時間切れという結果でしたが、峨山禅師
さまと同じことをすることにより、いろいろなことが感
じられました。

先が遠くても進み続ける強い意志。それは、住職するお
寺と修行する弟子たちへの強い思いがあってこそですし、
また途中で出会うさまざまな人や動物、山や川との心の
通じ合いであったと実感しました。

私たちの人生の旅路も長く、時には進む先を見失って迷
ってしまうこともあります。そのような時こそ、身近な
仏さま、菩提寺のご開山さまや、ご自身のご先祖さまに
手を合わせ、その辿られた道や、教えてくださった道を
自ら体験し実践してみてはいかがでしょう。

仏さまがたは、私たちが人間として生きるべき道を指し
示してくださっています。必ず何らかの道が開けるに違
いありません。

瑩山禅師さまは仏道をお伝えになって峨山禅師さまの道
を開き、峨山禅師さまはさらに多くのお弟子さまたちの
道を開きました。

道が伝授されることを「相承(そうじょう)」と呼んで
いますが、身近な仏さまに道を開いていただくこともま
さに、「相承」そのものと言えましょう。

菩提寺のご開山さまやご先祖さまの教えをもう一度思い
出し、実践して、自分も他の方々もみんな幸福に人生を
歩めるように、受け継いでいきたいものです。

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2015/06/21~30   心を育てる

講師 愛媛県 實法寺 石井一孝師

「陰徳を積む」という言葉があります。面倒だと思う心
を捨てて、人知れず善い行いをしたり、人が嫌がること
を率先して行うことを言うのですが、残念なことに最近
はあまり耳にしなくなりました。

私が住職をつとめるお寺のお檀家さんで、毎月お墓参り
に来られる方がおられます。その方は、高齢になりタク
シーで来られ、タクシーを降りるとシルバーカーを押し
ながらお参りをされます。

帰り際にはいつも「ゴミを捨てるときは、きちんと袋に
入れて出してくれれば良いのに」と言いながらゴミ捨て
場をきれいに掃除してお帰りになられます。

そのお姿はとても穏やかで、思わず手を合わせながら、
「いつもありがとうございます。お気をつけて」と見送
らせていただいております。

汚れた場所を掃除すると言えば、「トイレをきれいに掃
除したら、トイレの女神様みたいにきれいになれる」と
話す亡き祖母を追想した『トイレの神様』という曲が数
年前にヒットしました。私はこの曲を初めて聞いたとき、
同じようなことを祖母から聞かされながら掃除したこと
を懐かしく思い出しました。おそらく、日本中に私と同
じような思いを抱いた方が大勢おられてヒットにつなが
ったのではないでしょうか?

ちなみに、曹洞宗ではトイレのことを『東司=とうす』
と申します。修行道場では、毎日朝食後に掃除を行いま
すが、制中(せいちゅう)という特別な修行期間中は、
修行僧の筆頭に立つ首座(しゅそ)と呼ばれる雲水が朝
に晩に率先して東司掃除に向かいます。

ゴミ捨て場やトイレは汚れやすい場所であり、きれいに
掃除されているのを見ると心も軽くなります。しかし、
いざ自分が掃除をするとなると、汚いから、面倒だから
と、敬遠してしまう場所でもあります。

面倒だと思う心を捨てて陰徳を積めば、心が綺麗になり、
心が綺麗になれば、容姿も綺麗になります。街を歩いて
いるときや、信号待ちのわずかな間も、スマホの画面ば
かりのぞき込んでいるような現代人に、一番欠けている
ことかもしれません。

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2015/06/11~20   日日是好日

講師 高知県 元亨院 宮本隆弘師

先日、あるラジオ番組で、アナウンサーが「早いもので
もう6月です。あっという間に、今年も折り返しの月で
すねえ」と話していました。

そういえば子供の頃、年配の方が「一年が過ぎるのは早
いね」と言われるのをよく耳にしました。けれども、最
近私自身も月日が経つ早さを実感するようになり、アナ
ウンサーの話しに「なるほどそうだなあ」と一人うなづ
いたのでした。

それから今年1月からのさまざまな出来事を思い返して
みました。すると、ふと、ある言葉が頭の中に浮かんで
きたのです。

それは、禅語の「日日是好日」という言葉です。

文字をそのまま読むと「日々、すなわち毎日が、好日、
無事で良い日」という解釈になります。

しかし、仏教では、「今という時間は、後にも先にもこ
の一瞬しかない。その『今という時間をどのように過ご
していくか』ということが大事なのであり、大切に過ご
す時間こそが好日である」というように解釈されます。

この言葉を説明するのに、よく使われる例えでお天気が
あります。

一般的に良い日と言えば、気持ち良く晴れた日のことで
雨の日は悪い日のように考えてしまいます。しかし、晴
れた日がいつまでも続くと水不足になり困ってしまいま
す。日照り続きの時に雨が降ると恵みの雨と言って喜び
雨の日が良い日になります。

そんな、自分の都合次第で良い日、悪い日を決めてしま
うのではなく、晴れの日には晴れの日に出来ることをや
り、雨の日には雨の日に出来ることに取り組んでいくこ
とで、その一日を良い日にしていくのだということです。

梅雨に入り、雨の日が多くなりますが、外では紫陽花が
色とりどりに咲いています。この色とりどりの紫陽花を
愛でることも梅雨時期にしかできない楽しみの一つです。

このように何気ない日常の暮らしでも少し見方や考え方
を変えてみる事で、嫌なことも良い方向へ向かうヒント
や経験となるでしょう。

皆様にとって今日一日が、日日是好日となりますように。

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2015/05/21~31   水無月と環境

講師 香川県 報四恩精舎 野田大然師

新緑の季節を終え、まもなく梅雨に入ろうとしています。
6月は陰暦で「水無月」と言い「水が無い月」や「水の
月」と言われ、由来には諸説あります。梅雨で天の水が
なくなる月や梅雨が明けて水が涸れてなくなる月、田植
で水が必要になる月といった解釈がありますが、いずれ
にせよ『水』に深く関わる月です。

水はわれわれ生物が生命を保つ上で、もっとも重要不可
欠な物質です。

人間の体はほとんど水でできており、体内にある水はお
よそ70%と言われています。体内から水がなくなって
しまえば、それは死を意味することになります。

人は1日に約3リットルの水分が必要と言われ、世界人
口70億人で換算すると毎日210億リットルも必要に
なります。水なくして生きていけません。

しかしながら、工業排水や生活廃水などによる水質汚染
は進む一方です。

水は限りある資源のひとつです。この水について考える
のが6月なのかもしれません。

曹洞宗の大本山永平寺の正門には『杓底一残水 汲流千
億人(杓底の一残水流れを汲む千億人)』と刻まれてい
ます。開祖道元禅師様は、柄杓の底に残った水さえも粗
末にすることなく、元の川の流れに戻したという逸話に
基づいていると言われております。

曹洞宗では人権・平和・環境をスローガンに様々な社会
活動を行っております。その中で、地球環境をまもり自
然とともに生きていく「グリーン・プラン」運動を展開
しています。

毎日の生き方の上でどのようにモノを大切にし、環境を
守る生活が送れるのか、という生活実践の輪をひろげる
ことを、曹洞宗の環境運動の中心課題としています。

環境破壊による大気汚染物質が雲となり、それを含んだ
強い酸性の雨が降っています。この酸性雨で森林や河川
などは大きな被害を受けています。

私たちにできること、それは限りある資源を大切に、節
水を心がけ、環境を常に意識することです。

環境破壊の進行を防げることは、私たち一人ひとりの意
志に委ねられています。

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2015/05/11~20   怒るよりは、喜ぼう

講師 愛媛県 法性寺 三好眞一師

私たちの日常の暮らしには、笑ったり、怒ったり、いわ
ゆる喜怒哀楽の感情というものが、働いております。
お釈迦さまが戒めておられることが一つあります。その
一つとは・・・。

そうです、喜怒哀楽の怒、「怒る」です。怒るとは、怒
りの感情のままに、それを相手に一方的にぶつける行為
です。

怒られて気分のいい人は、まずいないでしょう。怒られ
た人だけでなく、怒った人にも心の中に何かイライラや
モヤモヤとしたものが残ってしまいます。

お互いに厭な気持ちになってしまう。それが「怒る」と
いうことなのです。

では、日々の生活の中で、心豊かに過ごすためには、ど
うすれば良いでしょうか。

喜怒哀楽の「怒」と対になる文字は「喜」ですね。つま
り、「喜ぶ」ということを多くしていけば、何げない日
常が楽しくなるのではないでしょうか。

同じ「喜ぶ」でも、自分一人で喜ぶのではなく、自分以
外の他人と共に喜ぶと、より楽しくなります。そして、
自分の周りの人のことを喜ぶだけでなく、自分とはあま
り関係ないかもしれない人のことも喜んであげることも
お勧めしたいのです。

しかしながら、最近目にしたり、耳にしたりする出来事
は、気持ちが沈んでしまうような事柄が多く、中々、喜
ぶという気落ちになれないかもしれません。

そんな時には、特別なことでなくてかまいません。身近
にある、ほんの些細なことで良いのです。何事も、いき
なり大きなことはできません。日常の小さな喜びの積み
重ねが、やがて大きな喜びになっていくのです。

ですから、身近なところからでかまいせん。小さな喜び
を共に喜ぶように心がけましょう。心豊かな毎日を送る
ために、今日から、今から、始めてみませんか。

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2015/04/21~30   サクラサクラ

講師 高知県 予岳寺 濱田道圓師

日本人にとって春の花と言えば、なんといっても桜では
ないでしょうか。桜は、花の壮麗な姿と、散り際のはか
なさ故、日本人の心情に深く訴えるものがあります。

そんな桜の花が日本列島を彩っていた四月八日(因み、
この日はお釈迦さまのお誕生日です)。天皇皇后両陛下
が先の大戦において亡くなられた人々を慰霊し、平和を
祈念されるため、パラオ共和国をご訪問になりました。

激戦地ペリリュー島をはじめ、アメリカ軍の慰霊碑にも
足を運び、御供花になりました。

このペリリュー島に次の様な話があります。

戦時中、日本軍が進駐し、島民と共に陣地を築きました。
その過程で、日本軍と島民は共に日本の歌を歌い交流を
深めます。しかし、戦況は悪化。仲良くなった島民たち
は、我々も日本軍の一員として戦わせて欲しいと守備隊
長に願い出たのです。

ところが、それを聞いた守備隊長は厳しい口調で拒み、
更には島から出て行けと言い渡しました。島民たちは、
仲良くなったのは偽りだったのかと落胆しました。

悔し涙を流しながら船に乗り、離れていく島を悲しい思
いで眺めていた島民の目に、ある光景が飛び込んできま
す。

砂浜に守備隊長をはじめ、顔なじみの日本兵が総出で大
きく手を振って、笑顔で見送ってくれていたのです。

その兵士たちの姿を見て島民たちは気付きます。自分た
ちを島から追い出したのではなく、近いうちに過酷な戦
場になるであろう島から避難させたかったのだと。

後に、激しい抗戦の末、玉砕した日本軍のペリリュー島
からの最後の電文は「サクラサクラ」でした。

愛おしい家族、恋人、苦楽を共にした仲間、そして、懐
かしき故郷。戦争は、大切な全てを奪い、引き裂きます。
敵味方関係なく、苦しみをもたらすのです。

今ある命、今ある平和に感謝しつつ、なお続く世界中の
戦火が一時も早く止むことを祈らずにはいられません。

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2015/04/11~20   不安を払う

講師 愛媛県 慶正寺 長岡一路師

いま、世の中を漠然とした不安が覆っていると耳にしま
す。

人生の悩みや不安を払うために出家され、その具体的な
実践法を伝えて下さったお釈迦様の遺徳を受けきれない
我が身が情けない限りです。

4月8日のお釈迦様のお誕生日は「花祭り」としてお祝
いをしますが、「花祭り」をもっと浸透させようと花屋
さんとタイアップした動きもありましたが、認知度はい
まひとつというところでしょうか?

しかし、仏教に深く傾倒された一般の善知識と出会うこ
ともしばしばあり、励まされることもあります。

最近、テレビでも活躍されている精神科医の本と出会い、
心に遺りましたので紹介させて頂きます。

一日のうち(できれば一日の始まりに近いところで)掛
け値なしに爽やかな一瞬をつくり、毎日繰り返すことで
例え問題や悩みがあっても、日々の生活が劇的に変わる
のが、人の有り様だそうです。

その爽やかさを感じる方法とは、ささやかなことでも、
同じ事を繰り返す事だそうです。

まさにその筆頭が「行=ぎょう」だということです。

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2015/03/21~31   悲しみを乗り越えて

講師 愛媛県 禅正寺 林 証道師

東日本大震災から四年が経過しました。

振り返れば、2011年3月11日、いつもの朝を迎え
た私達は、その日起こる大地震を知ることもなく、いつ
もの日常を過ごしていました。
しかし、午後2時46分。突如として私達を襲った大地
震と大津波。一瞬にして、多くの人の命が奪われました。

あれから四年、日本各地、世界各国から支援の手が差し
伸べられ、復興も形として現れてきました。

しかし、どんなに支援を受けても、失われた命は戻って
来ることはなく、残された人々は、悲しみを背負い生き
ていかなければいけません。

私達のお勤めに、葬儀を終え百日を迎えた故人に対し行
われる「卒哭忌」という名称の法要があります。
卒は卒業の卒。哭は慟哭の哭。そして一周忌三回忌など
で用いる忌。つまり、悲しむのはもう終わりにしましょ
う、故人の物を整理しましょう、という意味を含んだ名
称の法要です

しかし、かけがえのない人の命を失った悲しみは、卒哭
忌の法要を営んで壱日が過ぎたからといって、けして癒
されるわけではありません。永別の悲しみを乗り越えよ
うと、必死で何かに集中したり、体を動かしてみたり、
様々な方法で気持ちの整理をつけようとしますが、悲し
みは何度も心を襲って人を苦しめます。

東北の皆様の一日も早い復興を願い、この悲しみを共に
乗り越え、笑顔で真の復興を果たせる日まで私達は支援
を送りたいと思います。

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2015/03/11~20   お彼岸によせて

講師 香川県 祥福寺 本山良宗

私たち人類の歴史は、地震や津波、台風、飢饉、疫病、
戦争と、さまざまな苦難の歴史でもあります。それは同
時に、愛しい人、親しい人、大切な人との辛い別れの連
続でもあったはずです。

しかし、私のご先祖、あなたのご先祖は、どんなに辛い
ときであっても、生きよう、今を生きよう、今日を生き
よう、明日が来るなら明日を生きようと、懸命に生き抜
いてきました。だからこそ、今ここに、私がいて、あな
たがいるのです。

そうです。私たち一人一人は皆、苦難の歴史の中で、た
だの一度も途切れることなく紡がれてきた命の末裔だと
いうことです。

そんなお互いであれば、なおのこと、今この時を、この
一日を、たいせつにすごしていかなければと思うのです。

春のお彼岸がまいります。途絶えてしまった命、受け継
がれてきた命、全ての命に思いを寄せて掌を合わせまし
ょう。

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2015/02/11~20   涅槃会(ねはんえ)

講師 愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

2月15日はお釈迦さまが亡くなった日です。多くのお
寺では、涅槃図といって、お釈迦さまが横になられ、お
弟子さんたちとお別れをされている絵図をかけ、徳を慕
い報恩感謝の涅槃会法要を厳修致します。

今からおよそ2500年前、お釈迦様は80歳のご生涯
を終えられました。

35歳でお悟りを開かれたお釈迦さまはその後45
年にわたり、人びとに教えを説く旅を続けられまし
た。

その間、多くの人びとがお釈迦さまの教えに導かれ、お
弟子や信者となっていきました。

その伝道の旅の最期の地となったのは、インド北東部の
クシナガラという所でした。

自分の死が近いことを察したお釈迦さまは弟子たちに、
「すべての事象は過ぎ去るものである。怠ける(なまけ
る)ことなく精進しなさい。」と、
最期の言葉を残し、静かに息をひきとられました。

精進とは努力し励むことで、最後まで続けることです。
己の体はもろく、すぐに老いる。病で伏すこともある。
死が突然訪れる。この苦しみで心を悩まされ、世をはか
なんでいてはならない。お釈迦さまは、時の移り変わり
をはかなんだり、物の色かたちが変わるのを嘆いたので
はありません。

その時その時が過去として過ぎ去ることに早く気づき、
日常生活の行いに対し、怠けることなく目的に向かって
努力する姿こそ人が今を生きていくことであり、自分自
身を磨くことだと教えています。
 
寒すぎる、暑すぎる、と言って仕事をしない人、おもし
ろくないと言って学校をさぼる人、今日はいいやと言っ
て次の日に仕事を残す人、怠け心にあぐらをかくことは
現在でも私たちまわりによく見かけます。

最近では「頑張らなくていい、無理しなくていい、でき
るだけの事をしたらいい。」ということもよく耳にしま
す。

しかし、本当にそれで良いのでしょうか?怠けていたり、
自分にできることだけをしているだけで、進歩や向上は
得られるのでしょうか?自分の希望を実現することはで
きるのでしょうか?

たしかに、時には休むことも必要ですが、「精一杯やっ
てみよう。くたくたになるまで頑張ってみよう。自分に
はその力があるはずだ。」と自らを励まし、目的を持つ
ときに生きる力が湧いてきます。歩みを進めてこそ、道
は開けてくるのではないでしょうか?

2月15日にはぜひ近くのお寺にお参りし、涅槃図を拝
んでみてください。そしてお釈迦さまの最後の言葉を思
い出し、今、命あることに感謝し、これからの生き方を
考える一時にしてほしいものです。

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2015/01/21~31   心の成長

講師 愛媛県 渓寿寺 金岡潔宗師

今年もすでに二十日余りが過ぎました。あっという間で
す。みなさんどのように過ごされましたか?

お正月は、大地と自然の大きな恵みを受け、やがて草木
が芽を出す時を迎えるので、『お芽でとう』というのだ
そうです。

皆さんの周りの草木は、芽吹きだしていませんか? お
寺の周りの草木は一日一日成長しています。

私達も、身体は生まれた時からどんどん成長しています。
しかし、心はどうでしょう。成長しているでしょうか。

残念ながら私は、まだまだです。どうしたら成長できる
のでしょうか。

ある本にこんな事が書かれていました。

よろこんで与える人間となろう
物があれば物を 力があれば力を
知識があれば知識を
みんなに与えよう
なければ自分の中に育てて与えよう
花は美しさを惜しまず
小鳥は楽しい歌を惜しまない
誰にでも 与える
与える時 人はゆたかになり
惜しむ時 いのちは貧(まず)しくなる
よろこんで与える人間となろう

と。

私達は、旅行などに行くと家族や知人にお土産を買いま
す。

その時、相手のことを思って「これがいいのでは」とい
うように決めます。その時、私たちの心には相手の顔が
浮かび優しい気持ちになります。

しかし、「貪り=むさぼり・瞋=いかり・痴さ=おろか
さ」によって、心は知らない間に汚れてしまいます。誰
にでも優しくするには、感謝の心がないといけません。

先日、御婦人から、今年、主人の十七回忌になるので、
お寺に連絡をと思っていたら丁度、お寺から案内が来た
ので、有難うございました。とお礼の電話がありました。

お元気なお声に、私は「お幾つになられましたか」と尋
ねると「九十一になります。毎日、感謝して生きていま
す。幸せです。」と話されていました。

そのお声から、楽しく幸せな暮らしぶりが、目に浮かん
できました。自分も何だか嬉しい気持ちで、電話を切り
ました。

感謝することは、お釈迦様の教えの根本です。お互いに、
まずは「有難う」の感謝から始め心を成長させたいもの
です。

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2015/01/11~20   身心一如

講師 愛媛県 宗光寺 岡 芳樹師

禅語とは、仏教の中の禅宗の文献に出てくる言葉です。
短い言葉の中に、禅の心が凝縮されています。

たくさんの禅語の中の一つに『身心一如=しんじんいち
にょ』という言葉があります。

身心一如の漢字は、シンと言う字は背の高さの身長の身。
ジンはこころという字です。イチは数字の一という字で、
如は女ヘンにクチと書きます、如しという字です。

この禅語の意味は、身体(からだ)と心は同じもので一
つです。という意味です。

私たちが日常的に使う『心身共に=しんしんともに』と
言う心身とは前後が逆となります。

それでは、何故心身という字が逆になるのでしょうか?
それは、心を育むには心よりも身体とその行為がより重
要であるという事を説いているのです。

例えば、お寺参りやお墓参りをする時も、多くの人が手
を合わせます。手を合わせた時、心の中に亡き人をより
身近に感じることができるのではないでしょうか?

私は三十代半ばになってから『身心一如』という言葉が
とても好きになりました。それは、何よりも解りやすく
実践し易かったからです。

ご法事や葬儀の際にも、鏡を見て少し綺麗に着物を着る。
身なりを調えて、少し早く準備を済ませて呼吸を調える。
背筋をのばして姿勢を良くしてお経をお唱えする。

自分の心を調えるのは、意味が曖昧でよく解らないと思
っていましたが、自分の服装や仕事に向かう姿勢は、自
分の気持ち次第でその日からすぐに変えることができま
した。

二十一世紀は心の時代と言われています。しかし、心の
在り方を見つめても具体的な答えが見つからない時もあ
ると思います。

そんな時には、『身心一如』。身体と心は切り離すこと
はできません。疲れた身体をちょっとひと休みをさせて
みてはいかがでしょうか?

身体を休める事により、考え方も前向きになり、心も明
るくなるかも知れません。

今日一日、あと半日だけでも、いつもより背筋をのばし
てみませんか?少し暖かい日ならばお墓参りをしてみま
せんか?

何かを少し行動にうつすだけで、今日の貴方の行為が、
貴方の心を変えてゆくのです。

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