坐禅...自らに向き合えば、新しい自分にきっと出会える!

法話:書庫2 2011年1月 ~ 2012年12月

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法話:書庫2 2011年1月 ~ 2012年12月

2012/12/11~20   本来の面目

講師 愛媛県 少林寺 宮本寛司 師

春は花 夏ほととぎす 秋は月
  冬雪さえて すずしかりけり (道元禅師)

本年も年末になり、衆議院解散・総選挙と慌ただしいう
ちに終わろうとしております。

しかし、世の中は変われども、毎年同じように山の木々
は彩り、枯れ落ち、そして、毎朝ごとに寒さが増してき
ております。

季節には季節ごとの装いや彩りがあります。

春には花が咲き、夏にはホトトギスが鳴き、秋には月が
美しく、冬には雪が深々と降り積もる。そのように季節
ごとにそれぞれの姿があるからこそ、その風光を道元禅
師は「すずしかりけり」と清らかで、あるがままの姿と
して詠まれたのでしょう。

それと同じように、我々人間の一生も若く生き生きとし
た季節、老いて力の弱くなる季節、喜びの溢れる季節、
悲しみに心塞がれる季節など、様々な彩りに包まれてい
ます。

しかし、そのような人生の季節を精いっぱい生きる姿こ
そ、清々しく美しいのではないでしょうか。
人の生死というものは「生来たらば生、死来たらば死」
であります。

道元禅師は先ほどの歌に「本来の面目」という題をつけ
ておられます。即ち、本来の在り方ということです。本
来の面目は、春は花、夏ほととぎすというように、常に
目の前にあるということでしょう。

とはいえ、現実の私たちの生活の中では、迷うことばか
りです。

そこで、大晦日には、お近くのお寺さんで除夜の鐘を撞
き、お参りをして迷いを払い「すずしかりけり」のお姿
で、新しい年をお迎えになってはいかがでしょうか。

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2012/11/21~30   緑に囲まれて

講師 愛媛県 西光寺 中川 光真 師

「よいさ、よいさ・・・もてこい、もてこい・・・」
秋のさわやかな青空の中、松山秋祭りが開催されました。

今年は日曜日だったということもあり、例年以上の担ぎ
手と観客の方々で大変にぎわいました。

私も、御神輿を担ぐようになって今年で六年。お祭りで
は、伝統の継承、地域の人々との関わり等、多くの事を
学ばせて頂いております。

中でも、地域の人々との関わりには、六年という短い間
ではありますが、一期一会の出会い、多くのご縁があり
ました。

一期一会の「一期」とは、人が生まれて死ぬまでの一生
を表し、「「一会」とは、ただ一度だけの出会いをいい
ます。

その為、一期一会を、一生に一度の出会いと解釈される
かもしれませんが、それでは、正確ではありません。

たとえ毎日のように会っていても、それは一生に一度の
出会いです。

なぜなら、そこには時間と空間が流れており、日々新た
な生があるからです。

二度と同じものはない人生だから、一瞬一瞬をどう生き
るかが大切なのです。

人間、一人では生きていくことは出来ません。

多くの人々とのおかげさまであり、協力、助け合いによ
って、出会いと別れを繰り返しながら生きているのです。

今ある命を大切に、人と人との繋がりを大切に、しっか
り自分自身の人生を歩んでいって下さい。

人生において定年はありません。老後も余生もないので
す。死を迎えるその一瞬まで、人生の現役です。

長いようで短い人生と思うか、その逆も又、しかり。

自らの人生を悔いなく、今までの出会い、そして、これ
からの出会いに感謝してまいりましょう。

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2012/11/11~20   生きているということ

講師 愛媛県 泰平寺 星野 隆信 師

時の経つのは早いもので、今年もひと月余りとなりまし
た。

地球が誕生した四十六億年前を一月一日とし、今現在を
十二月三十一日として、地球の誕生から現在までを一年
として換算してみますと、人類が誕生したのが、十二月
三十一日の午後四時ごろだそうです。

お釈迦さまがお生まれになったのが、何時ごろになるか
というと、十二月三十一日の午後十一時五十九分四十二
秒ぐらいになります。

そう考えますと、人の命を約一〇〇年と考えましても、
一秒以下ということになります。

光陰は矢よりも速やかに、人の命は露よりも脆しと申し
ます通り、我々は無常の世の中、限りある命を生きてお
ります。限りある命だからこそ、一日一日を大切に生き
ていかなければなりません。

作詞家の永六輔さんの詩に、

「生きているということは
 誰かに借りをつくること
 生きていくということは
 その借りを返してゆくこと
 誰かに借りたら 誰かに返そう
 誰かにそうして貰ったように
 誰かにそうしてあげよう」

という詩があります。

よく「子供には、人さまに迷惑だけはかけるなと教えて
きた」という人がいます。しかし、実際に迷惑をかけな
いで生きてゆくことはできません。

インドでは「人は迷惑をかけるもの、だから他人の迷惑
を許す心を養え・・・」と教えるそうです。

生きているということは、知らず知らずのうちに、周り
の人々や大自然から、たくさんの御恩を受けているとい
うことです。

道元禅師さまは「日日の行持、その報謝の正道なるべし」
とお示しになられております。

限りある命、感謝の心を忘れず、少しでも受けた御恩を
お返ししようと精進することこそ、お釈迦さまのお教え
する正しい道ではないでしょうか。

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2012/10/21~31   秋の彼岸を終えて

講師 愛媛県 観音寺 三好 真人 師

一般的に「暑さ寒さも彼岸まで」とよくいわれますが、
今年の秋彼岸は、正にそのままであったと実感していま
す。

台風16号の接近までは、うだるような暑さで、いつま
でこの残暑が続くのかと思いながら、彼岸入りを前にし
て墓地の掃除をしておりましたら、お檀家さんに声をか
けられました。

「和尚さんも台風が来るけん、早めに掃除かな?」
「はい、台風が通った後やったら大変やけん。」

考える事は同じなんだなと思いながら掃除を続けている
と、他のお檀家さんにも声を掛けられ、似たような会話
を繰り返していました。

できれば台風の被害が少なくて済むようにと願いながら
お彼岸に入り、そしてお中日を迎えました。

お檀家さんの思いが通じたのか、台風の被害は大したこ
となく、少しごみを片付ける程度で済みました。

私共のところは大したことはなかったのですが、大変恐
い思いをされた方々もいらっしゃるのではないかと思う
と、改めて自然の猛威の恐ろしさを感じました。

彼岸の時期というのは毎年決まっておりますが、自然の
猛威は我々の都合はおかまいなしです。

何気無く過ごしている日常の中でも自然と共生していく
には平生の備えがいかに大切であるか、かといって見え
ない不安にとらわれて生活を送るというのは負担が大き
いでしょう。

問題は被害にあった時、周りの人達といかに助け合える
か、物的被害よりも心の被害をどう支え合うか、そうい
う事を考えさせられた今年の秋の彼岸でした。

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2012/10/11~20   ダルマさん

講師 龍泰寺 舛田 豊範 師             

ダルマさんの絵柄は、掛け軸や団扇などに多く描かれて
います。

張り子のダルマは、置物や装飾品、更には選挙の時にも
縁起物として飾られます。また、雪ダルマや運動会のダ
ルマ競争などでも、とても親しまれて居ます。

張り子のダルマさんは、七転び八起きといって、倒して
も転がしてもすぐに起き上がります。

これは達磨大師がどんな苦難にも屈せずに、釈尊のみ教
えを広める為に、不撓不屈の強い精神力で苦難を克服し
切り拓いていったその不退転の気力にあやかっているの
です。

どんな失敗や逆境にもめげず挫折することなく何度でも
立ち上がって邁進しようという意味で最高に尊ばれ、親
しまれ、縁起物として愛されています。

達磨大師は、十七歳の時、釈尊より二十七代目のお祖師
様である、般若多羅尊者より菩提達磨という名前を授か
りました。

その後、お師匠様の命により、釈尊から代々受け継いで
きた真の仏法、正法と坐禅を、はるばる中国に釈尊のお
伝えになられました。

こんな逸話が残っています。梁の武帝が達磨大師に『私
はお寺も建てたり、僧侶を大切にしたりしている。これ
はどういう功徳があるか』と問うたところ、達磨大師は
『どれもこれも功徳にならない』とお答えになりました。

武帝にはこれだけの事をしたから、という自我心が働い
ていたのです。

達磨大師は、そうではなく、ただただ無心に黙々と善行
を重ねる深い心を持たなければいけない、とお諭しにな
られたのです。

この事を『無功徳』といいます。

この世の中は、権力・名誉などすさまじく、達磨大師の
お目から見たら、さぞ浅ましく思し召す事でしょう。

善行をするに当たって損得にとらわれず『廊然無聖』カ
ラッと澄みきった心で、ただ実行あるのみという生き方
ができたら、人生どんなにさわやかになるでしょうか。

その境地に少しでも近づけるよう努力を致したいもので
す。

※十月五日は達磨忌(達磨大師のご命日です) 

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2012/10/01~11   真心の味

講師 愛媛県 溪寿寺 金岡 潔宗 師

今、田んぼでは、たわわに実る稲穂が頭を垂れています。

稲は、八十八回の手を経て、おいしいお米になると言わ
れ、大自然の太陽や水の恵みはもちろんのこと、農家の
皆さんの尊い汗があって、はじめて美味しいお米になる
のです。

先日、あるスーパーで「不揃いなお米を使用して、とこ
とん価格を追求した商品です」というお米が売られてい
ました。

お米にも色々あるのでしょうが、そのどれもが、一つぶ
一つぶ、丹精込めて作られたお米であり、一つぶ一つぶ
の命があるのです。

私たちは、つい、安いとか高いとか、その物の価値を値
段で判断してしまいます。

けれども、すべてのお米には『真心』がこもっているの
です。

禅寺では、六つの味を大切にします。苦い、すっぱい、
甘い、しょっぱい、そして、淡い味です。

淡い味とは、どんな味をいうのでしょうか?

一口食べて、美味しいと感じる味ではなく、食べ終って
からじわじわと美味しさを感じる、素材本来の味、その
ような味を、淡い味というのです。

最近は、マヨネーズや激辛の唐辛子など、さまざまな調
味料をかてけ、素材本来の味や料理を作ってくれた人の
真心が分からなくなっている料理を多く見かけます。

長寿世界一の木村次郎右衛門さんの長寿の秘訣は「食細
くして命永かれ」で、元気の秘訣は「てんとうさんのお
恵みのたまもの」だそうです。

ただ単に食べ過ぎないという事だけでなく、食べ物をい
ただく時には、素材の生命をいただくという事、素材と
調理をしてくれた方の真心、さらに、その素材を丹精込
めて作った方の真心に感謝して食事を頂く事が、「食細
くして」ということに繋がるのではないでしょうか。

食欲の秋です。『真心』の味に感謝して頂きたいもので
す。

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2012/09/21~30   此の岸辺から彼の岸辺へ

講師 愛媛県 安穏時寺 島津 雄児 師

私たちの生きるこの世は、迷いや不安、煩悩に満ちた世
界といわれます。

試しに三分間、目を閉じて黙ってみてください。何も考
えずにいられるでしょうか?

驚くほど沢山の思いが湧いてきます。そして、小さな不
安、例えば「今日のお夕飯どうしようかしら・・・。」
などと気になり始めると、その事で頭がいっぱいになっ
てしまいます。

人は、毎日の生活の中で、目から耳から膨大な情報が入
ってきます。そして、それに合わせ、自分が認識してい
る以上に迷いや不安など、様々な思いを巡らせているの
です。

さて、いま丁度秋のお彼岸です。お寺の脇にも彼岸花が
咲きました。私たちの生きる迷いのこの世界を、此の岸
辺「此岸」と呼びます。対して、迷いのない穏やかな、
さとりの世界を、憧れを込めて、彼の岸辺「彼岸」と呼
ぶのです。

お彼岸は、さとりの世界に思いを馳せる時でもあります。

さあ、溢れる情報から少し自分を切り離し、坐禅で静か
な時間を過ごしてみましょう。

先ず、背筋をまっすぐに伸ばし、姿勢を調えます。次に
呼吸を調えましょう。丹田を意識し、鼻から呼吸をしま
す。力まず緩まず、穏やかな呼吸を行います。坐禅をす
ることに意識を集中していきます。

美しい姿で、気持ちの良い息をして、穏やかな心で坐る
自分をイメージしてください。彼の岸辺へと思いをはせ
てみましょう。

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2012/09/11~20   おじいちゃん死んでないんやなあ

講師 香川県 南隆寺 大石 光昭 師

この夏も格別な暑さの中、お盆の棚経で殆どのお檀家さ
んを回らせて頂きました。

短いながらも数百人の方と挨拶を交わし、お話をしたわ
けですから、最初のほうの方は何ヶ月も前にお会いした
ような、そんな錯覚に陥ります。

そんな中で、数年前に八十前のご主人さんが亡くなった
あるお檀家さんでの話です。

お参りが終わり、玄関から門の方へ奥さんと娘さんと三
人で話しながらお見送り頂く途中、亡くなったご主人が
脳梗塞で倒れたあと、バリアフリーにと作ったスロープ
に蛇が出てきたときの思い出話しを娘さんが始めました。

内心「あーいかん!始まった!お盆は沢山回らないとい
けないから、そんなに丁寧に外まで見送ってもらわんで
も…。」

不謹慎ではありますが、そんなことを思っておりました。

蛇が大嫌いな娘さんが、「キャーッ!」と大声を出すと
娘の一大事と(娘さんといっても六十過ぎですが…)中か
ら半身が不自由なご主人が、手すりにつかまりながら、
しかも、杖を振り上げ、蛇を追い払おうと転びそうにな
りながら出てきたそうです。

娘さん曰く「いつもならおじいちゃんの手を引いて歩く
スロープやけど、あの時だけは、蛇が怖くて、おじいち
ゃんをほったらかしで家へ逃げ込んだんですよ。」

そこで三人そろって大笑い。

笑いがおさまって、後ろで聞いていた奥さんが一言「和
尚さん、やっぱりおじいちゃん死んでないんやなあ、み
んなの中にちゃーんと生きとんやなあ」と。

そのあとのお盆参りの家では、「皆さんの心の中には、
お父さんお母さん、大切な人、愛した人は生きています
か?」と、後ろに座るお檀家さんに問いかける気持ちで
お経をあげさせていただきました。

変な話ではありますが、言いかえれば、亡くなった人は
家族や親しい人の心の中でしか生きられないのです。

来週は、早やお彼岸です。

お墓やお仏壇をいつも以上に清らかにすることで、自分
も澄んだ心となります。その澄んだ心にこそ、亡くなら
れた方々は生きているのです。

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2012/08/20~31   帰家穏坐(キカオンザ)

講師 愛媛県 宝蔵寺 石井 一行 師
 

お盆が終わり、また日常の生活に戻っているところです
が、お盆にはご先祖様の仏壇やお墓参りをして、改めて
亡き人の想いや願いを想い起こし、またこれからの自身
の生き方の軌道修正をするきっかけとされたことと思い
ます。

『帰家穏坐』という言葉があります。生き方に迷い、道
を失いかけた時は、一度家に帰ってゆっくり坐ってみま
しょうということです。

思うように事が運ばない時には自分の想いを変える事も
また大切なことです。

静かに坐ってみることで、積もりつもった垢が洗い流さ
れ、素直になった心が今までと違った世界を見せてくれ
ることもあるでしょう。

ロンドン五輪の日本人選手の活躍は新たな感動を与えて
くれました。特にメダリスト達の話で印象に残ったのは
支えてくれる人、応援してくれる人への感謝の気持ちで
した。

毎日過酷な練習に耐えてなお、身近な人への気配りを忘
れない、その姿に感銘を受け、そういう若い選手が大勢
いることを誇りに思いました。

自分を育ててくれた両親や、おじいちゃんおばあちゃん
のお陰、また多くの廻りの人達の助けがあってこそ今の
自分があることを、彼らは身をもって示してくれました。

戦いの中にあってなお、自分が競技生活を送れることの
大切な縁をじっくりかみしめ、廻りの人達への感謝の気
持ちを表す為に最高のパフォーマンスができればと口々
に言っていました。

その事がなにより一層、私たちの感動を呼び起こしたと
いえましょう。

今選手たちは故郷に帰って、改めて廻りの人達と共に、
感謝と感動を分かち合う喜びを感じているでしょう。
 
私たちも、自身の恵みとなっているすべてのものに感謝
する心に目覚め、一日一日その思いに報いる日送りをし
たいものです。

2012/08/11~20   かけがえのない命  

講師 愛媛県西滝寺 福村 俊弘 師 

今日はお盆の季節にちなみ『迎え火』というご詠歌を紹
介し、いのちについてお話したいと思います。
 
 子等の焚く 迎火の炎のさ
  ゆらぐは みたまの母の
   来たまえるらし
 
関東では7月、関西では8月13日の夕刻、家の門口で
麻乾(あさから)を焚き、ご先祖様をお迎えする習わし
が、迎え火です。

この歌にあるように

お盆の黄昏時、子供たちの焚く迎え火の炎が、かすかに
吹く風のせいか、ふと揺らぎます。でも、それはきっと
その時に、亡きお母様が帰ってきたんだなあと、私はそ
んな風に感じるのです。

お盆は、ご先祖から受けついだ、命の繋がりに感謝し、
その恩に報いる供養の、大切な時です。

いのちを川にたとえると、今私たちが生きている、この
川の上流には 誰が住んでいたのでしょう?

それは、先祖という「いのち」です。そしてまた、はる
か下流という遠い未来には子孫という新しい「いのち」

誕生するのです。

人間だけでなく、すべてのいのちがかかわりあい、地球
という星の上で 生かされているのです。だからこそ、
この命、おろそかにはできない かけがえのない 尊い
命なのです。

遠いご先祖様からあずかり繋がってきた奇跡の命のバト
ン、大切にしたいものです。

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2012/08/01~10   暑さ寒さのない処

瑞應寺単頭 家古谷 光現 師

開祖洞山さまに、ある僧が問(たず)ねました。

僧 「寒さ暑さがやって来た時は、どのように廻避すれ
   ばよろしいでしょうか?」
洞山「どうして寒さ暑さのない処に去らないのだ。」
僧 「寒さ暑さのない処とはどういう処でしょうか?」
洞山「寒い時には、おまえさんが大いに寒がればよいし
   暑い時には大いに暑がればよいのだ。」

古来より多くの祖師方はこの因縁(はなし)を挙(とり
あ)げられています。道元禅師さまは修行する上で、よ
くよく功夫しなさいと示されています。

生きている私達は、あれを避けたい、これを避けたいと
考えるものですが、何も暑さ寒さだけではありません。

生老病死の四苦(4つの苦しみ)は、誰も廻避すること
のできない人生の一大事です。必ず誰もが出あい、有無
を言わせずやってくる大問題です。

この暑さ寒さがやって来る時は「渾暑渾寒(すべてが暑
さ・すべてが寒さ)であって、どちらも逃れることので
きない時節(とき)なのです。

逃れることのできない時節と覚悟する処が、無寒暑(暑
さ寒さのない)処なのだとお示しになります。

そもそも仏教では、私達の苦しみは外の世界にあるので
はなく、自分の内側にある自我・私の勝手な思いが、自
らを苦しめているのだと説かれています。悩みはすべて
自分の心が作り出しているのだと。

お釈迦さまの人生はこの生老病死の四苦から始まってい
るということも、私達にとって勇気づけられる真実では
ないでしょうか。

人それぞれにやってくる、廻避することのできない生老
病死を自ら味わい受けとめ、功夫してゆくこと。これが
自己の人生であり、自分で築きあげていく人生の物語だ
と思うのです。

自分の人生に起こり得るすべての物事を、正しく受けと
め功夫してゆく時節であることを深く味わって行きたい
と思います。

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2012/07/21~31   お盆によせて

愛媛県 宗安寺 能仁 洋一 師

お盆の季節がやってまいりました。「お盆」は、正しく
は「盂蘭盆」といい、古代インドのサンスクリット語の
「ウランバナ」からきています。「ウランバナ」を訳し
ますと「倒懸(とうけん)を救う」となり、わかりやすく
すると「逆さ釣りにされたような苦しみから救う」とな
ります。

では、お盆はいつから始まったのでしょうか?

お盆の由来は、目連尊者にまつわるお話として「盂蘭盆
経」というお経に出てまいります。

お釈迦様の多くの弟子の中でも、十大弟子のおひとりに
神通第一と言われる目蓮尊者がいらっしゃいました。
目蓮さまは、とても母親思いで知られる方でもありまし
た。

ある時、目蓮さまは修行の中で不可思議な力「神通力」
を身につけられました。それは、時間や空間を超え、過
去の出来事や死後の世界さえも見通せるという力であり
ました。

すでに、お母さんが亡くなられていた目蓮さまは、ある
日、その力を使いお母さんを探されます。

すると、どうでしょう。なんと、お母さんは、餓鬼道と
いう世界に落ち、骨と皮ばかりの姿となり苦しんでおら
れるではありませんか。

目蓮さまは力を使い、お母さんにご飯とお水を差し上げ
ましたが、口に入る前に全て炎と化して炭となり、結局
一口も食べることはできませんでした。

あまりの出来事に、目蓮さまはお釈迦様のもとへと馳せ
参じ、事の次第を話されました。

すると、お釈迦様は「目蓮よ、よく聞きなさい。それは
あなただけの力ではどうすることもできない。 あなた
のお母さんは、我が子であるあなたにはとても優しい方
でしたが、我が子可愛さのあまり、知らず知らずの内に
積み重ねてしまった貪欲の報いにより、餓鬼道に落ちて
しまわれたのです。 しかし、七月十五日には九十日間
の厳しい修行を終え清浄になった修行僧達が帰ってきま
す。 その、修行僧達に様々な食べ物や飲み物を供え、
ご供養しなさい。 修行僧達は、ご先祖様や餓鬼道に落
ち苦しんでいる方たちのために、ご供養をしてくれるで
しょう。 そうすれば、その功徳により、あなたのお母
さんも餓鬼道の苦しみから、きっと救うことができるで
しょう」といわれました。

目蓮さまは、お釈迦様の言われたとおりにご供養をされ
ました。すると、その功徳によりお母さんは餓鬼道の苦
しみから解放されたのでした。

以上が「盂蘭盆経」に説かれている、お盆の由来です。

仏教には、「六道輪廻」という考え方があります。これ
は、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄といわれる六
つの世界を、人は生まれ変わり死に変わりしていくとい
うものです。

ですが、これは死後の世界の考えだけではありません。

実は、私たちが生きているこの世界にこそ六道があるの
です。誰かを憎み傷つけあう修羅の世界、手に入っても
満たされる事のない欲望の餓鬼の世界など、特にわかり
やすいのではないでしょうか。

七月十三日~十五日、または、ひと月遅れの八月十三日
~十五日はお盆の期間です。

どうぞ皆様、ご先祖様へ手を合わせご供養するとともに
自分の中にある餓鬼の心を見つめなおしてみましょう。

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2012/07/11~20   無心につとめる

香川県 見性寺 北口 善則 師

一つの道をきわめようとするとき、向上すればするほど
細心のこころを配り、高慢心やうぬぼれ、油断をしりぞ
け、道に対する緊張感や誠実さが重要になってきます。

道元禅師は『正法眼蔵随聞記』に
「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし。古
人云く、百尺竿頭如何進歩と。 然あれば百尺の竿頭に
のぼりて、足をはなたば死ぬべしと思ふて、つよく取り
つく心のあるなり。 其れを一歩を進めよと云ふは、よ
もあしからじと思ひ切て身命を放下するやうに、渡世の
業よりはじめて一身の活計に到るまで、思ひすつべきな
り。 其れを捨てざらんほどはいかに頭然を払ふて学道
するやうなりとも、道を得ることかなふべからずなり。
たゞ思ひ切て身心ともに放下すべきなり。」と、お示し
になられています。

高い竿の先にのぼってもなお、手足を放つこと、身も心
も無心になることとは、頂点に達しても、さらに向上心
を持ち続けよということなのではないでしょうか。

高慢なうぬぼれの心というのは囚(とら)われの心であり
人からもてはやされて有頂天になっている心というのは
迷いの心です。

初心に帰ることを忘れず、継続を怠らず、一切を放下し
て無心になることが大事なことなのです。

無心の心で一切をありのままに見つめ、ほんとうのこと
真実を、真実のままに受け入れてゆく態度。あるべき世
界に向かって、一歩一歩前進していくときにこそ、さら
に新たな世界が開かれてゆくのではないでしょうか。

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2012/06/21~30   和

講師 愛媛県 栖源寺 河野 道孝 師

昨年3月11日、東日本大震災では2万人以上の方々が
被災されました。家が流され家族が行方不明という、日
本では戦後最悪の大災害になってしまいました。

日本中が大災害の事で暗い気持ちいた時期でしたが、ち
ょうどその頃、第6回サッカー女子ワールドカップドイ
ツ大会で日本代表なでしこジャパンが優勝して、日本中
世界中でニュースになりました。

この優勝は、暗い気持ちでいた日本に選手のチームワー
ク一体感 結束力、一人一人が限界ぎりぎりの力で戦っ
ている姿を見た人達に、嬉しい気持ちや勇気、安心感を
与えてくれました。

チームワーク、集団による行動は、選手一人一人と監督
との考え方や気持ちの意思疎通が出来たからこそ、優勝
出来たと思うからです。

一言で優勝と言っても、簡単に優勝出来るものではあり
ません。今回の優勝は、なでしこジャパンのチームワー
クと監督に賞賛をおくりたいと思います。

お経の中に、修行生活をする仲間の意味で「和合僧」と
いう言葉ががあります。「和合」とは、平和の和に合わ
さると書きます。「和」には和らぐ、なごむの意味があ
り、「合」には、あう、あわせるの意味ですので、「仲
良く混ざり合う」という意味になりましょうか。

自分の意見だけを強く主張する事は問題があります。ま
た、個々の意見でバラバラに勝手なことをしていては、
生きていくことは困難になるでしょう。

私達は、毎日が集団生活であります。時には、意見がま
とまらない事も多々あるものです。その中で、集団にお
ける「和」の大切さがあります。仲間を相手を思いやる
気持ちがあれば自然と「和」に繋がります。

今の世の中は個人を尊重し、個性を大事にし過ぎる傾向
にあります。勿論、個性を大事にすることは悪い事では
ありませんが、自己の損得勘定で「個」を主張する人が
多くなってきている気がします。

なでしこジャパンが優勝した事は、人は人に支えられて
生きているということ、人間が生きていくことは、「仲
間」そして「和」を大切にしなければならない事を、再
認識させてくれたように思います。

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2012/06/11~20   放下著

講師 愛媛県 高徳寺 竹中 義実 師

凍てつく寒さの冬も、じりじりと太陽が照りつける夏も、
約3キロメートルの道のりをほぼ毎日のように乳母車を
押して寺へ来られる80歳のおばあちゃんがおられます。

おばあちゃんは、寺に来られると、まずご本尊様に手を
合わされ、それからご主人の眠っておられるお墓に行か
れて「また来たよー」と語りかけられながらお水やお線
香をお供えしています。

そしてその後は、日が暮れる直前まで境内の草引きをし
て帰って行かれるという日々が、もう十数年も続いてい
ます。

乳母車を押して歩いて来られるだけでも大変なことだと
思いますが、お昼過ぎから日没前までの長い時間、一本
一本、丁寧に根っこから草を引いて頂いており、いつも
本当に有り難い気持ちでいっぱいになります。

さすがに帰りも歩いてお帰り頂くのは、身体へのご負担
も大きく心配ですので、最近は車で送って差し上げてい
ますが、またこの車の中での会話が楽しいのです。

私が「今日はまた暑くなりましたねぇ」と言うと、おば
あちゃんからは「暑いや寒いと感じるのも、生きとる証
拠」と一言。

また、ご自身は本当に質素な生活をされていながら、一
所懸命にこつこつ働いて貯められたお金でスリランカに
学校を建てられたり、ご縁のある寺々や社会のためばか
りに使われているので、「もっと自分のことにもお金を
使われたらどうですか?」と言うと、「人生は夢まぼろ
し。誰かが喜んでくれたらそれでええの。お金を持っと
ってもあの世まで持って行けんけんね」と言葉が返って
来ます。

いつも車の中では、このような説法にも似たおばあちゃ
んの話が繰り返されているのです。

このおばあちゃんと話していると、いつも「放下著」と
いう禅の言葉が頭に浮かびます。これは、とらわれを放
ち捨てよというお示しです。

お金や財産、地位や名誉などにしがみつくばかりに争い
が起こったり、苦しみに縛られたりすることが多くあり
ます。

このおばあちゃんのように、少しでもとらわれを捨て、
つまらないことに縛られることなく、まず人のためにと
いう菩薩の心で日送りをして行きたいものです。

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2012/05/21~31   お先にどうぞ

愛媛県 安穏寺 島津雄児 師

日々の生活の中で沢山の決まり事があります。それを煩
(わずら)わしく思うことがあるでしょうし、キマリを守
らなければもっと楽なのにと思う事もあるでしょう。

仏教でも戒(かい)といって様々な決まり事があります。

戒には、仏教徒が守るべき決まりとして「~をしてはな
らない」と、いろいろな事が説かれています。その数は
無数にあります。大変ですね。

なぜ、沢山のキマリがあるのでしょうか?

本来、人は皆 仏様のココロをもっております。しかし、
我儘(わがまま)な自分「我見(がけん)」のためにその仏
さまが隠れてしまいます。

そこで、戒(きまり)というカタチを利用して、我儘な自
分を抑え、仏さまの自分が現れる手助けをする訳です。

煩わしく思いながらも、戒を守る事で、自分が気付かな
くても仏さまに近づいているのです。

なんて言ってたら、信号が赤になりました。あちらの歩
行者が渡って青になるのを 待たなければなりません。

あら、知らず知らずのうちに『お先にどうぞ』できてい
ました…

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2012/05/11~20   母の日に

講師 愛媛県 溪寿寺 金岡 潔宗 師

「母の日に」
 たわむれに母を背負いて
 そのあまり軽(かろ)きに
 泣きて 三歩あゆまず。
 
この短歌は、石川啄木が、おもしろ半分に母を背負って
みたところ、あまりの軽さに母の老いと衰えを思い知ら
され、哀しみと切なさに、涙が溢れてしまい、母を背負
ったまま三歩と歩くことさえ出来なかった。その時の、
気持ちを詠んでいます。

今月の13日は母の日です。皆さんは母の日に何を想わ
れますか?

私は、高校の1年の時、母が病気で亡くなりました。そ
の後父は再婚しました。その母に、15年前から毎年母
の日には感謝の気持ちを込めてアジサイを送っています。

2年前に、故郷にある亡き母のお墓へお参りに行った時
のことです。

母から「いつもアジサイ有難う。送られてきたアジサイ
は、お墓の周りに植えているのよ。寒い所なのでなかな
か つかないけれど」と言われ、お墓の周りを見るとい
くつかのアジサイが植えてありました。私は母の優しさ
に感謝の気持ちで一杯になりました。

徹通義介禅師様は、道元禅師様に、ある時「おまえは、
老婆心がない」と言われました。

後に、徹通義介禅師様が、永平寺の三代目の住職になら
れたある日、母親が永平寺に訪ねて来られました。母親
を本山に入れることも出来ず、大変悩まれた末に住職を
お引きになり二代様にお願いし、ご自分は母親と共に本
山の門前に住まわれ、7年の間、母親に孝行をつくされ
母親が亡くなった後も亡き母の菩提を弔われました。

この徹底した孝行が、老婆心に繋がっているのです。わ
が親に仕える事が、人間として最も大切なことであり、
原点です。

母の日には、感謝の気持ちを伝えたいものです。

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2012/05/01~10   無心

講師 瑞應寺知殿 吉松聖博 師

八十八夜ということで、今年もお茶摘みの季節になりま
した。

瑞応寺でも山内でお茶の葉を摘み、焙じ茶にしていまし
たが、ここ2、3年は、指導者が高齢化したこともあり
摘むだけ摘んで、後は業者にお任せしてあります。

お茶の葉を摘む前に草をむしっておかねばと思い、新緑
で美しく見える藪林のほうを見ていると、目の前に蝶が
ひらひらと舞い込んで来ては、またどこかへ飛んで行く
この頃です。

 「花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ぬ」
という良寛様のお詩があります。

花はただ無心に咲いているだけですが、蝶がすうっと寄
ってきて、花粉を運んでくれる。蝶も花粉を運ぼうと思
って花を尋ねてくるのではなく、ただ無心に蜜を吸うだ
けです。無作為の処に自然の摂理の妙があると歌ったも
のです。

僧堂では、この春にも数名の修行者が上山して、一緒に
修行しております。今年の中旬からは、正式な修業期間
である雨安居がはじまります。

修行について、「仏法は有心を以ても得べからず、無心
を以ても得べからず。」という道元禅師のお示しがあり
ます。

仏道修行というのは、まず先達の教えを信ずることから
はじまるのですが、実際に修行していて、何かの為に修
行をする修行すればなにかが得られると思う心、有心で
はいけないという。

また、無心は無心で良いのですが、ただ無心に修行する
だけではダメで、仏道を極め尽くすことはできないけれ
ど、どこまでも参究していく。すべての衆生が幸せにな
ることはないけれども、そこに思いを巡らしていく。そ
ういう誓願を立てよと言われている。修行に対する姿勢
についての教えだと思います。

しばらく修行をしていても、自分自身では余り変化に気
づかないものです。また、人から何か言われたとしても
そういう毀誉褒貶をあてにするものではないという教え
です。もちろん人に対しては、できるだけ丁寧に接して
いかなければなりません。

自分の完成を持って人に及ぼすのでは、何時までもその
時はこない、及ばずながらということがよく言われます
が、そういう行き方が仏道修行なのです。

春の陽気に照らされて、自身の至らなさに気づかされる
この頃です。

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2012/04/21~30   同事のこころ

愛媛県 宗安寺 能仁 洋一 師

先月、3月11日。東日本大震災発生からちょうど一年
が経ちました。

それにあわせ、被災地はもとより全国各地において、慰
霊法要や復興祈願法要などがいとなまれました。

私は、福島県において行われた復興祈願イベントに参加
し、被災地の方々と食事を一緒に作り、交流を深める機
会をいただきました。

被災地の方々は、「遠くからよく来なさった」と笑顔で
迎え入れてくださり、いろんなことをお話しくださいま
した。

その中で、とても印象に残った言葉がありました。

それは、『この一年は、本当に長かった・・・』という
言葉でした。

被災地から遠く離れた地に住む私達は震災以降、多少な
りとも日常生活の中で制限される部分もございましたが
気が付けば以前とさほど変わらぬ生活を送ってきたよう
に思います。

しかし、被災された方々は、この1年を多くの悲しみや
苦しみ、復旧・復興がままならないという不安の中で毎
日を送ってこられました。

日常生活から、突如として非日常の生活を余儀なくされ
どれほどの不安を覚えたことでしょうか。

私は、『この1年はとても長かった・・・』という言葉
に、そういった不安や苦しみ、またその中にありながら
必死の思いで乗り越えようとしている姿を見たように感
じました。

曹洞宗でお唱えする『修証義』というお経に
「海の水を辞せざるは同事なり、このゆえに、よく水あ
つまりて海となるなり」との教えがあります。

海はいかなる水もこばみません。こばまないことが同事
であり、同事なるがゆえに大海となるのです。「同事」
は、苦しみや悲しみを共感し合える「同苦・同悲」の心
です。

被災地からどれだけ離れていても、被災された方々の痛
みや苦しみ、悲しみを共感しあい、一日も早い完全復興
を目指し、これからも互いに協力をしてまいりましょう。

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2012/04/01~10   達磨さま

講師 瑞應寺僧堂講師 英 純光 師

瑞應寺山内の下に「吾本来茲土、傅法救迷情 = 吾もと
よりこの土に来るは、法を傅え迷情を救わんが為なり」
と、全ての苦しみ悩みを除かんと、一歩一歩あゆみよろ
うとする達磨さまの石像があります。

10月には正當の(達磨忌)供養がございますが、4月
5日(月忌)の朝も、現在20余名の雲水諸士と共に、
達磨さまに親しく、御粥と甘い蜜湯、香り高い御茶をお
供えし御回向させて頂きました。

縁起担ぎのダルマ、七転び八起きのダルマ等で、達磨さ
ま程一般にとけ込んでいる祖師さまはございませんが、
お釈迦さまから28代目の御祖師さまでございます。お
釈迦さまの御教えを余す処無く、欠くることなく中国へ
お伝えし、日本に曹洞禅として華開く大もととなったわ
けです。

修行中の雲水共々、真摯に礼拝し脚下を照らし、本来無
一物無一物中無尽蔵の処に立ち返って自家の宝蔵(一人
一人の確固たる身心)を育て、かけがえのない心の糧を
多く積んでいきたいものです。

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2012/02/21~29   あたりまえの感謝

愛媛県 福成寺 中野 元明 師

先日、宝くじ売り場の前を通りましたところ「1等・前
後賞合わせて5億円当たる。」とありました。

今までは確か3億円だったかと記憶しております。東日
本大震災復興支援との事ですが、想像もできないくらい
の金額であります。   

皆さまの中にも、当たらないとわかっていても宝くじを
購入し、神棚やお仏壇にお供えをして、手を合わせたこ
とのある方がおられるのではないでしょうか?

この様な神仏頼みもどうかと思いますが、もしも、これ
が当たりでもしたら「神様、仏様、御先祖様のお陰です。
感謝いたします。」と、お仏壇も新調し最高級なものに
なることでしょう。まさにこれは稀であり夢のまた夢の
感謝であります。

最近はとても便利になりまして、洗濯機も電子レンジも
全部自動で動いてくれます。スイッチ一つでポンです。

電気製品に関わらず交通・医療など本当に昔とは変わり
ました。

しかし、今でも昔から変わらない便利なことが一番身近
にあります。

それは皆さまの体です。

食事などを例に挙げましても、食べ物を口に運びますと
自然に味を感じ、食道を下り、胃で消化し、腸を通って
栄養を吸収して、余分なものを出す。

この一連の作業は、スイッチを押さなくても、意識しな
くても、生きている限り勝手に動いてくれます。

人の体は頭脳・心・自己治癒など他に例を挙げてもきり
がありません。

夢の感謝も良いですが、普段なら気にも止めない「あた
りまえの感謝」を普段から感じましょう。

代々の御先祖様からの、今、ここにいる自分そのものが
奇跡なのです。

人の力では到底作り得ることの出来ない、皆さま御自身
の心と体が、仏様の力であり本当に感謝するべきところ
ではないでしょうか。

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2012/01/21~31   報恩

愛媛県 宗安寺 能仁 洋一 師

私たちは、日々 様々ものに助けられ、支えられて生か
されています。

あなたはそのことに気付いていますか?
 
お経に、『父母恩重経』というものがあります。

これは、お釈迦さまが父母の恩がどんなに尊いものであ
るかを説かれたものであり、その中に、父母に対して十
の尊い恩があると説かれております。

一には、懐胎(かいたい)守護(しゅご)
    =懐妊中、母が子を守護してくれた恩。

二には、臨産受(りんさんじゅ)苦(く)
    =出産の時、苦しみに耐えてくれた恩。

三には、生子忘憂(しょうしぼうう)
    =出産後、それまでの苦しみを忘れてくれた恩。

四には、乳哺(にゅうほ)養育(よういく)
    =乳を飲ませ、養育してくれた恩。

五には、廻乾就湿(かいたいじゅうしつ)
    =子に乾いた場所をゆずり、湿った所に寝てく
    れた恩。

六には、洗灌(せんかん)不浄(ふじょう)
    =子の不浄物を、洗いそそいでくれた恩。

七には、嚥苦吐甘(えんくとかん)
    =子に食物を与える時、口に含み、苦いものは
     呑込み、甘いものを残し与えてくれた恩。

八には、為造(いぞう)悪業(あくごう)
    =子のため、自らあえて悪業をつくってくれた
     恩。

九には、遠行(おんぎょう)憶(おく)念(ねん)
    =遠くに行った子の安否を気づかってくれた恩。

十には、究竟憐愍(くきょうりんみん)
    =最初から最後まで、ひたすら慈愛をかけてく
     れた恩。
 
そして、この十の尊い恩に対し、子はどのように報いる
べきかも説かれています。

まず、外出した時、新鮮な果物や珍しい食べ物を手に入
れたら、持ち帰って父母に差上げること。 父母は歓び
自分が食べることをもったいないと思い、先ずこれを佛
・法・僧の三宝に布施するので、結果として菩提心(仏
道を求める心)を起こさせたことになる、と。

また、父母が病気になったなら傍を離れず、自らが献身
的に看護すること。 全ての事を、他人に任せることな
く自分で看護する。 そして、日夜親の病気が癒えるこ
とを願い、常に報恩の心を抱いて、片時も忘れてはなら
ない、と。

身近であればあるほど、自然にあればあるほど、それが
当たり前になりすぎてしまって気付かない。そういった
ことは、私たちの日常において沢山あるのではないでし
ょうか。

家族、友人、ご先祖さん、地域の方々、空気、水、大地
太陽・・・。 目に見えるもの見えないもの、挙げれば
きりがありませんが、自分を取り巻く多くの支えによっ
て生きているのです。

そのことに気付いたならば、自分のことを誰かがいつも
見守ってくれていることにも気付くことでしょう。

今ここにある自分のいのち。支えていただいている全て
のものに報恩感謝の心を持ち、日々精進してまいりまし
ょう。

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2011/02/11~20   涅槃会と特攻隊

講師 愛媛県 安穏寺 島津 良雄 師
    
「耳は二つ、口は一つ、聞くことは二倍聞きなさい」と
言われますが、卒壽の愚僧の話を聞いて下さい。

二月は逃げる月と申しますが、二月はお釈迦さまが亡く
なられた月、二月十五日は涅槃会であります。

生まれた以上は、死に向かっていることを知る月です。
「死は必ず来る事を忘れない日々の生活をせよ」との教
えかと存じます。

「諸行無常」どんな人間でも死ななければなりません。

人間は無期の死刑囚だともいわれております。死という
ものは、十年先なのか、一年先なのか、明日なのか、今
日なのか、まったくわからないのです。

私は今から六十六年前二十三歳の時、お釈迦様の教えの
第一不殺生戒に反して特攻隊員になりました。

「桜花特攻機」は胴体は軽金属で、翼は木製。女学生か
送られた「桜花」と書かれた血書の鉢巻きを締めて一人
で乗り、先端には千二百キロの爆弾を装備して、昭和二
十年八月十三日に、横須賀の特攻基地から米国軍艦に愛
国の名のもとに、死を美化されて体当たり。死ぬること
になっておりましたが、二日後、八月十五日終戦となり
ました。

生きながらえて卒壽になって、お釈迦様の「独生独死独
去独来」の教えが身にしみて理解されます。

生きているこの一秒一秒を大切にしなければならないこ
とになります。一秒間生きるには、「唯一人では生きら
れない、生かされている。多くの人や物に支えられて、
生かされることによって生きています。その恩に報いる
ことは人を生かし物を生かすこと」であります。

今、ここで、静かに坐禅をするわが身と命に感謝するこ
とは「私の命を誕生させてくださった、父と母に深く感
謝致します。父と母の命を誕生させてくださった、祖父
と祖母に深く感謝いたします。」ご先祖お一人お一人、
命が脈々と受け継がれて私の命があるのです。不思議で
尊く有難いことです。

ご先祖へ感謝の誠をささげ、のこり少ない、かけがえの
ないこの命を、皆さんの幸せ作りに役立てる事を誓いま
す。

一日の二十四時間は、皆が平等です。生きていることは
幸せです。人間の終着駅までに皆さんのために、社会の
ために、世界の人々の幸せづくりに、一緒に役立てるこ
とを誓いませんか。                      

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2011/01/21~31   無縁社会

   
講師 愛媛県 龍泰寺  舛田 豊範 師   

昨年の流行語に、『無縁社会』と言う言葉がノミネイトされ
ました。

無縁社会とは、単身世帯が増えて、人と人との関係が希薄と
なりつつある現代社会の一面を指す言葉です。

結婚に対する若者の意識の変化、地縁血縁社会の崩壊、核家
族化社会によって家族や社会とのコミュニケーションができ
ない、したくない若者、中年層の急増など、もろもろの要因
が重なり合い、かつて存在した地域社会のつながりはなくな
り、単身者はますます孤立しやすい社会へと急速に移行して
います。

さらに、日本では年間で3万人以上が孤独死しています。人
はただ一人では生きられない多くの人や、物に支えられ生か
されることによって生きている。私達は、自己中心的なエゴ
イストに陥りやすく、何事も自分中心に物事を判断しがちに
なる面を持っています。

そうした根因は、あらゆる欲望・つまらぬ事に立腹する・正
しい判断のできぬ愚かさつまり貪瞋痴の三毒の煩悩にあるわ
けです、それが災いの種となって心の奥底にある清淨心が無
くなってしまうのです。

とかく私達は、自分一人の力で生きているかのように錯覚し
がちですが、考えてみれば、いかに偉大な人でも自分一人の
力では決して生きられません。

四恩(父母・師・天地自然界・衆生社会)のお陰なくして生
きている人は、一人もありません。人生は深い縁の不思議な
出会い 縁は人間同士の縁だけではなく、それを通じて人生
の不思議に気付かせてくれたり、悲しみを通して真実や悟り
と出会わせてくれたりします。

どのようにつらい事でも、それを縁として自分が成長し感謝
出来る様になってみたら、心に逆らう縁も助けられる縁もい
ずれも自分を育てる縁です。

そのような、真実との出会いを『仏縁』と言います。そうい
う仏縁を喜べる人生にすれば、社会問題『無縁社会』は無く
なると思います。           
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