坐禅...自らに向き合えば、新しい自分にきっと出会える!

書庫7 2021年1月~2022年12月

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書庫7 2021年1月~2022年12月の法話

2022/12/21~31   信仰が導く救い

講師 香川県 南隆寺 大石光昭師

五十歳を前にして亡くなったお母さんの13回忌のご法
事のあとで、その娘さんが車でお寺まで送ってください
ました。お寺に着いて車から降りようとすると、娘さん
がまだ何か話したそうでしたので「ああ、そうそうお父
さんがご寄付くださった仏具をご覧になりますか」と本
堂に招き入れました。

本堂に上がっていただき、その仏具に記してあったお母
さんのご戒名と、お父さんのお名前を見たとき、娘さん
の表情が少し変わりました。しばらくの間、じっと見つ
めていた顔をこちらに向けて「和尚さん、不思議な話で
すが、父は亡くなった母に救われました」と、少し目に
涙をためて言いました。

「母の病気が分ったとき、母のことはもちろんですが、
一人になる父が心配で心配でなりませんでした。父は何
しろわがままで、仕事以外は何一つできないような人で
した。ところが、母が亡くなってから、本当によくやっ
てくれています。てっきり飲んだくれになると思ってい
たのに、全く変わりました。そんな父が、最近こう言う
んです。『前は死んだかあさんが耳元で“ああしなよ。
それはいかんで”って囁いてくれているような気がして
たんが、今はわしが思いよんか、かあさんが言いよんか、
ようわからん。なんやら…かあさんとひとつになっとる
ような気がするんや』って。これ、父は母に救われてる
んですよね?」私が「そうですね」と頷くと、娘さんも
ただただうんうんと頷いていました。

娘さんが帰ったあと、私はいろいろと思いを巡らせまし
た。きっとお父さんは、最初は「かあさんや…。こんな
時、どうすればええんかなぁ?」「かあさんならどうす
るやろか?そうや、かあさんならこうするに違いない」
「こんなことしてたら、かあさんが心配するわ」と、寝
ても覚めても、何をするにも“かあさんなら…かあさん
なら…”と、亡き奥さまに問いかけ、亡き奥さまの思い
や願いを推し量りながら暮らしていたのでしょう。

でも、そうやって、毎日毎日、お仏前に坐り、手を合わ
せる年月を重ねる間に、いつしか、亡き奥さまとの対話
ではなく、「仏さまならきっとこうするだろう。仏さま
ならこんなことはしようはずがない。仏さまならこんな
風にはおっしゃらない」というふうに、自分の心や行な
いを仏さまと重ね合わせるようになり、やがて、「私と
いう仏が寝起きして、食事をして、喜んだり嘆いたりし
ている」と気付かされ、何一つ疎かにすることは出来な
くなったのだと思い至りました。それこそ、丁寧に丁寧
に、毎日を生きるようになられたのだと思うのです。

受け難き人身を受けてこの世に生まれ、奥さまに先立た
れることで遇い難き仏法に値い、このようなご縁にめぐ
り会えた。奥さまの供養を通して、ほんの一時も途切れ
ることなく、自分を見極めてこられたのだと思います。

この一年、安閑と過ごされた方もそうでない方も、来た
る年は『亡くなった父なら、母なら、尊敬するあの方な
ら、愛しい人なら…仏さまなら』という思いで、ひと言
ひと言、一歩一歩、一日一日を丁寧に積み重ねる生活を
心がけてみては如何でしょうか。

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2022/12/11~20   縁をつなぐ

講師:香川県 南隆寺 大石光昭師

新型コロナウィルスが蔓延してから、月によっては毎週
のように、日曜坐禅に新しい人が来るようになりました
が、なかなか続かないようです。

不謹慎なことですが、私はそういう人が来るたびに、同
じ坐禅作法を説明するのが、だんだん面倒になりました。

そこで、問い合わせの電話を受けたときに「一度坐った
ぐらいでは足が痛いばかりで、それっきりになります。
せめてひと月ぐらい、まあ四~五回は続けるぐらいの覚
悟でお出でて下さいね。」と付け加えるようにしました。

すると、「毎週は無理なので、少し暇になったら」と尻
込みをして、電話を切る人が増えました。内心「やれや
れ」といった気分でしたが、ずっと罪悪感といいますか、
後ろめたさを感じていました。

新居浜市の瑞應寺での修行時代、楢崎通元老師にお諭し
頂いた、次のようなお話しがあります。

お釈迦さまが、祇園精舎にやって来た酔っぱらいの願い
を受入れ、出家、つまりお坊さんになることを許可し、
髪を剃り、法衣をまとわせました。ところが、あくる日
になって酔いが覚めた男は逃げてしまいます。なぜ酔っ
払いを出家させたのか訪ねる弟子たちに「いま、ここで
形だけでも出家させておくと、いつかそれが「縁」とな
って本当のお坊さんになろう、と思う日がきっとくる。
良い種をまいておくことが大切だ。」とおっしゃったそ
うです。

この話は、大智度論というお経や、永平寺を開かれた道
元禅師さまの正法眼蔵(出家功徳の巻)にも出てきます。

この話をされながら、楢崎老師は「縁あって頭を剃り、
お袈裟を掛け、僧堂(修行道場)で寝起きをさせてもら
っている。それは、たとえ嫌々でも、本当に有り難く大
切なことだ。だからしっかり勤めなさい。」と諭し励ま
してくださったことがありました。

昨年の秋、瑞應寺へお伺いした折に、老師のお部屋にお
邪魔して、「香川の南隆寺です」と申し上げると、「お
うおう、清磨(せいま)さんか」と、40年前に亡くなっ
た私の父の名前を呼びました。私の名前ではなく、父の
名前を呼んでくださったことを、なぜか私は少しうれし
く思いました。

そのあとで、通元老師は「一枚書いて差し上げたら?」
と、ヘルパーさんに促され、丁寧に20分ほどもかけて
短冊を一枚書いてくださいました。

そこにはこう書かれていました。『損か得か人間の尺(
ものさし)』。その短冊を頂戴した私が「これは・・?」
と老師のお顔をのぞき込むと「さあ・・」と仰ってにこ
にこされていました。

しかし、坐禅会のことが気にかかっていた私は、ハッと
しました。目の前の通元老師と40年前に亡くなった父
に「今のお前じゃ!」と言われたような気がしたのです。
今年7月、97歳でご遷化された楢崎通元老師が私にく
ださったご遺言のように思っています。

私は、「お坊さんであるにもかかわらず、私の方から大
切な縁を断ち切っていた」と大いに反省しています。何
をするにも『損か得か人間の尺(ものさし)』と口の中
で唱えながら、坐禅作法の説明も懇切丁寧にさせて頂い
ております。

坐禅をしてみようと思う、お経に興味を持つ、お寺やお
墓のお参りをしようと思う・・・などなど、たとえ三日
坊主でも結構なのです。先ず一歩を踏み出して、「縁」
をつないでおくことが大切なのです。皆さんも新しい年
に向け、今第一歩を踏み出してみては如何ですか。

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2022/11/21~30   「つぶやき」も「愛語」に

講師:徳島県 城満寺 田村航也師

私が学校に通っていた頃には、携帯電話もまだありませんで
した。ですから、携帯やネットでのメッセージのやり取りは
存在せず、出会っている時だけの会話でした。もちろん電話
はありましたが、必ず相手のお母さまなどが出ますので、子
供なりの恥ずかしい思いを何度かした覚えがあります。

学校で面と向かってする会話でも、他の人のうわさ話や陰口
などが時々出回りました。ある時友達が、他の子の失敗を話
題にして陰口をたたいていましたが「そんな話、やめろよ!」
と、一人が大きな声で止めました。話していた子は、ばつが
悪そうな表情でしたが、私はすっかり感動して、そうだ、陰
口なんか面白くない、と嬉しくなったのを覚えています。

他の人の過ちをあげつらうことを、お釈迦さまは重く戒めら
れました。そして、愛ある言葉、幼子に対するように、慈愛
を込めた言葉を語ろう、とすすめました。これを「愛語」と
いいます。

今の世の中は「愛語」を考えにくいものになりました。とい
うのも、先ほどの陰口の話や、携帯電話でのメッセージは、
誰かに向けた言葉なので「愛語」になっているかどうかもま
だ、考えやすいでしょう。しかしながら、近年、インターネ
ット上に流れている言葉は、面と向かっては言えない独り言
のような「つぶやき」であったり、ニュース記事などに反射
的に発しただけのような「コメント」や「書き込み」が増え
てきたのです。

それでも、「つぶやき」や「書き込み」も言葉ですから、誰
かがそれを見れば、その言葉を受け取ることになります。誰
にも聞かれずに消えてしまう独り言と違い、その人に向けた
メッセージとなるのです。ひどい言葉の「書き込み」は、落
書き行為と同じように、多くの人を傷つけることになります。

言いたい、書きたい、という気持ちに乗る前に、一度立ち止
まって、慎重に自分の言葉を確認してみましょう。その言葉
は、話の本人にプレゼントできるものですか?その言葉は、
愛情を込めたものですか?その言葉は、本人のためを思って
いるものですか?その言葉は、本人の立場や気持ちになって
のものですか?

「書き込み」の言葉も、投げ捨てず、大切にして、「愛語」
としてまいりましょう。言葉を受け取る方が、大きな幸せに
包まれますように。

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2022/11/11~20   日々の言葉

講師:徳島県 城満寺 田村航也師

私が主宰している坐禅会に参加している方が、面白いこ
とをおっしゃっていました。この方は常々、仏教の言葉
は難しい、もっとやさしく説明してほしい、実感が持て
るようにしてほしい、とおっしゃっている方です。

ちょうどその日、私がしていたお話は、「南無帰依仏」
という、仏教のはじめの一歩のお話でした。

「南無帰依仏」というのは、私たちを幸せに導いてくだ
さる、お釈迦さまをはじめとした「仏さま」を、私たち
の生き方の拠り所とすることです。お釈迦さまを心の拠
り所として頼ります、仏さまを心の拠り所として頼りま
す、という決意を述べる言葉です。

しかしながら、このように説明しても、なかなか実感が
わきませんね。坐禅会のこの方も、その気持ちだったよ
うです。そこでゆっくりと話し合います中で、その方が
このようにおっしゃいました。「南無帰依仏というのは、
つまり、人生を導く師匠を信じます、ということでしょ
うか?」

なるほど、分かりやすいし、実感もわく、すばらしい言
葉です。「人生を導く師匠」とは、ここでは「私も皆も
幸せに導く仏さま」のことですね。「人生を導く師匠を
信じます」という分かりやすい言葉は、細かい点では至
らないこともあるでしょうけれども、これはこれで実感
のこもった良い言葉だと思いました。

そういえば、お釈迦さまも、次のようなことを弟子たち
にお示しになられています。「私が今話している言葉に
こだわる必要はない。聞く人が分かる言葉で教えを伝え
なさい」と。だからこそ、お釈迦さまの教えは、いろい
ろな言語で記憶され、さまざまな語り口で伝えられてき
たのです。聞く相手の立場に立って、聞く方の気持ちに
なって、言葉をかける。相手の方を思いやるという意味
で、慈愛に満ちた言葉をかける菩薩の行、「愛語」とな
ると言えるでしょう。

私たちの日々の言葉は、「愛語」となっているでしょう
か。言葉というものは、語る人だけのものではなく、聞
く人あってのものです。今一度、私たちの日々の言葉を、
見直してみましょう。

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2022/10/21~30   感謝の念(おもい)を忘れずに

講師:高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

実は私、この一・二年、病院通いをしております。通院
するのに片道およそ一時間かかりますので、昼食は病院
内の食堂で済ませることが多くなります。きょうは、そ
の食堂で感じた、あることについてお話をさせていただ
きます。

その、あることとは、皆さん何だと思われますでしょう
か?食堂でのことですから、ああそうかと、ピンと来た
方もおられるのではないでしょうか?そうです、食事を
する前、食事を終えた後の、あの言葉です。

ご家庭にあっては、ほとんどの方が当たり前のように言
われてるとは思うのです。食事の前の「いただきます」
そして終わった時の「ご馳走さまでした」。

ところが、それがいざ、外食となると、恥ずかしさから
なのでありましょうか、ほとんど聞こえてこないのです。
唇だけがもごもごと動いているだけで、言うているのか、
言うていないのか分からないという方が殆どなのであり
ます。「いやいや、そんなことはない。私はちゃんと言
うておる!」というお方もおいでではありましょうが、
殆どの方は、言うているとしても、小さく消え入るよう
な声で、なのではないでしょうか?これはいったい、何
故なのでありましょうか?

私は決して、我が宗門の経典に載っているような、食事
の際のお唱えごとをしましょう!と、言うているのでは
ありません。

ただ、目の前に出された食事は、そのすべての食材を命
として口に運ぶのです。昨日まで、あるいはつい先ほど
まで生きていた、そんな食材の数々の命を、今をそして
明日を生きる私たちの血や肉になるが為に、いただくの
ですよね? 『食材への感謝』。それが先ず、大事なこ
との第一点です。

そして大事なことの第二点目が『作ってくださる方への
感謝』です。食事は、家庭ならば家族の誰かが作ってく
れる訳です。外食の場合は、お金こそ支払いますが、コ
ックさんが、一所懸命に腕を振るって作ってくださって
いるんですよね?コックさんには、きちんと代金を払っ
ているのだから言わなくても良い・・のでしょうか?!
やはり、大きな声ではなくても、小さな声で結構ですか
ら、はっきりと、「いただきます」「ご馳走さまでした」
と、言いたいものであります。
 
ところで皆さん、伊達政宗という方をご存じでしょうか?
加賀藩前田家・薩摩藩島津家などと並ぶ仙台藩伊達家の
初代藩主です。この伊達政宗公が、つぎのような言葉を
残されています。

「この世に客として来たのなら、何の苦も無し。朝夕の
食事は、旨からずとも、褒めて食うべし。元来、客の身
なれば好き嫌いは申されまじよ」と。

初めてこの言葉にふれたとき、さすがは歴史小説や大河
ドラマでも有名な伊達政宗公、独眼竜政宗の異名を持つ
お人の言葉だなあと感じ入りました。

そこで、先ほど少しだけふれた、我が宗門の食事の前の
お唱え事の話に戻ります。

食事の前のお唱え事の中には、食事をいただく際の心づ
もりを示した『五観の偈』といわれる五か条のお唱え事
があります。そのお唱え事の四番目に、『正に良薬を事
とするは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり』
とあり、『食事をする事は薬を戴くのと全く同じである。
我々のこの体を造り、今を生きる私たちの命が絶えたり
しないが為に戴くものである』と教えております。

さらに、五番目のお唱え事では『成道(じょうどう)の
為の故に、今、この食(じき)を受く』とあり、『自分
自身の道、本分を全うし、よりよき人間として生きてい
くが為に、今、この食事を戴くのだ』と教えております。

この『五観の偈』を念頭に置いて、先程の伊達政宗公の
言葉「この世に客として来たのなら何の苦も無し。朝夕
の食事は、旨からずとも、褒めて食うべし。元来、客の
身なれば好き嫌いは申されまじよ」を振り返ると、「い
ただきます」「ご馳走さまでした」という言葉の大切さ
があらためて心に響いてまいります。

いつ、どこでいただく食事であっても、「いただきます」
「ご馳走さまでした」という感謝の念を忘れないよう、
口にしたいものであります。

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2022/10/11~20   人間、自分勝手が得意な生き物だけど…

講師:高知県 淨貞寺 伊藤正賢師

皆さんもお気付きのことと思いますが、ややもすれば得
手勝手な物言いや行いをとりがちなのが、我々人間です
ね。折々に、そんな得手勝手な自分に気付いたことはご
ざいませんでしょうか?!そこで、今日はその部分に焦
点を当ててみようと思います。

とはいえ、これはけして他人ごとではありません、この
私も家族からの頼まれごとを後回しにしていて催促され、
「しまった!」と思いつつ「やろうと思っていたんだが」
と言い訳をしたり「別の人に頼んでくれれば良かったの
に」などと言い返し、「ああ、自分勝手なことを言うて
しまったなあ」と反省することが再々なのであります。

「いや、そんなことはない。私は、世のため、人のため
にと心がけ、どんなときもお先にどうぞと務めている」
という方もおられるかもしれませんね、羨ましい事です。
…とまあ、これもこれで、嫌味たらしい、得手勝手な私
の言い分ですね。

そんな得手勝手なことの中でよく聞く例え話が、「雨が
降れば晴れを願い、晴れが続くと雨を願う」…とか「忙
しい時には忙しいと文句を言い、暇な時は暇だと愚痴を
言う」。これは言い換えれば、自分の都合を優先させて
いるということですよね?こういったことは、皆さん方
も大なり小なり、一度や二度は、身に覚えがあるのでは
ないでしょうか?

そこでこんな詩を見かけたので、かいつまんで紹介いた
します。少し耳を済ませて聴いて頂ければ幸いに存じま
す。「おかげさま」という題の詩で、著者は「かみどこ
ろじゅうすけ」さんという方です。ずばりと人間の本性
を突いておられます。聞きながら、耳が、心が、痛い処
の一つや二つはあるハズです。

『夏が来たら 冬がええといい
 冬になりゃ 夏がええと言う
 借りた傘も 雨が上がれば邪魔
 金を持ったら 古びた女房も邪魔
 所帯持ったら 親さえも邪魔
 誰も彼も どこもかしこも
 カサカサ乾ききった
 味気ないこの頃
 ~中略~
 不平不満 愚痴ばっかり
 何で自分を見つめないのか
 静かに考えてみるがええ
 一体自分って何やろう
 親のおかげ 先生のおかげ
 世間様のおかげ 
 おかげの塊が自分やないか
 いくら長う生きても
 幸せのど真ん中にいても
 おかげさまが見えなけりゃ一生不幸』

さて、皆さんお聞きになられてどうでしたでしょうか?
耳が痛く成りませんでしたか?いやいやけして他人ごと
ではなく、この私、耳どころか、こころが痛く成ってし
まいました。 人間って本当に得手勝手なものですね。

自分は違うと思った方も、全部が全部ではなくとも、ど
こか似通った部分はなかったでしょうか?心の中の不平
不満を全部取り払ってみて、自分に何が残るのか?残っ
た自分は、どんな自分なのか?自分を見つめなおしてみ
ることも大切なことだと思うのです。  

お釈迦さまが法句経に、次のようなお言葉をお示しです。
『善をためらっていては、心が悪を楽しんでしまう』と。
私たちはそれだけ弱い人間だということですね。ごみが
落ちているのを見つけても、まあいいや、誰かがそのう
ち拾うだろうって思って放置したことはありませんか?
誰かが泣いていても、いずれ泣き止むだろうと、見て見
ぬふりをしたことはありませんか?そうやっていると、
いずれ心にサボり癖がついて、誰かの為にという優しさ
を失ってしまいます。

お釈迦さまは『いつなんどきであっても、やるなら”今”
なのです』と、説いて下さっているのですね。「かみど
ころじゅうすけ」さんの歌のような自分に成らないため
にも"いま"を大切に、今の自分を生かし切って行動して
欲しいと願っています。かく申すこの私も、今日から今
から、心して過ごしてまいりたいと思います。

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2022/09/21~31   同事といふは不違なり

講師:愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

私が二十代前半。北海道のお寺でお世話になっていた時
のお話です。春の遅い北海道で、桜の花が満開になった
5月頃のことでした。ある檀家さんのお家へ、お子さん
の七回忌のご法事に伺ったときのことです。

そのお家には、毎月一回、お参りに行っていましたので、
10代後半の息子さんが交通事故で亡くなったことは知
っていました。また、その檀家さんも私が愛媛県からお
坊さんとしての勉強をしにきていることや、一人暮らし
であることも知っておられましたので「ご飯食べてる?
困ったはことない?」と、よく声をかけて頂きました。

七回忌の当日、読経を済ませ、お話をしようと思い振り
返ると、ご両親は合掌した手をおろすことなく、息子さ
んの位牌を見たまま、涙を流していました。七回忌を迎
えてもなお、心から愛する子供を失った悲しみにくれる
姿がそこにありました。その姿を目の当たりにしたとき、
人の世の無常や、命の尊さ、子供を亡くすという悲しみ
がどういうことか、様々なことが一瞬のうちに頭の中を
駆け巡り、私は言葉を失ってしまいました。

そんな私の姿を見て、お父さんは「うちの息子が交通事
故で亡くなった時から、毎日、仏壇の前で手を合わせて
います。七回忌を迎える今でも、事故のことや、子供の
ことばかりを考えてしまいます。それと同時に、他所の
親御さんには、自分たちのような悲しみにくれてほしく
ない。子どもさんには事故を起こさぬように、事故にあ
わないようにと、何度も何度でも注意をしてほしいとい
う願いもあります。隆弘さん、どうか、この悲しみと願
いが分かるお寺さんになって下さい」と、話されました。
 
自分の気持ちを分かってくれる人がいるということは、
本当に心強く安心できるものです。インターネットが急
速に普及したせいなのか、長く続く経済活動の停滞のせ
いなのか、近年とみに人間関係の希薄化が進んでいるよ
うに思われてなりません。今こそ、誰かに寄り添うこと
のできる仏道の実践が求められています。

道元禅師さまは修証義の中で「同事といふは不違なり」
とお示しになられました。「不違」とは「ちがわない」
ということ。他人を思いやる気持ち、相手と同じ気持ち
になるということです。自分のことだけを考えるのでは
なく、相手の立場になり、思いやりのある行動をとるこ
と。嬉しいときは共に喜び、悲しいときは共に悲しむ、
同事とは相手に寄り添い、共に歩もうとする姿勢であり
ます。

私は、『同事』という言葉を見るたびに今でも、「悲し
みと願いが分かるお寺さんになって下さい」という、あ
のときのお父さんの言葉を思い出します。

どんな人でも、苦しみや悲しみから逃れることは出来ま
せん。代わってあげることも出来ません。しかし、その
苦しみや、悲しみを、分かろうと思い、寄り添うことは
出来ます。相手を理解しようと心掛け、相手の立場にな
ろうと努力することができます。そういった思いやりの
心、思いやりの日送りをすることこそが、同時という道
元禅師のお示しに適うものなのではないでしょうか。
 
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2022/09/11~20   視野を広げてみましょう

講師:愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

拙寺の境内には、師匠である父が牡丹を植えています。
毎年四月頃、満開になるのですが、去年ぐらいから花
の咲きが悪くなりました。三十年程たっているので寿
命なのか、気候のせいなのかは分かりませんが、私た
ちではどうにもならず、庭師の方に牡丹の植え替えと
庭の整備をお願い致しました。

工事が始まり庭の良さもわからない私でも、綺麗に整
備されているなと、思うようになった頃、松山のお寺
さんが所要でお越しになりました。

工事中の庭を見て「牡丹の植え替えですか?花にも木
にも寿命があるからね」と話します。私は「師匠がこ
だわったみたいで以前から石庭として整備したかった
みたいですよ」と言うと「隆弘さん。お師匠さんは、
単にお寺の庭の整備ではなく、自己表現として庭を整
備したかったのだと思うよ。姿勢を正してよくこの景
色を見てごらん。この本堂から見える風景は素晴らし
いね。この庭の樹木や石も味があるけど、あの奥の神
社の緑、山の緑、空の青とのコントラストが素晴らし
い。お師匠さんの僧侶としての生き方がよく表れてい
るのではないだろうか?街中のお寺には街中の良さが
あるけど、自然が多いお寺には自然の良さがある。な
んだか気持ちがいい」と。

私はあらためて姿勢を正し呼吸を調えて、本堂から庭
を見渡してみました。先ずは、石は石、樹木は樹木そ
れぞれのよさや美しさに目を向けます。次に視野を広
げ全体を眺めて見ると、周りの景色によって石も樹木
も、すべてのものが繋がって、それぞれの美しさが発
揮されています。そうやってしばらく景色を眺めてい
たら、いつの間にか自分もそんな景色の一部になって
しまったようなとても穏やかな気持ちになりました。

日々の暮らしの中では、身近なことばかりに気をとら
れがちになります。多くの物ごとや情報に振り回され、
なかなか自分の心に目を向けることができなくなるこ
ともあります。

お釈迦さまはそんな私たちに智慧をもって生きること
を示されています。智慧とは道理を見きわめ、物事を
正しくとらえる力です。自然や社会の繋がりの中で生
かされているということを気づく力です。私たちは決
して独りで生きているわけではありません。お互いが
支えたり、支えられたり、支え合って生きているので
す。わずかな時間でも結構です。呼吸を整え静かに過
ごすひと時を持たれてはいかがでしょうか。角度を変
えたり、立場を変えたり、遠くを見たり、近くを見た
り、静かな気持ちで物事をとらえることで自分と向か
い合え、今までと違う風景に気づくことが出来るはず
です。

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2022/08/21~31   任に当たっては

講師:高知県 予岳寺 濱田道圓師

私がおりますお寺では、現在、お堂を建立中です。この
工事の中心となる棟梁はとても木に詳しく、一方ならぬ
こだわりを持った方です。

ひと口に木といっても、育った場所によって、全く違っ
た特徴があると伺いました。同じヒノキであっても、高
知産と有名な木曽産では含まれる油分量が違っていて、
木曽産は油分が少ないため、湿気の多い高知では水分が
入りやすく、建材にはあまり適さないと言うのです。

棟梁は、仕入れる木材のほとんどを製材された木材では
なく、丸太で購入しています。一本一本の木はそれぞれ、
育った山の方角や、場所、日の当たり具合などで、どれ
をとっても同じものはありません。

長年の経験で木の特徴や癖を見極め、丸太からの挽き方
を始め、節の把握と、木目の流れ、乾燥での狂いの予想
など細心の注意を払い工夫を凝らします。そして、それ
ぞれの特性にあった部材に仕上げて、工事を進めていき
ます。

それは勿論、建て主のために少しでも経費を減らすため
であるそうですが、同時に、丸太を製材した時に、自分
が思った通りの木材だったと喜んだり、予想と違ってい
て頭を悩ませたり、それらがおもしろくて堪らないとの
ことでした。

棟梁の話を聞きながら私は、ああ、木も、人も同じなん
だなあと思いました。生まれた時代や場所や環境など、
全てが同じという人は居らず、同じ人生もありません。
様々な影響を受けながら皆、その人その人の個性をもっ
て生きているのです。心根がしなやかな人、柔和な人、
真っ直ぐな人、頑固な人、さまざな人がいます。得手不
得手があってもそれは当たり前のことで、他と比べるも
のでは無いのです。

曹洞宗大本山永平寺を開かれた道元禅師様は「任に当た
って他に譲り難し」というお言葉を残されております。
自分が任された事、自分の実力で出来る事、自分の立場
の上ですべき事を、他の人に譲ることなく全うしなさい
という教えです。

近年問題になっているブラック企業や超過労働など、公
序良俗に反することは論外なのは申すまでもありません
が、「任に当たって他に譲り難し」と言われたとき、さ
て、自分の任とは何でしょうか?自分の出来る事、すべ
き事とは何でしょうか?

私に出来ないことを出来る人がいます。その反対に、私
に出来ることを出来ない人もいます。出来る人と出来な
い人、お互いがお互いに、自分の出来ることをして支え
合う。それこそが自分の任、自分のすべきことなのでは
ないでしょうか?お互いを敬い、認め合い、支え合おう
という気持ちを忘れないようにしたいものです。

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2022/08/11~20   因縁の生ずるところ

講師:高知県 予岳寺 濱田道圓師

近年、全国的に空き家の増加が問題になっております。
空き家のまま長らく放置されれば、様々な面で悪影響を
及ぼします。住む人を失った家が、すぐに傷むことは皆
様ご承知のことでしょう。

先日、私のおりますお寺に出入りして下さっている棟梁
から、こんな話を伺いました。

「空き家が傷むのは風が通らないこともあるが、人が住
まなくなったこと自体が原因なのだ」とのこと。詳しく
お聞きしますと、「日本建築は、床板や柱、鴨居、天井、
垂木など、いろんな部材が緻密に組み合わさって出来て
いる。人が住むことによって、人の重さや振動が、家の
構造全てに刺激を与えるのだ」と。

日本建築の家に、柱が無ければ、床が無ければ、鴨居や
天井が無ければ、建物の体を成さず、人は住めません。
しかし、どんなに完璧に建てられた家も、人が住まなく
なると刺激がなくなって、すぐに腐りや歪みが出て傷ん
でしまうというのです。

建物を中心に考えれば、人も、欠かすことの出来ない大
切な部材のひとつだということですね。

さまざまなものが、さまざまにつながっている。そして、
その中のどれ一つが欠けても、バランスが崩れてしまう。
このような繋がりを『縁』と言いますが、私たちの生命
も同じですね。私たちの生命そのものもが、父母の出会
いという縁に始まり、その父母も祖父母の出会いという
縁から始まっています。そんな縁の繋がりで私たちが生
まれ、さらに細かな網の目のような縁に支えられて、今
日まで生きてきた。いや、生かされてきたお互いなので
す。

仏教の言葉に「因縁所生」という言葉があります。因縁
(縁起)が生まれるところ、という意味になります。私た
ちは過去、そして現在のさまざまなご縁をいただいて、
ご縁に支えられて生きています。頂いているご縁、支え
られているご縁に気づいたとき、自ずと感謝の気持ちが
芽生えます。

では、その感謝は誰に、どのように、伝えていけば良い
でしょうか?それは、昨日からのご縁に感謝し、今日か
らのご縁を大切にしていくということに他ならないと思
うのです。私自身、あなた自身がこれからの未来の新し
いご縁の出発点となるのです。

お盆の好時節、お迎えしたご先祖さまの御前でこころ静
かに手を合わせ、感謝の念を忘れず、自分自身を良き縁
の生ずるところとしたいものです。

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2022/07/21~31   止まってくれてありがとう

講師:愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

先日、松山市内を車で走っていると、信号機のない横断
歩道を渡ろうと立ち止まっている人がいました。私が横
断歩道の手前の停止線で車を止めると、その人は走って
横断歩道を渡り、渡りきった後にわざわざ私の方を振り
向いて深々と頭を下げてくれました。

その人は20代から30代の男性に見えました。信号機
のない横断歩道で一時停止の車にお辞儀をする小学生は
よく見かけますが、成人の方からお辞儀をされることは、
あまり無いことだなと感じました。

「横断歩道は歩行者優先だから、車が止まるのは当たり
前」とか、「一時停止は車側の当然の義務だから感謝す
る必要はない」などと、大人になると、そういう感情が
邪魔してなかなかできないことかもしれません。

思いがけず頭を下げられたことで、そこには大事なコミ
ュニケーションが含まれているのだなと、あらためて考
えさせられた出来事でした。

歩行者と車だと考えれば法律や義務の話になりますが、
歩行者と運転者だと考えれば人と人との関係です。

道を横切ろうとする人がいたから車を停めた。横断しよ
うとする人にとっては、車が止まってくれてありがたい
と感じたからお辞儀をして下さった。お辞儀をして感謝
されたことで、とても清々しい気持ちになり、これから
も安全運転を心掛けようと思えた。もしかしたら、お辞
儀をして下さった方も、自分がしてもらったように誰か
にしてあげようという気持ちを持ってくれたかもしれま
せん。

お互いを思いやる感情の交換は、次の機会も相手のこと
を考えて行動しようという、きっかけも作ってくれるの
ですね。

仏教には「布施」という教えがあります。布施というと
お葬式やご法事の時に、お寺や僧侶に渡す謝礼を連想す
る方が多いと思いますが、本来それだけを示す言葉では
ありません。

お金や物でなくても、誰でも簡単にできる「布施」がた
くさんあります。「ありがとう」や「すみません」とい
う感謝の気持ちを伝えたり、優しい笑顔で接したり、気
配りや思いやりの心を示すことも「布施」です。些細な
ことでも、受け取った人は幸せで穏やかな気持ちになり
ます。簡単にできることですが、布施を実践する機会を
見逃していることが意外に多いのではないでしょうか。

相手を慈しみ敬う少しの意識と行動によって、素敵な人
間関係が積み重なっていけば、きっと穏やかな世の中に
なるはずです。「布施」の心を大切に、日々を過ごして
まいりましょう。

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2022/07/11~20   大人に成る

講師:愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

今年四月に成人年齢が二十歳から十八歳に引き下げられ
ました。明治初期以来の法律改正で、大人の定義見直し
は146年ぶりとのことですが、お釈迦さまの教えから
成人や大人について考えてみたいと思います。

お釈迦さまがお亡くなりになる際に弟子達に説かれた
「八大人覚」という教えがあります。大人(おとな)と
書いて大人(だいにん)と読み、正しく大人になる為に
自覚すべき八つの事柄が説かれています。

具体的には、①欲を少なくする②足りることを知る③心
を乱す雑音から離れる④努力精進を怠らない⑤正しい教
えを忘れない⑥心を静める⑦物事を正しく認識する⑧無
益な議論をしないことです。

近年、成人式で荒れる若者の様子を伝える報道が目立ち
ます。式辞や講演には関心を示さず私語に夢中になり、
市長や来賓に暴言を吐いたり、会場で飲酒して暴れたり、
騒動を起こして警察に逮捕される新成人もいるようです。

こうした報道がされると、「最近の若者は」とため息を
ついたり、「けしからん」と眉をひそめたり、未来を任
せることに不安を感じてしまったりしがちですが、先ほ
どの八大人覚に照らしてみると、そんな自分こそ、まだ
まだ大人になりきれていないことに気付かされます。
 
新成人は社会人としての権利を得て誇らしいと思う反面、
責任と義務を負ったことが不安でもあるでしょう。責任
のある大人になってほしいと私達は願いますが、新成人
の抱える重みも汲み取るべきではないでしょうか。

また、真面目な若者の方が多いはずなのに、ごく一部の
偏った報道により「荒れる若者」のイメージが作り出さ
れています。現実と乖離した報道に惑わされず、思い込
みを捨て、心を落ち着かせて物事を正しく認識すること
が大切です。勝手に悲観したり愚痴や不平を口にしたり
することは無益なことです。

成人式を夏休み期間に合わせて行う地域もあると聞きま
す。若者たちが成人を迎えたことを祝い励まし、主催者
も参加者、お互いが笑顔で過ごす思い出の一日にしても
らいたいものですね。

お釈迦さま最期のお示し「欲を少なく、足ることを知り。
心を乱すものから離れ、倦まず弛まず。正しい教えを心
にきざみ、心を調え。物事を正しく認識して、無益な議
論をしない」という八つの事柄、『八大人覚』に自らの
日々の行ないを照らせば、そもそも自分たちも大人にな
ったのかどうか、大人とは何かを自問することになりま
す。八大人覚の教えを我が身に念じながら、大人に成る
努力を日々実践していきたいものですね。

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2022/06/21~30   信仰からにじむ行ない

講師:香川県 南隆寺 大石光昭師

私は日曜坐禅会のとき、最初のおよそ15分、坐禅をし
ている人の眠気を覚ましたり、注意を促したりする『警
策=きょうさく』といわれる棒を持って坐禅堂の中を巡
ります。

先日の坐禅会の折、いつものように警策をもって歩いて
いると、履き物の底に何かくっついているのか、右足を
上げる度に「ペチッ、ペチッ」と音がします。坐禅の邪
魔にはなりはしないかと、通る場所をずらしたり、体重
移動を微妙に代えてみたりしたのですが、いっこうに音
はおさまりません。しまいに足の筋肉が強ばってくるほ
ど四苦八苦していたところに、雨が降り出しました。

するとどうでしょう、つい先ほどまであんなに堂内に響
いていた「ペチペチ」が雨音のお陰で一切聞こえません。
なんと歩きやすいことか、ホッとしました。

坐禅の後の茶話会では「雨音がとても心地よかった」と
か「帰りの傘のことが気になって集中出来んかった」と
か「気持ちよく落ち着いて坐れたわ」などと口々に感想
を述べ合っていました。

『聞くままに また心なき 身にしあらば をのれなりけ
り 軒の玉水』

こちらは道元禅師さまのお歌です。降る雨の音を聞こう
とか聞かないとかという計らいを止めると、雨音と自分
の境が無くなる。雨音に自分がすっぽりと包まれてひと
つになった身であるならば……「をのれなりけり 軒の
玉水」……正に自分自身が軒の玉水なのだ。とのお示し
です。

お釈迦さまや道元禅師さま瑩山禅師さまをはじめ、数多
くのお祖師さま方は、悟られた後もずっと坐禅を続けら
れました。それは、坐禅が仏になるための手段ではない
という証しです。自分が坐禅をして、あこがれ求める仏
さまになるのではないということです。

自分という仏さまが坐禅をしている。仏さまが食事を頂
く。仏さまが字を書く。仏さまが話をする。私たちの普
段の生活の行ないも、このように信じて「お釈迦さまな
らどのように仰るのか、道元禅師さま瑩山禅師さまなら
どう振る舞われるか」という気持ちで、丁寧に、丁寧に
過ごしてまいりましょう。 

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2022/06/11~20   丁寧

講師:香川県 南隆寺 大石光昭師

もう何年も前のことですが、本堂でのご法事の折、ロー
ソクやお線香を点けたり、お檀家さんが持参されたお位
牌やお供え物をお祀りしたりしていました。いつも一人
で大阪から帰って来るそのお檀家さんは、そんな私の立
ち振る舞いをしばらく眺めていて、「おじゅっさん。私、
お経読んでもらわんでも、充分供養できた気がするわぁ」
と言い出しました。私が「え?どしたんですか?」と聞
き返すと「おじゅっさんが法衣姿で立ったり坐ったり、
歩いたりするん見るだけで癒やされるわぁ」「おじゅっ
さん、なんや伝統芸能の人みたいで、歩く文化財やわ」
と言ってくださいました。とんだ自慢話になってしまい
ましたね。

しかし、私のこの雰囲気は決して持って生まれたもので
はありません。では、いったいどこで、培われたもので
しょうか?

それはやはり、修行時代に違いないと思うのです。私が
瑞應寺僧堂へ修行に上がった当時、先輩の修行僧さん方
の多くは、ご法事の卒塔婆を書けば「一光老師」に似た
字、お拝をしても合掌低頭をしても一光老師…と言った
具合でした。だれも真似などしようと思うでもなく、自
然とそうなっていたのだと思います。

一光老師とは、瑞應寺僧堂の当時のご住職で、今年二十
七回忌を迎える楢崎一光老師というお方です。

一光老師は頭の先から足の先まで、一挙手一投足、誠に
丁寧な動作をなさるお方でした。メモ書きひとつとって
も、手帳の小さな枠に、これまた小さな字で、「ゆっく
り、丁寧に、細かく」書き込まれていたのを思い出しま
す。客人との応対でも本当に懇切丁寧なお心遣いをされ
ていました。

修行僧を指導するお坊さんとしても、五十年間六百名を
超える修行僧一人一人に、手を緩めることなく、時に厳
しくも、丁寧なご指導をしてくださいました。

この「丁寧」という字は二文字ともに口偏を付けて「叮
嚀」とも書き、二文字とも「ねんごろ」という意味にな
ります。

老師のご生涯は正に曹洞宗の宗風「作法是宗旨」そのも
のであったと思います。それは、お釈迦さま、永平寺の
道元禅師さま、そして令和六年に七百回忌を迎える総持
寺を開かれた瑩山禅師さまのみ教えを実践されたご生涯
でありました。

恩返しは恩送りなどと申します。老師の薫陶を受けた者
の一人として、老師の姿を自分に重ね合わせ、心を尽く
して丁寧に、丁寧に、生きていかねばと思うのです。そ
してそんな私の立ち振る舞いや一言一句が誰かの心に伝
わって、池に石を投げると波紋が次第に広がっていくよ
うに、また、他の誰かに広がっていってくれたならば、
それこそが老師への恩返しであり、恩送り。一佛両祖の
み教えにかなう生き方だと思うのです。

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2022/05/21~31   茶におうては茶を喫し

  
講師:高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

瑩山禅師さまに、「茶におうては茶を喫し、飯におうて
は飯を喫す」というお言葉がございます。今日はそれに
ついてお話をいたします。

四国と言えば、うどん県の異名を持つ香川県もあります
ので、四国全体がうどん好きのように思われがちですが、
実は我が家は私を含め皆が大の蕎麦好き。いつかは自分
で蕎麦を打って家族に食べさせてあげたいものだという
のが、二十数年来の夢なのでありました。

そんな私の夢が叶う日がやって来たのが、数年前のこと
であります。ある日、一人の他宗のお坊さんが坐禅をし
たいと、我がお寺に尋ねていらしたのです。坐禅会に加
わられて半年ほどした後の茶話会の時、「私、蕎麦打ち
をしています」と。蕎麦打ちをやってみたかった私にと
って、まさに渡りに船でありました。

さりとて、私一人で教わるのはもったいないと、同志を
募ったところ、坐禅会の人を含め六名が集まって、月に
二回の「蕎麦道場」と銘打つ蕎麦打ち講座が始まりまし
た。

蕎麦を打つには先ず、こね鉢に入れた蕎麦粉に少し水を
回して、素早く混ぜながら捏ねて、蕎麦玉と呼ばれる塊
りを作ります。次に、蕎麦玉をのし板に移して手で広げ、
さらにのし棒を使って正方形になるように延ばしていき
ます。薄く均等に延ばし終わったら、粉を振りながら八
つ折りに畳みます。それを、同じ細さで切れるように、
定規なようなものを当ててリズムよく切ると、蕎麦の出
来上がりです。

しかしながら、「言うは易し、されど行うは難し」とは
よく言うたものでございます。幾度も手ほどきを受けな
がら、今度こそはと頑張るのですが、思い通りにいかな
いのが正直なところでありました。

おぼつかない捏ねや延し、不揃いな太さの蕎麦ですので、
お蕎麦屋さんのそれとは雲泥の差です。ただ、ひとつ言
えることは、皆で打って、皆で食す、その満足感と味は
例えようもないものだということです。

それから一年が過ぎ、それなりに格好はついてきたもの
の、出来栄えはまだまだだと、蕎麦を打っていた時です。
ふと、一番大切な事に気がつきました。「蕎麦粉と水と
自分がひとつになって、捏ねて伸ばして切って茹で、水
に晒してざるに載せ、いただく。それだけで良いのだ。
ああしてみよう、こうしてみようなどという邪念を捨て
て、丁寧に蕎麦を打って、茹でて、晒して、いただく。
蕎麦はそれだけで十分美味しいのだ」と。

すると「茶におうては茶を喫し、飯におうては飯を喫す」
の瑩山禅師様のお言葉がスーーっと胸に入り込んで、気
持ちが楽になったのを覚えております。

私たちの日暮らしの中には、何かしらの悩みごとや心配
ごとがつきまとうものですが、先ずは今日、今このとき、
やるべきことを、やるべきように、丁寧につとめてまい
りましょう。

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2022/05/11~20   放てば満てり

講師:高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

先日、町中にサルが出たというニュースを見ていて、随
分昔に見たテレビ番組を思い出しました。それは、サル
が箱の中の餌をどうやって取り出すか?という実験の番
組でした。

サルの前には、サルの手が入る程度の穴が開けられた透
明なアクリル板の箱が置いてありました。そして、その
箱の中には果物が数種類入っていたように思います。

サルは、箱に開いた穴から手を入れて、出来るだけ多く
の食べ物を取ろうと、ムンズとつかむのです。沢山つか
んだのは良いが、今度は手が出て来ない。仕方なくつか
んだものを離せば、手が出て来る。でも、やっぱり食べ
たいからまた手を入れる。するとまた手が出ない。そん
なことを何度も何度も繰り返している間に、果物を沢山
つかんでも取り出せないんだと気が付いたのか、少しず
つ取って食べ始めるという映像でありました。

穴の大きさを考えもせずに、一度で沢山取ろうとすると
は、これが本当のサルの浅知恵かと感じながら見ていた
のを覚えています。

そして、ふと考えました。あのときのサルの行動は、サ
ルだから笑って見ていたけれども、同じ事を人間がやっ
たら笑えないなぁ。いやいや、気付かずにやってしまっ
ていることも、沢山あるのだろうなぁと。

現代人の私共には、捨てられないことが沢山過ぎるほど
あるような気がしますが、いかがでしょうか?

道元禅師さまは、正法眼蔵と言う書物の中で、「放てば
満てり」というお言葉で、執着する心を棄てなさいとお
示しになり、執着を手放すことの大切さをお説きになら
れました。

コロナ禍になってから、キャンプをする動画が人気を博
していると聞いて、私もインターネットで検索してみま
した。すると、わざわざ不便さを求めるかのように、人
里離れた山や川に出かけ、足りないモノは現場で調達し
たり作ったりしながら、キャンプをする動画のシリーズ
が見つかりました。 

木の枝や石を集めて、こんな工夫をするだけで、キャン
プが楽しくなるなんて、へぇ大したもんだなあ」とか、
普段の暮らしで良かろうに、ワザワザ不便な所に行かな
くても…と思ったのですが、同時にこんなことを思いま
した。今の時代、便利になって指先一本で何でも出来て
しまいます。欲しいモノがあればスマホをポチッ。暑い
とき寒いときには、エアコンのリモコンでポチッ。でも!
誰もが皆、心の何処かで満たされない何かを抱えている。
だからこそ、キャンプの動画やテレビ番組に人気が集ま
るのではなかろうか…。ほんの一時でも、その便利なも
のを手放してみることが、私達人間には必要なのかも知
れませんね。

心が満たされないと思っている人は、思い切って、便利
な生活、快適な生活から、少し離れてみてはどうでしょ
うか。キャンプまでとは言わずとも、山間の鄙びた温泉
宿に泊まってスマホを持たず、テレビも見ず、新聞も読
まずに過ごしてみませんか?あるいは自宅で一日二日、
そうやって過ごしてみませんか?利便性から離れると、
もっと心穏やかで、ゆったりとした時間を過ごせるので
はないでしょうか。「放てば満てり」です。

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2022/04/21~30   優しい言葉・思いやる言葉

講師:高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

去年九月頃のことです。寺務所でインターネットを見て
いると、ある画像が目に留まりました。それは葉 祥明
(よう・しょうめい)さんという絵本作家さんが書かれ
た「母親というものは」という題の一枚のポストカード
でした。 

そのポストカードにはこういう詩が書かれていました。
 「母親というものは無欲なものです。我が子がどんな
に偉くなるよりも、どんなにお金持ちになるよりも、毎
日元気でいてくれることを心の底から願います。どんな
高価な贈り物より、我が子の優しいひと言で十分すぎる
程幸せになれる。母親というものは実に本当に無欲なも
のです。だから、母親を泣かすのは、この世で一番いけ
ないことなのです。」と。

思わず二度、三度と読み返しました・・・そして、さら
に何度か読むうちに目頭が熱くなって来たのを覚えてお
ります。

幼き頃は、親に歯向かうことも無かった私でありました
が、いわゆる反抗期がやってまいります。要らぬ知恵が
付き、あれはたしか小学校の高学年になった頃です。母
親に何を言われたのかはもう覚えていないのですが、何
か無性に腹が立っていました。そして、その時に私が母
親に返した言葉がこうでした。「母ちゃん、何で僕を産
んだんや。そんなんやったら産まんで良かったじゃない」 
母は、黙ってその言葉を聞き、声も出せずに、ただ、私
を寂しそうに見つめていました。

そして、しばし時を置いて、私の名を呼びながら「すま
なかったね」と一言だけ発し、目を真っ赤にして、涙が、
一つ二つと零れ落ちたのです。しまった!と思ったけれ
ども、もう遅かったのです。

あのときの光景が、葉さんの詩の向こうに見えて来たの
です。

そして・・愚かな私であります。高校に入学して直ぐ、
もう一度だけ、同じようなことをしてしまいました。地
元の高校へと行きたかったのを、県外にある宗門の高校
へと行かされた時でした。その時も似たような言葉で母
を泣かせてしまいました。ですから、この世で一番いけ
ないことを二度もしてしまったということですね。

そのような私が、お釈迦さまや道元禅師さまのみ教えを
語っていいモノか、正直悩むのですが、道元禅師さまは、
相手が誰であれ、慈しむ心で接することを説かれていま
す。その中のひとつに「愛語」というみ教えがございま
す。そのお示しには、慈愛の心をもって、優しい言葉、
相手を思いやる言葉で語りなさいとあります。

言葉遣いはけして褒められたものではないけれども、相
手のためを思い「馬鹿野郎!何やってんだ気をつけろ!」
と、強い言葉を使うこともあるかもしれませんね。でも
それも、相手の事を案じればこその言葉ですよね。

しかしながら・・そうなのです、私が吐いたあの言葉、
「母ちゃん、何で僕を産んだんや。そんなやったら産ま
んで良かったじゃない」は、決して母の事を思いやる言
葉では無かったのです。

葉さんの詩に出会って、今は亡き母を思い、母なりの精
一杯の愛情で育ててくれたことに感謝すると同時に、道
元禅師さまの愛語のみ教え、慈愛の心をもって優しい言
葉、相手を思いやる言葉を使うということの大切さをあ
らためて噛み締めたことでした。

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2022/04/11~20   相手を思い敬う心

講師:高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

先日、ふとしたことで、とある書き物に出会いました。
それは、東京に住まいする竹内さんという友人の、毛筆
のステキな一文でありました。 文字は勿論、達筆であ
りましたが、私が心を惹かれたのはその中身、文章なの
でありました。

そこにはこう書かれていました。「神様がたった一度だ
け、腕を動かして下さるとしたのなら母の肩を叩かせて
貰おう。風に揺れるペンペン草の実を見ていたら、そん
な日が、本当に来るような気がした」とありました。 

何度か読み返すうちに、この詩が胸に沁み込んで来たも
のですから、どういったお方がお書きになったのか知り
たくなって調べると、口に筆をくわえて詩や絵を描く星
野富弘さんという方なのでありました。

なんと、お体が不自由だったのです。彼は、大学を卒業
し、中学校の体育教師になって間もなく、クラブ活動の
指導中に頸椎損傷の大怪我をして、手足の自由を失った
ということでありました。

体育の先生ということですから、体を動かす事には自信
があったはずです。教師として子どもたちに伝えたいこ
と、社会人となって親にしてあげたいこと。様々な夢や
希望があったはずなのに、たった一度のアクシデントで、
一生動けない身体になってしまったのです。彼は、やが
て自暴自棄となりました。心を閉ざし、荒れた時期を過
ごすのです。

そんな荒れた富弘さんに対して、お母さまはいつも笑顔
で接し、励まし、傍に寄り添って下さっていたそうです。
内心では、代われるものなら代わってあげたい、なんと
か元通りの身体になってもらいたいと、泣きたい気持ち、
叫びたい気持ちでいっぱいだったはずです。しかし、目
の前で我が子が絶望の淵にいる。この私が泣いていては
いけないと、お母さんは必死の思いで富弘さんに笑顔を
向け、生きる力を与えようと思ったのではないでしょう
か?

道元禅師さまのみ教えに四摂法と言う四つの教えがあり
ます。その中のひとつに「同事」と言う教えがございま
す。道元禅師さまは「同事というは自にも不違なり、他
にも不違なり、他をして自に同ぜしめて、後に自をして
他に同ぜしむる道理あるべし」とお示しになられ、相手
を思い敬い、相手の立場に立ち、相手のために何かをし
ようとする大切な心を諭されました。

それは、富弘さんのお母さまが笑顔で寄り添った姿その
ものでありましょう。やがて、富弘さんは、お母さまの
懸命な励ましの中で自分を取り戻し、絵筆を口にくわえ
て詩や絵を描くようになります。

その絵筆には、富弘さんが「苦しいのは自分だけではな
かった、お母さんはもっと悲しみ苦しんでいたんだ」と
いう、気付きが込められていた。その作品には、お母さ
まへの心からの感謝が込められていた。

富弘さんは絵筆をとるようになった後、入院中にキリス
ト教の洗礼を受けておられます。宗教こそ違えども、富
弘さんのお母さまの心と行い、富弘さんの絵と詩に込め
られた心は、「同事」というみ教えの実践に他なりませ
ん。

相手を思い、相手を敬う心を忘れずに、今日の一日、明
日の一日を過ごしてまいりましょう。

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2022/03/21~31   ご縁を大切に

講師:愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

マスクの生活が続いています。それはもちろん、新型コ
ロナウイルスへの感染を防ぐためですね。病気に対する
不安は、二千五百年前、お釈迦さまが生老病死という教
えで説かれています。

私たちは時代も、国も、性別も、自ら選んで生まれてき
たわけではありません。目の前に広がる世界は常に変化
し、医療が発達しても病気がなくなることはありません。
不老不死の薬はなく、生きていれば、いつかは必ず死を
迎えます。人生における重要な事柄は、何一つ自分の思
い通りにならないのです。

お釈迦さまはこの思い通りにならない 生きる・老いる・
病になる・死ぬ ということを四苦と名付けました。四
苦は、人間誰もが思い通りにすることのできない苦しみ
です。私たちはその思い通りにならない世界で生活して
いるのです。

しかし、そんな苦しみの世界であっても、お釈迦さまは
逃げ出しなさいとは言っていません。一つの教えとして、
その苦しみと向い合い、今ここで生きている素晴らしさ、
限りある命の有難さを感じ、その時その時を大切にしな
さいとお示しになりました。

二十数年前になりますが本山での修行中、指導してくれ
ていたご老僧に、「修行をしていると先輩から、その時
その時を大切にしなさい。と言われます。どうすれば大
切に出来るのですか」と質問しました。

ご老僧は「もし未来というものがあるのであれば、未来
と過去とを線で繋いでみる。両端から時間を削っていく
と、必ず薄く残るものがある。それが今という時間だ。
だが、そこまで薄くなると時間の中での話でなくなる。
自分自身が今ということだ。今を大切にするということ
は、自分自身を大切にすることだ、もう少し言うと、自
分を認識しているのは自分ではない。周りの家族や友人、
自然、社会、ご縁の中で認識してもらっている。そうい
う繋がりを大切にすることが自分自身を大切にすること
だ」と教えて下さいました。

4月になれば新しい年度が始まり、新しい環境で新たな
人の出会いや、知人との再会もあることでしょう。人と
の出会いは緊張感もありますが、自分の世界が広がる楽
しみのひとつでもあります。

私たちは誰もが繋がりの中で生活し、誰かに私として認
識してもらっています。繋がりの中で生かされている私
がいるのです。

その時その時を大切にするということは、自分自身を大
切にするということです。自分自身を大切にするという
ことは、ご縁に生かされていることを自覚し繋がりを大
切にすることです。限りある命とご縁を大切に過ごして
まいりましょう。

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2022/03/11~20   こころの満足

講師:愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

ときどき、人間の生きがいとは何だろうか?と考えるこ
とがあります。誰もが抱える問題なのでしょうけれど、
なかなか答えはでません。百人百様、それぞれの生き方
や経験によっても違いますが、自己満足、自分の心が満
たされることを、生きがいというのではないでしょうか。

お釈迦さまは法句経で
『ひともし 心つつましく 善き(よき)行ずる賢者(もの)を
 友に得ば すべての危難(あやうき)に克ち(かち)よろこび
 深く共に往く(ゆく)べし』
と示されています。

お釈迦さまは、心を許せる友に出会えたなら、困難を共
に乗り越えることのできる友に出会えたなら、その出会
いを大切にすることが心の満足であると説かれています。

ところで、車を運転していますとドキッとすることがあ
ります。急に十字路から出てきた時、ウインカーも出さ
ず割り込まれた時、一時停止を無視された時、降りて注
意しようとまでは思いませんが、文句の一つも出てきま
す。一人でブツブツ言っているとなんだか空しくなって
きます。

連れ合いが同乗している時の車の中は文句の山です。ハ
ンドルを握った彼女が私に「あの車、私たちに気づいて
ないわよ。どこを見て走っているのよ。ああいう運転を
する人がいるから事故が起こるのよ」二人で怒るわけに
もいかないので、私は彼女に「まあそんなに怒らなくて
も良いんじゃない」と冷静に言うと矛先は私に向きます。

「そう言いますけどね、あなたが運転しているときも文
句言っているわよ、自分では気づいていないみたいだけ
ど、結構ひどいよ」「そんなことはないよ」「いいえ、
そんなことあります」「そうかなあ…」そんな会話をし
ていると、いつの間にかお互いに前の車のことを忘れて、
怒りも消えています。一人ではできない、なんでもない
会話ができることの素晴らしさに気づかされます。

親しい関係であるほど、つい相手に配慮しない行動や言
動をしてしまうこともありますが、何かの縁で出会い、
一緒に暮らすようになり、家族を持ち、今こうして同じ
時間を過ごしているわけです。あなたにめぐり合えて、
本当に良かったと心から言える出会いも、心の満足につ
ながるものですね。

生きていれば、悲しいことも、苦しいことも、腹の立つ
ことも起こります。そんな時は、一度立ち止まって周り
を見渡してください。これまでの出会い中に、あるいは
今ある出会いの中に、心の満足につながるものが見つか
るかもしれません。今日の出会い、明日の出会いを大切
に過ごしてまいりましょう。

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2022/02/21~29   他は是れ吾にあらず

講師:愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

知人が私の法話を聞いたらしく「曽根さんの法話って、
法話集みたいなものがあるんですか?」と聞いてきま
した。私は、あ、その方法があったかと思いながら、
「ちゃんと原稿を書いてますよ」と答えました。本に
書いていることを覚えてそのまま話すなどということ
は、考えたことがありませんでした。

そこで、ものは試しと法話の本を広げ、これはいい話
だなと思ったものを、そのまま家族に話してみました。

話しながらも何か違和感がありましたが、「どうだっ
た?」と尋ねると、「普通じゃない?それ、本に載っ
ている話でしょ。話し方に自信がなさそうだったし、
そのまま本の話をされてもね。自分の事としてもう少
し工夫が必要なんじゃない」と、言われてしまいまし
た。 

「短くても失敗してもいいからあなたの話が聞きたい。
お釈迦さまの教えをどう解釈し、どう伝えたいかあな
たの言葉で話して欲しい。」そんな気持ちが伝わって
きて、なんだか恥ずかしくなりました。

違和感の正体はこれだったのです。他人の話では描写
も経験もなく、ただ文字を読んでいるだけの状態です。
自信がない話、自分が納得しない話をしても、そこに
は感動も共感も生まれてこないことに気が付いたので
す。どんなに良い話、有り難い話だとしても、借り物
は借り物でしかありません。参考にはできますが、話
のどこかにほころびが生まれるのです。逆をいえば、
私の話は私にしかできないということです。

永平寺を開かれました道元禅師さまの書かれた典座教
訓(てんぞきょうくん)の中に「他は是れ吾にあらず
(たはこれわれにあらず)」という言葉があります。
実践するのは他人ではなく、自分自身であり、自らが
経験して学ばなければ意味がないと示されています。

家族であっても、親の人生は親の人生であり、子ども
の人生は子どもの人生です。憧れの人がいたら、その
人のようになりたい、と目標にすることはできますが、
その人にはなれない現実があり、その人と同じ立場に
はなれても、自分は自分です。自分の人生は、自分自
身で歩むもので、誰も代わってくれるものではありま
せん。

私たちは、不遇な環境を嘆いたり、できないことを誰
かのせいにしたり、不満ばかりを募らせる時がありま
す。しかしどんな言い訳や愚痴を重ねてみても、他人
が解決してくれるわけではありません。

先ずは、今、自分に出来ることを精一杯やってみる。
自分を信じて行動してみる。自分で考え、自分で行動
する生き方にこそ 経験と成長があり、満足のいく答
えがあるのではないでしょうか?

「他は是吾にあらず」皆さんは自分の生き方ができて
いますか?

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2022/02/11~20   洗心

講師:愛媛県 晴光院 曽根隆弘師

美しい人や景色や芸術を目にしたり、耳にした時、心が
洗われるようだと私たちは言います。たしか、今ぐらい
の時季だったと思います。その頃私は二十代前半、札幌
のお寺でお坊さんとしての勉強をさせていただいており
ました。

ある日のこと、私がお寺での用事を終えて下宿に帰ろう
とすると、お寺の三男、康仁さんが「隆弘さん終わりし
ょ。スキーに行こう」と誘ってきました。

「え?今からですか?明日もお参りがありますよ…」と
言うと、「隆弘さん、迷った時は行こう。スキー道具持
ってる?無くても借りればいいか。着替えてお寺に集合
ね」と、私の返事も待たずに事が決まり、「せっかくだ
から、滑りやすいとこに行こうか」と高速に乗り、一路
小樽へと向かいます。スキーの経験などほとんどないの
に、えらいことになったぞと思っているうちに、山奥の
スキー場に着きました。

すぐに山頂まで連れていかれ、康仁さんは「下で待って
るね」と格好よく滑っていきます。あとに残された私は、
恐る恐る斜面を見ます。目の前に広がる真っ白な世界は
空気が張り詰めていて、寒さと緊張が私をおそい、思わ
ず目を閉じてしまいました。

しかし、この斜面を降りなければ帰れません。意を決し
て目を開けると、平日の夜のスキー場は人影も少なく、
街の明かりが遠くに見えて、壮大な風景がとても幻想的
で、心が洗われるような思いがしました。冬が来ると、
あのときの風景をよく思い出します。

禅語には洗心という言葉があります。心を洗うという意
味です。心を洗うとは、悩みや妬みや怒りなどの心の塵
(ちり)を洗い流すことです。

人は知識や経験を重ねるほど効率性を重視し、時間をど
う上手く使うかを考えてしまいます。時間を使っている
ように見えて、実は時間に使われてしまっているように
も感じます。

世俗の喧騒(けんそう)を忘れさせるような風景があり
ます。現代社会を生きねばならない人にとっては、そう
いう特別な風景を見る機会を作ることは難しいかもしれ
ませんが、ちょっとしたことで良いのです。庭に咲いて
いる花を見てみよう。草むらにいる虫を見てみよう。今
日は車でなく歩いてみよう。近くのお寺や神社をお参り
することでも結構です。

少しだけ日常をはなれてみて下さい。日常と違う風景に
気づくことができれば、明日からまた頑張ろうという気
持ちが湧いてきます。多分、あのとき康仁さんはそのこ
とを私に気づいてほしかった、そんな気がいたします。

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2022/01/21~31   繋がる思い

講師:高知県 予岳寺 濱田道圓師

先日、お勤めの移動中にラジオを聞いておりました。そ
れは、子供たちの疑問や質問に、著名な学者や先生、時
にはオリンピックのメダリストの方が質問に答えるとい
う番組でした。

ある小学生が脳科学者の先生に、次の様な質問をしてお
りました。「先日、お父さんとお母さんとお寺にお墓参
りに行きました。ご先祖さまは僕たちのことを守ってく
れているのですか?」と。どう答えるのかと非常に興味
深く聞いておりましたら、先生のお答えは、「人間は人
智を超えた存在を信じることで、安心と自信を得られる
という脳の働きがあります。神仏や祖先の存在を信じ、
加護を願うという、その働きのお蔭で、先人たちは過去
の様々な災害や戦争、疫病や貧困を乗り越えられたので
す」ということでした。

ところで、親の七光りという言葉があります。七つの光
とはどのよう光なのか調べましたら、七は数そのもので
はなく、無数のとか、数多くのという意味でした。私た
ちの命は数え切れないご先祖さまからの命の連続の結果
であります。五代遡れば三十二人、十代遡れば千二十四
人、数多のご先祖さまのお一人お一人の存在があったこ
とを、私たちの命が証明しているのです。

私たちは、小さな子供を見ると無意識に可愛いと思い、
無事な成長を願います。健康でいて欲しい、そして幸せ
になって欲しい。困難な時代、不遇な境遇の中であって
も、その思いが親から子へ繋がって、今の私たちが存在
しています。我々はご先祖さまのそんな思いを受けて生
まれたのですから、ご先祖さまから守られているのだと
言えるのではないでしょうか?

道元禅師様は『仏道をならうというは、自己をならうな
り』とお示しされております。自分の命につながる大勢
のご先祖さまに思いを馳せ、自分自身の今の有り様を見
つめ直し、時には反省し、より良い生活を送ること。こ
れも立派な仏道修行でありましょう。

朝のひととき、夕べのひととき、お仏壇の前で手を合わ
せ、息を調え、姿勢を調え、心を調えて、毎日を丁寧に
過ごしてまいりましょう。

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2022/01/11~20   死を見つめ今を生きる

講師:高知県 予岳寺 濱田道圓師

先日ラジオを聞いておりましたら、お笑い芸人の田村淳
さんが出演されておりました。田村さんは多忙な芸能活
動の傍ら、慶應義塾大学で勉学に励まれたそうです。

研究をされていたのは「遺書」。そして現在は、自分が
亡き後に家族や友人など遺された方への動画のサービス
を提供する会社を運営されておられます。

そのラジオの番組で私の心に響いたエピソードがありま
した。それは、子育て真最中の30代のある女性のお話
しでした。

思い通りにならない子育てに疲弊しきっていたその女性
は、ふとしたきっかけで田村さんの遺書の研究を知り、
モニターとして参加され遺書を書くことになりました。

その女性は子育てに忙しく自分の時間も、心のゆとりも
ありません。ましてや、まだ若い自分の「死」と向き合
うことなどなかったのでしょう。『自分がもし近いうち
に死んでしまったら、我が子はどうなるのだろう、子供
の成長を見届けられない。夫は大丈夫だろうか。そうと
考えると自然と涙がこぼれてきて、普段言うことを聞か
ない、わがまま放題の我が子が愛おしくてたまらなくな
って、今の生活を大切に思うようになり、子供のやんち
ゃにもイライラしなくなった』と話されていました。

田村さんのデータによると、遺書を書いた人の9割が、
その後、ポジティブな思考になったとのことです。自分
が亡き後、家族や友人にどんな言葉を残すかを考えるこ
とは、自分の生き様、死に様を真剣に向き合い考えると
いうことなのですね。

私達はこの世に生まれ存在する故に、いずれは死を迎え、
消滅していく身であります。生と死を切り離すことは出
来ません。

曹洞宗でお唱えするお経である「修証義」。その冒頭に
「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と
あります。「死」を見つめ、そして、今ある「生」をし
っかりと見つめよと教えているのです。

私達はこの世に人間として生まれてきました。理性があ
り、あらゆる感情をもち、あらゆる表現ができ、ルール
を作りまた守ることができ、全てのものに慈しみを持つ
ことができ、正しい行いをすることができます。

今この瞬間を生かされていることに感謝し、一日一日を
大切に送りたいものです。

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2021/12/21~31   言葉を超えたもの

講師:高知県 予岳寺 濱田道圓師

皆さんは、山極壽一さんという方をご存知でしょうか?
簡単にご紹介しますと、京都大学理学部をご卒業され同
大学の助教、教授、研究科長、学部長を経て2014年には
京都大学総長を勤められた方です。その山極先生を有名
たらしめたのが、ゴリラの研究です。

先生のお話によれば、ヒトはゴリラと同じ祖先をもち、
約900万年前に枝分かれして、それぞれに進化してきま
したが、ゴリラは人類と似た行動様式があるのだそうで
す。

例えばゴリラは、近いときは20cmの距離で、長い時に
は1分くらいの時間見つめ合うことがあります。これを
「覗き込み行動」と言うのだそうですが、これは挨拶で
あったり、遊びの誘い、またデートの誘いであったりと
重要なコミュニケーションなのです。時には喧嘩を仲裁
したり、反省を促したり、心配をしたりという役割も果
たします。まさに「目は口ほどに物を言う」のでしょう。

私達人類の白目の部分は、離れていても目の動きが分か
りやすく、言わんとすることが伝わるように発達したと
も言われています。

人類はゴリラと枝分かれをしたのち、行動というコミュ
ニケーションの他に、言葉や文字という道具を操れるよ
うになりました。

しかしながら、現在の私たちは時として、その文字や言
葉に、踊らされたり、騙されたり、傷付いたりします。
きちんとお互いを理解し合い、上手に心を通じ合わせる
ことができているでしょうか?

曹洞宗の教えの中に「不立文字」という言葉があります。
仏様の教えは文字や言葉では言い表せないものであると
いうことです。経験や、日々の営みでこそ、その教えに
実感でき、体得できるのです。

これは見方を変えますと、言葉や文字が通じないような
様々な国や地域の方、もっと広く言えば、自然や動物と
も通じ合える、と言えるでしょう。お互いを認め合い、
尊重し合えてこそ、慈しみの心が生まれてきます。

まだまだ、直接会って握手をしたりする触れ合いや、マ
スクをはずしての歓談などが難しい日々が続いておりま
す。「不立文字」私達ならではの、言葉を超えた通じ合
い方を忘れず、慈しみの心を育んで参りましょう。

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2021/12/11~20   同時成道

講師:高知県 予岳寺 濱田道圓師

私がテレホン法話に寄稿させて頂き始めてから、かれこ
れ5年が経ちます。諸先輩の足元にも及びませんが、こ
のような機会を頂けることに感謝をいたしております。

思い返しますと、6年ほど前でしょうか。ある御老師か
ら半ば強制的に法話をしなさいと申し付けられました。
自ら檀家さんの前で法話をすることなど、ろくにしたこ
とのなかった私には大変な重圧でありました。

原稿を作ってダメ出しされ、直してはダメ出しされ、そ
んなことを何度も繰り返してやっとお話しができるよう
になる。それを5年繰り返してきたと思うと少し感慨深
い思いです。

そんな私の原動力は、その手厳しい御老師とお話してい
るときにいただいた一言でした。

御老師は「目の前のありとあらゆること、感じたことで
法話を語りなさい。」と仰られました。目の前のパソコ
ン、机、鉛筆、流れる水や、漂う雲、そよぐ風、私達の
生きる世界のあらゆる存在で法話にならないものなどな
いということだと私は受け止めました。

自分の周りのあらゆる存在を通して、仏様のお声やお姿
に気付くか否か。そしてその気付きを仏様のお示しとし
て皆様に伝えることができるか。私の僧侶としての生き
方を問われているのだと感じて、ドキッとした記憶があ
ります。

12月8日はお釈迦様がお悟りを開かれた成道会であり
ました。お釈迦様は悟りを開かれた時「我と大地有情と、
同時に成道す」というお言葉を発せられました。「我」
は私達自分自身のこと、「大地」は空気、水、日光、自
然環境、そして我々が作り出したモノ、そして「有情」
は自分以外の生きとし生けるもの。この3種類のすべて、
この世のありとあらゆるものがお釈迦様と同じく「成道」
された、つまりお悟りを開かれたのです。

空気も水も日光も、お釈迦様が悟りを開かれる前からこ
の世にあったものです。しかし、悟りを開かれたお釈迦
様だからこそ見える世界がそこに広がっていたのであり
ましょう。

私達が生きているこの世界はお互いに様々な影響を与え
合い、受けています。その影響の結果、生まれ、存続し、
そして滅していきます。

昨今よく耳にする、現代社会の世界的な諸問題に対する
解決を目指すSDGs。その根底にはこの世界に共に生きる
仲間の一つとして、尊い自分自身や世界の個々の存在を
尊重し合う心が必要でありましょう。

「我と大地有情と、同時に成道す」日常に溢れる、仏様
の教えに気付くように、丁寧に生きたいものです。

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2021/11/21~30   心を通わせるご供養

講師:愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

亡くなった方を供養するご法事は、お葬式の翌年以降決
まった年数ごとに執り行います。亡くなって一年後に一
周忌、それから三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌と
続きます。ここまでは全国各地で大きな違いがないよう
ですが、それ以降は宗派や地域によってしきたりが違い
ます。三と七の数字が続くことから、十七回忌の後は二
十三回忌、二十七回忌となりますが、この二回を二十五
回忌にまとめる場合もあります。

ところが、先日あるお檀家様で、二十三回忌と二十五回
忌と二十七回忌の全てを行なった方がおられました。

これにはちょっとした経緯がありました。今から数年前、
八十才を過ぎた奥様から亡くなったご主人様の二十三回
忌の法事の依頼を承りました。「今年は主人の二十三回
忌に当たりますので、法事をお願いできますか」と電話
をいただきました。奥様はさらに言葉を続けて「二十五
回忌にしようかと思いましが、二年後に元気でいられる
か分からないし、法事ができなくなっては主人に申し訳
ないので、二十三回忌をさせてください」とのことでし
た。

ご法事の後、奥様は「お陰様で、主人が亡くなって二十
年以上、元気でいられて法事ができました」と安心して
帰られました。

それから二年後、奥様からお寺に電話があり「今年は主
人の二十五回忌に当たるので、法事をお願いできますか」
と言われました。私が「通常は二十三回忌を行なった場
合は二十五回忌ではなく二十七回忌に行いますが」とお
返事したところ、奥様は少し考えてから「二年後に元気
でいられるか分からないので、普通とは違うかもしれま
せんが、今年二十五回忌をさせてください」とのことで
した。

二十五回忌をお勤めした後の奥様は、「今年も無事に法
事をすることができました」と安心しておられました。

それから二年後、また奥様からお寺に電話がありました。
「主人の二十七回忌の法事をお願いできますか」という
連絡でした。少し予想していたことでしたが、私は「二
十三回忌、二十五回忌となさったことですし、今年は無
理に法事をしなくても良いのではないですか?」と提案
しました。「では、次の法事は何回忌になりますか」と
聞かれたので、「次は三十三回忌、八年後です」と答え
ると、「八年後に元気でいられる自信がないので、やっ
ぱり今年二十七回忌をさせてください」と言われました。

このような経緯があって、二十三回忌、二十五回忌、二
十七回忌と、全てを行なうことになりました。法事を営
むには様々な準備も必要で、大変だったことと思います
が、奥様は、「主人への良い供養ができました。次の三
十三回忌まで元気でいられるように頑張ります」と喜ん
で話してくださいました。

ご法事は故人の冥福を祈って営むものですが、この世界
に生きている私たちが「お陰様で元気でやっていますよ」
と亡き人へ良い報告をすることにもなります。亡き人と
心を通わせることができる節目のご法事を、大切にして
いきたいものです。

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2021/11/11~20   お線香にこだわる

講師:愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

先日、お檀家の方からお線香についての質問がありまし
た。「お線香にはいろんな種類があって、値段も幅があ
るけれど何が違うのでしょうか?」ということでした。
その方は、自宅にあったお線香の香りがあまり好きでは
なかったので、新しいお線香を仏具店に買いに行かれた
のだそうです。仏具店にはたくさんのお線香が置いてあ
り、中には驚くほど高価なお線香もあったそうで「スー
パーや百円ショップで売られているような安いお線香だ
と故人が成仏できないのでしょうか?」という質問もい
ただきました。

お香の歴史は古く、紀元前メソポタミア文明にまでさか
のぼるといわれています。日本では飛鳥時代に仏教とと
もに伝えられ、日本書紀には仏への礼拝で香が焚かれた
との記載があります。お香を焚くことで心と体が清めら
れ、良い香りを通して仏様とお話ができるとか、故人と
つながることができると信じられてきました。故人が食
べられるものは匂いだけという考え方もあり、お香は仏
教とともに広まったといえます。お線香には香りの基と
なる香料が配合されていて、希少価値が高い「白檀」や
「沈香」や「伽羅」などが配合されているものは値段が
高くなります。

私は普段からお香を使用することが多いので、いろんな
種類のお香を準備しています。以前、妻の実家の法事に
出向いた際に、かなり高価なお線香を持参したときのこ
とです。妻の父の法事でしたので、義父の供養の為にと
高いお線香を仏前で焚きました。しかし、そのお線香の
香りは、妻の実家のご家族からは「くさい」と言われ不
評でした。高級なお線香は香りの強い物が多いのですが、
「お父さんはもともと、お線香の匂いが嫌いだった」と
言われ、高いからといって良い供養になるわけではない
のだと気づかされました。

お墓参りや仏壇に欠かせないお線香ですが、特に気にし
ないで使っている方が多いのではないでしょうか。お線
香の香りが苦手という方は、昔ながらのお線香らしい香
りが苦手なだけかもしれません。今はいろいろな種類の
お線香が売られています。生前に花が好きだった方には
桜やバラやラベンダーの香りがするお線香を選んでみま
せんか。コーヒーや苺や蜂蜜の香りがする物もあります。
花粉症がひどい方はアロマキャンドルやアロマオイルを
使うのも一つの方法かもしれません。興味を持っていろ
いろ試してみてはいかがでしょうか。

お香もお供え物のひとつです。お供え物は亡き人々に対
する私たちの気持ちを形に表すものです。故人が好きだ
った食べ物をお供えするのと同じように、故人が好きだ
った香りを届けてあげれば、亡くなった方もきっと喜ん
でくださることでしょう。
 
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2021/10/21~31   生を明らめ死を明らむる

講師:愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

曹洞宗の中心的な教えを説いた経典である『修証義』の
冒頭に、「生を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因
縁なり」と、あります。生(しょう)という字は生きる
と書きます。「生」とは何か、「死」とは何かを究めて
いくことが、生きる上において最も大切な課題である、
という意味です。哲学的で難しい内容ですが、最近この、
生きることと死ぬことについて深く考えさせられる出来
事がありました。

私が住んでいるお寺の近所に一人暮らしをされている九
十歳のおばあさんがいます。数年前から認知症が見られ
るようになり、年齢的にも一人での生活は無理だろうと
感じられます。しかし、息子さんが一緒に暮らそうと説
得しても、「自分の家から出たくない」と頑なに拒否さ
れるので、家族や親せきの方が頻繁に様子を見に行った
り、介護支援を最大限に利用したりしておばあさんの望
む、家での暮らしを支えています。

ある日の夜遅くに、私が車でお寺に帰っていると、ヘッ
ドライトが照らした畑の中に作業着を着て鍬を持ってい
るおばあさんの姿が見えました。私は慌てて車から降り
て「もう真っ暗なのに、こんな時間に畑仕事しよるの?」
と声をかけると、「そうよ、私がやらんと誰もやる人が
おらんけんな。」と答えが返ってきました。認知症が進
行しているのだろうかと心配しながら、おばあさんを家
まで送っていき、翌朝、様子を見に行くと元気そうにし
ていたので安心しました。「もう九十歳なんやけん、無
理せずのんびりしてたらええよ。」と声を掛けましたが、
それから後も、畑に出て草を引き、鍬で耕すおばあさん
の姿をよく見かけます。

無理をせずにとは言ったものの、おばあさんが畑仕事を
やめてしまえば家の周りの田畑はすぐに荒れ地になって
しまうでしょう。あの夜の「私がやらんといかん」とい
う言葉に、受け継いだ田畑と家を守るのだというおばあ
さんの強い意志を感じますし、その思いが生きる支えに
なってもいるのでしょう。

私たちは皆、早い遅いの差はありますが、生まれたから
には必ずその命の終わりを迎える時がきます。それなの
に、今日が終れば明日が来る、明後日も来ると思い込ん
でいないでしょうか?毎日を何気なく過ごしたりしてい
ないでしょうか?

おばあさんの畑は耕して手入れされた面積が毎日少しず
つ広がっていきます。それを見るたびに私は、より良く
生きていくことの大切さを感じます。今日という一日、
今という時間、目の前のことに最善を尽くし、大切に生
きていこうと励まされています。

「生を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」
とは、自分に与えられた命を全うするために、今なすべ
きことを明らかにしていくことだと、お婆さんの畑から
教わっているような気がします。

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2021/10/11~20   時時に勤めて払拭せよ

講師:愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

コロナ禍では感染の問題だけでなく、残念なことに差別
や偏見という問題も深刻さを増しています。感染者を責
める風潮や医療従事者への不当な差別などを受けて、政
府をはじめ様々な機関や団体が、コロナ差別をなくすた
めのメッセージを発信しています。

「恐れるべきはウイルスであり人ではない」とよく言わ
れますが、過剰に恐れ、遠ざけようとする心が差別につ
ながっているように感じます。クラスターが発生した場
所へは多数の電話やメールが寄せられ、中には脅迫的な
内容もあると聞きます。外出を自粛するなど我慢の程度
が強い人ほど、自分の判断や行動が多くの人と共通して
いると思い込みすぎる傾向があるようです。

日本赤十字社は、『過剰な不安や感染者達への偏見、差
別も一種の感染症である』と位置付けています。かく言
う私も、テレビで三密の状況が流れる映像を見てやるせ
なさを感じることがあります。行動を自粛しない人や休
業要請に応じない店舗へ憤りを感じたりすることもあり
ます。こういった感情は、新型コロナウイルスの病気そ
のものでなく、不安や恐れ、嫌悪・偏見・差別という感
染症にいつの間にか罹患していたということになります
ね。

中国の唐の時代の僧侶である神秀の詩の一節に『時時に
勤めて払拭せよ』という言葉があります。「人間はもと
もと、鏡のように綺麗な心をもっているのだが、日々の
暮らしの中で知らず知らずのうちに煩悩にまみれ、曇っ
てしまう。鏡を磨くように、いつも心の曇りを拭き磨い
ていかなければならない」という意味です。部屋や台所
やトイレなど、毎回するならば少しの掃除で綺麗になる
のに、それを疎かにして大変な思いをするというような
ことは誰しも経験があるのではないでしょうか。

連日トップニュースで新型コロナウイルスに関する内容
が報じられています。「昨日の県内の感染者数は○○人
だって」という会話が職場や学校で日常的になりました。
何気ない話題の中に、差別や偏見という排他的な考えが
含まれていないでしょうか?不確かな情報に振り回され
ていないでしょうか?医療従事者や事態に対応している
全ての人に対する敬意や、自宅待機をしている人に対す
る思いやりを忘れていないでしょうか?

『時時に勤めて払拭せよ』毎日心を磨き続け、曇りや汚
れを溜めこむことなく、綺麗な見方と考え方ができるよ
う常々に心掛けたいものです。

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2021/09/21~30   なくてはならない存在

講師:香川県 南隆寺 大石光昭師

皆さんハリガネムシってご存じですか?カマキリなどの
昆虫に寄生する虫の名前です。小さい頃上級生が、カマ
キリを捕まえて「おい!見よれよ」といって、カマキリ
のおしりを水に浸けると、その先から黒くて細長い、ま
さに針金のような虫がニョロニョロと出てきて驚いたも
のでした。

去年のお彼岸前、飼っている犬がカマキリを捕まえて咥
えていました。カマキリは水には浸かっていたわけでは
ないのですが、絶命していたからなのか、おしりからニ
ョロニョロとハリガネムシが出てきていました。それを
見て小さい頃のことを思い出しました。この寄生虫のこ
とが気になったのでちょっと調べてみました。

すると、神戸大学の佐藤先生という方が調査研究をして
いて、このハリガネムシも生態系のなかではなくてはな
らない存在だと判明したのだそうです。

どういう事かというと、ハリガネムシに寄生されたカマ
キリやカマドウマは脳の中に、ある種のタンパク質が送
り込まれ、池や川などの水辺の方へと導かれます。そし
て最後には、川のなかに飛び込まされてしまうのです。

それを待ち構えているのがイワナやヤマメなどサケ科の
魚です。この魚たちの年間摂取エネルギー量の六割は、
夏から秋にかけて水に落とされたカマドウマなどで占め
られていたそうです。陸上の虫が水に飛び込むことで、
川の中の水生昆虫は、あまり魚に食べられなくなり数が
増えます。そうすると、川に生える苔や藻だけでは餌が
足りなくなって、川底の落ち葉がどんどん食べられ、分
解されていきます。

次に先生たちは、実験的に川のそばでカマドウマやカマ
キリが水に入れないようにしてみました。魚の餌になっ
ていた陸上の虫が落ちてこないので餌が減って、水生昆
虫がより多く食べられてしまいます。数が減った水生昆
虫たちは藻だけで餌が充分足りるので、落ち葉を食べな
くなります。そうすると落ち葉の分解が遅れてしまい、
生態系に変化が生じてしまったそうです。

佐藤先生によって、世界で初めてハリガネムシのような
寄生虫でも、チャンと生態系に寄与していることが証明
されたのです。

寄生虫ですら・・というと「おまえら人間のように環境
破壊はしないぞ」とハリガネムシに言われそうですが、
敢えて、寄生虫ですら、この大自然のなかでなくてはな
らない存在です。

私たち人間、一人一人だって同じです。気が付かないと
ころでどこかの誰かを、どこかの何かを支えているに違
いありません。人のためじゃなくて良いんです。何も出
来ないときは、何もしなくても良いんです。そこにいる
だけで、誰かを支えているということもあります。人間
だれもが、なくてはならない存在なんです。

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2021/09/11~20   わたっしゃ幸せじゃわ

講師:香川県 南隆寺 大石光昭師

四国四県どこの県も同じだと思いますが、特に香川県は
弘法大師のお生まれになったところですので、お家の宗
旨とは別にお大師さん(弘法大師空海)への信仰をお持ち
の方が多勢おられます。

二十年ほど前に百二歳の長寿を全うされた檀家のおばあ
さんも、そんな方のお一人でした。毎月十日、先立たれ
たおじいさんの月命日にお伺いすると、お経の後はお仏
壇に供えられたお霊供膳と同じ献立のお膳が出ます。そ
の日のお昼はおうちの方も、みんな同じメニューです。
おそらく何代も前からそうやって、ご命日にはお精進を
食べてこられたのでしょう。

そして、もっと感心させられたのは、そのおばあさんは
毎月二十日の昼を過ぎると肉魚は一切口にせず、煮物を
始めお汁のダシに至るまで肉や魚を使ったものは食べな
かったことです。

お嫁さんや若い方がついうっかり肉や魚のお料理を作っ
ても、怒ったり叱ったりはしませんが、お漬け物だけで
ご飯を済ませ、ササッと奥に引っ込みます。他のものに
は一切手をつけません。ご家族は顔を見合わせ「あっ!
明日はお大師さんの日や!」と。そうです。毎月二十一
日はお大師さんのご命日で、前日の二十日のお昼から精
進潔斎していたのです。お嫁に来てから八十年、ずっと
そうやって暮して来たのです。

そしてもう一つ。おばあさんは若い頃、目を患っていま
した。すがる思いで、眼病平癒で有名な島根県の一畑薬
師さんに願を掛けたのです。どんな願掛けだったかとい
うと、「目を患って以来、目に良いといわれる鰻の肝を
よく食べているので、毎月八日のお薬師さんの御縁日に
鰻を川へ放生(放流)する」ということでした。

最近ではすっかり見かけなくなった手押し車の魚屋さん
に頼んで、鰻を毎月持ってきてもらって近くの川へ放し
ていました。その甲斐あって、目がよく見えるようにな
ってからも、亡くなるまでずっと続けました。足が弱っ
て歩くのがままならなくなってからは、魚屋さんに川で
放してもらって、代金だけ渡していたそうです。

明治生まれのおばあさんは戦前、戦中、戦後と、激動の
時代を生き抜いて、大変な苦労をしてきたに違いありま
せん。しかし、口癖のように「わたっしゃ、幸せじゃわ」
といっていました。そして続けて「こうやってご先祖さ
んに手を合わせてもらえて、お大師さんにはすぐ近くで
守られて、目を患ったお陰で、お薬師さんともご縁がで
けて」と。まさに信仰に救われた人の言葉ですね。

心の行き場を失いそうになったとき、そっと手を合わせ
てみてください。あなたのことを見守ってくださる優し
い眼差しに気が付くはずです。

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2021/08/21~31   もちつもたれつ

講師:香川県 南隆寺 大石光昭師

去年の夏のことです。ミニトマトを作ってみようとホー
ムセンターへ行き、苗を選んでいるときに、ある檀家さ
んが「何の苗でもな、安いん三本買うなら高いん一本の
ほうがようけ実が成るんで」と話していたのを思い出し
ました。

そこで、奮発して高い苗を買って育て始めたのですが、
花が咲いて実がつく頃に病気に罹ってしまい、ほんの数
個獲れただけで終わってしまいました。

そのトマトを見た農家の檀家さんが、「やっぱり得手不
得手ゆうもんがあるんやなあ。和尚さんはお経や坐禅を
しよったらええんちゃうん?ワシらは米や野菜作らせた
ら売るほどできるけど、ワシが檀家行ってお経を読んで
も誰も有り難がってくれんどころか、追い出されるやろ?
ワハハハハーッ」と…。私を慰めてくださったんでしょ
うけれど、心中複雑なトマト栽培の顛末でした。

ところで、皆さん、日曜日の夕方の長寿番組「サザエさ
ん」をご覧になりますか?いつ頃からか、あの番組のエ
ンディングのテーマソングに載せて、原作の四コマ漫画
が流れています。ちょうど、あのトマトが病気に罹って
しまった頃に放映されていた話しがこうです。

母親の舟さんが縁側で裁縫をしているところに、ワカメ
ちゃんが折紙を持って「奴さん折って!」と走ってきま
した。すると舟さんは「自分のことは自分でやりなさい」
とピシャリ。しかたがないので、ワカメちゃんは悪戦苦
闘。その横では、舟さんが針に糸が通らなくて四苦八苦。
そこで場面が変わって、折り紙と針を交換した二人が、
難なく「できたあ!」という落ちです。

サザエさん一家の毎日のように、人はそれぞれが自分の
出来ること、好きなことをしているようでいて、気が付
いてみるとお世話になったり、迷惑をかけたり。しかし
ながら、絶妙なバランスでちゃんと支え合って暮らして
いるんですね。持ちつ持たれつです。

今、世間では「私は誰にも迷惑をかけたくない。子供ら
には負担をかけない。自分のことは自分で」と言って墓
じまい、永代供養が大はやりです。しかし、迷惑を掛け
ないと言ってはいるものの、結局はすべて対価を支払っ
て、最終的には必ず誰かの手を煩わせています。火葬場
のボタンを、お棺から手を出して自分で押すことは出来
ませんよね。

われわれお坊さんのツルツル頭も、修行道場では必ず二
人一組になって「お願いします」「有り難うございます」
「どういたしまして」「お世話になりました」と、わざ
わざ人の手を煩わせて剃り合います。慣れてくれば、自
分一人で剃った方が早く終わるし、失敗されて切って血
を出し「こいつとはもう組まんぞ」などと思ったりしな
くて済むのですが、必ず二人一組で剃りあいます。これ
もまた、持ちつ持たれつ、そんなことを教えてくれてい
るのでしょう。

世の中はもちつもたれつ、誰にも迷惑をかけないのでは
なく、誰かに必ず迷惑をかけていることを自覚し、感謝
して暮らすことが何よりも大切なことです。

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2021/08/11~20   すべてのことは、おかげさま

講師:香川県 南隆寺 大石光昭師

今月はお盆ですね。私たち僧侶はお盆と言えば、棚経と
も言われるお盆のお参りで、檀家さんを地区ごとに分け
て毎日何十軒も廻ります。

このお盆参りでいちばん思い出すのは、昭和五十四年、
私が高校二年生の夏のことです。その年、私の師匠であ
る父はガンの手術をしました。

退院を前に、母は私に「今年は一緒に廻りなよ」と説得
します。「もう来年はお父ちゃんは居らんよ。檀家さん
覚えとかないかんやろ」。私が「一回廻ったくらいで覚
えられへんわ」と口答えをすると母は「あんたが覚えら
れんでも檀家さんは覚えてくれるわな!」ご尤もなので
すが、嫌で嫌でしょうがないわけですから納得はできま
せん。

そんなことを言い合っているうちに、とうとうその日が
やって来ます。本当のことを伝えていない父には、手術
後大変なので一緒に声を出してあげるという名目で、父
の後についてお盆参りをすることになりました。

初日は七十軒ほどの檀家さんが固まっている地区です。
朝七時前から父についてポンポンとリズム良く廻ってい
きます。

初めの何軒かは、お仏壇の前には座布団が一枚しか用意
されていません。「弟子を連れて廻ります」なんてこと
はお知らせしてませんから、当然のことですね。しかし、
九時を回った頃から座布団二枚、飲み物二人分、なかに
はお布施まで包んでくださるお家もありました。昔のこ
とですので、留守でも鍵を懸けず、そんなふうに用意し
てくださっていたのです。

うちわを二枚持ったおばあさんもいました。「お父さん
の手伝いな?偉いなあ」と一枚は私に手渡し、セルフで。
もう一枚はおばあさんが手に持って、お経の間中、父の
背中を扇いでくださっていました。なぜ、うちわかとい
うと扇風機ではお蝋燭が消えてしまうからという心配り
なんですね。

父は言います。「もう伝令が廻っとるな」私が「何が?」
と聞くと「座布団見てみ、もう、どの家に入っても二枚
出してくれとるやろ」と。ご近所どうし親戚兄弟、何代
も前からのお付き合い。「おじゅっさん、今年は息子連
れて来よるでえ」誰がどこに連絡するなんて決まっても
いないのでしょうが、いつの間にかちゃんと隅々まで、
行き渡っているのです。

次の年からは座布団一枚、団扇のおばあさんは「あーあ
お父さんが送ってくれると思とったのに」といいながら、
父を扇いでいたときと同じように私を扇いでくださいま
した。

地球は、私たちが夜寝ている間に、七十億の人間や無数
の生き物、山河大地を載せて、誰が舵取りをするでもな
く、ぐるりと回って東から日が昇って朝がやって来ます。
暑い暑いと言ってもお盆が過ぎれば確実に日は短くなっ
てきて、秋の準備が着々と進んでいます。本当に有難い
ことに、様々なことが私たちの与り知らぬところで、様
々なご縁をいただいてお膳立てが整えられているのです
ね。

「すべてのことは、おかげさま」あれから四十二年、今
でもお盆参りに行ってお仏壇の前に用意された座布団を
見るとそんなことを思います。

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2021/07/21~31   広い視野をもつ

講師:徳島県 城満寺 田村航也師

皆さん、禅寺で坐禅をされたことはありますか?体験し
たことのある方は、坐禅をどう感じられたでしょうか?

以前、子供さんたちがお寺体験をする『子供坐禅会』を
開いた時のことです。坐禅が終わった後に、一人の男の
子が「あー、気持ち良かった!」と大きな声をあげまし
た。その男の子は、坐禅をしている最中も落ち着いた様
子でほとんど動かずに坐っていたので、「坐禅の時、ど
んな感じだったかな?」と訊いてみました。

すると、「とっても広かった!遠くで鳥の声も聞こえた」
という答えでした。

坐禅の時には目を普通に開いて坐るのですが、曹洞宗の
坐禅は壁と向き合って坐るので、前が塞がれて窮屈な感
じを持たれる方もおられるようです。そのため、「どこ
を見れば良いのですか」という質問を受けることがあり
ます。

そんなときに私は「目に入るものをありのままに、その
まま受け入れます。一点に集中しないで、見える範囲全
部を見てください」と説明しています。

私たちは普段、どうしても何かを見ようとします。欲し
いものを見ていたり、見たいものだけを見つめていたり。
その時には、欲しいもの、見たいもの以外のものは、目
には見えているのに、無意識のうちに捨ててしまってい
るのです。「目に入るものをありのままに受け入れる」
というのは、捨ててしまっているものをもう一度、取り
戻そうということなのです。

「とっても広かった!遠くで鳥の声も聞こえた」という
男の子の言葉は、五感で感じたことをありのままに受け
入れたからこその感想だということですね。

仏教では、欲しいものや手に入れたいものがあるとき、
そしてそれが手に入らないときの欲望は、炎のように燃
え盛って、私たちに迫って来て、苦しみの元になると教
えています。この、心に迫る欲望の炎が消えて静かに安
らぐ境地を、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)といいま
す。

涅槃寂静、なかなか難しいですが、姿勢を調え、息を調
えて、心静かに坐る坐禅が、良い入口になるはずです。

苦しさを感じた時、禅寺を尋てみませんか?ほんの少し
立ち止まって、一息つく時間をもちましょう。周りをゆ
っくり見渡せば、それまで目に入って来なかったものが
見えてくるはずです。空は何色ですか?雲はどんな形を
していますか?ゆったりした時間を持てば、自分がどれ
ほど狭い中で右往左往していたかに気が付き、広々とし
た世界が、目の前に戻ってきます。広い視野を持って、
毎日を過ごして参りましょう。

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2021/07/11~20   自分を磨いて人に感動を

講師:徳島県 城満寺 田村航也師

私はつい先日知ったばかりのですが、佐賀県の海苔の漁
師さんで大変に努力してピアノを弾けるようになった方
がおられるそうですが、皆さんはご存じでしょうか?

その方のお名前は、徳永義昭さん。佐賀県佐賀市の海苔
漁師さんで、かつてはパチンコが大好きな方だったのだ
そうです。しかし、その大好きなパチンコで大金を使っ
てしまい、とても落ち込んでいた時に、テレビでフジコ
ヘミングという方が弾く、ラ・カンパネラというピアノ
曲に出会いました。

徳永さんは、その演奏にたいそう感動して「自分でも弾
いてみたい」と一念発起。それまで触ったことも無いピ
アノに52才から挑戦して、毎日何時間も練習した結果、
なんと次の年には弾けるようになり、今では演奏会に呼
ばれるほどの腕前になりました。

この徳永さんの挑戦が多くの方に希望と力を与えている
そうで、私も、すごいなあ、人間、夢中になればすごい
ことができるものだなあ、と感じ入りました。

徳永さんは「演奏会では失敗やミスが多い。それでも、
皆さんに喜んでもらえると嬉しいし励みになる」と言っ
ておられます。私はこの、徳永さんの姿をみたとき『自
未得度先度他』という、仏教の教えを思い起しました。

『自未得度先度他』…自分が救われていなくても他の人
を先に苦しみから救おう、という仏教の実践項目の一つ
です。

ご自身の挫折が出発点ではありましたが、徳永さんはラ・
カンパネラという曲に出会って行いを改め、夢中になっ
て練習に打ち込みました。そして、乞われて出向く演奏
会では、たとえ完全でなくとも来場した方々に喜んでも
らおうと真摯にピアノに向かっています。その姿は自然
のうちに『自未得度先度他』の教えと同じ姿となってい
るのではないかと思うのです。

徳永さんは「演奏会で上手く弾けずに落ち込んだ時、必
ず応援のメッセージが来た、だから頑張れる」と言って
おられます。『自未得度先度他』の「自分」と「他の人」
が感動という力で互いに支え合い、一つになっているの
だと思います。自分を磨き続けることによって、多くの
方との心の通い合いに至るというのは、本当にすばらし
いことですね。

もちろん徳永さんはピアノでなくても、元々作っておら
れた海苔でも、多くの方に幸福を届けておられたことで
ありましょう。しかし、夢中になって打ち込んだピアノ
によって、多くの方との心の通い合いが顕れたのです。
感動から自分を磨き、多くの方に感動を運び、その感動
がまた自分に返ってくる。本当にすばらしい感動の連鎖
ではないでしょうか。

コロナ禍で、何かと気持ちがふさぎがちになる毎日です
が、私たちも自分を磨き続けることで、徳永さんのよう
に周りの方々を明るくしていきたいものですね。

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2021/06/21~30   自分という壁を取はらえば

講師:徳島県 城満寺 田村航也師

皆さんは、登場人物同士の心が入れ替わるというストー
リーの映画やドラマを見たことはありませんか?私が大
学生の頃、お父さんと娘さんの心が入れ替わってしまう
という面白いドラマがありました。

ある日、お父さんと娘さんが事故に遭い、病院で目が覚
めたら、二人の心が入れ替わっていて、娘さんがお父さ
んの姿で会社の会議に出たり、お父さんが娘さんの姿で
学校の試験に臨む、というお話でした。

つい最近も、刑事と犯人の心が入れ替わるドラマが人気
だったそうですから、誰しもが面白く感じる設定なので
しょうね。

ところが、「そんなことは理解できない」と言った人が
いました。それは誰かというと、実は、私のお友達のイ
ンド人です。

彼は「たとえ心が入れ替わったとしても、記憶まで入れ
替わることはあり得ないんだ」と言うのです。「なぜな
ら、心と記憶は別々なんだよ。記憶はどこにある?と聞
かれたら、頭の中にあるよね。では、心はどうだろう。
頭の中にあるとは言わないよね。だから、心と記憶は別
々で、たとえ心が入れ替わったとしても、記憶は頭の中
から動かないから、入れ替わりには気が付かないんだ。
実は、僕たちの心は常に入れ替わっていて、誰もが重な
り合っているんだよ」と言うのです。

私は、彼の話を聞きながら「これは私が説明の仕方を間
違えたのかもしれないぞ。どうやら彼は心という言葉と
魂という言葉を同じ意味だと思ってしまったらしい。そ
れにしても、いろんな考え方があるものだなあ」と感心
すると同時に、坐禅を指導する時のことを思い出しまし
た。

私は「坐禅をする前に、必要のないものは全て置いてき
てください。名前をお呼びすることはないので、名前も
置いてきてください。過去のことも問いませんので、記
憶も置いてきてください。そうすると、名前も、記憶も、
体も、心も、自分というものが無くなって、まっさらな
姿になります。そうすると、自分というものがスッと抜
け落ちて、自分と他人を隔てていた境目がなくなって、
皆と等しく繋がれるのです」と説明しています。

ドラマのように、心が入れ替わるというのはなんとも不
思議な話ですが、インドの友人が言うように、心が知ら
ぬ間にいつも入れ替わっているというのも、また不思議
な話ですね。

いつも入れ替わっているかどうかまではさすがに分かり
ませんが、自分と皆とが等しく繋がっているというのは、
とても素晴らしいことですね。いつでも、どこでも、ど
んなときも繋がっているお互いだという思いやりの気持
ちをもって、支え合っていきたいものですね。

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2021/06/11~20   諸行無常、だから変われる

講師:徳島県 城満寺 田村航也師

先日、親しくしている高校生に、こんなことを言われま
した。「どうせ人間、いつかは死んでしまうのに、どう
して勉強しなければいけないのでしょうか?勉強をして、
良い学校に行って、良い仕事に就くことはできるかも知
れないけれど、使いもしない知識を詰め込むことに、意
味があるのでしょうか?人間、いつかは死んでしまうの
に、勉強なんかしても意味がないと思います。仏教でも、
諸行無常と言っていますよね?」ということでした。

この諸行無常という言葉。「すべてのものは永遠には続
かない」という意味ですが、古典文学の平家物語の冒頭
の文章「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で有
名ですね。

武士たちの力によって強大な権力を作り上げた平家が、
あっという間に源氏に滅ぼされてしまった歴史を、仏教
に照らして、諸行無常と表現したものです。祇園精舎と
いうのはお釈迦さまが教えておられた修行道場の名前で、
そのお釈迦さまの教えである諸行無常を鐘の響きに託し
た美しくもはかない名分ですね。

お釈迦さまはどうして「すべてのものは永遠には続かな
い」と教えたのでしょうか。それは、私たちの心に潜む
自己中心的な思いを打ち砕くためでした。私たちの体を
見てください、どれもいつかは無くなってしまうもので、
永遠の自分というものは無いですね。ですが、だからと
言って、すべては空しく、どうでもいい、ということに
なるでしょうか。

諸行無常は、みんな無になるという運命論ではありませ
ん。永遠には続かないというのは、「みんないつも変わ
りつつある」ということです。もし今の自分が永遠に続
くとしたら、どんな努力をしても、変わることができま
せん。諸行無常だからこそ、変わることができるという
ことなのです。

皆さんには、自分はこうなれたら良いなあと思っている
ことはありませんか?私は、お経の源典をすらすらと読
めるようになれたら良いなあと思っています。

例の高校生も、いろいろと話している間に、勉強嫌いな
自分を変えることもできるんだと思ってくれたようで、
あれから受験勉強に励んで無事に大学に合格したそうで
す。諸行無常を前向きにとらえて、毎日の活力の源にし
たいですね。

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2021/05/21~31   愚痴

講師:高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

今日は、仏教用語のお話しの4回目「愚痴」です。

私事で恐縮ですが、このところ愚痴が多くなっている我
が身に気がついて、年金世代にもなって、なんとまぁお
粗末なことよと反省しきりでした。そしてその、愚痴の
原因は何かと言えば、お恥ずかしいことに自分の行いに
対してなのです。

実は、去年の秋に健康のためにと、息子からスポーツタ
イプの自転車が送られてきました。せっかくのプレゼン
トだからと乗り出してみると楽しくて、調子に乗って20
㎞ 30㎞ 50㎞ 100㎞と、走る距離をどんどん伸ばしてい
きました。

ところがある日、トンネルの中でバランスを崩し、転倒
してしまったのです。どうやら、気を失っていたらしく、
たまたま通りがかった人が通報してくれて、近くの病院
に救急搬送されました。

肋骨三本が折れて坐骨にヒビが入っていたため、横にな
っているときは不自由を感じないものの、トイレに行く
にも杖をつかないと歩くこともままならない状況でした。

退院してからもそんな状態が続いていたある日、「なん
てことだ、まったく…」と、ことあるごとに愚痴をこぼ
している自分に気がついたのです。まるで世の中で自分
だけが辛い思いをしているように嘆いている自分を情け
なくさえ感じました。

さてこの「愚痴」という言葉。愚も痴も共にオロカと言
う意味です。一般的には、言うても仕方がないことをク
ドクド嘆くことを「愚痴」と言いますが、仏教では、愚
かなこと、無知であることを「愚痴」と言います。

正法眼蔵随聞記という書物の中には、宗祖道元禅師さま
のお言葉として『愚痴なる人は、その栓なき事を思い云
うなり』「オロカなる人というものは、かいもないこと
を考えて言うものだ」と出て参ります。

つまり、オロカという言葉そのものだったわけですが、
それが江戸時代には「間違った意味のないこと」となり、
現在のような「言うても仕方の無いこと」というふうに
変化してきたようです。

おりしも五月病が話題になる時期ですが、この春、新し
い学校や職場でスタートを切った皆さんのみならず、ど
んな人にも「今まで」と「今」とが違うということが多
々あろうかと思います。

そんなときこそ、今までが良かったという思いにとらわ
れて後ろ向きにならぬよう、愚痴なる人にならぬよう、
気持ちを切り替えて、今、そしてこれからを大切に、前
向きな一歩を踏み出していただきたいと思うのです。か
く申す私も、愚痴なる我が身を反省し、先ずは昨日より
今日、今日より明日と、すっかり落ちた気力体力の回復
に努めてまいります。

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2021/05/11~20   老婆心

講師:高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

風薫る五月。コロナ禍とはいえ、みずみずしい新緑を目
にすると心が洗われるような気がする今日この頃です。

そんな心地よい季節のはずの五月ではありますが、「五
月病」という言葉を耳にしたことはないでしょうか?新
入学生や新入社員となった青年たちが、ゴールデンウィ
ークでお休みが続くと、それまでの一か月間、緊張して
張り詰めていた心の糸がプツリとキレて、休み明けに、
学校や会社に行きたくないとか、なんとなく体調が優れ
ないといった状態になることを称して「五月病」という
のだそうです。

端から見ている分には、一所懸命に受験勉強をしたり就
職活動をしたりして、せっかく入った学校や会社じゃな
いか。何があったか分からないが、もう少し頑張ってみ
ないかい?と老婆心ながら言ってやりたくなったりも致
しますね。

そこで、今回はこの「老婆心」という言葉を紐解いてい
こうと思います。

今時は、この言葉自体、使う人が居なくなったのではな
いかと思えるほど死語に近いかも知れませんね。皆さん
なら、この老婆心という言葉をどのように解釈されます
か?

曹洞宗の宗祖道元禅師さまに、修行僧の食事を作るにあ
たっての、修行僧の心得を書き記した『典座教訓』と言
う書物があります。その書物の中で道元禅師さまは、老
婆心とは「父母の心」なりと示されているのです。

さて、ではどのような心が「父母の心」なのでしょうか?
この書物の中にその心が書かれていました。「自らの寒
さを顧みず、自らの暑さを顧みず、子を蔭い子を覆う」
と。

なるほどそうですね、子供のこととなれば自分のことは
さておいて、まずは、子供を飢えや暑さ寒さからかばい、
守る。それが親の愛情、親心というものですね。

そこで道元禅師さまは、食事を作るに当たっては、食物
を取り扱うことひとつ、水を取り扱うことひとつも、親
が子を育てる時と同じように慈しみ深く真心をもって務
めよと仰るのです。

そしてさらに道元禅師さまは、こうも示して下さってい
ます。「一途に他のもののことを思い、努力することを
『老心』『老婆心』という」と。

甘やかすでもなく、厳しくするでもなく、一途に他のも
ののことを思いやる行いが老婆心だと仰るのです。老婆
心をもって、新入学生や新入社員に接すれば、五月病で
苦しむ人も減るに違いありません。

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2021/04/21~30   内証~自己を見極める

講師:高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

今日は、仏教用語のお話しの2回目「内緒」です。
「内緒の話」という童謡がありますが覚えておいででし
ょうか?そうです「ないしょ、ないしょ、内緒の話はあ
のねのね~♬」という、あの歌です。この歌に代表され
るように、一般的に「内緒」と言えば、「これは誰にも
言っちゃ駄目だからね」という意味で使われます。

でも、元々この言葉は仏教用語で、内外の内に、証明書
の証と書いて「内証」が本来の言葉なのだそうです。さ
らにこの「内証」は、元々の言葉である「自内証」を略
したものだとのことです。

どういう意味かというと、自分で正しいことを悟る・明
らかにするということ。・・・私たちが普段使っている
内緒とは大分違っていますね。

実は、昨年の十月のこと。遠方に住む次男から健康の為
にと、自転車が送られて来ました。スポーツタイプのな
かなか格好いいスタイルが気に入って、暇を見つけては
その自転車に乗るようになり、「今日は、何キロ走った」
とか「カロリーをこんなに消費したぞ!」と、一人で悦
に入っていたのです。新しい自転車にも慣れて、どんど
ん距離を伸ばして100キロ走に挑戦し始めたある日の
こと。それはフトした、一瞬の心の隙間の出来事でした。

歩くより遅いくらいのスピードでUターンをしようと、
足を路面に伸ばしたときにその事件が起きたのです。長
距離を走って疲れていたのでしょうね、足を伸ばしたつ
もりが伸ばし切れておらず、砂利道で無様にドターン!
と転んでしまったのです。数日前に購入したばかりの新
品のヘルメットは勿論のこと、顔も、砂利道にズリズリ
と・・・。幸いなことに顔の傷は軽かったのですが、お
気に入りのヘルメットが傷だらけになってしまったのが
とてもショックでした。

この転倒事件、さすがに自転車を買ってくれた息子に隠
し立て出来ず、「あのな、内緒の話なんだがな・・・」
と報告したのです。すると、息子がこう言ってくれまし
た。「ほかに怪我したところは無かったのか?」と心配
してくれたり、「ヘルメットを被っていて、良かったじ
ゃない」と。

そこで気が付いたのです。『ないしょ』とは、自転車で
転んだことを隠そうとするのが「内緒」ではなく、体幹
を鍛えるトレーニングを怠っていたのがそもそもの原因
であると見極めるのが「内証」であったと。その見極め、
内証を明日へと繋ぐことが、気遣ってくれた息子の心を
生かすことになるのかなぁ?!と自戒した次第です。

人に隠し事をする内緒ではなく、自分をしっかりと見極
める内証を、明日への一歩にしたいものであります。

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2021/04/11~20   自在~こだわりを捨てる

講師:高知県 浄貞寺 伊藤正賢師

今年も早いモノで四月となり、真新しいランドセルを背
負ったピカピカの小学一年生の姿を目にするようになり
ました。可愛くて好いものですね。まだまだ新型コロナ
の影響が強いご時世ですが、普段の生活の中で出会う、
小さな喜びを大切にして過ごしたいものであります。

さて、今日から四回に渡って、仏教語講座・・と言うと
偉そうに聞こえるのですが、普段私たちが何気なく使っ
ている言葉の中から、これが仏教用語なの?と思われる
ものを紹介してまいります。

今回は其の一、「自在」です。この言葉、自由自在とか、
自在に操るなどと、何でも思い通りに動かしたり、意の
ままに操ることが出来るという意味合いで使われること
が多いようです。

私は子供の頃よく、人をラジコンのヘリコプターのよう
に自由自在に操ってみたいなあって考えたことがありま
した。でも、そんなこと出来る訳が無いですよね。当然、
夢見物語でした。人は、玩具や機械と違って、ポチッと
スイッチを入れたり、ボタンやレバーを回すだけでは動
かないんです。人は心でしか動かされないんです。そん
なことに、随分大人になってから気付かされました。

そんな「自在」という言葉ですが、仏教では、『心が悩
み苦しむことから解き放たれて、思うがままに行える力』
を自在と言うのだそうです。そして、そんな力がお釈迦
さまや菩薩さまには備わっているとされています。

実は、この自在という言葉のつく菩薩さまが、かの般若
心経に出てまいります。皆さんお気づきでしょうか?そ
うです、冒頭の「観自在菩薩」です。観自在菩薩さまは
世の中のすべてのモノをこだわりのない心で、思うがま
まに観ることが出来る優れた力を持つとされ、観音さま
とも言われております。

とかく私たちは、人の目を気にしたり、人と比べて、こ
うしなければならないんだと、何かに縛られたような日
送りになりがちです。しかし、その、何かに縛られると
いう、とらわれや、こだわりや、欲望から離れれば、心
が軽やかになります。人の言葉に振り回されることなく、
自分で考え、自分の意志で、正しい行いができるように
なります。それこそが「自在」なんですね。

コロナ禍でギスギスした気持ちになりがちな毎日ですが、
自在な心で、軽やかにすごしてまいりましょう。

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2021/03/21~31   思いやりを忘れずに

講師:高知県予岳寺 濱田道圓師

先日ラジオを聞いておりましたら、思春期の子供につい
ての番組で、司会の方が専門家の先生に「思春期の子供
とどういうふうに向き合えば良いか」と尋ねると、その
先生は「先ず一つ目は、しっかり話を聞き、同意するこ
と。二つ目は、親が聞くことを8割にし、話すのは2割
に留めること。そして三つ目は、褒めることより認める
こと」と仰っていました。

また、ある日のこと、在宅介護でお世話になっている訪
問介護のヘルパーさんに、介護で大切にしていることを
尋ねると「いくら認知症が進んでいらっしゃって、あや
ふやな言動をされていても、まずは相手を受け入れるこ
とが最初の仕事です。」という答えが返ってきました。

このお二人の話を伺ったとき、私は曹洞宗の経典「修証
義」の中の一文を思い出しました。

それは「他をして自に同ぜしめて後に自をして他に同ぜ
しむる道理あるべし」という文言です。年代や境遇を問
わず、自分が自分以外の人と接するときに、まずは相手
のことを素直に受け入れること。次に相手の反応や受け
止め方を考えること。そして最後に自分の考えや思いを
伝えよとのお示しです。現代の言葉で要約すれば「思い
やりの心を忘れずに」という意味になりましょうか。先
程のラジオでの子供への接し方然り、ヘルパーさんの接
し方然りですね。

今、この思いやりが失われて問題になっているのが、イ
ンターネットでのやり取りです。コロナ禍で密集・密接
・密閉の三密を避けるためにインターネットを使う人が
多くなりました。

インターネットでのやり取りは、思ったことや感じたこ
とをその場で、そのまま、その瞬間に、世界中に発信で
きてしまうため、不用意な発信が不快感をもたせたり、
深く傷つけてしまうことがあります。その逆に、不用意
な発信が非難され、槍玉に挙げられたりすることもよく
耳にします。相手の立場に立ち、相手の思いを受け止め
て、相手を慮りながら発信する「思いやり」が何より大
切ですね。

インターネットに限らず、コロナ禍にあっては、マスク
に遮られて相手の表情や雰囲気を感じとることが困難に
なりました。人と人とのふれ合い、人と人との生の繋が
りがつくづくありがたく感じられます。お互いの息遣い
を感じながら気持ちを通わせられる、マスクを外して満
面の笑顔で話し合える、そんな日が早く来ることを切に
願います。

2021/03/11~21   フィルターを取り払う

講師:高知県予岳寺 濱田道圓師

昨年の暮れ、お歳暮を贈ろうとお檀家さんが営む酒屋さ
んに伺った時のことです。奥さまに助言を頂きながら品
定めをしたり、宛名を書いたり、包装をして頂きながら
お話をさせて頂きました。

その酒屋さんの奥さまは東京生まれの東京育ち、ご主人
と巡り合うまで東京を離れたことはなかったとのこと。
東京でご主人と巡り会って結婚され、しばらくは東京で
暮らしていたのですが、ご主人のお父さまが体調をくず
されたのを機に高知に帰られたのだそうです。

「慣れぬ田舎での生活で、さぞかし気苦労も多かったで
しょう」と伺いますと。「やはり初めは大変でした」と
仰っていました。

奥さまに「どうやって高知の生活に慣れましたか?」と
伺いますと、暫く考えられた後、「そうですねえ。好き
になることにしました。」と答えられました。

そういえば私も、12年前に高知県に赴いた当初は、慣れ
ぬ言葉や慣れぬ風習に、心の中にモヤモヤとしたイヤだ
な、面倒だなという感情を抱えていました。しかしある
日、落ち葉掃きをしてきれいになった境内を見たときに
「そうだ、このままでは、いつまでもイヤなこと、面倒
なことのままだ」と気が付きました。それ以来、小さな
ことでも、好き嫌いの垣根を取り払って取り組むと、い
つの間にか、周りに溶け込めるようになっていました。

好きや、嫌い、というのは自分自身の心の中のフィルタ
ーを通して物事を感じていることであると言えます。心
の中のフィルターを通して、好きな物には興味や関心を
持ちます。好きな人とは近寄って話をします。その反対
に、嫌いな物には無関心になります。嫌いな人とは距離
をとります。

違った言い方をすれば、好きや嫌いという感情は、心の
中のフィルターを取り払うことで、その感情を切り替え
ることができるということではないでしょうか。

心の中のフィルターを取り払い、身の周りの些細なこと
にでも関心を持って生活していると、気づかなかった喜
びや感動を得ることに繋がります。普段あまり関わりを
持たない人とも交わりが出来れば、新たな学びやご縁が
できるかもしれません。それこそが、恵みのある豊かな
生き方ではないでしょうか?

コロナ禍でソーシャルディスタンスが新たな標準になっ
ておりますが、心の距離だけは離れずに過ごしたいもの
です。

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2021/02/21~28   放てば手に満てり

講師:高知県予岳寺 濱田道圓師

当寺のお檀家さんで、刃物を打つ鍛冶屋さんとして大変有
名な方がおられます。先日、その方のお母さまのご法事の
折りに色々なお話を伺いました。

実はこの方、ある技術を習得するために大変なご苦労と研
鑽を積まれたのだそうです。お祖父さま、お父さまと代々
の鍛冶屋さんの家に生まれたのですが、鍛冶屋を継ぐつも
りはなく、中学校を卒業してすぐに大工さんを志したとの
ことでした。

最終的には、お父さまの跡を継いで腕を磨き、鍛冶屋とし
て立派に生計を立てるまでになられたのですが、それだけ
では満足せずに、さらに極みを目指して刀鍛冶に入門を願
い出たとのこと。

しかし、簡単に入門が許されるはずもなく、何度も何度も
断られた挙げ句、ようやく鍛冶場に入ることを許され、様
々な書物を読んで研究したり実際に何度も打ったりと試行
錯誤を繰り返し、今では、その方にしかできないという特
殊な伝統技法を習得されたのだそうです。

私は、この方がその技法を習得する為に、ひたむきな努力
を続けられた事はもちろんですが、何より一人前の鍛冶屋
であったご自身を更に向上させるため、我(が)を捨てて
頭を下げ、入門を請われた姿に感銘を受けました。

禅の教えの中には「我執=がしゅう」という言葉がよく出
てまいります。自分自身に執着するという意味で、自分自
身へのこだわりのことです。今までの経験や実績は自分自
身の糧となりますが、それにこだわりすぎると、自分自身
の成長を妨げかねません。また、あまりにもこだわりが過
ぎると、周りとの協調が取れなくなることもあります。

禅の教えに「放てば手に満てり」という言葉がありますが、
その言葉が示す通り、手の平を開かなければ手は自由に使
えず、新しいものを掴むことも出来ません。皆さん、その
手にこだわりを握り込んで自分自身が縛られてはいないで
しょうか?こだわりを握り込んで、自分自身を覆い隠して
しまってはいないでしょうか?

手も心も大きく広げて、さまざまな出会いの機会やご縁の
輪を大切にしたいものです。

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2021/02/11~20   息を大切に

講師:高知県予岳寺 濱田道圓師

昨年、一大ブームを巻き起こした代表格に、「鬼滅の刃」
が挙げられるでしょう。私も読ませて頂き、激しい戦い
や、親子兄弟との愛情、困難に立ち向かう仲間との友情
と惜別に、熱い思いをたぎらせた一人です。

作中では、主人公たちが自分自身を強くするために習得
する技術として「〇〇の呼吸」や「全集中」という言葉
がよく出てきました。

実は、我々曹洞宗のお坊さんも坐禅の時に、鬼滅の刃風
に言いますと「全集中の呼吸」をします。但し、強くな
るためではありません。坐禅のはじめに「欠気一息」と
いう深呼吸を行い、肺の中から息という息を出し切り、
まっさらな空気を取り込みます。

坐禅では、まず初めに姿勢を調え、次に息を調え、最後
に心を調えます。体と心の間に呼吸、息が入っています
が、なぜこのように息・呼吸を大切にしなければならな
いのでしょうか?

息というのは、我々の感情や状態を表す言葉としてしば
しば用いられます。いくつか例を紹介しますと、息を荒
げる・息を潜める・息が合う・息が掛かる・息が長い・
息もつかせない・息を呑む・息を抜く・息を弾ませる・
そして、生き死にやいのちに関わるところで、息吹・虫
の息・息を吹き返す。そして、息を引き取る等、身近な
ところにあふれております。

そもそも「息」という漢字は、自らの心と書きます。つ
まり、息そのもの呼吸そのものが私たちの心であり、命
なのだとも申せましょう。

皆さまご存知の通り、息をするという行為は、生命の維
持に必要不可欠です。私たちはごく自然に、当たり前に
息をしています。

では、今の息、今の呼吸は調っていると言えるでしょう
か?怒りに任せて息が荒くなってないでしょうか?塞が
った気持ちで背中が丸くなり、息が浅くなっていないで
しょうか?

コロナが蔓延し出口が見えず、息の詰まる生活が続いて
おりますが、今こそ欠気一息、姿勢を調え、息を調え、
心を調えて、毎日を穏やかに過ごしてまいりましょう。

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2021/01/21~31   新しいお別れの様式

講師:愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

新型コロナウイルスは大切な人との最後の別れであるお
葬式にも大きな影響を及ぼしています。小規模かつ簡素
化が求められ、少人数のみで執り行う家族葬が主流とな
り、都市部では少しでも集まる機会を減らすために通夜
を無くした一日葬や火葬のみを執り行う直葬も耳にいた
します。

大きく変化した葬儀のかたちに次第に慣れつつある今、
変化によって生じてきた様々な問題を耳にするようにな
りました。

緊急事態宣言が出されていた四月にお葬式を行なったお
檀家さまは、限定された近親者のみ八名で行ないました。
お葬式が終わってしばらくすると、「お葬式に行けなか
ったからお線香をあげさせてください」と自宅に大勢の
方が訪ねてきて、対応に追われて大変だったそうです。

また、通夜も告別式もなくして、火葬場で短いお経をあ
げるだけの火葬式を行なった方は、亡くなったことをご
近所に知らせていませんでした。周囲の人は何もなかっ
たかのように接してくるし、「ご主人の具合はどうです
か?」と聞かれて、その都度「亡くなりました」と言う
のがとても辛いとのことです。

同じような悩みを抱える遺族が多いからでしょうか、最
近は参列を限定したり自粛したりするのではなく、お参
りの時間を分散するスタイルがあるようです。通夜や葬
儀は近親者のみで行いますが、身内以外の人は式に差し
障りのない前後の時間帯にお参りに来ていただく方法で
す。

決まった時間帯に大勢の人が集まって、同じ空間に長く
人が居ることを防ぐことができます。故人の最後の姿と
対面することができますし、直接お別れを言うことがで
きます。遺族の方にお悔やみを伝えることもできます。

お葬式は亡くなった方を囲んでその死を悼み、故人を偲
ぶ大切な時間です。最後のお姿と向き合うことで亡くな
ったという事実を受け止め、故人との思い出を遺族や他
の参列者たちと語り合うことで悲しみとの折り合いをつ
けていくのがお葬式です。

気持ちの整理をつけるためのお葬式の役割があるからこ
そ、故人の面影が大切な絆となってあらためて胸に刻ま
れて、それが明日以降生きていける自分の糧になってく
れるのではないでしょうか。

新型コロナウイルスの感染拡大で「自粛警察」などとい
う言葉が生まれるほど精神的に不安定になっている世の
中ですが、身体の距離は離しても心まで離さず、心と心
の触れ合いを心掛けたいものです。

政府が提唱する「新しい生活様式」の中で、知恵を出し
合い工夫を重ね、故人を偲び心静かに弔うという、お葬
式本来の時間を大切に過ごしたいものですね。

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2021/01/11~20   新年をむかえて

講師:愛媛県 法蓮寺 川本哲志師

新年が明けました。皆さま良いお正月を迎えられたでし
ょうか。

明治以前の日本では、お正月は老いも若きも一斉に年を
取る日でした。昔は数え年で年齢を数えていましたので、
生まれた日を一歳として、正月を迎えるごとに一歳加算
される年齢の数え方でした。したがって、個人の誕生日
を祝うという習慣もなかったようです。「あけましてお
めでとう」の新年の挨拶は、「あなたも私も、誕生日お
めでとう」の意味も含まれていたのかもしれませんね。

とんちで有名な一休さんに、お正月に杖の頭にどくろを
しつらえて、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩い
たという逸話があります。そして、「門松は冥土の旅の
一里塚めでたくもありめでたくもなし」と和歌を詠み、
お正月はめでたいものだが、裏を返せばみんな歳を重ね
てあの世にまた一歩近づいたのだから、めでたくない日
でもあるのだよ、と示したのです。

新年を迎えた、あるいは誕生日を迎えた時に、「また一
つ年をとって老いてしまった」と考えたことはありませ
んか。一休さんの強烈な皮肉は、めでたいと思いながら
も頭の片隅ではさみしさを味わうという私たちの複雑な
心境に似ています。

曹洞宗開祖の道元禅師は、「今日は生きているけれども
明日も命があると思ってはならない。死や危険は今すぐ
にもやってくる」と言われました。今日元気だからと言
って明日も生きているという保証は誰にもありません。
その事実を知れば命のはかなさに気付きます。はかない
命だと思えば、毎日を大切に生きていこうという気持ち
になります。

お正月に初詣に行かれた方が多いと思います。初詣に行
くと神様仏様にいろんなことをお祈りします。私もご本
尊様に三ケ日のお勤めをして、「今年も家族みんなが元
気で平穏に暮らせますように」とお願いしました。その
時に、一休さんの「ご用心、ご用心」の言葉が頭をよぎ
りました。お願いするだけではいけないと気付いたので
す。「健康に気を付けます、バランスの取れた食事と適
度な運動を心掛けます、仕事も大事ですが家族との時間
を大切にします」という目標を伝えることにしました。
儚い命を大切に生きていこうとするならば、神頼みでは
なく目標や決意を伝えるべきだと思ったからです。

誰かに思いを伝えることで、毎日をより良く生きていく
ための行動力になるでしょう。私たちの命は、いつどう
なるか分からない儚い命なのだと用心しながら、令和三
年の毎日を大切に過ごしていきたいものですね。

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